- 仙川コース(2)
- コース 踏破記
- 今日は昨日に引き続き、仙川の後半区間を歩きます。昨日の中断地点である第三小学校東入口交差点にやってきました。さて、ここからが問題です。私の地図では三鷹市は2万分の一の縮尺になっています。交差点の手前の路地で途切れた仙川の流路が再び開渠となって姿を現すのは下連雀七丁目辺りです。その間は暗渠になっているものと思われますが、どう繋がっているのかは地図から読み取れません。とりあえず、三鷹通りに沿って南下することにします。
400mほど歩きますと、禅林寺というお寺の横を通ります。境内には玉川上水に入水した太宰治の墓があります。鴎外を尊敬していた太宰自身の希望により、墓は元あった寺院の被災により同寺に移転してきた森鴎外の墓の向かいに建てられました。その禅林寺の隣には社地一万坪の八幡大神社が鎮座しています。明暦三年(1657年)の明暦の大火(振袖火事・丸山火事とも呼ばれています)の後、神田連雀町(現・千代田区神田須田町・神田淡路町周辺)の住民が代替地としてこの地への移住を命じられ、新田開拓して下連雀村となりました。その後、下連雀村の名主達が氏神社の創建を幕府に願い出て許可され、八幡大神社が創建されました。
八幡大神社は八幡前交差点に面しています。三鷹通りをそのまま南下するか、少し東側の路地に入って仙川の開渠区間が始まる地点を目指すか思案のしどころです。結局、八幡前交差点の少し左側の路地を進むことにしました。暗渠の上に造られたと思われる煉瓦敷の歩道を進みますと、直ぐに民家で行き止まりとなります。
仕方がないので、もう一度八幡前交差点に戻り、三鷹通りを南下します。三鷹通りの歩道は煉瓦鋪装となっていて、何となく暗渠の上に造られたような感じです。仙川の開渠区間が始まりそうな位置で路地に入ります。路地の歩道も何となく暗渠の上を通っている感じです。
路地を進んだ先に仙川の開渠区間が姿を現しました。地図で示された番地と一致します。やっと仙川を歩けると思ったら、川の両側には建物が接していて側道はありません。やむなく、回り道をして側道のありそうな地点を探します。
三鷹通りを大成高前交差点で左折し、山中通りを東に進みます。住居表示案内図を見て、細い路地に入り都営下連雀七丁目第三アパートの裏手に入りますと、大成高等学校の裏側を流れてきた仙川が目の前で直角に向きを変えています。案内図を見ても、この先連続的にクランク状(鍵型状)に曲って流路が続く仙川が見てとれます。
都営アパート横の小公園の先でも、早速仙川がクランク状に流路を変えています。もし仙川が増水して濁流が流れてきたら、直角に曲った地点では絶対川の水が溢れることでしょう。
あちこち回り道をしても、なかなか仙川の側道は現れません。と、ここであることに気が付きました。上連雀の区間では上連雀一之橋から上連雀第十二之橋まで綺麗に連番で番号が振られていたのですが、下連雀区間では開渠区間が始まった最初の橋の名前が下連雀七之橋、どんぐり橋、若葉橋、下連雀九之橋、美明橋、下連雀三之橋、南浦橋と続きます。順番が途切れていたり逆転したりしていますね。何か理由があるのでしょうか?
クランク状の人工的な流路を巡り巡って、ようやく自然な流れの仙川が始まります。仙川は野川宿橋の下流から川らしい流れとなり、遊歩道も整備されています。野川宿橋が仙川の開始点と言う人もいます。左の写真が上流側、右の写真が下流側になります。両者を見比べば、その主張もあながち間違っているとはいえないでしょう。
野川宿橋の袂に案内板が立っています。橋の下を見ますと、河川敷から水が噴き出しています。大した水量ではありませんが、仙川の流れに多少寄与しているように見えます。
仙川遊歩道 清流と緑に憩う水辺の散歩道 野川宿橋
仙川には、勝渕神社付近より下流に豊富な湧水群があります。この橋の下よりわき出ている水は、水の少ない上流部の清流復活のため、水循環施設によって「仙川樋口取水場」よりここ野川宿橋まで約1.6kmをポンプにより送られてきているものです。仙川が市民の皆様にとって憩いの場であるとともに、水鳥や魚たちも安心して棲めるよう、川を守り育てましょう。
野川宿橋より下流の仙川の両側には遊歩道が整備され、植樹も多くて歩きやすいです。水量は多くはありませんが、上流に比べれば川の体裁は保っています。
晩秋の季節でもあるのでしょうけど、川の中には野鳥が羽を休めています。この鳥は海外から飛来して来たのでしょうか、それとも居心地がよくて住み着いたのかな?
紅葉が里に下りてきています。この3本の木は色のコントラストが素晴らしいですね。
三鷹市に新川島屋敷通りという道路があります。新川は地名ですが、島屋敷というのは何かいわれがありそうです。前から気にはなっていたのですが、その由来は分かりませんでした。柴田勝家の孫の勝重が住んだ屋敷跡だったんですね。丸池の里に鎮座する勝淵神社は通りすがりにちょっと立ち寄ったのですが、由来を詳しく読んでいれば兜塚を探したでしょうに。丸池公園にはかって丸池という湧水池があり、千釜とも呼ばれ、文字どおり釜の形のように川床に大きな湧水の吹き出し口が多数あったそうです。仙川の名前がこの「千釜」から由来しているとも言われています。湧水池は埋め立てられて現在では存在しませんが、復活計画が進められているとか。仙川にとっては大事な起源の話なので、せめて丸池の跡地でも見ておけばよかったとは後になって思ったことです。事前の調査が不十分でした。
勝淵神社はたまたま目に入ったので写真に撮りました。「勝淵神社由来」と書かれた立派な石碑も撮ったのですが、文面はよく読んでいませんでした。そんなに由緒ある神社なら境内も見学させてもらうんだったなぁ。
勝淵神社由来
天正十一年(1583年)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄城に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与え郎党を供に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才にして元服、柴田三左衛門勝重と名乗る。慶長四年(1599年)徳川家康は勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち二千石を与える。慶長五年(1600年)勝重は関が原の戦いに初陣、更に慶長十九年(1614年)大阪冬の陣、翌元和元年(1615年)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により武蔵国多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百石を加増される。上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋敷)に陣屋敷を建て住居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立し、その傍らに祖父勝家公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊として祀り社号を勝淵大明神とした。以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く、代々の氏子会により護持されている。
兜塚
兜を鎮めた場所は兜塚と称し、神社縁りの史跡として保存されていたが、戦後の一時期荒廃した為、これを憂えた氏子の熱意により、昭和六十三年(1988年)、現在の兜塚が再建されたものである。
「柴田勝家兜埋納伝承地」と書かれた案内板もあったのですが、神社敷地の高い場所に掲示されていたので、こちらも文面をよく読みませんでした。写真には撮ったので、後付けで内容は分かりましたが。
柴田勝家兜埋納伝承地(勝淵神社境域)
織田信長の重臣であった柴田勝家の兜が、孫勝重によってこの地に埋納されたとの伝承を裏付ける史料は、天明5年(1785年)の紀年銘がある柴田勝家位牌奉安添状(春清寺所蔵)をはじまりとします。この伝承は「新編武蔵国風土記稿」[文政十一年(1828年)編纂]にみられるように江戸時代を通じて継承されたものと考えられ、また少なくとも戦前までは口承によって伝えられていたことが、文献や聞き取り調査によって確認されています。
柴田勝家位牌奉安添状
(大坂冬の陣の)戦闘の状況を元和元年(1615年)に勝重君を召して聞くと、大坂城の桜門での戦闘で多くの軍功を挙げており、これによって武蔵国仙川郷を加増された。そしてその場所に遠祖である勝家君の兜を以って配った。これが今の勝淵明神である。
神社境域内に残される幟や絵馬等の奉納物は、この地が地域の祭礼の場であると同時に、柴田勝家兜埋納の伝承地として地域住民の崇敬の対象となっていたことを裏付けています。このように勝淵神社及びその境域は、柴田勝家の兜を埋めたという著名な伝承地であり、江戸時代以降上仙川村(現新川・中原地区の一部)の鎮守として、地域の厚い信仰を集め、また祭礼の場としての長い歴史を有しています。このため神社の境域全体が市域に残る稀希有な伝承地として史跡に登録されました。
仙川公園の中にはひときわ巨大な木が立っています。周囲は低い灌木ばかりの見晴らしのよい場所なので、その大きさが余計に目立ちます。複数の木が集まって1本の木に見えるのかもしれませんが、昔テレビのCMに出てきた「日立の樹」とよく似ています。日立の樹は、ハワイ州オアフ島「モアナルア・ガーデン」にあるモンキーポッドだということですが、この木もとても印象に残る巨木(群)です。
左側の写真が仙川公園の巨木、右側の写真がモアナルア・ガーデンにあるモンキーポッドです。
仙川は中央自動車道の高架下を流れます。この付近は三鷹市と調布市の境界が入り組んでいるところです。仙川はこの先少しの区間両市の境界線となります。
清掃工場と下水処理場は地元民から敬遠されがちなので、自治体の端っこに置かれることが多いようです。調布市が仙川を越境して三鷹市側に食い込んだちょっと先で再び三鷹市の境界が仙川まで押し戻します。そこに三鷹市東部水再生センターがあります。そういう葛藤は別にして、この水再生センターは仙川の清流を取り戻す上で重要な施設です。再生された水は仙川に放流され、水量の増加と供に清流の復活にも貢献しています。ちなみに、再生センターの対岸にはお嬢様学校で知られる白百合女子大の敷地が拡がっています。最近、将棋の対局で解説を担当する美人棋士の山口恵梨子女流二段も白百合の卒業生だとか。道理で所作が上品!
仙川は国道20号甲州街道と交差します。ここに架かる橋は仙川橋となっています。近くの駅の名前も仙川駅です。仙川は「せんがわ」と読むようですが、仙川橋は「せんかわばし」、千川駅は「せんかわえき」と読むとのことです。入間川を「いるまがわ」と呼んだり、「いりまがわ」と呼んだりするのと似てますね。
甲州街道の少し先で仙川は京王線の高架下を流れます。普通だったら遠くの踏切を渡って迂回するところですが、京王線の場合は親切にも高架下に人道のトンネルを通してくれています。歩行者には大助かりです。
仙川には沢山の橋が架かっていますが、祖師谷中橋はかなりユニークな外観をしています。この祖師谷中橋は人道橋で車は通れません。平成四年に架け替えられた際に世田谷区で計画された「仙川6橋の橋作りプロジェクト」の一つとして架けられたとのことです。まぁ、人道橋なのでこのようなデザインも受け入れられたのでしょう。ガラスブロックのアーチは急な雨が降った時に雨宿りになる?私なら走って家に帰りますけどね。
仙川は祖師谷公園の中を流れていきます。遊歩道の傍らには桜の並木が続いています。
里帰りの桜 −ワシントン桜−
「ワシントン桜」は、明治四十五年(1912年)尾崎東京市長が、足立区の荒川堤に咲き誇っていた五色桜から接穂を採取して養成した12種3000本をワシントンに贈ったものである。ワシントン市に到着した桜の苗はポトマック公園に、時のタフト大統領夫人臨席のもとに植樹された。その後桜は「タフト桜」とも呼ばれ、現在も見事な花を咲かせ、世界的な桜の名所となっている。この「里帰りの桜」は平成二年(1990年)にポトマック公園の桜(ソメイヨシノ)を実生より育てた苗木を80年目の里帰りの桜として財団法人日本さくらの会から寄贈され、本委員会の創立40周年記念事業として、世田谷区の協力のもとに、植樹したものである。
仙川は小田急線の高架下を流れます。その手前には成城学園があります。成城学園には幼稚園・初等学校・中学校高等学校・成城大学・大学院と、保育園以外は全て揃っています。敷地も仙川の両側に拡がっています。仙川の遊歩道から見ると学園の裏側に当りますが、成城池なるものもありますね。ややドブ池っぽい気もしますが。
仙川を跨ぐように成城学園内の連絡通路が設けられています。川を挟んで学校の敷地が続くという形態は珍しいですね。成城学園から歩いて4分のところには小田急の成城学園前駅があります。都内有数のハイソな街として知られていますね。松田聖子さん・中村雅俊さん・加山雄三さん・浜田雅功さん・薬丸裕英さん、かっては平塚らいてう・水上勉・柳田国男・石原裕次郎・大江健三郎・大岡昇平・横溝正史なども住んだとか。そういえば、大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞された時に、自宅の敷地の中から生け垣越しに取材に応じていました。成城住民による紳士協定の成城憲章では、国分寺崖線が位置する自然が豊かな高級住宅街の景観を守るため、塀ではなく生け垣を推奨しているそうです。
遊歩道の脇に「仙川(せんかわ)の由来」を書いた案内板が立っていました。この案内板では仙川を濁らずに「せんかわ」と表記しているようです。ローマ字表記も添えてありますので、劣化で「が」の「”」が消えたということはなさそうです。
仙川(せんかわ)の由来
従来の仙川の水源であった勝渕(淵?)神社前の丸池には、釜の形をした湧出口がたくさんあり、千釜と呼ばれました。また、「武蔵国名勝図絵」によると湧泉のことを釜といい、その数が多いことから千釜と呼ばれたともいいます。この千釜がなまって、仙川といわれるようになったといわれています。また、一部には、このあたりに仙人が住んでいたので仙川という、とする説もあります。なお、河川環境の向上を図るため、東京都(いこいの水辺整備事業)と世田谷区(水際の散歩道事業)で一体的な整備を実施しています。
仙川の川沿いには何故か映画・テレビの撮影所が多く立地しています(いました)。成城一丁目には東宝スタジオがあります。国内の撮影スタジオでは最大規模だそうです。約8万uの敷地内に撮影用ステージ10棟があるそうですが、正門からはそんなに広そうに見えませんでした。黒澤明監督の映画も殆どここで撮影されていたとのことです。日本映画全盛期の当時は活況を呈していたんでしょうね。
仙川の遊歩道はよく整備されています。この案内板は500mおきに設置されていて、橋から橋までの距離とか仙川の周辺情報も掲載されています。ゴールの鎌田橋までは未だ少し距離があるようです。
仙川は荒玉水道道路・世田谷通りと交差します。荒玉水道道路には大蔵水道橋が架かっています。橋の隣には巨大な水道管がむき出しのまま仙川を跨いでいます。荒玉水道道路を歩いたのは8月下旬の残暑の時期でした。はや晩秋。。。
世田谷通りに架かる大倉橋を渡ったすぐ対岸に大きな仏像が背中を見せています。妙法寺というお寺裏の墓地にある「おおくら大佛」だそうです。正確には「久遠大仏」といいます。「回転する」ハイテク大仏として知られ、平成6年(1994年)秋に完成した、高さ8m・重さ8トンのブロンズ製です。午前9時から午後5時までは南に位置する本堂の方を向いていますが、参拝者が近づくとそちらに向きを変えます。午後5時になると北側の世田谷通りを向くようにゆっくりと180度回転します。妙法寺の裏手は切り立った崖になっていますので、世田谷通りからも大仏を見ることができます。私が通りかかったのは昼間だったので背中しか見えませんでしたが、180度回転すると右側の写真のように見えた筈です。
右側の写真が正面から見た大仏です。
仙川は東名高速道路の高架下を流れます。丸子川を歩いた時に源流を求めてさまよったところです。
平行して流れる丸子川と水神橋で別れると、仙川が野川に合流する地点に架かるゴールの鎌田橋に到着します。現在は橋の架け替え工事中で合流地点はよく見えません。橋脚の間から見えるのが野川の流れです。
ということで、仙川の下流区間を歩き終えました。思ったよりも時間がかかりましたね。上流区間では消えた流路に翻弄されましたが、下流区間では遊歩道が整備されていたので迷うことはありませんでした。玉川上水・野川・仙川と東京西部の三大河川を歩いたので、残るは多摩川です。多摩川はルートには迷わなさそうですが、三大河川よりは距離があります。歩くのが楽しみです。
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