荒川放水路コース(2)  

コース 踏破記  

昨日に引き続いて荒川放水路の後半部分を歩きます。後半といっても、全長22kmの残り4km弱です。問題は荒川放水路の河口がどこなのか、未だにはっきり分からないことです。ま、歩けるところまで歩いてみましょう。  



どうでもいいことですが、今日(11月14日)旧江戸川を歩いていたときに(荒川放水路を歩いたのは10月26日)、とある自動販売機で今話題のダイドードリンコの「鬼滅の刃」コラボ缶コーヒーを見つけました。夏ほどではないのですが、今の時季でもお散歩中に飲み物を買うことがあります。鬼滅の刃のコラボ飲料が売られているとは聞いていたのですが、実物を見たのは初めてです。缶飲料は持ち運びに不便なのでお散歩中には滅多に買いませんが、話題の商品ということもあって、つい買ってしまいました。喉は渇いていたのですが、飲むには勿体なくて家まで持ち帰ってしまいました。全部で28種類もあるそうですが、揃えてみようかな?でも、私は鬼滅の刃は全く知らないので、登場人物の区別がつかないんですよね。



それは置いといて、昨日の中断地点である船堀橋から荒川放水路の歩きを再開します。荒川放水路など都内の大きな川の河川敷には、橋の袂の遊歩道に極大文字で橋の名前が書いてあるところがあります。橋の上を走る車から見て読みやすいように、文字は縦長で大きく書かれています。でも、河川敷を歩いている人には大きすぎて何と書いてあるか分からないこともあります。これを読み解くのも面白いんですがね。



船堀橋の先には都営新宿線の鉄橋が架かっています。橋桁には「都営新宿線荒川中川橋梁」と書かれています。東京メトロ東西線も同様に「荒川中川橋りょう」という名称になっています(東西線では、何故「梁」でなく「りょう」になっているのか分かりませんが)。これは、仕切りの土手を挟んで荒川放水路と中川のふたつの川が並んで流れている上に架けられた鉄橋という意味で両方を併記することになったのでしょう。複数の川の名前を併記する鉄橋って、他にもあるのかな?



荒川放水路は東京湾と直結しているので、東京湾の干満の影響がこの辺りにも現れるようです。河川敷の川縁の干潟にはところどころに人が立ち入れる場所が造られています。荒川放水路は川なのですが、下流域になると潮干狩りもできるそうです。マテ貝・アサリ・アナジャコ、それに牡蠣も採れるそうですから、遠くまで出掛けなくても貝掘りが楽しめるということです。牡蠣の貝殻とか廃棄物などで怪我をすることもあるようですので、お子さんにはあまりお薦めはできませんが。



先日訪れた旧中川の終点でもある荒川ロックゲートが見えてきました。ここは放水路で河川敷が途切れていますので、一旦土手の上の遊歩道に上がります。

ARAKAWA LOCK GATE

江東デルタ地帯の水上ネットワーク網
荒川ロックゲートの完成によって、 災害時においては、救援物資や復旧資材の運搬、 被災者の救出など災害復旧活動の支援が可能となり、広域的な防災ネットワークとして活躍します。また、平常時においてもプレジャーボートでの水上観光やカヌー、レガッタ、Eボートでの舟遊びなど、水辺ならではの楽しさが広がり、 川と川を通じた新たな交流が期待されます。




ロックゲートとは閘門のことです。閘門は水位の異なる河川や運河・水路に前後を仕切った空間である閘室を設けることによって水位を調節し、船の運行を可能にするための装置です。一般的には「・・・閘門」という名称が付けられますが、お洒落な意味も込めてロックゲートという名称にしたのでしょう。荒川ロックゲートの袂は休息広場になっていて、幾つかの案内板が立っています。

荒川ロックゲート周辺

@小松川リバーステーション
リバーステーションは、災害時の復旧活動に必要な資機材や、救援物資等の積み降ろしなどを行う大切な拠点として、また、平常時においては、荒川の舟運の復活を目指して整備されているものです。ここ小松川リバーステーションもその一つです。現在、小松川リバーステーションでは、河川工事関係の資材の搬入・搬出や土砂の陸揚げ、防災訓練のほか、「荒川レガッタ」などのイベントにも利用されています。

A荒川ロックゲートと旧小松川閘門
昔から荒川流域は舟運が盛んでしたが、荒川放水路の完成後荒川と旧中川との水面の高さに差ができたため、船の往来ができるよう、水位調整機能を持った小松川閘門が昭和5年(1930年)に造られました。その後昭和50年代に閉鎖されましたが、川を利用した災害復旧活動が見直されるようになり、新たに平成17年(2005年)に荒川ロックゲートが完成しました。これにより荒川と旧中川・隅田川間が航行できるようになり、水上のネットワークが復活し、広城防災の一助となっています。

B新川の役割
江戸初期に江戸の町へ物資を輸送する水路を確保するために、隅田川と中川を結ぶ小名木川の延長線上に中川と江戸川を結ぶ新川が江戸幕府によって開削されました。当初は行徳の塩を運ぶ目的で造られましたが、その後、利根川・江戸川・新川・小名木川を通って様々な物資が輸送されることとなり、大いに賑わいました。新川開削で発生した土砂は周辺の湿地の埋め立てに使われ、新田開発が行われました。小名木川・新川開削から江戸末期まで続けられた埋め立てにより、陸地が増え、海岸線は3kmほど南に移動しました。

C中川番所跡
寛文元年(1661年)に、幕府は江戸に出入りする船を取り締まるために、中川・小名木川・船堀川の交差する所に船の番所を設けました。野田のしょう油・銚子の千鰯のほか、穀物・酒・小間物など各地の産物はおもに舟を利用して江戸に運ばれました。中川番所は、利根川や江戸川を通じて江戸と関東を結ぶ要所に位置し、川の関所となっていましたが、明治2年(1869年)に廃止されました。現在この番所跡地より北に50mほど離れた場所に、中川船番所資料館が建てられています。




周辺の歴史を解説した案内板もあります。

荒川ロックゲート周辺の変遷

江戸期
江戸時代の荒川
江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。江戸時代の寛永六年(1629年)に、荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(現・熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、入間川の支川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の反映を支えました。

小名木川と舟運で賑わう東の関所
江戸幕府は、行徳の塩を江戸に運び込み、さらに市街地を形成する際に使う盛土を用意するため、隅田川と中川をつなぐ「小名木川の開削」を始めました。利根川と江戸川を行き来できたので、「塩の路」とも言われました。川での「舟運」が盛んとなり、小名木川と中川とが合流する付近にあった「船番所」は江戸の東の関所と呼ばれるほど、船番所を主軸に「人」と「もの」との交流が生まれました。

明治期・大正期・昭和期
放水路の建設
明治43年の大洪水をきっかけに、洪水の恐怖から首都東京を守るため、荒川放水路(現在の荒川)の建設が始まりました。北区岩淵に水門をつくって本流を仕切り、延長22km、幅500mの放水路を掘るという大規模なもので、全体の竣工には20年の歳月を要し、昭和5年に完成しました。この荒川放水路の建設は、土地約1,088haの買収、家屋1,300戸の移転、のべ労働人員310万人、総工事は現在価格に換算すると、約2,300億円という大規模なものでした。完成した放水路は、産業物資を輸送する舟運としての利用が多くされました。

閘門の設置から閉鎖まで
昭和5年に荒川放水路が完成した際、旧中川・小名木川・新川との合流部に設置された小松川閘門、小名木川閘門、船堀閘門においては、1日1,200隻もの船が通航するようになり、地域の産業を支えました。しかし、戦後になると地盤沈下や鉄道・自動車交通の発展により物資の輸送方法が変わり、舟運は衰退の一途をたどっていき、昭和50年代には、閘門が閉鎖されました。

現在
荒川の水位より低い東京の市街地
荒川下流域においては、主に地下水の汲み上げが原因で地盤沈下が進み、最も沈下した地区では4.5m以上の沈下を記録しています。そのため、この地域は東京湾の満潮面よりも低い“ゼロメートル地帯”となっています。荒川放水路の完成後も、堤防の嵩上げなどの対策が行われてきており、現在では、荒川下流部の堤防は周辺の市街地の土地の高さより約10m高くなっています。この堤防が東京や周辺都市を洪永から守っています。

荒川ロックゲートの周辺
この地区は、荒川右岸約2.5km付近に位置しており、荒川と江東デルタ地帯を船で結ぶための荒川ロックゲートと、荷揚げを行うリバーステーション(緊急用船着場)が整備されています。また、周辺には広域避難所となる都立大島小松川公園が整備されており、さらにスーパー堤防の整備を進めることにより、洪水・高潮・地震に強いまちづくりを行います。




(上流も含めた)荒川全体の案内板もあります。脇に小さな石碑が置いてあります。碑文は仰々しくてイマイチこの場にはそぐわないように感じますが。

荒川の水のつながり

石碑
荒川の水源地には、滝沢ダムという新しいダムがあります。この石碑は、滝沢ダムの湖底となる場所から採取された石を用いています。荒川は、利水面で上流と下流の結ぴつきが強い河川です。その上流と下流を結ぶシンボルとして、この石碑を設置するものです。この場所は、荒川と江東デルタ地帯を結ぶ機能(ロックゲート)や、水運と陸運を結ぶ機能や、人と水上交通を結ぶ機能(リバーステーション)があり、この石碑が様々な事柄を結び付けるシンボルとなります。

源流
かってここは、荒川の上下流を結ぶ船運の要、閘門は過去と現在をつなぐ舟の通り道、そして未来へと続く源流となる。


荒川の源流
荒川は、甲斐・武蔵・信濃の三国にまたがる標高2,475mの甲武信ケ岳を源とシ、奥秩父の険しい山々に深い谷をきざみ、東に流れます。

五つのダム
上流の山地では、下流域を洪水から守るとともに、水資源の開発を行うため、二瀬ダム・浦山ダム・滝沢ダム・合角ダム・有間ダムがあります。ダムは、河川の上流部に水を貯め、人間社会の必要に応じて水循環の一部をコントロールします。洪水の時は流入する水の一部を貯めて下流の洪水量を少なくし、渇水の時は貯水池の水を放流して下流で必要な水を補給します。

六堰
江戸時代初期、荒川から大里地区の濯概用水を取り入れるため、6カ所に用水路が造られたものを、安定した取水を行うため、昭和14年に花園村(現・深谷市)永田地先に造られました。現在は、平成10年〜14年度にかけて改築され、多くの田畑に水を供給しています。

武蔵水路
武蔵水路は、利根川と荒川を結ぶ水路で、利根大堰から糠田樋管までの約15kmを結ぶ連絡水路として、東京オリンピックが開催された昭和39年に着手され、建設中の昭和40年から緊急通水を開始して、首都圏を渇水から救いました。その後、昭和42年に完成し、毎秒最大で、50立方メートルを通水しており、首都圏における安定的な水供給等に貢献しています。

秋ヶ瀬取水堰
秋ヶ瀬取水堰は、荒川河口から約35kmに設置された可動堰で、昭和40年に完成しました。武蔵水路から荒川に注入され、自然流下した利根川の水を東京都や埼玉県の水道用水、工業用水として使用するために取水を行っている重要な施設です。東京都用の水は朝霞浄水場で、埼玉県用の水は大久保浄水場で浄化され、私たちの貴重な水道水になります。また一部は、新河岸川・隅田川の浄化用水としても使われます。

荒川の河口
荒川の開削前、この付近は中川の河口でした。周辺の土地は、水田として利用されていました。現在では、埋め立てが行われ、葛西臨海公園や葛西橋が設けられています。




荒川河川敷は平坦で広いので、消防の訓練などを行なうには格好の場になっています。この日も船着き場手前の広場で訓練が行なわれていました。こんなに消防車と消防隊員が集まって、イザ火事発生となったら大丈夫なんでしょうか?

小松川リバーステーション(船着き場)

緊急時のリバーステーションは・・・

緊急時の災害復旧の拠点となります
大規模災害後の建設機械や土砂等の資材の運搬、また被災者への救援物資(水・食料品・医療品など)の運搬をリバーステーションを利用して行います。

平常時のリバーステーションは・・・

水上バスの利用を促進します
荒川の雄大な景観を一望できる観光船が利用できます。

河川工事の資材運搬基地になります
地球にやさしい船を使って、資材を運搬できます。

物流の基地となります
海上の港から、さまざまな品物を荒川を使って運びます。




荒川放水路が開削される以前は、この辺りは畑作が行なわれていました。今は全くその面影はありませんが、自然の回復を願っていろいろな試みがなされているようです。せっかくなのでポケットエコスペースを見てみようかと思ったのですが、背丈ほどもある草木に阻まれて諦めました。特に、セイタカアワダチソウなんか、花粉症を引き起こしそうで近寄れません。

荒川・砂町水辺公園(砂村)ポケットエコスペース

このあたりはかつて砂村新田と呼ばれ、都市近郊の野菜の一大生産地であるとともに、その周辺にはヨシ原やため池など、身近な自然に溢れていました。人々が自然と上手に暮らしていた当時のように、人も生き物も豊かに暮らしていける環境の回復を目指し、砂村の名前を冠したポケットエコスペースがつくられました。

◆ポケットエコスペースってなに?
ポケットエコスペースとは、いろいろな野生生物が生息する空間のことで一般的にはビオトープと呼ばれています。江東区内のビオトープは比較的小さい場所が多いため、親しみを込めてポケットエコスペースと呼んでいます。ボランティアの方々の尽力により、生き物が暮らしていくための豊かな環境つづくりが行われています。




葛西橋の手前に旧葛西橋の案内板があります。葛西橋通りは門前仲町から真っ直ぐに東に延び、荒川放水路と中川を渡って江戸川まで続いていますが、旧葛西橋のあったこの付近にはそれらしい接続道路が見当たりません。帰ってから調べてみたら、どうも清洲橋通りと繋がっていたようです。清洲橋通りが荒川放水路に突き当たる手前には旧葛西橋という交差点名が残っていて、それを物語っています。

旧葛西橋跡

旧葛西橋は、大正一四年(1925年)に東京府会の議決を得て着工し、昭和三年(1928年)に竣工しました。長さ696.4メートル、幅員6.1メートルで、架橋当時は東京で最長の橋でした。正確には、荒川放水路に架けられた長さ549.1メートルの葛西橋と、中川放水路に架けられた長さ147.3メートルの葛西小橋に分かれます。古くからこの付近が葛西と呼ばれていたため、葛西橋と名付けられました。旧葛西橋は、荒川・中川放水路の開削によって隔てられた江東区と江戸川区を結ぶ重要な橋でした。その後、自動車の交通量の増加や橋の老朽化のため、昭和三八年(1963年)に新しい葛西橋が下流に架橋され、旧葛西橋は廃止されまLた。




現在の葛西橋は「鋼カンチレバー突桁式吊補剛桁」という形式で、中央部分が美しい形状の吊り橋になっています。荒川放水路にもいろんな形状の橋が架かっているんですね。



いよいよ河口まで1kmの地点にきました。でも、見た目はもっと距離がありそうですけど。



河川敷の芝生に石が何個も転がっていました。増水で川石が流されたのではなく、上流の原石を持ってきたのだそうです。

荒川源流の石

この石は、埼玉県旧大滝村(現在の秩父市)から寄贈されたものです。荒川は、秩父市にある甲武信岳の中腹を源流として、延々173km流れ、東京湾にそそいでいます。その源流には、大きな石や角張った石がたくさんありますが、大水で流され、ぶつかり合い、だんだん小さくなり、河口では砂になってしまいます。秩父市と江東区は上流と下流の両端に位置しており、平成3年度の荒川・砂町水辺公園の開園を記念すると共に、両者がこれを契機に交流を深め発展し、この大河がふるさとの川として皆様の心に残ることを願って、埼玉県旧大滝村(現在の秩父市)より寄贈されました。




東京湾に近づいてきました。台風や強風の時に、東西線や京葉線は真っ先に影響を受けます。海風がモロに当たりますので、そういう時には運行を止めるしかないのです。年に何度もあるわけではないので、強風の時間帯だけ運行を見合わせるのが一番効率的です。でも、一度は竜巻で脱線したこともあったようです。竜巻はさすがに予測できませね。



ひょいと遊歩道の脇を見たら、「河口から0km」という標識が目に入りました。れれっつ?東京湾との合流点は未だ先です。どうなっているんだろうと考えますが、答えは見つかりません。家に帰ってよくよく調べてみたのですが、どうも荒川放水路と中川の間の仕切り土手が切れて、両河川が合流する地点を行政上の荒川放水路の河口と定めているみたいです。ただ、地図上では合流地点から先も「荒川」と表示されています。



河口まで0kmの地点で荒川放水路の歩きを終了しようかと思ったのですが、念のため東京湾と接する突端まで歩きます。左岸でいえば葛西臨海公園の西端が東京湾に接していますが、右岸はこの先砂町運河に合流しますので、そこを荒川放水路の終点とするのが妥当と思ったからです。



荒川砂町水辺公園の南端は砂町運河の手前に位置し、そこから先は都の下水道施設の敷地になっていて立ち入りできません。なので、公園の南端の船着き場で荒川放水路の歩きを終えることにします。その先には湾岸道路が通る荒川河口橋と京葉線が通る荒川湾岸橋が架かっています。橋脚の間からは東京湾を航行する船舶が見えます。海に来たといった感じです。



対岸を見ますと、葛西臨海公園にある大観覧車が望めます。その手前には何やら水門らしき施設がりますね。地図を見ますと、新左近川水門のようです。そんな川もあるんですか。今度歩いて見なくっちゃ。荒川放水路は遊歩道が整備されていますので、とても歩きやすかったです。ただ、高速で飛ばすサイクリング車には気を付けないといけません。といっても、後ろからぶつけられたらどうすることもできませんが。



帰りの交通手段はかなり限られています。せっかくなので、久しぶりに砂町銀座に立ち寄ってみることにします。途中に「ビッグダディ」のお店の看板がありました。今は居酒屋の店長さんをやっているんですね。砂町銀座の「あさり屋さん」は健在ですね。浦安の漁師だった人がお店を開いたのですが、いつも名物のおばあさんが店頭であさりご飯のパックなどを販売していました(旦那さんは横でただ座っていましたが)。おばあさんはお客さんへの人当たりが抜群で人気がありました。よく繁盛していたので、あさりの売り上げでお店を建て替えたほどです。今日は店頭では見かけませんでしたが、代替わりされたのでしょうか?






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