六郷用水上流コース  

コース 踏破記  

六郷用水は前々から歩いてみたいと思っていましたが、丸子川の区間を除いてその川筋がよくわからず延び延びになっていました。六郷用水の取水口は多摩川沿岸の狛江市元和泉というところにあったそうですが、私の持っている地図は10年前に出版されたもので、おまけに狛江市の元和泉地区の部分は2万分の一の縮尺になっています(←いい加減に最新版に買い換えたら?)。ネットでいろいろ調べているうちに、大体の川筋が判明し、既に歩いた丸子川の区間と、どうしても川筋が不明な丸子川より先の区間を除いて、今回六郷用水の上流区間だけを歩くことにしました。ネットの情報では、六郷用水の取り入れ口近くには水神社があるそうです。「水神」とは、水にまつわる神の総称で、祀られているのは灌漑用水の神とされる水速女命〈みづはのめのかみ〉です。六郷用水と関わりがあり、祠は用水取水口の脇に位置していて、用水工事に尽力した小泉次大夫が合祀されているそうです。近くに水神前というバス停があるので、時間節約のためにそこまでバスで行くことにします。小田急狛江駅の前にはバスの乗り場が何ケ所かあり、初めてのことなのでどの乗り場からバスが出るのかわかりません。駅の出口に近いB番乗り場で路線図を見てみますと、狛01というバスに乗ると水神前までいくみたいです。ひょいと見るとちょうどその狛01が乗り場に近づいています。ラッピー!と早速乗り込みます。バスが停留所で停まるたびに地図に書かれたバス停と照合します。なんかヘンですねぇ。何となく水神前行きのバスのルートを外れていくような。。。そのうち、バスは終点の慈恵医大第三病院前に着きました。あれえっつ〜〜〜!?地図を見ますと、水神前まではかなり距離があります。ここから歩いても良かったのですが、今日は先行き時間がかかりそうなのでもう一度狛江駅まで戻ってバス便を調べてみることにしました。狛江駅から歩いて水神前まで行った方がよっぽど早かったのですけどね。狛江駅に戻って改めてバスの路線図を調べてみたら、狛01には二系統あって、私が乗ったバスは慈恵医大第三病院前行きだったんですね。この乗り場から水神前まで行くバスは23時以降発車する深夜便だけと表示されています。昼間の時間帯に水神前まで行くバスは0番乗り場から出る多摩川住宅中央ゆきなのです。やれやれ時間を節約しようとしてとんだ道草を食いました。なんだかんだで水神前バス停に着いたのは11時過ぎ。せっかく早めに家を出たのに。歩き出す前に六郷用水のおさらいをします。  

六郷用水

六郷用水は東京都にかつて存在した用水路で、建設を指揮・監督した小泉次大夫の名を取って次大夫堀とも呼ばれました。多摩郡和泉村(現在の狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領(現在の狛江市・世田谷区)から六郷領(現在の大田区)に至る用水路でした。総延長は23kmで、主に農業用水として49の村々の約1500haに水を供給しました。同じく小泉次太夫が建設を指揮・監督した川崎市を流れる二ヶ領用水と合わせて、四ヶ領用水とも呼ばれました。慶長二年(1597年)から14年かけて開削され、開通後100年を経過したころ荒廃しましたが、享保十年(1725年)に代官田中丘隅(休愚)の手により改修されました。この改修は二ヶ領用水と並行して行われ、改修後は世田谷領でも六郷用水が利用できるようになりました。流域の宅地化が進み、昭和20年(1945年)に廃止され、その後1970年代までに埋め立てられたか、雨水用の下水道となりました。流路の大半は失われましたが、世田谷区岡本から大田区田園調布までの区間は丸子川として残っています。世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水によって次大夫堀が再現され、次大夫堀公園になっています。大田区内では、湧水を使って再現された用水路が遊歩道と共に中原街道と鵜の木三丁目の間に整備されていて、残りは道路になっています。現在、六郷用水の跡地は道路・緑道・次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もあります。なお、六郷用水は多くの河川と分流や合流、あるいは交差していました。


今回歩いた「六郷用水上流コース」は、多摩川からの取水口があった狛江市元和泉から、仙川との合流点だった世田谷区岡本三丁目の水神橋までの区間とします。

水神前バス停の直ぐ近くに雑草が目立つ西河原公園という小さな児童遊園がありました。公園の中央には何やら奇妙な形のオブジェが置かれています。細長い棒みたいなものが石の上に立っていますね。何だろうと台座に貼られたプレートを見てみましたら、狛江市の未来を象徴するモニュメントなんだそうです。棒と見間違えたのは種子から成長した絹さや、イヤ枝豆?

TO THE SKY ’90

このモニュメントは、大地から一粒の種子が地表の岩石を押しのけ、天空にむかって、たくましく成長する様を表現し、狛江市の将来を象徴したものです。




公園の隅に石碑が置かれていました。どうやら、この辺りが六郷用水の多摩川取り入れ口だったようです。当時の多摩川は水量が豊富だったんですね。取り入れ口といっても、河岸に堰を造るわけでもなく、水門もないただ開削しただけのようですが、増水した時などはあっという間に氾濫してしまいそうです。玉翠園の石垣が多摩川に面していたということは、当時の多摩川は今よりもっと川幅が広かったということでしょうか?

六郷用水取り入れ口

六郷用水は、徳川家康の命により慶長二年(1597年)から慶長十六年(1611年)にかけて代官小泉次大夫吉次によってつくられた灌漑用水路で、次大夫堀とも呼ばれています。この用水は多摩川の水をこの辺りで取り入れ、市役所の裏で野川と合流し、世田谷区を経て大田区に至り、全長23kmに及びました。市内でも和泉・猪方・岩戸の水田に利用されてきましたが、この辺りは昭和四十年(1965年)に埋め立てられました。写真は、多摩川から見た取り入れ口で、右側が現在地付近、左側が玉翠園で、昭和初期のものです。




玉翠園は公園から六郷さくら通り(昔は六郷用水が通っていましたが、それを埋め立ててできた道路です。長らく「福祉会館通り」と呼ばれていましたが、福祉会館が「あいとぴあセンター」にリニューアルしたため改称されました。ちなみに、私の持っている地図では旧名のままです。)を挟んだ反対側付近に位置していました。

玉翠園の石垣

玉翠園は、明治三十九年(1906年)に井上公園として開設され、大正二年(1913年)には公園内に料亭「玉翠園」を開業し、以後は玉翠園と呼ばれていました。多摩川の向こうに富士山などが遠望でき、多摩川での船遊びや川魚料理を楽しめるので、京王線や小田急線を使った東京からのお客さんで賑わうとともに、台東区下谷の小学校の林間学校などにも使われていました。この地点は、玉翠園の石垣の一部分です。




確かに、多摩川越しに富士山が綺麗に見えていました。



公園を出て多摩川の土手に上ります。目の前に石段というか滑り止めというか河川敷に下りる細い通路があります。河川敷に下りてみますと、多摩川の上流と下流が遠くまで見渡せます。上流には奥多摩の山々、下流に見える橋は多摩水道橋でしょうか。橋が出来る前には「登戸の渡し」があったそうです。多摩川の河底があちこしで顔を出していますが、水涸れの季節とはいえ水量が少ないですね。



堤防から下りてきた河川敷の先には池のような水たまりがありました。ここに六郷用水の取り入れ口があったのでしょうか?



ふと右手を見上げると、何やら水門のような施設があります。あれっ?ここではなく、あの水門が六郷用水の取り入れ口のあったところかなと思って確かめることにしました。土手に上がって近付いてみますと、水門ではなく排水施設のようです。六郷配水樋管と表示されています。多摩川と反対側の方向に目を向けると、道路の反対側に水路が見えます。その場所に近付いてみますと、ふたつの水路が合わさって道路の地下に潜り、排水施設の方向に流れているようです。最初はこの水路がかっての六郷用水の跡か!と思ったのですが、それにしては流れてくる方向が違います。一方の水路は多摩川の上流方向から流れてきています。後で分かったことですが、この水路は根川という名前の小河川とこの辺りの湧水を合わせた排水路で、この地点で合流して多摩川に流れ出しているそうです。さっき見た施設は、根川と排水路の水を多摩川に送り出すためのものでしょう。ということで六郷用水とは関係なさそうです。ちなみに玉翠園は根川の左岸に接していたと思われます。



六郷用水は多摩川から取水された後、直ぐに東方向に湾曲し、現在の六郷さくら通りと同じ川筋で流れていました(というか、六郷用水が埋め立てられた跡に六郷さくら通りが造られたようです)。六郷さくら通りは、その名前の示す通り桜並木が続いていて、春には満開の桜のトンネルが出現するそうです。しばらく歩きますと、「田中橋」と表示されている交差点に出ます。田中橋は六郷用水に架かっていた橋の名前で、全長10m・幅4mほどあったそうです。橋の下の六郷用水は水面まで4mほどあったとのことで、橋の袂に洗い場があったものの登り降りは大変だったといわれています。私は見逃しましたが、すぐそばの稲荷社の脇にコンクリート橋の親柱が残されているとのことです。



田中橋の先の泉竜寺前で六郷さくら通りは二股に分かれます。泉竜寺の外周沿いに右側の道を進みます(写真左の奥から手前方向です)。突き当たりは先ほどUターンしたばかりの狛江駅前のバス停広場になっています。駅舎の左隣りにはエコルマという商業ビルがあります。何故かシマムラが入っていますね。狛江のマダムもシマムラの熱烈なファンなのでしょうか?エコルマの前で植え込みを通過して左方向へ曲ります。



左に曲った先の歩道脇に、かって六郷用水に架かっていた「駄倉橋」の親柱が保存されています。明治後期には「めがね橋」と呼ばれていたアーチ状の構造の橋です。駄倉橋は品川道・筏道と呼ばれる古道が通っていました。多摩川を筏で下った筏乗りが六郷の河口で筏を材木として引き渡した後、この道をたどって奥多摩まで帰ったことから筏道と呼ばれていました。また、府中に鎮座する大国魂神社の年1回の祭礼に使う海水を品川の海から運んだ道でもあることから品川道とも呼ばれています。案内板の挿絵を見ますと、六郷用水が深い掘割を流れていたのが分かります。描かれている人物は子供ではなく、道路下の洗い場で大根か何かを洗っている女性でしょうか?六郷用水は意外と浅かったようですね。

駄倉橋跡

六郷用水に架かる駄倉橋がここにありました。駄倉橋は、何度か架け替えられましたが、明治四十二年(1909年)に造られた橋は、アーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれ人々に親しまれました。六郷用水は、慶長二年(1597年)から16年かけて徳川家康の命により代官小泉次大夫吉次によって造られた灌漑用水路で、多摩川の五本松上流辺りから取り入れ、大田区まで全長約23kmに及びます。この辺りの六郷用水は、昭和四十年(1965年)に埋め立てられ、同時に駄倉橋も道路下に埋め立てられました。「だくらはし」と刻まれた親柱がその名残をとどめています。




歩道のガードレールには水彩画のようなタッチで「特別緑地保全地区」と書かれたプレートが架かっています。その先に遊歩道が延びていて、野川緑地公園と書かれた案内板に遊歩道の全体の道筋が描かれています。こんなところを野川が流れていた筈はないのにと思ったのですが、ここはかつての野川が六郷用水と合流していた場所とのことです。というか、旧野川の流路を六郷用水がそのまま利用していたのです。旧野川は狛江市の中心部を蛇行しながら流れていたのですが、現在の野川は昭和四十一年(1966年)に発生した大水害を機に行われた流路変更により、現在は狛江市北東側の世田谷区入間町や喜多見の方を流れるようになっています。旧野川の跡は「グリーンネットワーク計画」の一環として、昭和五十一年(1976年)に野川緑地公園が整備されています。この遊歩道はその一部とのことです。



野川の改修前と改修後の川筋を見ますと、この流路変更が如何に大規模な工事だったかが分かります。



小田急線の高架下を抜けていちょう通りを進みますと、新一の橋交差点で世田谷通りに合流します。ここは少し前に「東京の民営バス路線を歩く」で渋谷から調布まで歩いた際に通ったところです。あの時は二度とここには来ないだろうと思っていたのですが。



六郷用水は二の橋交差点の先で世田谷通りと分岐し、現在の滝下橋緑道の道筋を流れていました。というか、六郷用水の跡に滝下橋緑道が造られたのです。

滝下橋緑道

地区の主な公園 次大夫堀公園
次大夫堀は、江戸の初期、小泉次大夫の指導で開削された農業用水(六郷用水)の別名です。喜多見あたりでは、半ば埋められごみ捨て場のようになっていましたが、野川から取水して昔ながらのきれいな流れを復元しました。その水路に沿って、当時の古民家や水田(1400u)を配置しています。水路や池には、コイ・メダカ・アメンボもたくさん生息しています。民家園では名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などを復元し、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現しています。農村に伝わる行事等も行っており、昔ながらの生活や風習を体験することができます。また、園内の水田では、毎年稲作が行われ、近所の保育園や小学生達による田植えや稲刈りがJA東京中央の協力のもと行われています。また、次大夫堀公園内にある自然体験農園では、農作業体験等を通じて土とふれあい、都市農業に関心を持ってもらうため、講習会が開かれています。




緑道の一部区間は現在改修工事中で通れません。ですが、側道は車があまり通らないので歩きやすいですね。来年の2月に工事が終わる予定なので、それ以降はリニューアルされた綺麗な緑道を歩けることでしょう。



暫く歩くと緑道の先に野川が現れます。この付近は水道道路と野川で歩いたところです。六郷用水は現在の野川の川筋と付かず離れず蛇行して流れていたようで、野川に突き当たったところで少し右手方向に向きを変え、次大夫堀公園ほ方に向っていたと思われます。



住宅の間の曲がりくねった路地を抜けた先に次大夫堀公園の入口があります。公園は何本かの道路によって分断されていますね。それをうまく利用して園内の配置が考えられたようです。

公園のあらまし

次大夫堀公園の名の由来ともなっている「次大夫堀」とは、稲毛・川崎領(現神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長二年(1597年)から15年の歳月をかけて開発された農業用水です。正式には六郷用水といい、多摩川の水を取り入れ、世田谷領(現狛江市の一部・世田谷区・大田区の一部)・六郷領(現大田区)を流れるものでした(全長23.2km)。世田谷領内を流れる六郷用水は、江戸時代、沿岸の14ヶ村の水田で利用され、土地の人からは次大夫堀と呼ばれていました。以後も昭和に至るまで350年余の間、周辺住民の農業・生活用水として欠かせない存在だったのです。現在、区内の六郷用水(次大夫堀)は、丸子川として一部分のみ残っています。この公園ではかつての流路600mを復元しました。なお、管理棟では小泉次大夫と次大夫堀についての展示を行っています。




最初の区画には六郷用水の水路が再現されているようですが、曲がりくねっている上に幅が狭いのでシンボル的な意味合いでしょう。



大きな石碑の上部に「小泉次大夫巡検図」と書いてありますが、描かれているであろう巡検の様子は全く見えません。



公園を斜断する道路を渡って二番目の区画に入ります。ここには六郷用水の水を利用した水田と世田谷区内の古い民家を移築した民家園があります。案内板には、展示されている民家の説明が書いてあります。

次大夫堀公園民家園

次大夫堀公園民家園は江戸時代後期から明治初期にかけての農村風景を再現しています。

@旧安藤家住宅主屋及び内倉
江戸時代後期に建てられた旧大蔵村の名主家。家が繁栄し、屋敷構えが整ったと推定される明治中期の姿に復元しました。式台をはじめ、名主の役宅を兼ね備えた間取りは、内倉の付く八間取り形式です。内倉は外倉として建てられていたものを内倉に転用して復元しました。

A旧秋山家住宅土蔵
区内深沢に在ったこの土蔵は、文政十三年(1830年)頃に建てられたものです。土蔵造りは、火災に強い構造となっています。旧安藤家住宅の外倉という設定で復元されています。

B消防小屋と火の見櫓
各村々で組織されていた消防組の組員詰所として再現されています。櫓の半鐘は、元々宇奈根地区で使われていたものです。この他に、鍛治展示小屋・藍展示小屋もあり、かつて世田谷で行われていた職人の技の再現にもつとめています。

C旧加藤家住宅主屋
区内喜多見の地に建っていたこの家は、江戸時代後期に見られる典型的な農家の間取り形式(整形四ツ間取り)を持ちます。また、家の内外には、養蚕を行うための造りが多くなされています。

D旧城田家住宅主屋
区内喜多見の登戸道、筏道の主要な道が交わるところに建っていたこの家は、農業の外に、商いも営む半農半商の家でした。家の造りにも、町場で見られる店造りの形式が多く取り入れられています。

E旧谷岡家住宅表門
区内深沢にあったこの表門は、天保九年(1838年)に建てられたものです。この門の穀倉と納屋は、元々それぞれ別棟だったものを、天保九年(1838年)に門構えを加え一棟の長屋門としています。門の位置は、街道を再現した道に沿って復元しました。

F次大夫堀(六郷用水)
農業用水としての役割を終え、寸断されていた次大夫堀は、昭和五十五年(1980年)に復元されました。ドジョウやフナ・ザリガニなど懐かしい生物も生息するようになり、カワセミやシラサギ・カモなども飛来します。かつてこの用水により潤されていた水田も再現して、田植えや稲刈りには地元の子ども達が参加しています。




@番の旧安藤家住宅主屋と内倉です。母屋は20部屋はありそうな広さです。土蔵の屋根が茅葺きとは珍しいですね。



B番の消防小屋の内部です。着用していた服は今でも使えそうです。さすがに腰巻きまでは展示してなかったですけど。

世田谷の消防組

江戸市中では火災が多発し、「火事と喧嘩は江戸の華」と称されるほどでした。特に明暦の大火(1657年)では市街地の大部分が焼け、死着も10万人以上にのぼったといわれています。このような火災への対策として、享保三年(1718年)に町火消が制度化され、翌年には有名な「いろは48組」が編成されました。この町火消が明治になって消防組と改称されたのです。世田谷は農村であったため、火事といっても江戸市中のような大規模な災害には至らず、消防活動は村々で自治的におこなわれていたにすぎませんでした。明治初期から消防組が組織されはじめ、明治十八年(1885年)の大蔵村の記録によると、当時の消防組は村内の17才から33才までの男子すべてを所属員とし、消防のほか村の親睦などにも関与していたようです。その後明治二十七年(1894年)の「消防組規則」によって全国の統一がすすめられ、世田谷でも世田谷消防組・駒沢消防組・玉川消防組・松沢消防組の4消防組が組織されました。その後消防組は昭和になってから警防団、第二次大戦後には消防団と名称を変え、今日に至っています

明治から大正にかけての消防

明治中頃の世田谷の消防組では、組頭(任期は1年から4年)が選ばれ、組頭の補佐役として副組頭がいました。各消防組は下部組織としての部が置かれ、それぞれ部長・小頭・組員がいました。組員は筒先・梯子・刺又・鳶口・龍吐水やポンプの水汲みの順に、体力や経験に応じて役割が決められていました。火災が発生すると組員達は消防半纏に身を包み、消防小屋(消防組員詰所)のある火の見櫓の下に集結し出動したといいます。消火には川や水田の引き水を利用しましたが、基本的には刺又や鳶口による破壊消防の方法がとられました。飛び火を防ぐため、茅ぶき屋根を濡れた莚で覆うという方法もとられました。また実際には不可能なことでしょうが、大正の初め頃までは、飛び火を防ぐために女性の腰巻きを屋根で振ったという話もよく聞くことができます。




次大夫堀公園は、荒玉水道道路と多摩堤通りの下に設けられた人道トンネルで三番目の区画に繋がっています。そのトンネルはパズルトンネルという名前が付けられています。トンネルの壁面に鳥が描かれているのですが、どれも玉子の形を9個の切片に分解したものをパズルのように組み合わせていろいろな鳥に変身させているのです。

パズルトンネル(ハッピーバード)

卵の形を直線で9個のパーツに切りはなし、その組合せによっていろいろな鳥の形をつくった楽しいパズルの整画です。
デザイン 福田繁雄 1986年




この二羽の鳥は本当に同じパーツを使って組み立てられたものでしょうか?私にはどうしてもそうとは見えませんが。。。



第三の区画の中を流れた水路は公園の端で地下に潜り、野川の護岸に設けられた排水口から野川に流れ出しています。ですが、合流していた訳ではなく、交差して野川の川筋から離れていった筈です。でも、そこから先は外環道(東京外郭環状道路)と東名高速道路の接続工事のため広範囲に工事用の囲いに覆われて立ち入れません。結局工事箇所を避けて歩いていたら多摩堤通りに出てしまいました。このままでは目指す水神橋とは離れるばかりです。とある交差点で左折し、北に向います。



100mほど北上したところで、T字路になり、正面に永安寺という古刹がありました。道路の脇に見覚えのある「きしべの路」の標識があります。案内図を見てみますと、やはり野川と交差した六郷用水は私が歩いた道路よりもっと北側に川筋があったようです。歩き直す気力はなかったので、このまま水神橋を目指します。

鎮守の森と農村風景

暦仁元年(1238年)に建立された大蔵氷川神社の奉納されている1枚の板絵には、六郷用水で洗濯をする女性や、正月の参拝人など、当時の農村生活の様子が生き生きと描かれています。また、この周辺の土地を守る神が奉られた森では柊の老木やその周りに絨毯のように舞い落ちる落ち葉が今でも当時をしのばせています。




永安寺から水神橋までは真っ直ぐな道路が続いています。気のせいか、歩道の側石は六郷用水の石積みの護岸の跡を思わせます。



ようやく水神橋に着きました。橋の名前自体が六郷用水が通っていたことを示しているようです。六郷用水はかってこの場所で仙川に合流していました。というか、仙川の水の全量が六郷用水に取り込まれていたのです。今の仙川は水神橋の下流でも流れていますね。これは、六郷用水の廃止によって、水神橋の下流側に仙川の新たな流路がつけられ、野川に合流するように改修されたためです。一方、六郷用水は水神橋を渡った先の下流側が整備され、名前も変わって「丸子川」となって残っています。六郷用水からの水の供給がなくなったので、丸子川を流れる水は、仙川に沿って流れ下ってこの地点にやってくる世田谷区岡本三丁目付近の湧水と大蔵住宅からの小川の水が源泉となっています。なので、仙川の水は現在丸子川へは供給されていません。



ということで六郷用水上流コースを歩き終えました。ルートはおおむね正しかったと思いますが、何ケ所か間違った箇所を通ってしまったようです。下流コースも歩いて六郷用水を完結したいのですが、いつの日になることやら。




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