仙川コース(1)  

コース 踏破記  

都内で未だ踏破していない川のひとつに仙川があります。ネットで調べてみますと、新小金井街道に面した貫井北町というところに仙川の上流端を示す標識が立っているとのことです。そういえば、石神井川の源泉とされている鈴木小学校も新小金井街道に面していましたね。奇しくも石神井川の源泉と仙川の上流端が同じ新小金井街道脇にあるというのは何か因縁を感じます。鈴木小学校は私の地図でもかろうじて場所が分かりましたが、仙川の上流端の標識までは地図に載っていません。そういうことで後回しになっていたのですが、未踏破の川も残り少なくなってきたので、遂に仙川に挑戦してみることにします。  

仙川

仙川は都内を流れる一級河川で、多摩川水系野川の支流になります。「せんかわ」と呼ばれることが多いのですが、正式名称は「せんがわ」です。仙川の名称の由来は、かって三鷹市新川丸池公園に丸池という湧水池があり、たくさん水が湧いていたことから千釜と呼ばれていましたが、この千釜という言葉が仙川の由来といわれています。また、流域に仙人が住んでいた伝説からという説もあります。小金井市貫井北町三丁目の新小金井街道直下が仙川の上流端と定められ、東京都による立札が設置されています。ただし、この地点への雨水排除管があり、その流路は道路沿いにサレジオ学園敷地内の庭園まで繋がっています。この上流端を含め、現在の上流部は河川整備によりコンクリート水路になっていて、晴天時の水量は殆どありませんが、かつては畑と薮の中を延々と続く小渓谷を形成し、1960年代までは周囲に湧き水がありました。小金井団地東端の稲穂神社付近には、江戸時代に作られた「築樋」と呼ばれる水路同士の立体交差箇所がありました。昭和初期のある期間、当時「死の水」と称されるほど劣悪となっていた仙川の水質を少しでも緩和するために、砂川用水〜深大寺用水の分水路である小金井用水から水を一定量落としていました。現在では小金井用水も水は流れていませんが、築樋の立体交差は見ることができます。仙川は上流端からおおむね東に向かい、公務員住宅の横を流れて市街地を曲がりながら武蔵野市に入ります。亜細亜大学や桜堤団地の近くを流れ、南に向きを変えて武蔵境駅の少し東でJR中央線の下をくぐり、市街地を曲がりながら抜け、やがて三鷹市に入ります。三鷹市をしばらく流れ、新川天神山青少年広場付近にある樋口取水場から汲み上げられた水が野川宿橋下から放流されます。ここが現在では最初の水源となっています。少しずつ蛇行しながら南東方向に流れて調布市に入ります。少し下流で再び三鷹市の境界に接しますが、そこで三鷹市東部下水処理場の高度処理水が放流されます。水量もある程度のものになったところで、住宅地の広がる緑ヶ丘や仙川町を抜け、国道20号や旧甲州街道と交差して世田谷区に入ります。京王線と交差し、祖師谷公園の中を通り、成城学園の横を流れます。小田急線高架下を抜け、成城の東を流れ、世田谷通りと交差して大蔵住宅の横を流れて東名高速道路と交差します。最終的に、世田谷区鎌田で北西から流れ来る野川に合流します。世田谷区岡本三丁目には堰があり、浄化施設に仙川の水が送り込まれ、ここで浄化された水はそのまま仙川下流に流されるほか、地下導水管により谷戸川と谷沢川にも送水されています。


武蔵小金井駅から貫井北町三丁目まで歩いても行けるのですが、今日は長距離を歩くことになりそうなので、駅北口からバスに乗ることにします。武31というバス路線が貫井北町バス停に停まるみたいです。そこから歩いて仙川の上流端の標識を探すことにします。貫井北町バス停で下車し、新小金井街道を北に向います。なかなか貫井北町三丁目には辿り着けませんね。乗ってきたバスの停留所を幾つか通り過ぎます。どうやら下車するバス停が早過ぎたようです。結局、そのまま乗って「プール前」というバス停で下車すれば、仙川の上流端の標識は目の前だったのです。標識の周囲には案内板などはありません。道路から下を覗いてみますと、住宅と住宅の間に細い水路があり、底にすこし水が溜まっています。川というよりも排水口といった感じです。



住宅の軒先から水路の始まるところを見ましたら、円形の口が開いています。これがサレジオ学園敷地内の庭園まで繋がっているという雨水排水管の出口のようです。かっては、周辺の湧き水などが集まって、この地点から仙川の流れが始まっていたのでしょう。



仙川は上流端付近の住宅を抜けると、直ぐに真新しい建物が建ち並ぶ小金井住宅の中を通ります。でも、水路は完全に干上がっていて水の痕跡は見られません。どうでもいいことですが、50年以上前に発生した府中三億円強奪事件で犯人が乗り換えた車が隣接する公社小金井本町住宅の駐車場に乗り捨ててあったとか。



仙川は本町住宅の東端で一旦道路下に潜ります。道路を渡った先で再び姿を現し、住宅の間を流れていきます。実は、この道路(写真左の奥に植栽が連なっているところ)はかっての小金井用水の築樋の跡を遊歩道にしたのだそうです。そう思うと、確かに仙川の上に小金井用水が立体交差で通っていたことが見てとれます。後で分かったことですが。



本町住宅に隣接する山王稲穂神社の向かいに案内板が立っています。

山王窪の築樋

築樋は、低い土地に土を盛って突き固めて土手を築き、その上を用水路とした土木工法です。この築樋は、元禄九年(1696年)頃、玉川上水から小金井村方面に分水を引くため山王窪と呼ばれる仙川の窪地に築いたものです。全長五十六間(約102メートル)、高さ一丈八尺(約5.4メートル)あったと記録されています。




仙川は開渠状態のまま、水が流れることもなく、空堀となって住宅の間を延びていきます。



北大通り(ホクダイドオリでなくキタオオドオリと読みます)に出ますと、仙川の水路は暗渠となって歩道下にもぐり込みます。歩道の下を仙川が流れているだろうと信じつつ、北大通りを進みます。



北大通りと小金井街道の交差点角に小さな稲荷神社があります。仙川とは関係なさそうですが。

大松木之下の稲荷

この稲荷は、境内に御神木の大きな松の木があったことから名付けられ、「赤稲荷」とも呼ばれていました。境内に五基の石造物があります。右が年号不明の青面金剛庚申塔で、その左が寛政四年(1792年)に地元の上山谷講中が建てた笠付の青面金剛庚申塔です。正面に青面金剛・日月・一鬼・三猿を刻み、江戸時代後期の典型的な庚申塔です。次が享和二年(1802年)造立の石灯籠で、「榛名大権現・大山大権現」と刻まれており、当時の山岳信仰を示すものです。隣の石灯籠は、年代は不明ですが、「前沢村・南野中新田・砂川村・貫井村・梶野新田」等近隣村々の「籠細工講中」が寄進したものです。左の石の祠は、明治七年(1874年)に「大鋸棟梁」(木挽職人)が寄進したものです。籠細工や木挽といった職人組合が寄進した石造物は大変珍しく、この稲荷は地元ばかりでなく、近隣の村々まで広く人々の信仰をあつめていました。




稲荷神社の先で暗渠区間は終わり、再び開渠になって小金井市緑町の住宅街に延びていきます。両側には住宅が密集していて側道はありません。迂回しながら進んでいきます。



やがて仙川はグリーンタウン小金井というURの団地の真ん中を流れていきます。思うに、仙川ほど堂々と幾つもの団地の真ん中を流れている川はないのではないかと思います。団地ができるよりも前から仙川は流れていたのですから、団地を造成する時に仙川の流路をうまく取り込んで建物とか広場を配置したように思えます。



仙川は団地の外れの富士見橋で直角に向きを変え、空堀状態のまま南下していきます。



そのまま進むと、仙川の流路はこんもりと木々が繁った広い敷地の脇を流れていきます。敷地の入口に行きますと、入口の脇に浴恩館公園と書かれた大きな石碑が置かれています。どうやらここは公園のようです。でも浴恩館って何の施設なんでしょうね?案内板を読んでみます。下村湖人って、作家でしたよね?青年館の館長もしていたんですか。

小金井市浴恩館公園

浴恩館公園は、昭和三年(1928年)御大典の際京都で使用された建物を青年修養道場として下賜されたものを多数の青年の奉仕によって移築、皇室の「御恩に浴する」との意味で、「浴恩館」と名付けられた建物を中心に、全国から集まった若者が自給自足をしながら共に人生を語り未来を夢みた生活学校の場であった所を公園として整備したものです。小説「次郎物語」は、下村湖人が初代館長として、若者達の指導に当りながら、この地をモデルに構想を練り、次郎の少年時代を描いたものです。

浴恩館公園の特徴

園内には、規模は小さいながらも、武蔵野の典型的な面影を留め、関東ローム層地域における植生の特徴である「二段林」を構成する貴重なアカマツを中心に、ナラ・モミジ・ツツジなどの老木からなる緑に囲まれ、種々の珍らしい小鳥のきえずりを聞くことができ、今もなお昭和初期そのままの古き良き時代がひっそりと息づいています。




公園の奥に小金井市文化財センターという古い木造の建物を利用した施設があります。せっかくなので中を見学していきましょう。建物中には展示室があり、下村湖人関連の資料と共に、小金井市の歴史も学べるようになっています。

小金井市文化財センター

当館は作家下村湖人が青年団講習所の所長として講習生と語らい、小説「次郎物語」の構想を練った浴恩館を改修して、資料館としたものです。市内の考古資料・古文書・民具をもとに、小金井の歴史・民俗について常設展示しています。




建物の近くには幾つかの案内板が立っています。歌碑が彫られた石碑の横には下村湖人と浴恩館との関わりが説明されています。

下村湖人歌碑

大いなる道といふもの世にありと 思ふこゝろはいまだも消えず 湖人

教養小説「次郎物語」の作者として知られる下村湖人の本領は教育者であり、同郷の盟友田澤義鋪の招きに応じ浴恩館にて青年教育に尽力しました。湖人は優れた歌人でもあり、千五百首以上の短歌を残しています。この歌は、昭和二十九年(1954年)十月三日、古希の誕生祝いの席で詠まれた湖人最晩年の一首です。「大いなる道」とは田澤義鋪と共有した理念であり、人類の大道をあらわしています。当時病魔と闘い自由に動かない手で筆をとったといわれ、翌三十年四月、湖人は71年の生涯を閉じました。昭和三十二年(1957年)、湖人と活動を共にして来た新風土会会員の手により、ゆかりの地「空林荘」の前に歌碑が建てられました。




敷地の一画に礎石だけを残した建物の跡があります。火災によって焼失したそうですが、原因不明とのことです。敷地の奥まったところに建っていたので、消火作業は困難だったでしょう。木々が密集していたのに浴恩館に延焼しなかったのがせめてもの幸いです。

市史跡 空林荘

この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和五年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884年〜1955年)は、昭和八年から同十二年まで講習所の所長を務めました。空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた湖人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和二十九年に発表された第五部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成二十五年二月に焼失しました。




公園には小さな池があり、周囲にはツツジも植えられています。今やコリアンタウンと化した大久保にもツツジ園なんてあったんですね。

市天然記念物 浴恩館公園のツツジ群

この園内にあるツツジ群は、昭和五年浴恩館開館に際し、豊多摩郡大久保町(現新宿区大久保)にあったツツジ園から移植されたものです。いずれも枝葉を茂らせ、なかには高さ3メートルにもおよぶものもあり、近郊まれに見るツツジ群をなしています。種類はキリシマツツジを主とし、その他オオムラサキ・シロリュウキュウ等を交えています。




仙川が他の河川と異なる一番の点は、上流部において流路が直線あるいは蛇行しないでクランク(桝形)状に曲っている箇所が異常に多いことです。明らかに自然に形成された流路ではなく、人工的に造られた形状です。碁盤の目の街路に合わせるために流路を造ったのでしょう。運河は別にして、直角に曲る川は珍しいので写真をバチバチ撮っていたらとんでもない枚数になりました。仙川改め千桝川にしましょう。



そんな直角に曲った流路の角に猿田彦の神を祀った小さな祠がありました。恵比寿に猿田彦珈琲というお店がありますね。私はてっきり創業者の名字が店名になったのではと思っていましたが、伊勢神宮の隣りにある猿田彦神社が店名の由来だそうです。猿田彦神社の主祭神である猿田彦大神は「みち(道)ひらき」の神様だそうで、進むべき道を切り開いてくださる、転じてお店が発展することに通じるから店名にふさわしいということかもしれません。仙川に何か関係あるかなと思ったのですが、全く無関係のようです。

庚申さま(猿田彦の神)

庚申さまは猿の信仰と結びつき道祖神と称される。悪霊が村へ侵入するのを防ぐために村の入口に庚申塔として建てられる。この市杵嶋神社の入口に建てることにより、邪鬼から神社をお守りしている。




祠の近くに、「歴史とみどりの散歩道コース」と書かれた案内の石碑が立っていました。石碑は梶野通りに面していますが、この通りの名称はこの近くを流れていた梶野分水に因んで付けられたものと思われます。



こんもりと繁った木々の中にさりげに案内板が立っていました。注意して見ていないと見逃してしまいそうです。築樋の跡は明確にはわかりませんでしたが、暗渠を思わせるコンクリートの蓋らしきものが落ち葉に覆われていますので、ここに築樋が通っていたのかもしれません。

梶野分水築樋

築樋は、窪地や川を越して水を流すために低地に土を盛ってつき固めて土手を築き、その上を用水路としたものです。梶野新田の開発にあたり、飲み水や農業用水に困った新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう享保十年(1725年)頃から再三幕府に願い出ましたが、享保十七年(1732年)に梶野分水が許可され、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ約230メートル・高さ約4メートル)が造られました。また、本町五丁目の山王稲穂神社付近にも築樋があります。梶野分水は、明治三年(1870年)に上流の砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸び、深大寺用水とも呼ばれました。なお、南に続く分水路は「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠(トンネル)になっています。




仙川はマンションが建ち並ぶ通りに沿って流れます。というか、水は川底にほんの少し溜まっているだけですが。仙川の土手には桜の並木が続いています。とあるマンションの前で右に折れ、公園の中を流れます。桜堤公園という名前ですが、春には満開の桜の下でマンション住民の大お花見の会が開かれることでしょう。



桜堤公園の先にはURのサンヴァリエ桜堤団地が拡がっています。ここでも団地の中を仙川が流れ、自然を活かした仙川水辺公園が造られています。

仙川水辺公園

この広場は仙川と一体的な整備を行い、自然生態系に配慮した広場づくりを行っています。広場には「水辺の植物のエリア」・「草地のエリア」・「雑木のエリア」をつくり、いろいろな生き物の生活の場となることを目指しています。どのような植物・生物が生活しているか観察してみて下さい。




仙川水辺公園を出たところで仙川は南方向に直角に曲がります。更に亜細亜大学の角で再び直角に曲がり東方向に向きを変えます。正にクランク状の流路です。ここから先、仙川は住宅地や畑の中を通り側道はありません。



公団通りに迂回し、都立武蔵高等学校の前を通って武蔵野二小入口交差点で右折して武蔵境通りを南下します。仙川は亜細亜大学の先は住宅地や畑の中を通っていて側道がなかったので、所々で仙川の流路を確認していたのですが、武蔵境通りに出るまで側道は見つかりませんでした。ところが、武蔵境通りで仙川の流路を一旦見つけたものの、そこで開渠区間は突然終わってしまいます。そこから先は暗渠区間となり、流路がどういうルートを辿るか見当もつきません。住宅地の路地を彷徨いながら流路を探していたら、昔の橋の跡っぽいコンクリートの残骸が目にとまりました。その先の境一丁目16番地のマツキヨと22番地のマンション(アパート?)の境界に仙川が姿を現しました。遂に仙川の流路を発見!と思ったら、その先やはり側道はありません。また迂回します。



中央線の高架の前まで来ましたが、仙川の流路は見えません。多分、中央線の高架下を暗渠となって流れているのでしょう(実際は中央線の直ぐ南側で開渠区間が再開し、日本獣医生命科学大学の渕に沿って流れていたのですが)。その先も側道はなく、新武蔵境通りまで迂回し、南下して仙川の流路を探します。



新武蔵境通りは真新しく、広い幹線道路です。上連雀一之橋南交差点の手前で仙川の流路を見つけました。でもそこから東側は再び住宅地の中に吸い込まれ、側道はありません。ちなみに、上連雀一之橋は上連雀地区を流れる仙川に架けられた橋の一番目に当たります。二之橋・三之橋と続き、十之橋まであります。よっぽど橋の名前を付けるのが面倒だったのでしょう。



やむなく、新武蔵境通りを連雀通りと交差する塚交差点までさらに南下します。随分と仙川から離れてしまいました。連雀通りに入って直ぐに北に向って仙川まで戻ります。でも、上連雀地区は南北に路地はあるものの、東西にはなかなか進めません。行き止まりに突き当たっては戻り、別の路地に行っては仙川から遠ざかりを繰り返し、ようやく上連雀十之橋まで辿り着きました。もうヘトヘトです。



上連雀十之橋の先で仙川は途切れますが、そこに何やら河川施設らしきものがあります。どうも、仙川はここから暗渠区間に入るようです。



施設の先の路地を抜けますと、三鷹通りに出ます。交差点の標識には三鷹第三小学校東と表示されています。今日はこれ以上歩く気力はありません。三鷹駅にも近いことだし、今日の歩きを終えることにします。開渠と暗渠、消えた流路、それにクランク状の流路を繰り返す仙川の上流部を歩くのは結構疲れます。下流区間はもちょっと自然な川らしい姿であることを期待しつつ家路につきます。






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