- たまリバ−50キロコース(2)
- コース 踏破記
- たまリバ−50キロの二日目です。といっても、間が一週間空いています。師走に入ってもちっとも忙しくない日々が続いているのに何でかな?それはいいとして、前回の中断地点である二子橋にやってきました。二子橋の反対側に出るには、少し駅寄りに戻って横断歩道を渡らなければなりません。でも、裏技があります。橋の下には人が通れる通路があり、その先は兵庫島に続いています。地上から行くよりはずっと近道です。
多摩川と野川の合流点に位置する兵庫島へは兵庫橋を渡って行きますが、その手前に多摩川八景の案内板があります。
多摩川八景 二子玉川 兵庫島
- 河川敷利用公園の一つで、水と親しめる豊かな自然の場として人気があります。
- 兵庫島伝説=正平十三年(1358年)、新田家再興のため鎌倉へむかう新田義興の一行は、矢の口渡し(調布市)から多摩川を渡る途中、敵軍のワナにはまり、殺されたり自害したりして全滅してしまいました。義興の従者由良兵庫助の死体が流れついたのが現在の兵庫島で、土地の人がこっそり島にほうむったので、この名がついたといわれています。
- 野川浄化施設=多摩川の砂利を利用した礫間接触酸化法で、野川の水質浄化が行われています。野川と多摩川の合流点から約300m上流の、野川右岸に埋設されています。
土手の上には多摩川八景についての案内板があります。文字が擦れて読み取れませんでしたので、兵庫島のところだけネットの情報をもとに書き足しました。
多摩川八景
- 1.多摩川の河口
- 2.多摩川台公園
- 3.二子玉川兵庫島
- 中下流部の多摩川の広大な河川敷は、公園やグラウンドに多く利用されています。世田谷区多摩川の兵庫島一帯も河川敷利用の公園の一つで、水と緑に親しめる豊かな自然の場として人気があります。兵庫島は多摩川の支川野川と多摩川の合流点にある小高い丘で、新田義興の家臣、由良兵庫助の死体が流れ着いたといわれる伝説の地です。この歴史ある地に、昭和六十三年(1988年)、かねて整備中であった「兵庫島河川公園」が完成し、更に多くの人々が訪れるようになりました。公園内には清流が流れるせせらぎと池が誕生し、子供たちに大人気の水遊び場となりました。広い芝生では人々が思い思いにくつろぎ、休日にはお弁当を広げる家族連れの姿も見られます。広々とした河川敷を眺めながら散策するのも気持ちがいいものです。兵庫島一帯は、交通の便も良いことから、地元はもとより広い地域の人々が憩いと安らぎを求める場となっています。
- 4.多摩大橋付近の河原
- 5.玉川上水
- 6.秋川渓谷
- 7.御岳渓谷
- 8.奥多摩湖
兵庫島には若山牧水の記念碑が置かれています。牧水は明治四十三年(1910年)に数ヶ月、このあたりの知人のうちに滞在していたのだそうです。
多摩川の 砂にたんぽぽ 咲くころは われにもおもふ ひとのあれかし
今はまことに暗くわびしい生活をしているが、この多摩川の広い河原の砂にたんぽぽの花が美しく咲く陽春の頃には、私にも相愛の恋人があって、明るく希望に満ちた日々が来て欲しいものだ。
牧水碑の近くに牧水の詠んだ短歌が書かれたプレートが置かれていました。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」という短歌は確か中学校の国語の教科書に載っていたような。。。中学生にその意味が分るはずもないですよね。
牧水のプロフィルと詠んだ短歌
多摩川の砂にたんぽぽ咲くころは
われにもおもふひとのあれかし
牧水詠 旅人書
若山牧水、本名 繁。明治末から大正期の歌人。旅、酒、恋の歌に代表作多し。若き日、玉川にも足跡を残している。旅人は子息。
幾山河越えさり行かば寂しさの
果てなむ国ぞ今日も旅ゆく
白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒はしづかに飲むべかりけり
白鳥は哀しからずや空の青
海のあをにも染まずただよふ
多摩川の浅き流れに石なげて
遊べば濡るるわが袂かな
国道246号線玉川通りは二子玉川駅の手前でふたつに分岐し、一方は駅前を通って二子橋に向います。もう一方は多摩川高島屋の上を通って新二子橋に向います。ちなみに、江戸時代に幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけていたため、長い間架橋を制限していました。そのため、古来よりこの地を通っていた大山街道は、大正時代まで二子の渡しという渡し船が結んでいました。多摩川はその流路を度々変えたため、二子の渡しもその場所が度々変わったと言われています。かつては二子神社・兵庫島付近に渡し場があったとも言われていますが、明治以降は現在二子橋が架けられている場所よりも少し下流(野川合流点付近)の瀬田地先が渡し場でした。
河川敷の遊歩道には、ところどころにたまリバー50キロコースの進路を示すプレートが埋め込まれています。殆ど間違えようのないコースですが、標識があると安心します。
12月に入ってからコロナの新規感染者が激増していますが、一度緩んだネジは元に戻らないようで、河川敷の運動施設はスポーツを楽しむ人達で大変な混雑です。一応はマスクをされているようですが、ランニングや試合中は邪魔なので外さざるを得ませんね。初冬とはいってもまだまだ秋の温もりが残っているので、日曜日ともなれば体が運動を欲しますよね。
たまリバー50キロは、殆どの区間が簡易舗装された歩きやすいコースです。サイクリングコースとしても活用されていますので、簡易舗装といってもかなりしっかりした造りになっています。ただ、歩く前にネットで調べた限りでは、世田谷区の一部区間で未舗装とか砂利道になっているとの書き込みがありました。兵庫島から上流へは河川敷の超簡易舗装の遊歩道を歩きます。土手と平行して多摩堤通りが通っていて、道路幅も狭いために土手の上には歩道はない筈です。なのでずっと河川敷の遊歩道を歩いたのですが、それが途切れるところで土手を上がってみますと、黒々としたアスファルト鋪装の歩道が見えます。どこから始まっているのだろうと二子橋の方を振り返ってみてもよく分りません。こんな綺麗な遊歩道があるのなら、もっと早く土手に上がるんでした。
遊歩道の脇に武蔵野の路の案内板が立っていました。武蔵野の路とたまリバー50キロは、大師橋緑地から昭島市の多摩大橋までコースが重なっています。武蔵野の路は10年前に歩いたのですが、多摩川は4つの区間に分けてコースが設定されています。羽田弁天橋から丸子橋までの「六郷コース」、丸子橋から二子橋までの「丸子・二子コース」、二子橋から是政橋までの「二子・是政コース」、是政橋から多摩大橋までの「是政・昭島コース」です。多摩大橋から羽村堤までは「滝山・草花丘陵コース」が設定されていますが、これは多摩川から離れて滝山自然公園の方に向いますので、多摩大橋から羽村堤までの多摩川は武蔵野の路のコースから外れています。
二子・是政コースの概要
このコースは世田谷区二子橋から府中市是政橋までの多摩川左岸沿いの約14.5kmの多摩川堤のコースです。河川敷きはテニスコート・野球場・サッカー場などの各種スポーツ施設・多摩川親水公園・緑地公園などが連なり、レクリエーションソーンとなっています。またコースの大部分はサイクリングロードとして整備されています。
遊歩道の先には東名高速道路の多摩川橋が遠望できます。
多摩川橋の手前の河川敷に、警視庁交通安全教育センターと警視庁白バイ訓練所があります。交通安全教育センターというからには、交通違反を犯した人に再教育の場を提供する施設なのでしょうか?それとも有料の訓練センターなのかな?よくよく見ると制服を着用した白バイ隊員と普段着の人が運転するバイクが同じコースを走っています。追跡の訓練かな?
たまリバー50キロは、その距離の長さからウォーキングと共にサイクリングコースとしての役割もあります。ただ、場所によっては遊歩道が切れて一般道を走らなければならない箇所もあります。ウォーキングの場合は河川敷に下りて遊歩道を歩けばいいのですけど、自転車の場合は鋪装されていない砂利道はなかなか走りずらいものです。慣れたライダーは左岸と右岸のサイクリングロードを使い分けて全区間舗装路を走るようです。ここで世田谷区のサイクリングコースは終点となり、23区を離れて狛江市に入ります。
土手の上の遊歩道が途切れましたので河川敷の遊歩道に移動します。土手下に案内板が立っていました。「水辺の楽校」とは、市民団体や河川管理者・教育関係者などが一体となって、地域の身近な水辺における環境学習や自然体験活動を推進するために国土交通省・文部科学省・環境省の三省が連携して取り組んでいるプロジェクトです。
「狛江水辺の楽校」案内
「狛江水辺の楽校」は、子供たちと生きものたちとのふれあいの場です
多摩川の自然に親しみながら、いろんな川遊びや、たくさんの生きものたちと出会える場所です。
- 川や岸辺では、フナやアユなどの魚や、カモやサギなどの水鳥が見られます。
- 林や草地では、ヤナギやオニグルミなどの樹木や、セミやカマキリなどの昆虫が見られます。
- 小川や池では、ザリガニやオタマジャクシ、メダカやカエルなどの小動物が見られます。
- 河原や土手では、ツクシやヨモギなどの季節の草花や、バッタやチョウなどの昆虫が見られます。
多摩川の土手(堤防)はあちこちで工事が行なわれています。冬の水枯れの時期なので尚更です。遊歩道も仮設なのでしょうか、鋪装のない砂利道が続いています。
工事区間を抜けると、広い河川敷が現れます。河川敷の先には多摩川をせき止めるように長大な堰が設けられています。何という名前の堰だろうと帰ってから調べてみましたら、二ヶ領宿河原堰と言うのだそうです。二ヶ領宿河原堰は、上流にある二ヶ領上河原堰と並んで、多摩川の水を二ヶ領用水に分水する取水堰です。二ヶ領用水は、徳川家康の命により慶長十六年(1611年)に完成した農業用の灌漑用水です。現在の二ヶ領宿河原堰は平成十一年(1999年)に完成した新しい堰ですが、昭和四十九年(1974年)には古い堰が原因となって左岸の堤防が決壊し、狛江市の住宅19棟が流出する大水害が発生しました。この多摩川水害の教訓を後世に残すために、決壊した宿河原堰の跡地に「多摩川決壊の碑」が建立されているとのことですが、私は気が付きませんでした。というか、その時はそんな出来事があったとは全く知りませんでした。言われてみれば、民家が多摩川の濁流に呑み込まれていく光景がテレビで生中継されていましたが、あの現場がここだったのでしょうか?
昭和49年(1974年)、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川の堤防が決壊し、19戸の民家が流失しました。堤防が決壊したのは意外な原因でした。8月31日19時頃、多摩川上流は前夜から降っていた雨が豪雨に変わりました。本州の南岸に進んだ台風16号が関東地方に停滞する前線を刺激したのです。9月1日、多摩川上流の小河内ダムでは貯水量が限界を越え、通常の35倍に相当する毎秒700トン(最高時)の放流を始めました。この日は「防災の日」でしたが、狛江市の消防署・消防団・市職員は予定していた防災訓練を中止し、目に見えて増え続ける多摩川の水位を注視していました。9月1日14時頃、河原の児童遊園地やテニスコートを守るために狛江市猪方地先に設けられた内堤防が勢いを増した濁流に耐えられずに崩れました。内堤防が崩れたのは、高さ約2mの二ヶ領宿河原堰に妨げられた水流が迂回流となって左岸の内堤防を直撃したからでした。宿河原堰は右岸の二ヶ領用水取水口に水を導くために設けられたものでした(二ヶ領用水は江戸時代に開削された川崎市内を流れる全長32kmの農業用の用水路でした)。地元の消防署や消防団に加えて警察なども出動し、崩れた内堤防に土嚢などを積んで濁流を防ごうとしましたが、水の勢いは増すばかりでした。9月1日21時45分、河原を削った水流は本堤防の土台を削り、本堤防は長さ5mにわたって決壊しました。本堤防の傷口はみるみる広がって水流は宅地を浸食し、翌日の14時までに19戸が多摩川の濁流に呑み込まれました。
二ヶ領宿河原堰の先で小田急線の多摩川橋梁の下を通り抜けます。その直ぐ先に美しいアーチ型の橋が架かっています。世田谷通り(川崎側は町田市内を除いて津久井道となります)が通る多摩水道橋です。多摩水道橋は狛江市内で多摩川に架かる唯一の道路の橋であり、東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線の起点側(多摩川の左岸)が東京都狛江市、終点側(右岸)が神奈川県川崎市多摩区となる都県境の橋となっています。なお、この道の愛称は東京都側が「世田谷通り」、神奈川県側が「津久井道」と都県境をもって変わります。この場所にはもともと「登戸の渡し」がありましたが、東京都内の水不足対策として川崎市の長沢浄水場から相模川の水を都心へと送る「導水管」の建設が行われることとなった際に、歩道と車道の架橋計画が行われ、昭和二十八年(1953年)12月に先代の道路及び水道管の併用橋として開通することをきっかけに、同年8月に廃止されました。なお、この「登戸の渡し」は、廃止時点で多摩川の渡し船としては最後に残っていた区間でした。その後、交通量の増加や橋の老朽化によって新たな架橋及び拡幅が行われることとなり、まず旧橋のすぐ上流側に現在の上り線となる橋を架ける工事が行われ、平成七年(1995年)5月に竣工しました。引き続き旧橋を取り壊し、現在の下り線となる橋が架けられ、平成十三年(2001年)3月に工事が完成しました。これにより車道が上下4車線となり、導水管も引き続き道路橋・歩道橋の下に並行して設置されています。橋の近くに案内板が立っています。
初代「多摩水道橋の碑」
初代の多摩水道橋は、道路と水道が供用する橋として、多摩川のこの地に昭和二十八年(1953年)12月完成しました。以来、相模川の水を川崎市長沢の浄水場を経て都内に供給するための水管橋として、また東京都(狛江市)と川崎市(多摩区登戸)とを結ぶ「登戸の渡し」に替わる道路橋として重要な役割を担ってきました。しかし、近年の自動車の増加に伴い交通渋滞が慢性化してきました。そのため、2車線を4車線に拡幅する新しい橋の建設を行うことにより、平成七年(1995年)5月にその使命を終えました。なお、橋に収納されていた直径1,800mmの配水本管は新しい橋に引き継がれ、引き続き都内に水道水を供給しています。
狛江市といえば、六郷用水の上流区間を歩いた際に、かって多摩川から取水していたところにある西河原公園を訪れましたね。あれは1ケ月前のことでしたが、季節は晩秋から初冬に変わり、多摩川沿いの木々も紅葉が進んでいます。六郷用水を歩いた時は通らなかったのですが、取水口のあった場所の手前の河川敷に見事な松の木が枝を広げています。「狛江の五本松」と呼ばれていますが、実際には十一本松だそうです(私は数えませんでしたが)。この松は多摩川の洪水を治めるために、堤防を補強する目的で植えられた水防林の一部が残ったものだそうです。五本松の「五」には「沢山」という意味もありますので、昔は沢山の松が植わっていたのでしょう。五本松は調布の映画撮影所にも近かったので、かつては時代劇のロケに何度も使われました。黒松と多摩川が織りなす風景が見事な情景を醸し出し、日本人が愛する川辺の原風景となっているからなのでしょう。この風景は多摩川50景に選定され、さらに「新東京百景」にも選ばれています。なお、狛江の五本松前から上流にかけての多摩川には幾つかの瀬が発達していて、多摩川でも有数のアユの産卵場所となっているそうです。
五本松の先に懐かしい西河原公園が見えます。近づいてみますと、一ヶ月前に見た公園の風景とは全く違っていました。あの時目にした公園は雑草が生茂り、近寄りがたい雰囲気でしたが、今日見たら雑草は綺麗に刈り取られ、スッキリとした明るい雰囲気に変わっていました。長いこと散髪に行かなかった人がバッサリ髪を切ったような感じです。狛江市の将来を象徴する種子のモニュメントですが、角度を変えて見たら本当に岩を切り裂いて成長する種子のような構図になっていました。改めて見てみますと、種子は絹さやでも枝豆でもない新種の植物のようです。ん。。。何の種子でしょうね?
前回は見逃した水神社ですが、西河原公園の直ぐ隣りにありました。小さな神社ですが、境内に由緒を記した案内板が立っていました。
水神社由緒
此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられ、その偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられます。明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行し、もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。
西河原公園の先から調布市のサイクリングコースが始まります。やや草臥れた鋪装ですが、道幅は広くて自転車でも快適に走れそうです。
遊歩道の脇に調布市を紹介した案内板が立っています。
調布ふるさと散歩
映画のまち調布花火
調布の一大イベントである多摩川の花火は昭和八年(1933年)に始まりました。戦争と戦後の都市化や京王相模原線延長によって2度の中断がありましたが、昭和五十七年(1982年)に「調布市花火大会」として復活し、平成二十六年(2014年)からは「映画のまち調布花火」として市民に親しまれています。多摩川の夜空をバックに繰り広げられる花火と音楽のコラボレーション「ハナビリュージョン」は、年々スケールアップし、今や都内でも大きな行事のひとつにまで発展しました。
多摩川
多摩川は玉川とも書かれ、その名の表すとおり、昔から美しく清らかな流れをたたえていました。多摩川原橋付近からの富士山や、多摩川七丁目の堰堤風景は見応えがあり、水辺では水鳥の観察が楽しめます。一時は生活廃水の為、多摩川は汚染されていましたが、近年では鮎や鮭が川を昇っていく程織麗な川になってきました。多摩川は調布に生きる人にとって、心の原風景です。
目の前に再び多摩川を横断する長大な堰が現れます。二ヶ領上河原堰は、多摩水道橋手前で見た二ヶ領宿河原堰と共に、二ヶ領用水のために造られた多摩川の取水堰です。ここで取水された水は二ヶ領用水となって流下し、途中で宿河原用水と合流して久地の円筒分水に至ります。堰の上流は静かな人造湖になっていて。コイやフナ釣りに適した場所が続いています。ウィンドサーフィンやカヌー・カヤックなどを楽しんでいる人たちも見かけられます。
河川敷には釣り堀も設けられています。暖かく穏やかな小春日和に誘われたのでしょうか、釣り堀の周囲には太公望が釣り糸を垂れています。コロナ禍なんぞ別世界の出来事のようです。
京王相模原線の鉄橋の下を抜け、更に進みますと、鶴川街道が通る多摩川原橋が現れます。遠目には一本の橋に見えますが、橋の下から見ると2本の橋が合併したようになっています。旧橋は昭和十年(1935年)に架けられましたが、老朽化と交通量の増大のために現在の橋に架け替えられました。平成十年(1998年)に2車線の橋が上流側に架けられ、平成十八年(2006年)には下流側に同じく2車線の橋が架けられ、合計4車線が通っています。橋の名前は多摩川原橋(たまがわらばし)となっています。多摩川原橋のすぐ横の上流側には、武蔵境浄水場から多摩ニュータウン方面に水を運ぶための水道専用の橋である多摩川原水道橋(たまがわげんすいどうきょう)が架かっています。「原」の時を一方は「ら」と読み、もう一方は「げん」と詠むのですね。どうしてこうなったのでしょうか?
更に歩きますと、高速道路を通すような立派な橋が現れます。緩やかにカーブしているのが特徴的です。稲城大橋という名前の橋ですが、中央自動車道の稲城インターに繋がる都道9号川崎府中線が通っています。かつて、この道路橋を含む中央自動車道稲城インター付近から鶴川街道までの区間は稲城大橋有料道路と呼ばれる一般有料道路でしたが、平成二十二年(2010年)4月1日に無料開放されました。道理で立派な造りの橋です。
稲城大橋の先に、特徴的な外観をした斜張橋(橋脚上に建てた塔から斜めに張ったケーブルで主桁を支持する構造の橋)の堤政橋が見えてきました。二子橋から堤政橋までは14.5kmあるそうですが、10年前に歩いた時よりも随分と長く感じました。夕暮れも迫ってきているので、今日は堤政橋でたまリバー50キロの歩きを中断したいと思います。
と思ったら、橋の袂に是政の渡しの案内碑が立っています。碑文が刻まれた石碑の上には何やら奇妙なオブジェが乗っかっていますが、何をモチーフにしたものでしょうかね?
是政渡し
是政渡しは、是政と対岸の大丸(現稲城市)とを結んでいた稲城道(川崎街道)筋の渡しで、是政村が経営していたことからその名があります。「新編武蔵風土記稿」(幕末の地誌)の「是正村」の項には「多摩川(中略)此所に渡船あり、大丸村への往来を渡す、冬は土橋を架して渡船を出さず」と誌されています。渡し賃は、明治十五年で 平水時(2尺5寸)旅人通行(一人)八厘、一人乗人力車(一輌)一銭六厘、大八荷車(一輌)二銭五厘でした。この是政渡しも、昭和十六年に是政橋(木橋)が完成し、その姿を消しました。
堤政橋は並列斜張橋という珍しい構造をしています。2本の橋が束ねられたようになっていて、ケーブルを支える主塔が2本あるのです。遠くから見ても、間近に見ても、美しい建築美を感じます。
堤政橋を今日の中断地点に選んだのは、帰りのアクセスの良さからです。橋から歩いて数分のところに西武多摩川線の是政駅があります。辺鄙な場所に位置していますが、昼間は12分間隔で運行されていて、待ち時間は気になりません。是政駅から武蔵境駅までは僅か8km、途中には4駅しかなく、武蔵境駅まで12分で到着です。歩き疲れた足には嬉しいですね。
ということで、たまリバー50kmのうち、約30kmを歩き終えました。堤政橋から羽村堰まではまだまだ距離があるのですが、その間には帰るのに便利な多摩川沿いの駅が見あたりません。残りの区間を一日で一気に歩くには冬至が近いこの時期にはかなりのリスクを伴います。街中ならまだしも、人影のない土手の上(河川敷かも)を日が暮れた暗闇の中歩くのはイヤです。ならば、出来るだけ朝早く歩き始めるしかありません。ま、帰ってから計画を練り直しますかね。
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