- 内川コース
- コース 踏破記
- 随分と昔の話になりますが、大森界隈の東邦医大通り(通称、鬼タビ通り:かつて「鬼足袋」ブランドの足袋工業の工場があったことに由来します)を歩いていた時に「内川」という名前の川というか何というか、水の流れを見ました。滅多に歩かないところだったのでその後目にすることはなかったのですが、東京の河川を歩くシリーズで内川の名前を思い出し、いつか歩いてみたいと思っていました。地図を見ますと、大森西四丁目付近の東海道線の線路脇から京浜運河に向って一直線に延びているのが内川になっています。ネットで調べてみますと、昔の内川は都営地下鉄浅草線の馬込駅に近い北馬込二丁目辺りに源泉があったと書いてありました。ただ、源泉から東海道線に突き当たるまでの川筋が分かりません。ここは源泉に行って、そこから川筋の跡を辿るしかなさそうです。ということで、馬込駅にやってきました。
内川
内川は大田区を流れる、全長1.55km・流域面積3.25平方キロメートルの河川です。大田区大森西四丁目のJR東海道本線橋下から大森学園高等学校前を流れ、京浜運河・東京湾に注いでいます。元々は北馬込付近を水源とした天然の小川でした。現在では東海道本線より上流は暗渠化して下水道の幹線になり、それより下流が河川法上の指定区間となっています。そのため大雨が降ると下水が流れ出て悪臭が酷く、通常時は曝気装置や微生物養生により水質が若干ではありますが改善してきています。かつては六郷用水の流れの一部が大森第八中学校付近で合流していたり、呑川の分流が合流していましたが、現在では合流する河川もなく、通常時の開渠部分の水は潮の干満による海水・汽水がほとんどを占めています。開渠の最上流部でも潮がひいているときには川底の泥に汽水性のヤマトオサガニ・クロベンケイガニ・ケフサイソガニが見られます。また、マハゼやボラも多く、夏には多くの釣り人が訪れます。エイなど多くの海洋性の魚類も上げ潮時には遡上しています。平成十九年(2007年)4月にウォーターフロント事業として、河口付近に大森ふるさとの浜辺公園が開園しました。また、一部開渠部の流れに沿って散歩道が作られています。
ネットの情報では、内川の源泉は北馬込二丁目13番地で、そこに源流を示す石碑が立っているとのことです。馬込駅から地図を頼りに源泉を目指します。この辺りはアップダウンの坂が多く、住宅が込み入っていて目指す住所にはなかなか辿り着けません。かなりの急坂を下りたところに目指す番地がありました。三方から傾斜が迫ってくるようなすり鉢状の底にあたるところです。一方だけ両側に植栽が施された平坦な路地が続いています。その路地の起点になるところに「旧内川源流」の石碑が立っていました。石碑の上面に「昔の内川と六郷用水の流れ」とタイトルの付いた地図が埋め込んであります。地図には川筋が書き込んであるのですが、おおざっぱ過ぎてどう歩いたらいいのかサッパリ分かりません。とりあえず、旧内川の流路跡だったと思われる平坦な路地というか遊歩道というか緑道を進むことにします。
緑道(内川の場合は遊歩道よりも緑道の方が似つかわしい)の先は環七に突き当たっています。環七の路面は緑道から一段高くなっていますが、昔は環七なんてなかったのでしょうから、旧内川は邪魔されることなくそのまま真っ直ぐ流れていたのでしょう。
環七を渡って反対側に行きますと、環七の路面より一段低い位置から緑道が再開しています。緑道脇に「桜のプロムナード」という案内板が立っていました。この案内板はこの後あちこちで見かけることになるのですが、周辺の地図や名所など、歩く上で役立つ情報が満載です。案内板の下の方には「旧内川流路〜昔は内川がここを流れていました〜」の文言が添えられています。つまり、内川はこの案内板に図示されている桜のプロムナードの線に従って歩けばいいのです。案内板は落書きもなく綺麗で分かりやすく、これで不明だった東海道線に突き当たるまでの旧内川の川筋は問題なく辿れそうです。
緑道は場所によってかなり幅があり、生活道路としても十分に機能しています。進路が変わるところなどには路面に矢印で方向が示されていることもあります。
緑道は東海道新幹線の高架手前の住宅の前で右に直角に向きを変えます。ここに立っていた案内板の地図を見ますと、方向を変えた直ぐ先でまた左に向きを変え、新幹線の高架下を通って反対側に出ているように思えます。元々クランク状に流れていたのか、それとも新幹線の高架ができる前はそのまま真っ直ぐに延びていたのかは分かりません、
新幹線の高架を越えた先には立正中学校・高等学校の敷地が拡がっています。その敷地の間を割るように緑道が延びています。つまり、校舎と校舎の間を緑道が通っているのです。今まで歩いた川の中では珍しい光景です。学校の正門横に出てきた緑道はそのまま煉瓦敷の歩道に続いています。学校は2013年に開設されたそうで、周辺も含めて全てが真新しい風景です。
歩道の先には第二京浜国道が通っています。日本の国道付番1番目に当たる国道一号線です。「にこく」とも呼ばれています。国道一号線なのに「にこく」とは紛らわしいですね。そういえば、はるか昔にフランク永井が歌った「夜霧の第二国道」って歌謡曲がありましたね。タイトルは「夜霧の第二京浜」の方がよかったと思うのですが。それはそれとして、第二京浜に突き当たったところにかなり年期の入った馬込坂の案内柱が立っていました。第二京浜を渡りますと、旧内川の川筋は案内柱の立っていた地点から第二京浜を斜めに突っ切って真っ直ぐに延びてきています。
馬込坂
第二京浜国道が建設され、昭和二十四年頃より五反田から多摩川際までのバスが通るようになり、馬込坂下・馬込橋のバス停ができると、坂名は自然に馬込坂と呼ばれるようになりました。第二京浜国道ができる前のこの付近一帯は小高い丘や水田で、坂下には内川の清流が流れていました。
そのまま道なりに進みますと、善照寺というお寺の角で旧内川の川筋は左にほぼ直角に向きを変えます。煉瓦敷の緑道が真っ直ぐに延びています。昔の写真を見ますと、ちょうど歩道の位置に旧内川が流れていたことが分かります。車道と歩道の境には桜の並木が続いていて、これが本当の桜のプロムナードです。春には満開の桜を愛でながら散策できます。
ここに立っている案内板には、旧内川の川筋が2本見えます。1本は今歩いてきた北馬込を源泉とする川筋、もう1本は洗足池を水源とする洗足流れの川筋です。洗足流れなんて初めて知りました。東京にはまだまだ私の知らない川があるみたいですね。
緑道脇に案内板がふたつ立っていました。名馬・磨墨の伝説にも関係しますが、ここ馬込にはかって馬込九十九谷といわれたほど起伏があり、駒込や牛込と同じように古くからの馬の放牧地としての利用が地名の由来といわれています。
馬込の特産物
区内では、戦時中までほうれん草・小松菜・きゅうり・なす・にんじんなどの栽培が盛んに行われていました。特に馬込地区で作られていた馬込半白(まごめはんじろ)きゅうりと馬込大太三寸(まごめおおぶとさんずん)にんじんは地名を付けて名づけられるほど親しまれました。また、戦後栽培が始まった馬込のシクラメンは優良系統選抜と改良、高い技術力により名が広まりました。
大田区の農業の変遷
大田区の水田と畑を合わせた耕地は、大正十一年(1922年)には1,660haありましたが、耕地整理後の昭和十年(1935年)には988ha、昭和二十五年(1950年)には179haと急減しました。大田区における耕地整理は水田の宅地化と道路・側溝整備の区画整理を中心に行ったためで、この宅地化の過程で都市近郊という立地を活かした野菜作りがさかんになりました。
名馬・磨墨(するすみ)
磨墨は「平家物語」宇治川の先陣争いに登場する鎌倉時代の武将だった梶原景季(かじわらのかげすえ)の愛馬で、その名のように漆黒の毛色であったといわれています。この地の産であったとも、またこの地で死んだとも伝承されており、周辺には磨墨にちなんだスポットがいくつかあります。
- 磨墨像:
- 梶原家にゆかりの深い萬福寺(南馬込一丁目49番)山門の手前にあります。
- 鎧坂:
- 磨墨の鐙(あぶみ)が落ちたという伝説にちなむ鐙谷の地名から名づけられた坂です。(南馬込四丁目3番先から12番先)
- 磨墨塚:
- 磨墨が葬られたとの伝説がある場所に、明治三十三年(1900年)に馬込村の人々により建てられた碑があります。(南馬込三丁目18番)
また、洗足池には磨墨と先陣争いを競った名馬・池月(いけづき)の名にちなんだ池月橋が架かっており、池のほとりには池月の像があります。
緑道の終点近くに、もうひとつの案内板が立っていました。
馬込の桜並木
馬込の桜並木は、約90本の桜が立ち並ぶ600mほどの緑道です。春になり桜が満開を迎える4月上旬には「馬込文士村大桜まつり」が開催され大勢の人出でにぎわいます。桜並木の始まりは、昭和28年(1953年)に町の有志から寄付された100本の苗木でした。その当時はまだここは内川の流路でしたが、埋め立てられ現在のような姿となりました。
昔の内川の流れ
現在の内川は、大森西一丁目のJR線ガード下から始まり東京湾へ流れ出る約1.5kmの短い川ですが、昔は全長約5kmの川で、現在の北馬込から中馬込・西馬込・南馬込・中央を通る主流と、山王四丁目付近から環七通りに沿って流れる支流が集まった川でした。JR線から上流は、昭和46年(1971年)から昭和51年(1976年)にかけてほとんどが埋め立てられて暗きょになり、その上が緑道や公園となっています。
緑道の先は郵便局横の路地に繋がっています。車止めのボラードには桜の花の模様が描かれていて、ここも桜のプロムナードであることを表しています。
路地を曲った先に真新しい公園があります。佐伯山緑地という名前の公園だそうです。昨年春に完成したとかで、ピッカピカの筈です。佐伯山という名称は、ここが元佐伯栄養専門学校の跡地に作られたことに由来しています。池上近辺では池上本門寺に匹敵する敷地面積があったそうです。山が正面にあるということは、川筋が左右どちらかに向きを変えなければなりません。ところが、公園前には標識がありません。最初は右側に折れて歩道を進んだのですが、どこを見ても川筋の痕跡がありません。そこで左手に進んでみましたら、桜のプロムナードの案内板が見つかりました。ヤレヤレです。公園の縁を進んだ後で公園を離れ、住宅地の道路を進みます。
しばらく道なりに歩きますと、池上通りのひとつ内側を通る道路に出ます。道路脇には「いにしえの東海道」という石碑が置かれています。池上往還とも呼ばれた現在の池上通りは、平安時代から続く古い東海道の本道だったのです。
いにしえの東海道
此の道は時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれていた古道です。
旧内川と六郷用水には多くの関連があります。同じく大田区を流れる呑川もそうですが、六郷用水はいろんな川の流路を利用して、合流・分流をしていたのです。六郷用水は元々農業用水として開削されたので、既存の水路を利用して広範囲に水を分配できるようにしていたのでしょう。
六郷用水物語
六郷用水は、六郷領(現在の大田区の平地地域)の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水路です。徳川家康の新田開発政策の一環として行われた六郷用水の工事は、慶長二年(1597年)の測量に始まり、慶長十四年(1609年)に主要水路が完成、小堀と呼ばれる各村への分水路工事も含めると終了までに14年という長い年月を費やした大工事でした。
いよいよ旧内川が現内川に変身する場所にやってきました。桜のプロムナードは東海道線(および京浜東北線)の線路に突き当たり、一旦終わります。突き当たった場所には線路を越えるような施設はありませんので、案内板には迂回路が示されています。でもかなり離れていますね。
ふと横を見ますと、線路の下に何やら空間があります。近づいてみますと、人がかがんで入れそうな空間が開いています。人道トンネルならそれなりに天井とか壁がしっかり造られているのですが、この抜け道は壁も床面もボロボロです。迂回路が開かずの踏切化しているので、近所の人達用にやむを得ず造ったみたいです。入口には「この橋は篤志家のご好意で作られたものです。事故・ケガにつきましては自己責任でお願いいたします」と「ここは公道ではありません。危険なため、う回願います。180m←う回路→190m」と書かれた張り紙が貼ってあります。
天井部分が線路むき出しなので、電車の通過時は相当な恐怖感を味わうことでしょう。私は窮屈な姿勢ながら全速力で抜け、幸いにも電車の通過には遭遇しませんでした。でも、電車の轟音と振動を体験しなかったのはちょっと残念かも。
全速力で通り抜けても、記録だけはちゃんと残します。トンネル内でしか撮れないアングルでの旧内川の排水扉は必見です。通常時は扉は閉じられているそうですが、大雨などで下水管が一杯になると開放されるらしいです。その結果は推して知るべし。ちなみに、扉の先から京浜運河との合流地点までは本来の川の水でなく、海水で満たされているのだそうです。海水にしては川の水は灰色に濁っていますね。ここからは現内川の水路になります。
元々の内川の流路は蛇行していたとのことですが、現在の内川の流路はここから海までほぼ真っ直ぐになっています。川というより、人工的に開削された運河といった方が合っています。
昔の内川は清流が流れていたそうですが、現在の内川は汚れが酷く、そのために2ケ所に浄化施設が設置されています。それぞれに浄化方法は異なりますが、ここの施設は「ばっ気式接触酸化法」という方法で内川の水を浄化をしているそうです。見る限り、全く浄化が追いついていないようですが。
施設の目的
内川では、水質悪化によるハゼの酸欠死、悪臭の発生など、さまざまな問題が生じています。このようなことから、大田区都市基盤整備部では浄化施設を境橋〜三ツ木橋間、四之橋〜諏訪橋間に計2ケ所設置しました。これにより、魚やカニなどが安心してすめるような川にしようとするものです。
施設の概要
この施設は、「ばっ気式接触酸化法」を採用しています。この方法は、@ばっ気装置により水中の酸素量を増加させ、Aひも状接触材(バイオコード)にすみついた微生物によって川の汚れを分解するものです。
川の水質とは裏腹に、水路に沿って設けられている遊歩道(緑道よりか遊歩道の方が似つかわしい)は真新しく綺麗です。遊歩道の脇に「歴史の流れる音がする 内川案内板」が立っています。この先にも何カ所か設置されていますが、内容は現在地の表示以外は同じです。
案内板の内容は以下の通りです。地域の思いに、内川に対する地元の人達の愛情が感じられます。
内川のあらまし
かつて内川は山王や馬込・池上の沼の水や湧水を集めて流れる全長5kmほどの川で、六郷用水と合わせて低地の農業用水として使われていました。また、水道が引かれるまでは飲み水としても貴重な水源となっていました。自然も豊かで、コイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、川岸にはイチジクなどもあり、子どもたちの遊び場としても人気の高い場所でした。大正六年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは、川幅が広げられ川底も深くなり海苔舟が行き来できる川となりました。現在内川は大田区の北部大森地区を西から東にまっすぐ流れ、平和島運河に注ぐ流域面積3.25平方km、延長1.55kmの二級河川です。東海道線より下流が法定河川区間となっており、その上流は下水道幹線として整備されています。また、河口部には高潮対策として防潮水門と排水機場が設置されています。近年下水道の普及や水質浄化に伴いボラやサッパといった魚や、カニなども見られるようなり、また、河ロには水鳥の集まる千潟が残るなど、今でも人や水辺の生物にとっての身近な自然空間として重要な役割を担っています。
とよ口の図
馬込や山王の木原山にみなもとを持つ内川は、大森町の山谷通りと、東邦医大通りの交差する大森西四丁目のバス停近くでいっしょになっていました。このあたりの内川は水の量が多く、流れが速かったので「ドンドン川」とか、「ドンドンびき」などと言われていました。今の大森四丁目のバス停あたりにとよをかけ、諏訪神社や浅間神社のある大森西二丁目側に水を送ったので、かけどよのあったこのあたりをとよ口と呼んでいました。
“せき”「入り」
現在の大森西四丁目10−11−12番の交差点付近には“せき”が作られていました。“せき”と言っても、高さ3メートル、はば30センチくらいの石の水門が取りつけられただけのものです。内川は米作りにはむかない水でしたから、この“せき”には、呑川から六郷用水が引いてきてありました。“せき”の水門はふだんは開けてあり、用水が川底の低い内川にどんどん流れ落ちるようになっていました。内川には二つせきがあったので、六郷用水の入ってくる「とよ口」の“せき”を「入り」と言いました。
“かけどよ”
現・大森西三丁目12番付近にあった“かけどよ”。六郷用水が大森の田んぼに流れていくところ。“せき”と“かけどよ”の間には水番小屋があり、昼も夜も大切な水がむだに使われないように見守ったり、水門を開けたり閉めたりして、水の調節をしていました。そして米作りのために水が必要な5月から9月まで水門は閉められます。内川に流れ落ちなくなった用水は、この“かけどよ”を通って、大森のあちらこちらの田んぼにゆきわたるようにしてありました。
現・大森西三丁目15番付近にあった“せき”。水家さんが内川の水を水舟に汲んでるところ。この“せき”は、東京湾からの海水があげ潮になったときに、「とよ口」に流れこまないようにつくられたものです。ここにも水番のおじさんがいて、水門を管理していました。水門を閉めると、川の落差が3メートルにもなり、はめ板の上から水が滝のように流れ落ちていました。大正七年大森海岸に水道会社ができましたが、水道が大森の家庭に広くゆきわたったのは大正十に年ころです。それまで私たちの町では、水屋さんから買ったり、自分たちで汲んだりして、内川の水を飲み水として利用していました。9月半ばになって水門が開かれると、子どもたちはいっせいに川に飛びこみコイやフナ・ナマズなどを手づかみでバケツいっぱいに取りました。水泳もこのせきで覚えた人が多く、この“せき”は当時、大森町周辺の少年たちにとって楽しい遊び場でした。
地域の思い
人間の歴史は、川のそばから始まっています。わたしたち大森のむかしの人びとのくらしもやはり川と深いつながりがあったのです。その川とは、もちろん内川と六郷用水です。内川は、人びとにたいせつな飲み水をあたえてくれました。内川は、のりをとる人びとの船をはこんでくれました。内川は、子どもたちの心に泳ぎやトンボとりの楽しさを残してくれました。そしてまた六郷用水は、田畑をうるおし、作物を育ててくれました。今は、内川もよごれ、六郷用水はすがたをけしています。でもわたしたち大森の人は、これらの川をいっまでもわすれることはできません。よい町をつくるため、わたしたちは自分の町を流れる川のことをしっかり知っておきたいと思います。
二番目の浄化施設です。こちらは礫に住み着いた微生物や水生植物の力を借りて浄化する方法を採用しているようです。
施設の目的
内川では、水質悪化によるハゼの酸欠死、悪臭の発生など、さまざまな問題が生じています。このようなことから、大田区都市基盤整備部では浄化施設を境橋〜三ツ木橋間、四之橋〜諏訪橋間に計2ケ所設置しました。これにより、魚やカニなどが安心してすめるような川にしようとするものです。
施設の概要
この施設は、「ばっ気式礫間接触酸化法」及び「植生浄化法」を採用しています。
- 「ばっ気式礫間接触酸化法」
- @ばっ気装置(水中に酸素を注入する装置)により水中の酸素量を増加させ、川岸に積んだAれき(石)の表面にすむ微生物の働きによって、川の水をきれいにしようとするものです。
- 「植生浄化法」
- 水生植物にチッソ・リンを吸収させながら、茎や根の表面にすむ微生物に汚れを分解してもらいます。同時に河川景観の整備にもなります。
※なお「植生浄化法」では、試験的にヒメガマ・アイアシなどを植えています。
内川は京浜急行の高架下を抜け、第一京浜の下をくぐります。京急の高架先のビルの屋上に立っている金箔の像は何ですかね?第二京浜道路は「にこく」と呼ばれていますが、第一京浜は国道15号線ですが「いちこく」と呼ばれています。基本的に、昔の東海道のルートを踏襲しています。
第一京浜より海側を通るのは旧東海道です。その旧東海道の内川に架かる橋が「内川橋」です。何故か欄干が朱色に塗られています。
内川橋の袂に案内板が立っていました。
旧東海道(美原通り)
東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した、江戸日本橋を出発点とする五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ、最も重要な交通路であった。参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用された。昭和二年(1927年)、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった。旧東海道は、かつて三原通りと言われた。三原とは、字名の南原・中原・北原の三原のことで、美称して美原になった。歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅龍「駿河屋」のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれる。
いよいよ内川の河口が見えてきました。内川水門と書かれた大きな防潮水門です。その横にも小さな水門がありますが、排水機場の出口なのでしょうか?
水門の先には内川に架かる最後の橋である浜辺橋という人道橋が見えます。内川は浜辺橋の先で京浜運河に合流しますが、橋の右手には「大森ふるさとの浜辺公園」の敷地が拡がっています。
浜辺橋手前に公園の案内板が立っていました。
大森ふるさとの浜辺公園
入江や干潟がある、都内では初の区立海浜公園です。数多くの区民参加によるワークショップや報告会などを積み重ね完成しました。園内には、かつての大森海岸を再現した浜辺や大森海苔のふるさと館・ビーチバレー場・フットサル場・船着き場・休憩所があります。
平和の森公園
環状七号線の南北に広がる区内最大級の公園です。園内には、区内の貴重な文化財や史跡を模したフィールドアスレチックコース・テニスコート・弓道場・アーチェリー場などの有料のスポーツ施設や、NPOがみどりに親しむ活動を運営する「みどりの縁側」・「ひょうたん池」・「平和の広場」などがあります。
せっかくなので、大森ふるさとの浜辺公園の突端を内川の終点としましょう。公園にはかっての大森海岸の浜辺を再現した綺麗な砂浜が造られています。ちょっと見、海外のリゾート地を思わせますね。
ということで内川の歩きを終えました。歩く前は、内川は都会のドブ川かと思っていたのですが、いろんな歴史があり、また近年は再整備によって魅力ある河川に変身していることが分かりました。これも地域の人達の熱い思いのたまものでしょう。整備された桜のプロムナードも素晴らしかったですね。今まで歩いた河川の中でもベスト5に入るかも。
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