大島川東支流コース  

コース 踏破記  

先ずは、2020年ボジョレーヌーボーで乾杯!!!



先日、大島川西支流を歩いたのですが、実は大島川東支流もかって存在していたのです。現在は河川としての実態はありませんが、跡地は埋め立てられて木場親水公園になっています。Wikipediaにも取り上げられていない幻の河川なので、ネットで情報を集めて私なりにまとめてみました。  

大島川東支流

大島川東支流は、江東区木場三丁目にある末広橋で仙台掘川から分流し、三ツ目通りと平行して南に流れ、舟木橋の先で大横川に合流します。現在では、その殆どの流路が木場親水公園になっています。大島川東支流という名称は、合流する大横川がかって大島川と呼ばれていたことに由来します。


大島川東支流は、木場公園の真ん中を東西に流れる仙台堀川に架かっている末広橋付近で分流していました(と思います)。どこかに分流口はないかと見てみたのですが、護岸はコンクリートで固められていてどこにも水が流れ出そうなところは見つかりません。末広橋の橋桁の下に何やら開口部があるように見えましたが、木場親水公園の入口と位置が多少ずれているので、その開口部が大島川東支流に繋がっていたかどうかは分かりません。



木場公園前交差点を渡って直ぐの木場親水公園の入口に向います。ここには旧要橋が架かっていたようで、その親柱に橋名が書かれたプレートがはめ込まれていました。ここに橋が架かっていたのであれば、やはり仙台堀川からの分流点は末広橋でなく、この旧要橋の位置だったと思われます。公園はかなり横幅があり、今は木々が生茂っています。真ん中に細い上り坂の通路がありますが、あれはどこから繋がっているのでしょうか?葛西橋通りの下に人道トンネルでもあったのかな?よく見てなかったので何とも言えませんが。



木場親水公園の中に全体の地図がありました。よく見ますと、木場親水公園は葛西橋通りの反対側(仙台堀川の土手横)から始まっています。ということは、先ほどの通路は葛西橋通りを地下で横断する人道トンネルに繋がっているようです。



木場親水公園の中に、江東地区の歴史をまとめた屋根付きの案内板がありました。8枚セットの力作です。

水辺のまちの形成史・・・400年

【江戸初期】1590年〜1657年
●江東地区の開発は、徳川家康の入府による江戸のまちの拡大とともに始まります。この頃まての江東地区は、ほとんどが低湿地で、亀島・大島・宝六島、水代島などの地名でわかるように小島が点在していました。開発は、現在の森下を中心とした深川村・佐賀・永代辺りの永代島、猟師町、小名木川南岸沿いの海辺新田、大島や砂町などで行われました。この頃、石島や千田あたりは、まだ海でした。

【江戸中期】1658年〜1803年
●小名木川は、行徳の塩を江戸に運ぶために開さくされました。利根川水系を利用した船運の終着地として物資流通の要路となり、番所橋付近には、船の関所として船番所が設けられました。また、堅川・大横川・横十間川などの開さくも進み、新大橋・永代橋が架けられ江東地区が大いに発展しました。現在の佐賀を中心とした隅田川の沿岸には米・雑穀・油・千鰯等の倉庫が建ち並び、問屋取引が盛んに行われました。木場には、材木商が、江戸市中から移って来ました。亀戸・砂村などは江戸の近郊農地として、つまみ菜・亀戸大根・砂村葱・砂村西瓜・砂村丸茄子などを供給しました。




【江戸後期→明治初期】1804年〜1876年
●この時代は、江東地区には多くの交人墨客が住み独特の交化が生まれました。今でも狂歌師・国学者・画家・横綱などの墓碑が数多く残っています。また、風光明眉な景色や、寺社の開帳、祭礼などの年中行事を中心として、江戸市民の行楽地が区内各所にありました。辰巳八景や、亀戸梅屋敷・五百らかんさざえ堂などは、浮世絵や歌曲などで当時の賑わいをうかがうことができます。明治維新(1868年)により江戸は東京に改められ、現在の江東区の区域は、東京府下となりました。

【明治中期→大正中期】1877年〜1922年
●明治から大正にかけてのこの時代は、産業革命の時代です。江東地区には多くの工場が立地します。清澄の浅野セメント・亀戸の日清紡績・東洋モスリン・日本化学工業・大島の大日本人造肥料・富士瓦斯紡績・砂町の大日本製糖などてす。埋立はごみ処理、隅田川のしゅんせつ土により、現在の東陽1丁目、木場1・6丁目、塩浜1・2丁目、古石場3丁目で行われました。荒川放水路の開削、砂町下水処理場の完成したのは大正12年でした。




【震災→昭和初期】1923年〜1945年
●大正12年、関東大震災は江東地区にも大きな被害を与え、深川区の焼失家屋約49,000戸、亀戸町400戸、大島町1、400戸、砂町1,300戸に及びました。復興事業が直ちに始められました。現在の街並みは、この時の区画整理でできました。また、現在の大部分の橋がこの時整備され、主要なものは鉄橋となりました。住宅建設は、同潤会が発足し、砂町住宅、猿江共同住宅、清砂通りアバートの計画的集合住宅が始められます。重工業の発展とともに工場が進出し、京葉工業地帯の一大拠点となります。埋立は枝川1・2丁日、越中島3丁日、豊洲1〜5丁目、東雲1・2丁目で行われました。

【戦災→復興】1946年〜1955年
●昭和22年(1947年)、江東区は、深川区・城東区の両区を合併して誕生しました。戦争が終り、疎開者の帰京、戦地からの復員、引き揚げなどで人口が急激に増加し、都営住宅の建設が進められました。区内では、昭和20年代に51団地2671戸ができました。一方、この頃は、水害に弱くキャスリン台風・キティ台風で大きな被害を受けています。特にキティ台風では、台風の通過が東京湾の満潮時と一致したため、区内のほとんどが浸水し罹災者154,134人、床上浸水23,493戸でした。




【高度経済成長期】1956年〜1973年
●昭和30年代に入って、地盤沈下による水害の危険性が搗蛯オた江東区の区域を守るため、外郭堤防の工事が始まります。また、地下鉄東西線・首都高速道路7号線も完成して、区民の生活の安全性・利便性が向上しました。工場の区外移転に伴って大規模な集合住宅が次々と建てられました。大島4丁目公団・大島6丁目公団・南砂2丁目公社・北砂5丁目公団住宅などは企業跡地てす。南部地区の開発も進められ、夢の島の埋立・辰巳の建材ふ頭・豊洲6丁目の東京ガス・東京電力・鉄鋼ふ頭・新木場地区の整備が行われました。

【現在】1974年〜1988年
●江東区が発足してから、40年がたちました。現在と、発足当時とを比較してみましょう。
○面積・人口の推移
 (案内板のグラフ)
○発足以降できた公共施設
 鉄道  東西線、都営新宿線
 道路  高速7号線、高速9号線、高速湾岸線
 河川  外郭堤防、小名木川等水位低下、小名木川・清澄各排水機場
 公園  夢の島公園、亀戸中央公園、仙台堀川公園、横十間川親水公園
 その他 区役所新庁舎、公会堂、区民センター、文化センター、深川江戸資料館、水上バス




木場親水公園の中には川の流れも再現されています。また、先ほどの地図にあった三ツ目通り方向に延びる部分は、かって他の河川と合流していたようにも見えますが、そうではなく単に空き地をつなげただけのようです。ちなみに、この出っ張った部分はじゃぶじゃぶ池という徒歩池になっています。



川添いのマンションのベランダに、女性の顔のポスターがつり下げられています。女性はコーヒーカップを手に持って、「コーヒーいかが?」って呼びかけています。よくよく女性の顔を見ると、外人さんみたいです。お散歩する人向けの喫茶室みたいですが、入口はどこになるのでしょうかね?人工の川には小舟も展示されています。あれに乗って川並さんが丸太を操ったのでしょうか?



木場親水公園の途中から首都高9号深川線が上空を通っています。かって木場を流れていた油掘川の跡に首都高を造ったそうですから、大島川東支流とも交差していたかもしれません。



もうひとつ、屋根付きの立派な案内板があったのですが、長い棒状のものを担ぎ、手には袋を持った人達が版画に彫られているのですが、何をしている人なのか分かりません。貝掘りかな?



永代通りの手前で木場親水公園は終わり、その先には川添いの側道はありません。回り道をして大横川に架かる平野橋から大島川東支流と大横川の合流地点を探しますが、開口部が見当たりません。少し先の方に大横川の川面が泡だっているところがあり、どうもそこに水を放出しているみたいです。水といっても、今時点では大島川東支流に水は流れていないので何の水だかわかりませんが。というわけで、超短い大島川東支流の歩きを終えました。木場親水公園の入口にあった通路が気になるぅ。






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