- 旧江戸川コース
- コース 踏破記
- 東京の三大河川は、多摩川・荒川・江戸川ですね。これに綾瀬川・中川を加えれば五大河川となります。どれも源泉から河口まで踏破するのは私には無理です。荒川には荒川放水路、中川には旧中川という逃げ道がありました。江戸川はというと、これも旧江戸川がありますね。そこで、今日は旧江戸川の区間を歩いてみようと思います。
旧江戸川
旧江戸川は、千葉県と東京都の境界を流れる一級河川で、かつての江戸川本流になります。千葉県市川市稲荷木と江戸川区篠崎町の境界付近にある江戸川の江戸川水閘門から分岐し、江戸川区江戸川付近で新中川を合わせ、都立葛西臨海公園の東側で東京湾に合流しています。旧江戸川は、全区間に亘って千葉県と東京都の境界に位置しています。大正八年(1919年)に江戸川放水路が開削され、それ以降は放水路側が本流とされています。さらに、昭和十三年(1938年)7月に東京東部で発生した浸水戸数6万戸に及ぶ被害の対策として、昭和十八年(1943年)に放水路との分派点に江戸川水門が設けられました。その結果、昭和四十年(1965年)以降は「旧江戸川」という名称となりました。
江戸川区篠崎町といえば、江戸川区花火大会で知られていますね。「エキサイティング花火」ともいわれているように、オープニングの5秒間1,000発打ちは圧巻です。総打ち上げ数は国内最大級の1万4千発といわれています。難点は打ち上げ場所が都営地下鉄新宿線の篠崎駅から離れていて交通の便があまり良くないこと。まあ、花火好きの人にとってはそんなことはどうでもいいですけど。それはさておき、旧江戸川の始点である江戸川水閘門も篠崎駅から同じくらいの距離があります。バスでも行けそうですが、歩いて行くことにします。適当に歩いていたら、篠崎緑地が見晴らせる土手に着きました。広大な河川敷が目の前に拡がります。江戸川沿いの遊歩道はよく整備されていて、何回か歩いたことがあります。その時は旧江戸川を意識していなかったので、どの辺りから本流と分岐しているのか記憶にありません。とりあえず、河川敷に下りて遊歩道を下流に向って歩いて行きます。京葉道路が通る江戸川大橋の下を抜けると、ポニーランドが見えてきます。その名の通り、ポニーと遊べるファミリー向けの施設です。ちなみに、ポニーとは体高148cm以下の小型の馬をいうのだそうです。なんで148cmで線を引くのか分かりませんが。普通の馬は乗りこなすのが大変ですが、ポニーなら子供でも乗れます。ということで、馬場には順番待ちの子供達の長い列ができています。
遊歩道の脇に周辺の名所旧跡を紹介する案内板が立っています。何故か、神社やお寺が多いですね。
篠崎 名所・旧跡おさんぽマップ
- 篠崎ポニーランド (篠崎町3−12−17 江戸川河川敷内)
- 無料で乗馬体験(小学生以下)ができます。馬とふれあってみましょう。
- 無量寺 (北小岩3−5−15)
- 長1尺5寸の阿弥陀如来を本尊とし、慶安二年(1649年)には江戸幕府より、寺領3石4斗の御朱印地を拝領した。
- 六斉地蔵 (南篠崎町9番 新町商店街入口)
- 今から300年ほど昔、徳川綱吉の時代に造られ、江戸川区内でもっとも古い地蔵のひとつである。
- 前川神社 (江戸川1−6−1)
- もと第六天社と称し、旧前野村の鎮守となり、明治九年に前川神社と改称した。
- 当代稲荷神社 (江戸川1−41)
- 創建年代は不詳ですが、当代島村の鎮守であった。
- 豊田神社 (東瑞江1−18−1)
- 旧下鎌田村の鎮守であり、もと神明社といった。明治初期に社殿を建立して「豊田神社」と改称した。
- 南篠崎天祖神社 (南條崎町2−54−15)
- 明治六年に社号を神明大神宮から天祖神社へ改称、上鎌田村の村社に列格した。
- 立木観音堂 (南篠崎町1−349 芦田家屋敷内)
- 明治三十四年3月仏師浅子周慶作、樹齢500余年のケヤキの立木に高さ6mの仏身2.6mの観音像(どういう意味?)、昭和二年に観音堂を建立。
- 大雲寺 (西瑞江2−38−7)
- 元和六年(1620年)浅草森田町に創建、寛文八年(1668年)に本所押上へ、昭和六年当地へ移転したといいます。押上にあったことから、歌舞伎役者の墓所が多数あり、「役者寺」と呼ばれております。
- 春江天祖神社 (春江町2−42−20)
- 旧一之江新田の鎮守、元和二年(1616年)三十番神社として創建。現在の社殿は大正七年の建築である。
- 史跡一之江名主屋敷 (春江町2−21−20)
- 江戸時代の初めにこの地で新田を開き代々名主をつとめた田島家の屋敷。現在の母屋は、安永年間(1772年〜1786年)の再建で季節に応じた様々な催しをおこなっている。
- 谷河内日枝神社 (谷河内1−15−20)
- 慶安二年(1649年)の創建といわれている。江戸時代には谷河内村の鎮守であった。
- 鹿見塚神社 (鹿骨3−1−1)
- 鹿島大神が常陸から大和に向かう途中、供をしていた神鹿が亡くなり、それを葬った塚と伝えられている。鹿骨地名の発祥の社といわれている。(ナルホド、鹿骨街道の名称もそれに由来していたんですね!)
- 浅間神社 (上篠崎1−22−3)
- 天慶元年(938年)5月15日に創建と伝えられ、文化文政の頃から江戸やその周辺からの参詣者でにぎわっていた。
ポニーランドと隣接する広場の先に、江戸川が分岐する陸地の突端が見えます。島のように見えますが、江戸川放水路が開削される前は船橋と陸続きだったのでしょう。
突端の東側(左の写真のAの行徳可動水門方向)に流れるのが江戸川放水路(江戸川本流)、西側(左の写真の@の江戸川水閘門方向)に分岐するのが旧江戸川になります。旧江戸川の始点を分流点である島状の突端とするのか、あるいは少し下流側に設けられている江戸川水閘門とするか迷うところです。公式には江戸川水閘門が旧江戸川の始点となっていますが、私は敢えて島状の突端にします。それでは旧江戸川の歩きを始めましょう。分岐点のすぐ下流側に2ケ所の水門があります。手前側の水門は江戸川水閘門という名称です。「水閘門」って聞き慣れない言葉ですね。ネットで調べてみますと、「水閘門」と「閘門」には違いはなさそうです。ちなみに、「水閘門」とは、「水位差のある水面間に、船舶を通行させるための工作物」と定義されています。私の地図では、江戸川水閘門を「江戸川水門」と表記されています。「水門」の定義は、「潮の逆流防止・洪水など被害をもたらす水の排除・舟運などのために堤防を切り開いて設けられるゲート」だそうです。ひょっとしたら、手前が閘門で奥側にあるのが水門、両方合わせて水閘門というのでしょうか?でも、この水閘門はすぐ先の下流側で隣り合った水門を通ってきた流れと繋がっているように見えて高低差は生じないように思えるのですけど。。。
江戸川水閘門への入口に施設の概要を説明した案内板が立っています。文字が擦れてきていてよく読み取れないのですが、「1枚扉でもくり流出放流」って何でしょうか?
江戸川水閘門施設概要
- 設置場所
- 東京都江戸川区東篠崎地先(旧江戸川河口より上流約9.3km)
- 工期
- 昭和十一年(1936年)6月〜昭和十八年(1943年)3月
- 役割
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- 洪水時に1000立方メートル/Sを旧江戸川に分派させること。
- 異常渇水時に塩分遡上を防止すること。
- 堰上流の水位を確保して、都市用水を安定供給すること。
- 平常時における下流の流量を確保すること。
- 船運の確保をすること。
- 施設概要
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- 水門
- 鋼製全溶接ローラーゲート幅10.6m(純径間10m)扉高5mx5門
5馬力巻上機2基ずつ(昇降速度1m/min)
- 閘門
- 鋼製全溶接ローラーゲート幅13.4m(純径間11m)扉高6.5mx2門
閘室長さ100m 幅16m 巻上機50馬力電動機(昇降速度0.1m/sec)
- その他
- 昭和四十五年〜四十七年に地盤沈下及びゲートの腐食などに対処するため、ゲート及び操作室の改造を行ないました。この改造により5門とも同じ高さまで捲き上げが可能となりました。また3門については従来通り1枚扉でもくり流出放流ですが、2門については2枚扉で越流放流も可能になっています。昭和五十五年の計画の変更により、洪水時の旧江戸川への分派は0となりましたが、行徳可動堰の改築が終了までの間は、暫定運用として旧江戸川にも分派させています。
「閘室長さ100m」ということは、やはり閘門が前後に2ケ所あり、閉じた部分があるということかな?改めて水閘門の写真をチェックしてみたら、確かに前後にふたつの閘門が写っていますね。下流側の閘門は見落としていました。閘門の周辺には葉の生茂った高い木が密集していて、前後の閘門が同じものに見えたんですね。でも水位差が生じるはずはないという疑問は残っていますが。
旧江戸川にはあまり河川敷はなく、堤防上に設けられた遊歩道を歩きます。車道から完全に切り離され、高度差もあるので安心して歩けます。
造船所は海沿いにあるものと思っておられる方が多いと思いますが、川沿いにも小規模ですけど造船所が見かけられます。勿論小型の船舶の修理などを手がけているのでしょうけど、モーターボートなどのプレジャーボートとか需要はあるのでしょうね。
川幅の拡がったところには運動施設も造られています。ここには珍しいローラーコートなる施設もあります。ローラースケート専用のコースって初めて見ました。
大雨の心配が少ない冬の時期は河川の工事が多いですね。遊歩道はこの先の長い区間が護岸工事で通行止めになっています。告知文の中に「武蔵野の路」という言葉が入っています。もう忘れられた幻の路になってしまったかと思っていましたが、今でもちゃんと生きているんですね。なんだか嬉しくなりました。
清掃工場は住民から敬遠されるので区の境界に位置することが多いのですが、江戸川区の場合もご多分に漏れないようです。それにしてもこの煙突、超高いですね。しかも、通常は敷地中央の建屋の中に造られる煙突が正門の直ぐ奥に鎮座しているとはどういう構造になっているのでしょうか?
河岸にマリーナの施設が設けられています。この辺りは川幅が広く、流れも穏やかなので小型船の係留には最適ですね。
旧江戸川は今井橋の先で新中川に合流します。というか、新中川を合わせます。新中川は当初は中川放水路と呼ばれていましたが、一級河川に指定されたのを機に新中川と改称されました。放水路という名前だったことからも分かりますように、新中川は中川の洪水対策として人工的に造られた川です。昭和十三年(1938年)の大雨と昭和二十四年(1947年)のカスリーン台風によって中川の堤防が決壊し、洪水を引き起こしたことから中川放水路の開削が始まりました。多くの家屋等が立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、昭和三十八年(1963年)にようやく完成しました。
旧江戸川に合わさる地点の新中川には、瑞穂大橋が架かっています。橋名の下には稲穂のイラストが添えられています。人口密集地帯の橋に稲穂はちょっとそぐいませんね。橋の上流側には今井水門(今井橋は旧江戸川に架かる橋、新今井橋は新中川に架かる橋、今井水門は新中川河口に設けられています。ややこしいですね。)があります。現在は7門あるうちの4門が稼働中で、残り3門が改修工事のまっただ中です。
旧江戸川の真ん中に中州のように位置する妙見島の手前に立派な水門があります。プレートには新川東水門と表示されています。ここも何回か通ったところですが、この水門は全く記憶にありません。新川は中川と旧江戸川を結ぶ人工河川で、江戸時代には船堀川や行徳川とも呼ばれていました。当初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことでしたが、寛永九年(1632年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになりました。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由して小名木川を通り、江戸に向かうルートは東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になりました。
水門の袂に案内板が立っていました。新川にも曳舟と呼ばれる航法があったんですね。新川は人工の運河として開削されたので、水深が極めて浅く、通常の艪で漕ぐ方法では航行できませんでした。そこで、曳舟と呼ばれる方法が用いられました。1人が前方の川岸で縄を使って船を引き、もう1人が船の横の川岸に立って竿で船を押します。これにより浅い箇所もソリのように引くことが可能になったのです。
雷不動明王石造道標の跡
真蔵院(東葛西4−38−9)の本尊、木造不動明王立像は「波切不動」あるいは「雷不動」と呼ばれ、多くの参詣者を集めました。この地に「雷不動」を示す道しるべがありましたが、平成三年四月に倒壊したため修復して真蔵院の境内に移設しました。道標は雷不動を信仰する「御蔵前」講中によって文政元年(1818年)に建立(再建)されたものです。新川の曳船のとも網をかけた跡が残っています。
妙見島の下流側に東西線の鉄橋が架かっています。鉄橋を渡った先は千葉県の浦安市になります。
江戸川の河口の千葉県側には東京ディズニーランドの広大な敷地が拡がっています。シンデレラ城も遠望できますね。
旧江戸川に架かる最後の橋である舞浜大橋が見えてきました。河口はもうすぐです。
舞浜大橋の下に遊歩道が通っています。ここから葛西臨海公園に抜けれれば簡単に河口に辿り着けるのですけど、残念ながら遊歩道は橋の真下で行き止まりになっています。それならそうと標識を立ててくれればいいものを。
大廻りをして葛西臨海公園内に入ります。河口が見えるところを探してみましたら、展望所のような休息スペースに出ました。対岸のディズニーランドの施設がよく見えます。あのドーム屋根はスペースマウンテン?ホテルの外観はニースにあるネグレスコみたいですね。
葛西臨海公園の東端にやってきました。ここから先は東京湾です。今日は快晴で、海と空が溶け合いそうです。
ということで旧江戸川の歩きを終えました。他の河川と違って少々地味な存在ですが、東京の三大河川のひとつであることには違いありません。川沿いの景色はやや殺風景ですが、遊歩道はよく整備されていますので気持ちの良い歩きが楽しめます。今度、新川も歩いてみなくっちゃぁ。
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