- たまリバ−50キロコース(1)
- コース 踏破記
- 都内に残っている私が歩けそうな河川は残り少なくなってきました。辺境部には未だ多くの河川がありますが、都心からの行き帰りが大変で私には無理そうです。というところで、「東京の河川を歩く」を完結する前に、残った大物にチャレンジしてみようと思います。「残った大物」、それは多摩川です。多摩川の源流点は、山梨県甲州市塩山に位置する笠取山の山頂直下の南斜面下「水干」と言われています。但し、多摩川と呼ばれているのは奥多摩湖の湖水の出口である小河内ダムより下流からです。「都内の河川を歩く」の定義からすれば、小河内ダムから歩き始めるのが正しいのでしょうけど、そこまで辿り着くには青梅線の終点である奥多摩駅から更にバスに20分も乗らなければなりません。トレッキングならまだしも、お散歩気分で行けるところではありません。何か代替策はないかと調べてみたら、以前「武蔵野の路」で多摩川を歩いた際に見かけた「たまリバー50キロ」の案内板を思い出しました。その時は全コースを歩くことなど考えてもいなかったのですが、玉川上水を歩いた時に、羽村堰でも同じ案内板を見つけ、「東京の河川を歩く」でも歩いてみたいなと思っていました。ただ、距離が距離だけに、実際に歩くことは躊躇していました。本来ならば昼間の時間が長い夏の時期に歩くのが余裕があっていいのでしょうけど、冬至が近いとはいえ、計画をうまく立てれば今の時期でも日没までに歩き終えることは不可能ではなさそうです。ということで、明日から師走という11月30日に遂に決行と相成りました。
たま リバ−50キロ
「たま リバー50キロ」は、都民の健康づくりを目的として、多摩川の河川敷等に設けられた約53kmの連続したコースです。平成20年(2008年)5月、東京都都市整備局は多摩川の東京都側(左岸)で「ウォーキング・ランニング・散策などが楽しめるよう、羽田から羽村までのおよそ50キロメートルの区間に案内表示施設の設置や案内マップの作成などを検討する」と発表し、このコースの名称を公募しました。この公募には487件の応募があり、7月に入選作として、「たま リバー50キロ(Tama River 50km Course)」が選定されました。コースは、多摩川に沿って大師橋緑地(大田区本羽田三丁目)から羽村取水堰(羽村市玉川一丁目)までの区間に設定されました。コース名は50キロとなっていますが、実際の距離は53kmです。これは、名称を一般公募したときに50kmと発表したために、これがそのまま引き継がれたものと思われます。尚、「たまリバー50キロ」と表記されることが多いですが、公式には「たま」と「リバー」の間に空白が入ります。
東京都キ市整備局のHPには、羽村取水堰から大師橋緑地までのたまリバー50キロの全区間に渡っての詳細なコースマップが公開されています。玉川上水と違って、基本的に多摩川の河川敷や土手上の遊歩道を歩くので道に迷うことはありません。コースマップには経過距離や最寄りの公共交通機関へのアクセス方法も図示されていますので、事前に計画を立てる上でとても参考になります。コースマップによりますと、大師橋緑地をスタートポイントとした場合、余裕をみて東横線の多摩川駅に近い丸子橋辺りを一日目のゴールとした方が良さそうです。頑張れば二子玉川駅横の二子橋まで行けるかもしれません。
左側のマップは大師橋緑地から丸子橋まで、右側のマップは丸子橋から二子橋までです。
京浜急行の大鳥居駅に降り立ちました。たまリバー50キロコースの始点(終点でもある)となる大師橋緑地に行くには産業道路を経て、多摩川の土手を上流方向に進みます。河川敷は草木が生い茂っていてとても歩けません。開けた河川敷が見えたところに案内板が立っていました。「大鳥居駅まで1.2km」と書いてあります。駅から結構歩きましたもんね。土手の上は本格的な舗装がされている遊歩道になっていて、よく整備されています。歩道の脇に「海から3K」の標識が立っています。ここで言う「海から・・・」の基準点は、多摩川右岸に設置された川崎区殿町の水位観測所となっています。では左岸(東京都側)ではどうやって距離を測るのでしょうか?なんでもソラムナード羽田緑地近くの護岸上に「0.0k」の標識があるみたいです。私は「武蔵野の路」の起点となった弁天橋近くの海老取川が多摩川に合流する地点だとばかり思っていました。「たまリバー50キロ」の実際の距離は53km、河口から3kmの大師橋緑地がスタートポイントということで、この「3km」の違いが歩いている途中で残り距離を算出する際に頭が混乱する原因となりました。
たまリバー50キロコースのスタートポイントが案内板のある堤防上の遊歩道の地点になるのか、あるいは河川敷のどこかになるのか判断がつきません。とりあえず、近くの階段を下りて河川敷に何か標識がないか探します。すると、階段下に大きな石が置いてあります。明らかに自然の岩ではありません。石の上には何かが書かれたような痕跡は見られますが、表面がはげ落ちていて何が書かれていたのか判別できません。ひょっとしたら、これが「たまリバー50キロ」の標識かも?いやいや、単なる大師橋緑地の銘板?周囲の河川敷を見渡しても、この石の他には標識らしきものは何も見当たりません。仕方がないので、この石碑を「たまリバー50キロ」のスタートポイントと決めます。
多摩川を歩いてみて感じたのは下水処理水などを排水する水門と、「・・・の渡し」の数の多さです。最初に出会った水門は、「六郷ポンプ所排水樋管」です。正確に言えば、水門ではなく樋管(または樋門)となります。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に堤防の中をトンネルのように通り抜けるものが樋管(または樋門)で、堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合は水門となるからです。なので、多摩川には数多くの「排水樋管」が設置されているという言い方が正しいです。排水樋管の先の泥地には沢山の水鳥が集まっています。よほど栄養に富んでいるんでしょうね。
六郷水門は排水樋管ではなく、れっきとした水門です。しかも、その外観は年代を感じさせる古風な造りになっています。水門の内側には船溜まりとなる水路があり、今でも現役で使われているようです。
六郷水門は江戸時代に開削された六郷用水の支流の水も排水していましたが、六郷という名前が冠されているのは六郷用水に由来するのではなく、単に付近の地名が六郷ということもあったのでしょう。
六郷水門
多摩川下流部は明治から大正にかけて度々高潮や洪水の被害を受けていました。これらの災害を契機として、内務省直轄の多摩川改修工事が大正七年度(1918年)から昭和八年度(1933年)までの16ケ年継続事業として行なわれ、この築堤工事に伴って六郷水門が施工され、昭和六年(1931年)3月に完成しました。それ以降下水道が普及するまで、六郷用水の末流をはじめとして、六郷や池上・矢口・羽田の一部の地域の生活用水の排水を処理していました。洪水時にはゲートを閉じて多摩川からの逆流を防止する役割も果たしていましたが、現在では閘門としても利用されています。堤内地の舟だまりはかつて舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれた頃の雰囲気を伝えています。
大師橋緑地を出発してから最初の橋が見えてきました。多摩川に架かる橋は沢山ありますが、六郷橋は河口から数えて2番目の橋になります。最初の橋は産業道路が通る大師橋です(正確には、首都高横羽線が通る「高速大師橋」も架かっていますが)。六郷橋は大師橋より上流に架かっていますが、方角的には最南端となります。これは、多摩川が六郷橋より下流で東北東に向って流れているからです。江戸時代、六郷は東海道が多摩川を横切る要地であったために、慶長五年(1600年)に徳川家康は六郷大橋を架けさせました。当時、六郷大橋は千住大橋・両国橋と共に江戸の三大橋と呼ばれましたが、貞享五年(1688年)に発生した洪水以降、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられました。
六郷橋の少し上流には、京浜急行多摩川橋梁(476m)・東海道本線と京浜東北線の六郷川橋梁(519m)の3本の鉄橋が架かっています。橋長は長いのですが、通常はその大半の区間が河川敷になっています。河川敷は駐車場になったり運動場になったりと、あまり鉄橋を感じさせません。
多摩川には多くの区間で遊歩道が2種類あります。土手の上の鋪装された遊歩道と、河川敷に設けられた未舗装(一部簡易舗装はされていますが)の遊歩道です。案内板は殆どが土手の上の遊歩道脇に立っています。最寄り駅への道順とかトイレの場所とかがマップ上に分りやすく図示されています。
その隣りに武蔵野の路の案内板も置かれていました。河口から丸子橋までの多摩川最下流の区間は六郷コースになっていて、10年ほど前に歩きました。記憶は大分薄れていますが、景色は何も変わっていない感じがします。
六郷コースの概要
このコースは多摩川の河口から大田区田園調布丸子橋までの多摩川左岸約11.1kmの平坦な路です。コースの大部分は広大な多摩川の景観を楽しめるサイクリングコースとして整備されています。河川敷きは大規模なスポーツレクリエーション施設として利用されているほか、六郷の渡し跡、矢口の渡し跡などの史跡が点在しています。
多摩川の渡し
暴れ川の多摩川は橋を架けることがむづかしく、記録に残るものだけでも、38の渡しがあった。時代とともに主要な街道のルートも変わり、渡しにも盛衰がある。東海道の六郷の渡し、鎌倉街道の矢口の渡し、日光街道拝島の渡し、相州往還登戸の渡し、大山道二子の渡しなど諸街道の渡しも栄えたが、他に農民が対岸の農耕地に行く作業渡しも数多くあった。多摩川の主要な渡しの多くは、第二次大戦前後まで使用され、最後まで残ったのが昭和四十八年まで利用された菅の渡しである。
案内板には多摩川に38の渡しがあったと記されていますが、その最下流に位置していたのが六郷の渡しです。河川敷に何か案内板でも立っていないかと探しましたが見当たりません。こんな時はスマホの出番です。ネットで調べますと、河川敷ではなく、土手下の神社の境内に案内板が立っているとのこと。見渡すと、神社のような建物があります。土手を下りて神社に向います。神社の入口には立派な鳥居があり、神額には北野天神と記されています。鳥居の脇には「止め天神」と彫られた石柱が立っています。八代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたことから、東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称されるになったのが「止め天神」の名の由来です。災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願する人達が参拝するそうです。
境内の隅っこに「六郷の渡し跡」の案内板が立っていました。どうして遊歩道の脇でなく、神社の境内に置かれているのか不思議です。
六郷の渡し跡
「六郷の渡し」は、八幡塚村と川崎宿を結ぶ多摩川の渡しで、旧東海道における江戸の玄関口として、交通上極めて重要であった。中世末から近世初頭にかけて何度も架橋されたが、貞享五年(1688年)の洪水で流失してから明治になるまでは、橋をかけず渡船が利用された。渡し場の様子は、歌川広重の浮世絵や「江戸名所図会」などの地誌叢書類によって知ることができる。明治七年(1874年)、地元八幡塚村の篤志家鈴木左内によって木橋がかけられ有料で通行させていたが、その後も数次の流失にあった。近代的なコンクリート造の六郷橋ができたのは、大正十四年(1925年)であり、昭和五十九年(1984年)、現在の橋に架け替えられた。
遊歩道のところどころに休息所が設けられています。屋根の部分には木の枝がかかっていて、夏には日陰になって涼しそうです。自販機でも設置してあれば尚いいのですけど。
広大な河川敷にはテトラポットも山積みされています。六郷橋から上流の京急とJRの鉄橋付近は六郷テトラ地帯とも呼ばれていて、手長海老などの釣り場になっているのだそうです。増水時には治水、平常時には釣りと、いろんな面でテトラポットは貢献しているのですね。
多摩川は西六郷辺りで大きく蛇行して流れています。川が流れる方向を変えるところでは、当然のことながら増水時に水の圧力を受けます。従って、堤防はより頑丈にしなければなりません。この辺りは堤防も堤防沿いの道路も真新しく、昔から継続的に護岸工事が行なわれていたようです。
その経緯を記した案内板が立っていました。
治水の歴史を伝える史跡(伝統工法の杭出水制)
かつての多摩川は「あばれ川」で、大雨が降るたびに氾濫、出水をくりかえしていました。とりわけ、ここ西六郷の地は、大きく蛇行して流れ下る多摩川の水衝区間(川が曲がっている外側で、水の流れが強くあたるところ)にあたり、古くから洪水の被害を幾度もうけ、住民は水害に苦しんできたのです。明治四十三年(1910年)8月、多摩川は史上最大の水害に見舞われ、当地では古川薬師裏の天王木地区堤防(西六郷一丁目)が二百十数メートルにわたって決壊し、濁流が六郷・蒲田・羽田・大森方面に押し寄せました。そこで、度重なる水害に苦しんだ沿岸住民の強い要望をうけて、大正七年度(1918年)から昭和八年度(1933年度)にかけて、国(内務省)直轄の多摩川下流改修工事が行われ、両岸22キロメートルにわたって統一された連続堤が築造され、今日に至っています。
このほど、多摩川下流部堤防浸食対策プロジェクト(西六郷地区)の実施(平成十六年度=2005年度〜平成十七年度=2006年度)にあたり、 史跡として残して欲しいとの住民の強い要望により、低水護岸工事で撤去される水制4基の調査と一部復元保存を行いました。この水制は、調査の結果、先の築堤工事に併用して築造された伝統工法の一つ、杭出水制と判明しました。木杭をタテ・ヨコ1〜2メートル間隔で前後に2列以上打ちこんだもので、これらの杭を布木や貫木でタテ・ヨコまたは対角線方向に、全部もしくは一部を連結していたと推定されます。さらに、河床の洗掘(流れにより川底が掘れてしまうこと)を防ぐために、粗朶(里山の雑木から伐採した木の枝)を敷きこんだり、多数の割石による捨石を行ったりしています。この旧水制工は、当地の湾曲した縁岸部に押し寄せる水勢を弱めるために設置されたもので、当時新しく築いた堤防を守る役割を果たしていたのです。
目の前に大きな多連のアーチ橋が架かっています。国道1号線(第二京浜)が通る多摩川大橋です。遠くからは1本の橋に見えたのですが、橋の下から見ると2本の橋に分かれています。河口側の橋は、東京電力とNTTが共同で使用する送電専用の橋です。上流側の橋が多摩川大橋になります。送電専用のためにこんな立派な独立した橋が必要なのでしょうか?
河川敷には「多摩川 岸辺の散策路」の標識と地図が置かれています。岸辺と言いますから、本当に川辺に設けられた雑草の中のあぜ道です。
暫く歩くとガス橋が見えてきます。ガス橋の名称は、東京ガスが鶴見製造所で製造した大量のガスを東京に供給するために多摩川に架けられたことに由来します。橋の下部には2本のガス管が通っています。昭和六年(1931年)9月に「瓦斯人道橋」として開通し、昭和十一年(1936年)にガス管が増設されました。戦後は周辺の橋が増大する交通量に対応しきれなくなり、昭和三十五年(1960年)に現在のガス橋が完成して車両の通行が可能となりました。尚、ガス橋の北詰にはキヤノンの本社があります。ガスは使わないでしょうに、何でここに本社を置いたのでしょうか?
土手が急に広くなったところに出ました。高規格堤防というのだそうです。荒川でも見ましたが、400年に一度の大雨にも耐えられるのだとか。もっとも、全ての区間が高規格堤防にならないと意味ないのですけど。
高規格堤防特別区域とは
高規格堤防が整備された後は、高規格堤防部分は河川法上は「河川区域」になります。河川区域では基本的に建物を建てたり木を植えたりということは規制されます。そこで、高規格堤防の通常の土地利用に供する部分では、「高規格堤防特別区域」を設定して規制を緩和しています。「高規格堤防特別区域」では通常の土地利用ができるとともに、あらゆる災害に対して安全で安心できる土地になります。
東海道新幹線が通る多摩川橋梁が見えてきました。鉄橋を通過している新幹線は何系というのでしょうかね?
丸子橋の手前の河川敷に「丸子の渡し跡」の案内板が立っていました。遊歩道の脇なので見損なうことはありません。
丸子の渡し跡
丸子の渡しは、沼部(現・田園調布本町)と上丸子(川崎市中原区)とを結ぶ多摩川の渡しで、古くは「まりこのわたし」ともいった。渡し守子の 「もりこ」がなまって「まるこ」 になったとも言われる。この付近は、すでに鎌倉時代の文書に「丸子荘」と記載されたり、また文明十八年(1486年)から翌年にかけて、道興准后が京都から東国方面へ旅行した際の記録である「廻国雑記」に「東路のまりこの里に行かかりあしもやすめずいそぐ暮れかな」と詠まれており、中世以来の渡し場と推定される。江戸時代になると、中原街道が整備され、物資の搬入などに利用された。昭和九年(1934年)丸子橋が完成するまで、江戸東京の玄関口として大きな役割を果たしていた。
目の前に丸子橋が見えてきました。時刻は午後2時です。多摩川の歩きを続けるかどうか判断が難しいところです。この先、電車で帰るには二子橋まで歩くしかありません。丸子橋から二子橋までは2時間弱かかる筈で、「秋の日はつるべ落しの如くなり」の通り、調子に乗って写真なんかを撮りまくっていたら二子橋は夕闇に沈んでしまいます。丸子橋なら直ぐ近くの東横線の多摩川(もう園は付かないのか。。。)駅から帰れます。暫し熟慮し、これから先の行程も考えて二子橋まで歩くことにしました。丸子橋の下をくぐり、ルビコン川を渡ります。ちなみに、ルビコン川とは、古代ローマ帝国時代に存在した川で、イタリア本土と属州ガリア・キサルピナとの境界線の役割を果たしていました。軍団を率いてこの川を越え南下することは法により禁じられており、禁を破ればすなわち共和国に対する反逆とみなされていたのです。紀元前49年1月10日、ローマ内戦においてユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が元老院の命令に背き、軍を率いてこの川を渡った故事によって知られていて、この際に「賽は投げられた」と部隊に檄を飛ばしたことはあまりにも有名です。「ルビコン川を渡る」という言葉は、その後の運命を決め、後戻りのできないような重大な決断・行動をする比喩として使われています。ま、私の場合はそれほどの意味はありませんけどね。丸子川が多摩川に合流する地点に設けられた樋門の先に東急東横線・東急目黒線の鉄橋が見えます。
鉄橋のすぐ上流側には堰が造られています。多摩川には多くの堰が造られていますが、堰は多摩川の水を上水や用水などに引き入れるために、川の水をせき止めて水位を調節する河川構造物です。この堰は調布取水堰という名前の東京都水道局の施設で、当初は飲料水の供給と防潮のために昭和十一年(1936年)に造られました。ここで取水された多摩川の水は「亀甲山」の浄水施設に送られ、周辺地域の上水道に供給されていました。しかしながら、高度経済成長期を迎えるとともに多摩川の水質が悪化したために、昭和45年(1970年)に上水としての利用は取りやめられました。その後アユが遡上するほどに多摩川の水質は改善されてきましたが、調布取水堰は上水として復活することはなく、現在は工業用水を供給しています。巨大なコンクリートで出来た枠の壁には、かっての増水時の水位が記録されています。一番水位が高かったのは、昭和十三年(1938年)9月1日の多摩川大洪水のときの8.85mで、その位置にラインが引かれていました。平成十九年9月7日には台風9号による大雨で8.60mに達したと記されています。この時、多摩川流域の小河内観測所では、降り始めからの雨量が観測史上最大の710ミリに達したそうです。
鉄橋を越えますと、河川敷には野球場とかテニスコートとか、いろんな種類のスポーツが楽しめる施設があちこちに設けられています。平成十年(1998年)までは、ここに巨人軍の多摩川グランドがありましたね。土手と平行して多摩堤通りが通っています。本来であれば土手の上の鋪装された遊歩道を歩きたいのですが、丸子橋から上流側ではかなりの区間土手の上に歩道がないため歩くことはできません。仕方がないので河川敷の遊歩道を歩くのですが、結構砂利道が続いていて足に堪えます。更に、河川敷には運動場か雑草地しかなく、見るべきものがありません。つるべが落ちないように必死に支えながら先を急ぎます。ようやっと第三京浜道路が通る新多摩川橋が見えてきました。
新多摩川橋から先は、二子玉川駅手前まで土手の上に鋪装された遊歩道が続いています。二子玉川は二子玉川園が閉園して以降激変しました。駅周辺には「二子玉川ライズ・なんちゃら」というオフィスや商業施設が建ち並び、更に最近ではムサコほどではないですけど超高層マンションも林立しています。ちなみに、「ライズ(rise)」とは、太陽が登るイメージを名前に託したのだそうです。ついでに申し添えますと、「二子玉川」という地域の俗称は、古来から多摩川を挟んで神奈川側にあった二子村と東京側にあった玉川村のふたつの村の名前が組み合わさったものとされています。また、江戸時代から近年にかけて多摩川を隔てたこの地域を唯一結んでいた渡し船「二子の渡し」に由来しているとも言われています。
つるべの支えが功を奏してか、夕陽が井戸に落ちる前に二子橋に辿り着くことができました。ヤレヤレです。
二子橋から先、どういう行程で歩きましょうかね?今日の砂利道歩きで足裏にマメが出来たようです。暫く歩くのを控えようかな?
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