- 荒川放水路コース(1)
- コース 踏破記
- 都内を流れている大河川って何でしょうか?思いつくのは、多摩川・江戸川・荒川ですね。この他、中川を含めていいかもしれません。いずれも源流から歩くのは私には無理です。そこで、代替案として、これら河川の名前の一部を冠した川を歩いてたらどうでしょうか?多摩川には、羽村市羽村取水堰から大田区羽田六丁目弁天橋までを「たまリバー50キロ」と称する区間があります。羽村取水堰は玉川上水を歩いた際に何とか辿り着きましたので、この区間なら歩けるでしょう。江戸川は、江戸川区篠崎付近で江戸川放水路と旧江戸川に分離しています。旧江戸川は、随分前ですが葛飾区金町の河川敷から東京湾に注ぎ込む江戸川区葛西臨海公園東端まで歩いたことがあります。篠崎からなら今でも歩けます。荒川はどうでしょうか?荒川は、北区志茂四丁目旧岩淵水門から江東区新砂三丁目荒川砂町水辺公園までの区間が別名荒川放水路になっています。荒川放水路は全区間を通して歩いたことはありませんが、つなぎ合わせれば踏破していますので歩けるでしょう。中川は流域によって中川・新中川・旧中川と3本の流路がありますが、こちらは旧中川を歩いたのでよしとしましょう。ということで、今日は多摩川・江戸川に先立って、荒川(放水路)を歩いてみたいと思います。
荒川放水路
荒川放水路は、荒川のうち岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指します。途中、足立区千住地区および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22km・幅約500mです。大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて、17年がかりの難工事でした。
隅田川に続いて再び岩淵水門にやってきました。岩淵水門には赤水門(別名旧岩淵朱門:写真手前)と青水門(岩淵水門:写真奥)があります。赤水門は既に閉鎖され、現在は青水門が現役で活躍中です。隅田川を歩いた際、私は起点を旧岩淵水門としましたが、今回再訪して岩淵水門が妥当との考えに至りました。
旧岩淵水門が造られた当時は、旧岩淵水門から下流は荒川放水路と隅田川が土手で完全に分離されていた筈です。新岩淵水門が造られた際、そのままだと水門として機能しないため、土手の一部を取り壊し、荒川放水路から新岩淵水門まで荒川の水が来るように改修されたのだと推測します。これにより、旧岩淵水門は右岸と小島の間に残るようになったのだと思います。何故、旧岩淵水門の下流で荒川と隅田川が水面を共有しているのかという前々から疑問がようやく解けました。よって、隅田川の起点は現役の岩淵水門だと判断するに至りました。どうでもいいことですが。。。
旧岩淵水門
■旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物・機械・文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」・「東京都選定歴史的建造物」・「北区景観百選」に認定されています。
旧岩淵水門の手前の緑地に小さな石碑がありました。最初は何の碑だか分からなかったのですが、家に帰って調べてみましたら、よくあちこちで見かける「・・・行幸記念碑」の一種だと分かりました。摂政宮とは昭和天皇を指しています。昭和天皇は大正天皇の病状が悪化した晩年に摂政を務めています。その頃に立ち寄られたという証です。野立とは、天皇や貴人が野外で休息し展望すること、またはその場所を意味します。
摂政宮殿下
御野立之跡
大正十三年
十月廿五日
旧岩淵水門について、もうひとつの案内板がありました。
東京都選定歴史的建造物 旧岩淵水門
旧岩淵水門は、明治43年(1910年)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916年)に着工し、同13年(1924年)に竣工した。昭和22年(1947年)のカスリーン台風や昭和33年(1958年)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和35年(1960年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和48年(1973年)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982年)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
旧岩淵水門のある小島は緑地となり、家族連れなどの憩いの場となっています。その中によく分からない錆び付いた鉄製のオブジェが置いてありました。う〜〜〜ん、凡人には何度見ても意味が分かりませんね。
月を射る
青野 正
材質 リバーテン鋼
平成8年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により行われ、荒川の広々とした空間に映える美的造型物として、河川敷に設置することを条件に公募したものです。
旧岩淵水門を後にして、現役の岩淵水門に向います。今回も荒川放水路の起点を赤水門・青水門のどちらにするか迷ったのですが、荒川の水が最初に分離する赤水門にすることにしました。荒川放水路の歩きの始まりです。
岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。
岩淵水門は、大正13年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和57年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
■岩淵水門のやくわり
平常時
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしています。
舟運に支障がないように全門開放されています。
増水時
水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしています。
隅田川に置かれていた案内板に類するものが荒川放水路にも何ケ所かに設置されています。ですが、どれも設置されてから年月が経っていて、基板の劣化と印刷面の風化で非常に見えずらくなっています。この案内板は岩淵水門の前に置いてありましたが、かろうじて読み取れました。
岩淵水門周辺
@荒川知水資料館(amoa)
荒川放水路と隅田川の分岐点近くに位置し、自然豊かな荒川にもっと親しんでもらうための活動と交流の拠点として、平成10年(1998年)3月にオープンしました。荒川に関する様々な研究、情報帝京を行なっているほか、水生植物の観察池と野草園もあります。「ワークショップ」として野草スタンプ教室や荒川ウォーキングなども開催されている、体験参加型のミュージアムです。ライブラリーには荒川をはじめとして川に関する資料がそろい、利用することが可能です。
◆青山士と荒川放水路
荒川下流の改修工事に深い関わりを持った技術者の一人に青山士(1878年〜1963年)がいます。青山は、恩師・内村鑑三らの薫陶をうけ、広く世のためになる仕事を、と土木の道を邁進した技術者です。大学卒業後、自費でパナマ運河工事に唯一の日本人として参加し、世界最先端の土木技術を学んだ後、日本に戻り、荒川放水路と岩淵水門の工事責任者に任命されました。特に岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、工事の途中、関東大震災が起こりましたが、岩淵水門はびくともしませんでした。
A旧岩淵水門
旧岩淵水門(赤水門)は、岩淵水門(青水門)の300mほど上流に位置しています。この水門は、荒川の洪水が隅田川に流下する流量を調節し、かつ、通常時には舟航に支障を与えないよう設けられたもので。大正13年(1924年)に完成しました。水門には幅9mのゲートが5門ついており、一番右岸側が通航門となっていました。長年、洪水の脅威から東京の下町を守ってきましたが、老朽化に勝てず、昭和57年(1982年)に岩淵水門が完成するとその役割を終えました。
岩淵水門の先から荒川放水路の河川敷が始まります。その手前にヘリポートがありました。ここならヘリコプターも建物や人を気にせず、安心して離発着できることでしょう。
ヘリポート Heliport
●ヘリポートとは
ヘリポートはヘリコプターが使用するための「飛行場」で、航空機の離発着する飛行場の一種とされています。飛行機が離発着する空港と違い、長い滑走路を必要としないのが特徴です。消防組織法では消防責任を市町村が負うこととしており、政令指定都市の消防機関の一部は自ら消防活動や急病人を搬送するためのヘリコプターを保有・運航しています。東京都の場合は、市町村から委託を受けて東京消防庁が保有・運航をしています。
●設置の目的
ヘリポートはドクターヘリ、消防ヘリ、防災ヘリなどが緊急時に救援要員や物資の搬送をすることを目的としています。国土交通省では、災害発生直後の被害状況の把握や応急復旧活動に素早く広い範囲に対応できる対策の一部として、各地方整備局に専用ヘリコプターの導入を進めています。
災害時に物資の輸送の拠点となる「リバーステーション」、その物資の輸送路となる「緊急用河川敷道路」、ヘリコプターの離着陸などに必要な「ヘリポート」など、荒川下流域では災害発生に備え河川の輸送ネットワークの整備を進めています。
その隣にはテトラポットを野積みした置き場があります。1個で1トン以上はありそうな巨大なコンクリートの塊です。どうやって運び込んだのでしょうかね?川まで運ぶのも一苦労だと思うのですが。
荒川放水路の河川敷には、何ケ所かにゴルフ場が造られています。芝の状態はイマイチですが、近くて安いのが一番のメリットですかね。
河川敷に降りたところで河口から20kmの標識が置いてありました。日暮れも早くなったし、今日中に河口まで辿り着くのは無理でしょう。
対岸に見えるのは新芝川の芝川水門でしょうか?随分大きな水門ですね。
荒川放水路の土手の上には何ケ所かに防災行政無線(屋外スピーカー)が置かれています。非常用ですが、なるべく使われないように願いたいものです。ちなみに、荒川放水路の完成以来80有余年の間、堤防が決壊したことは一度もないそうです。
荒川放水路の河川敷は広大なので、あちこちに運動広場が造られています。週末には地元のチームでしょうか、盛んに野球やサッカーの練習試合が行なわれています。
鹿浜橋の先にはハートアイランドという名称の巨大な住宅団地があります。荒川放水路の河川敷から広がる広大な敷地は1996年3月まで操業していたトーアスチール製鉄所の工場跡地を大規模に開発した新しい住宅エリアです。化学工場とは異なり鉄の加工のみで使用されていたので、住宅用地としてUR(都市住宅機構)が買い取り、足立区と共に開発をスタートしました。新しく開発された面積は約20ヘクタール(20万平方メートル)で東京ドーム5個分です。都内としては珍しく100平米を超えるマンションが集まっていて、自然環境も良く注目を集めているエリアです。荒川放水路と隅田川に挟まれていますので洪水時の被害が心配されますが、付近はスーパー堤防によって守られているそうです。
荒川放水路の河川敷には運動広場だけでなく、緑地も整備されています。
荒川右岸新田緑地 新田わくわく水辺広場
「新田わくわく水辺広場」は、荒川河川敷の新田地区にあります。約11ヘクタールほどもある広々とした緑地です。
緑地は、上流部・中流部・下流部の3つのエリアに分かれており、それぞれ特徴があります。
上流部には草地広場が広がります。草地のなかには、テントウムシやバッタなどの置物がありますが、実際に虫たちの住みかにもなっています。
中流部には深さや広さが様々な4つの池があり、水路でつながっています。水辺では、多様な動植物の生育環境が保全されており、木道や遊歩道を歩きながら自然にふれあうことができます。
下流部には健康器具と柳の木陰、草地広場が園路に沿って配されています。園路沿いには距離標示があるため、歩いた距離の把握などにお役立てください。
園路沿いに水飲みもありますが、日陰が少ない園路が続く部分もありますので、特に夏場は、熱中症等の対策をしてお出かけください。
でも、ちょっと外れるとこの注意書きが。蛇は嫌いですが、マムシはもっと嫌いです。
荒川放水路には幾つもの橋が架かっていますが、その中で一番形状が美しいのは五色桜大橋でしょう。
五色桜大橋
橋名の由来
明治から昭和の初期にかけて、足立区江北から堀之内・鹿浜一帯は「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所であり、花見どきは多くの人々でにぎわいました。荒川のこの場所に、首都高速中央環状線の橋が架かりました。この橋はダブルデッキニールセン・ローゼ橋という世界で初めての形式です。ここに、五色桜をより広めたいとの地域住民の願いにより、橋の名前が「五色桜大橋(ごしきざくらおおはし)」となりました。
荒川放水路には舎人ラーナーの鉄橋も架かっています。いわゆる新交通システムのひとつの案内軌条式鉄道(AGT)路線です。無人運転で、一番前の車両の最前列の席は眺望抜群です。
コロナ禍は再び勢いを増してきていますが、日常生活は大分以前の水準に戻ってきました。今日は快晴の日曜日とあって、河川敷の運動広場はユニホームを着た子供達で一杯です。駐車スペースも車で溢れています。マスクを着用している人も少なく、これがコロナ列島の光景かと思うほどです。
現在では単に荒川と表記されますが、所々に荒川放水路という名称を使っているところもあります。
東武スカイツリーラインを過ぎますと、対岸に東京拘置所の建物が見えてきます。巨大なホテルみたいですね。泊まりたくはありませんが。
綾瀬川は今は荒川放水路と平行して流れていますが、荒川放水路が造られる以前はここ堀切の辺りで隅田川に合流していました。今は荒川放水路によって完全に流路が途絶えましたが、その名残として荒川放水路からの流入を制御する隅田水門があります。
隅田水門
増水時に、荒川の水が隅田川に流入することを防ぎます。
荒川が放水路として人工的につくられるまで、このあたりは旧綾瀬川が隅田川に合流する場所でした。旧隅田水門は、荒川と隅田川を往来する舟運の要衝として大正13年(1924年)に建設されました。現在の隅田水門は昭和44年(1969年)に改築されたもので、今も多くの船が行き来しています。
荒川からの洪水の流入を防ぐ隅田水門
もしも隅田水門がなかったら?
大雨がふると荒川が増水して、隅田川に流入します。このままでは隅田川はあふれ、町が水びたしになってしまいます。
隅田水門のはたらき!
増水時には水門を閉じ、荒川の水が隅田川に流入しないようにします。
荒川放水路の開削にあわせて、旧綾瀬川が荒川放水路から分かれる場所に隅田水門を築き、増水時は荒川の水が流入することを防ぐとともに、平常時は水門を開けて舟運を確保しました。
対岸のかつしかハーブ橋付近で綾瀬川は中川と合流し、そこから先は中川に一本化されます。それと向かい合うように、先日旧中川を歩いた際に訪れた木下川水門があります。案内板を読もうとしたのですが、文字が擦れていて諦めました。
蔵前通りは平井大橋で荒川放水路を渡ります。支柱のない平坦な橋ですが、500m弱の相当な長さですね。橋の手前の案内板はかろうじて読み取れました。書き写すのは大変でしたが。
平井水上ステーション周辺
ここは江戸川区平井6丁目で、荒川河口より6.1km。
左の案内図では、現在の地図(2003年)と明治13年(1880年)の地図を重ねて表示しています。現在の江戸川区平井地区は、かっては「上平井村」・「中平井村」・「下平井村」の3村に分かれていました。明治43年(1910年)8月の大洪水の翌年から工事が始められ、大正13年(1924年)6月に水を通した荒川放水路により、地続きであった3村が分断し、下平井の地名が残り、そのまま現在の平井地区になりました。旧中川は荒川放水路の工事により元の中川の流れが分断されて残った河川です。
平井聖天(燈明寺)
平井聖天は、弘法大師(空海)が開いたとされる新義真言宗のお寺として千年以上の歴史を持ち、古くから関東の三聖天(東京都台東区の待乳山聖天・埼玉県大里郡妻沼町の妻沼聖天)のひとつとして知られています。江戸時代には将軍が食事をしたり、鷹狩りの際に参詣する場所とされていました。中心となる本堂は、三つ屋根づくりの美しいものです。境内には他に山門・鐘楼・聖天堂と伊藤左千夫が設計した茶室があります。
平井梅屋敷跡
江戸時代から明治・大正時代には、平井7丁目の荒川堤防にある木下川水門付近から旧下木下川村(墨田区)にかけて梅屋敷があり、約300株の梅が植えられていました。昭和10年代までは、梅屋敷の形をとどめていましたが、現在その面影は見られません。敷地はおよそ11,000u余りあって、大きなかわらぶきの建物が二棟と長屋や煉瓦づくりの建物がありました。江戸時代には徳川家が所有し、1760年代終わり頃から梅見の名勝地になったといわれています。
平井の渡し跡
江戸時代、現在の平井地区には江戸から房総半島に通じる道が2本あり、中川と江戸川を渡る場所には、それぞれ舟の渡しがありました。平井の渡しは、下平井村と葛西川村(墨田区)の間を渡る場所にあり、明治32年(1899年)に平井橋が架けられるまで使用されていました。現在の平井橋は昭和55年(1980年)に架け替えられたものです。渡しはそのやや西側にありました。
河川敷には花壇が設けられています。地元の方がボランティアでお世話されているようですが、殺風景な河川敷に文字通り花を添えています。晩秋には翌年の種まきのためにバッサリ刈り取られますが、直前には自由に花の摘み取りができます。
もう一ケ所に案内板がありましたが、これはさすがに判読不能。。。
河口まで4kmの表示板がありました。ところで、荒川放水路の河口ってどこになるのでしょうか?ネットでいろいろ調べましたが、結局はっきりとした答えはありませんでした。ならば自分の目で確認しないと。
京葉道路が通る小松川橋の先に、荒川放水路のスーパー堤防の上に造られた大島小松川公園があります。千本桜で有名ですが、その中にバーベキュー広場があります。休日ともなると、家族連れやお友達のグループで一杯の盛況です。野外で食べる味って、美味しいのでしょうね。ビールやワインがあれば尚更のこと。
時計を見ますと、既に午後の3時半を回っています。大分日も傾いてきましたので、河口まで残りは僅かですが今日は新大橋通りに架かる船堀橋で荒川放水路の歩きを中断することにします。隅田川ほどの華やかさはありませんが、よく整備された河川敷で歩きやすかったです。明日は河口を目指しますが、河口ってどこなんでしょうね?
戻る