たまリバ−50キロコース(3−1)  

コース 踏破記  

昨日の疲れもなんのその、今日もたまリバ−50キロを歩きます。別に急ぐこともないのですが、冬至が迫っている時期ですので気が急きます。昨日の中断地点である堤政橋からゴール地点である羽村堰までは残り23kmほどです。時間にして6時間位でしょうか?羽村市は奥多摩に位置するので、夕陽が山々の峰に遮られて日没の時刻は都心よりも早いと思われます。都心でも午後4時頃になると薄暗くなりますので、羽村堰には遅くとも午後の3時には着きたいところです。とすると、「15−6=9」ですから、堤政橋には午前9時には着かないといけません。ですが、家を出るのが少し遅れ、堤政橋北詰に着いたのは9時30分でした。本当は余裕をみて8時には着きたかったのですけど。  



今日は今年一番の晴天ではないかと思えるほど空が晴れ渡っています。雲ひとつないという言い方がふさわしい空の碧さです。おまけに小春日和でポカポカと暖かいですね。厚手の上着が邪魔になるほどです。堤政橋から羽村堰を目指して多摩川の土手の上を歩き始めます。視界の先に南武線の多摩川橋梁が見えてきました。遠目には1本の鉄橋に見えますが、実際には2本の鉄橋が隣り合って架かっています。一方は南武線、もう一方は武蔵野貨物線です。稲城方面から来た武蔵野貨物線は多摩川橋梁手前で南部線と並走し、府中本町駅で武蔵野線(貨客混合線)に合流します。



土手の上の遊歩道に「府中多摩川かぜのみち」と大書きされています。多摩川の左岸に整備された府中市の四谷から押立町までの全長9.4キロメートルの遊歩道で、昭和四十九年に多摩川サイクリングロードとして完成しました。その後、歩行者と自転車利用者が安全に利用できるよう、「府中多摩川かぜのみち」に名称を変更しています。遊歩道自体は一部区間を除き、羽村市から大田区まで続いています。また、かぜのみちを利用して、府中多摩川マラソンや府中駅伝競走大会も開催され、多くの人が訪れています。



多摩川沿いには何故か新聞社の印刷工場が集まっています。交通の便はさほど良くはないと思うのですが、多摩川に面しているので敷地が広く確保できるのかも知れません。読売新聞の府中別館もそのひとつで、敷地面積は2万平方メートル余とゆったりとした造りになっています。平成五年(1993年)に設立され、4セット(20台)の三菱重工製の高速オフセット新聞輪転機を備えているそうです。印刷された読売新聞は、多摩地区や神奈川県・山梨県・長野県などに配達され、スポーツ報知も府中工場で印刷されているとのことです。



関戸橋が近づいてきました。10年ほど前に「歴史と文化の散歩道」の府中国分寺コースで渡った橋です。都道18号府中町田線が通っていますが、名称としては鎌倉街道の方が一般的です。関戸橋は、この橋の近くにあった関戸の渡し(府中市側では「中河原渡し」となります)の代替として昭和12年(1937年)に架橋され、橋の名前は南岸の多摩村関戸(現在の多摩市関戸)に因んで名づけられました。関戸橋の多摩側には聖蹟桜ヶ丘の街並みが遠望でき、高層ビルの間からは富士山が拝めます。今日は本当に最高のお天気です。



10年前に関戸橋を渡った時は、古いながらもしっかりした橋に思えたのですが、現在は架け替え工事が進んでいます。関戸橋は多摩市方面に向かう下流側の橋(旧橋)と、府中市方面に向かう上流側の橋のふたつの橋で構成されています。旧橋は昭和12年(1937年)に架けられた初代の橋で、当初は2車線の歩道なしで供用されていました。橋が架けられるまでは「関戸の渡し」という渡し船で行き来していたのですが、その後周辺の市街化などに伴い、昭和46年(1971年)に上流側の橋が架けられ、上下線を分離したのに加えて歩道も新設されました。しかし、旧橋は架橋から80年以上が経過して老朽化が進んでいたことや、耐震対策が未了であったこと、設計車両荷重が大正十五年の「内務省土木局の道路構造に関する細則」に準拠していて現行基準を満たしていなかったこと、歩行者用の通行空間が存在しなかったことなどから架け替えられることになりました。今回の架け替え工事では、上流側の橋の更に上流側に仮橋を設置し、交通を切り替えながら架け替えるという方法がとられています。仮橋を用いた架け替えは多摩川中流部では初めてとなります。また、併せて上流側橋の改築も行なわれます。現在の橋の機能を確保しつつ、橋の設置や解体工事は多摩川の渇水期となる冬季のみ行われることから、工事完了までには16年という大変長い期間を要する見込みです。
平成二十八年(2016年)1月
工事が開始され、仮橋の建設が始まりました。
平成三十年(2018年)11月
仮橋が完成し、仮橋への切り替えが行われ、下流側の旧橋の通行を終了して撤去工事が開始されました。
令和二年(2020年)11月
6年目の工事が始まり、下流側の旧橋の撤去に加えて、新しい橋の下部工事(橋脚2基の建設)が行なわれています。
令和十三年(2031年)
下流側の旧橋を撤去した跡地に新橋が完成し、その後上流側の橋の改築工事が行なわれ、仮橋撤去を経て全面完成予定です。



下流側の旧橋が撤去された跡地に真新しい新橋の橋台が出来ています。


多摩川沿いには新聞を印刷する工場の他に、企業の研究所なども立地しています。ひときわ目立つ巨大なビルは、NEC中河原技術センターです。NECは宇宙開発事業における日本のトップメーカーで、ここはその拠点になっています。日本初の人工衛星「おおすみ」や小惑星探査機「はやぶさ」の開発もここで行なわれたそうです。



たまリバー50キロコース上には、武蔵野の路の案内板が幾つも設置されています。堤政橋から多摩大橋までの区間は「是政・昭島コース」となっていて、周辺の名所・旧跡などが紹介されています。単なる観光案内ではなく、野鳥・川魚・草花など、多摩川の自然にも興味がそそられるような内容になっています。

是政・昭島コース

−是政・昭島コースの概要−

このコースは府中市是政橋から昭島市多摩大橋までの多摩川左岸約12.9kmの平坦な路です。コースの大部分はサイクリングロードとして整備され、広大な多摩川の景観と自然を楽しめます。河川敷には大規模な運動公園・川辺の自然観察もできる自然緑地などがあります。また周辺には府中市郷土の森や市民健康センターなどのほか、新東京百景の普済寺(立川市)など多くの寺社も点在しています。




関戸の渡しは府中市側では「中河原渡し」と呼ばれていましたが、遊歩道を下りて多摩川通りを渡った先の公園にその石碑が置かれていました。石柱の上の小惑星イトカワのようなオブジェは「渡し」の石碑に共通して冠されているみたいです。

中河原渡し

中河原渡しは、中河原と対岸の関戸(現多摩市)との間を結んでいた鎌倉街道筋の渡しで、中河原村が経営していたことからその名があります。多摩川の中に中河原村と関戸村の境界があるため、関戸川(多摩川の支流である乞田川に注いでいた川)には関戸村が経営する関戸渡しが設置されていました。これらの渡しは昭和十二年に関戸橋が竣工した後でその歴史の幕を閉じました。増水で水深が5尺以上になると「川止め」として通船禁止になりました。多摩川は江戸時代に現在より北側の立川段丘崖線の下(現在の市川用水のある付近)を流れていました。多摩川流域は浅川でしたので、中河原はこのふたつの川の間にあるということに因んで名付けられたといわれています。中河原の渡し場(渡船場)には、冬の渇水期には仮橋が設けられていました。明治二十四年の記録では、本流の渡船の川幅は50間(約90メートル)で支流が2本あり、いずれも架橋渡しでその川幅はそれぞれ 15間(約27メートル)・11間(約20メートル)でした。渡し場では通行人から渡船と架橋と別々に渡賃をとっていました。




京王線の多摩川橋梁が見えてきました。最初に架けられたのは大正十四年(1925年)で、京王電鉄の前身である玉南電気鉄道の府中〜東八王子間の開業と共に開通しました。プレートガーダー(桁橋)と呼ばれる構造形式をしていて、鋼板や形鋼を組み合わせて板(プレート)状にし、これを断面がT字形になるように組み立てた桁(ガーダー)からなる鉄橋になっています。橋を支えるためのアーチなどの特別な構造体を用いない形式です。架橋当初は単線でしたが、昭和三十九年(1964年)に単線のプレートガーダー橋が1本増設され、複線化がなされています。昭和四十八年(1973年)に架替えられ、単線型プレートガーダー並列の形式に改められました。



京王線の多摩川橋梁の先には府中四谷橋が架かっています。府中四谷橋は斜張橋という形式で、2本の主塔とそこから張り出された橋桁を支える白いケーブルが三角形を成し、とても美しい姿をしています。



遊歩道の脇の草むらに小さなプレートが置かれていました。近づいてみますと、府中の名木百選のひとつ、四谷の五本松と書かれています。

府中の名木百選−四谷の五本松(クロマツ)

私たちに語りかける木と緑
後生に伝えたいふるさとの名木




見上げると、枝振りは貧弱ですが確かに何本かの松の木が並んでいます。その横に由来を記した案内板が立っています。

五本松の由来

この松は、江戸から明治・大正にかけて、水防林として植林されたもので、以前から「下堰の松」と称され、長く地域の人々に親しまれてきました。その後、大正の初めに護岸工事のために、四つ谷村で今も「中隠居」と呼ばれている市川家から国に無償で提供され、大切に保護されてきました。この様な長い歴史的変遷の中で、次のような話も生まれてきました。それは、甲州商人と四つ谷村民との心暖まる美談です。江戸時代の中頃、甲州の商人が病で倒れているのを村民が助け、半年余り玉川寺で手厚い看護をし、病がいえ、その後、商入は甲州で財を成したといわれています。この四つ谷村の恩徳に報いるために、商人は一尺五寸の木像を寺に奉納し、また、多摩川堤に松を植えた、といわれています。その松も次第に少なくなり、今の本教となり、「五本松」と呼ばれるようになりました。長い間の多摩川の変遷と自然の歴史、人の流れを見続け、風雪に耐えてきた松て、特に四つ谷村民の深い情けを末永く府中市民が引継ぎ、この松をシンボルとして保存したいと思います。




更に歩きを進めていきますと、近代的な外観をした石田大橋が見えてきます。平成十九年(2007年)の日野バイパス全通までは国立インター入口交差点を直進して日野橋交差点を左折して日野橋・中央本線日野駅前を通過し高倉町西交差点に至る道路(甲州街道)が国道20号となっていましたが、現在では日野バイパスが国道20号になっています。そういえば、10年ほど前に「愛称名の付いた道路を歩く」で甲州街道を歩いた際、国立インター入口交差点で「国道20号」の標識に惑わされてうっかり日野バイパスの方に入ってしまい、随分歩いたところで間違いに気づきました。でも、国立インター入口交差点まで戻るには距離がありすぎて泣く泣く甲州街道の歩きを中断したことがありました。あの時は結局日野郵便局南交差点まで行ったのですが、近くに駅もなかったし、どうやって帰ったんだろう?



石田大橋の少し上流には中央自動車道の多摩川橋が架かっています。多摩川の上を跨いでいるのに防音壁らしきもので覆われていますね。風避けかな?



多摩川橋の少し上流の小高くなった土手の下に水門が見えます。立て札には緑川排水樋管と書いてあります。緑川なんてどこにあるんだろうと周囲を見渡しますが、それらしき川は見当たりません。家に帰って調べてみましたら、「緑川は昭和二十二年に通水された人工河川で、最初は「立川排水路」と呼ばれていました。旧陸軍立川飛行場付近(現在の昭和記念公園)の水はけが悪く、洪水対策の排水路として設けられました。現在は全区間暗渠ですが、完成当時は開渠で今も橋の遺構などが残っています。現在は下水幹線となっていますが、通常は水が出てくることはありません。」とのことです。



緑川排水樋管の先の木立の中に府中用水の案内板が立っていました。私は見落としたのですが、緑川の多摩川合流口と交差して案内板の下の方に明治三十三年(1900年)に設置された府中用水の多摩川からの取入口である青柳の水門があったのです。

府中用水 取入口

府中用水は、多摩川の水を青柳南で取り入れ、谷保南部を通り、府中まで導く農業用水路です。江戸時代には、府中宿のうち本町・番場宿・新宿と、是政村・上谷保村・下谷保村・青柳村の合計七カ村が管理していたため、七ケ村組合用水」と呼んでいました。いつ、どのように造られたかについては明らかではありませんが、一説には、江戸時代(1652年頃)に羽村の玉川兄弟が、青柳から府中までの上水路を計画し、途中まて掘り進んだところ土地の高低差が激しく断念、後の人がその跡を利用したと伝えられています。また一説には、昔の多摩川の河床を用水路として利用したとも伝えられています。この下が用水の取入口です。毎年、田植えの前に水を取り入れ、田を潤し、秋の収穫前に水を止める光景が風物詩となっています。




たまリバー50キロコース唯一の区間ですが、両側に古ぼけた民家が立ち並んだ中の砂利道を通り抜けます。一瞬民家の敷地ではないかと思ったのですが、一応は公道のようです。



民家の間を抜けると、砂利道は左に折れて坂を下ります。江戸時代の始め、江戸日本橋と甲府を結び、その後下諏訪まで整備された甲州街道は立川市の南側を多摩川と平行に走り、時代によって場所が変わる「渡し」場所から多摩川を越えたのだと言われています。「渡し」の場所が移動すると、その都度「甲州街道」も道筋を変えながら、現在は「日野橋」で多摩川を渡っています。日野の渡しがあった頃、この段丘崖下を流れる多摩川を越えるためには多摩川の河原に下りるしかありませんでした。その際、河原に下りるために使われていた坂のことを「貝殻坂」と呼んでいました。

貝殻坂

この坂は、青柳段丘崖の立川市境にあたり、昔から坂の途中から貝殻が出るので「貝殻坂」と呼ばれています。江戸時代の文人斉藤鶴磯の著書「武蔵野話」(1815年)にも、「芝崎村と青柳村との境、多摩川に臨し所に貝殻坂という所あり。此地の土中に蛤貝の殻おびただしくあり。古(いにしえ)はこの辺は入海なりと土人(ところのもの)言伝う・・・」と記されています。




貝殻坂を下りた先に古風な木製の吊り橋が架かっています。たまリバー50キロで出会った最も印象的な橋です。根川貝殻坂橋という名前ですが、主塔から手摺り・床板に至るまで全て木材でできています。周囲の景観によく溶け込んでいて絵になります。

根川貝殻坂橋について

甲州街道は、江戸時代初めの慶長八〜十年(1603年〜1605年)に整備された。初め、江戸日本橋と甲府(山梨県)を結んでいたが、後に下諏訪(長野県)まで延長された。この甲州街道が多摩川を渡る「渡し」は、何度か移動され、それにともなって甲州街道の道筋も変わったことが知られている。そのうち、慶安年間(1648年〜1651年)から貞享元年(1684年)まで使われていたのが「万願寺の渡し」である。台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の青柳で段丘を下り、多摩川の河原に下りた。この段丘を下る坂を昔は「貝殻坂」と呼んでいた(現在は、普済寺の西側、富士見町五丁目にある番場坂を貝殻坂とも呼んでいる)。貝殼坂の名は、江戸時代に発行された「四神地名録 武蔵国名勝図会 新編式蔵風土記稿」・「武蔵野話」などの書物の中にみられる。そのうち、文政十一年(1828年)に完成された「新編武蔵風土記稿」の紫崎材(現在の立川市)の項には「貝殻坂、青柳村と当村との界にあり、土中をうがては蛤の殻夥しく出づ。土人の話に古へはこの辺も海なりしと伝ふ。」と記されている。よって本橋を貝殻坂にちなみ根川貝殻坂橋と名付けるものである。




日野の渡しは日野橋の架橋によって廃止されましたが、その日野橋は老朽化が進み、2020年11月から架け替え工事の第一弾として仮橋設置工事が開始されました。日野橋は大正十五年・昭和元年(1926年)の架橋から90年以上が経過し、拡幅工事や補強工事などで設計基準の改定に伴う対策を行なってきました。近年では平成23年(2011年)9月の台風で護床ブロックが流出し、平成三十一年・令和元年(2019年)の台風19号(令和元年東日本台風)では橋脚1本が流出し、翌年5月までの約7ケ月間の通行止めが発生しました。東京都では、近年の大雨の発生状況を鑑み、長期的な安全を確保するために老朽化が進行している日野橋を架け替えることを決定しました。現在の日野橋は径間が多く、河川内には18本もの橋脚が設置されていますが、新たな橋は3径間とすることで河川内の橋脚を2本に削減します。地域のシンボルとなる美しい斜張橋として生まれ変わる予定です。仮橋の建設は集中豪雨や台風の多い時期を避け、約3年をかけて建設されます。その後、約7年をかけて現在の日野橋の撤去ならびに新橋の建設工事を行い、約10年後に新たな日野橋が開通する予定です。



日野橋の少し上流には立日橋が架かっています。多摩都市モノレールの建設に伴い、平成元年(1989年)3月に道路橋部分が先行して開通し、その後、平成十二年(2000年)1月に多摩モノレールの立川北〜多摩センター間が開業しました。道路橋上にモノレールの線路が通っている複合橋です。



立日橋の直ぐ上流で残掘川が多摩川に合流しています。玉川上水を歩いた際に、立体交差していた川です。「伏せ越し」と呼ばれるサイフォンの原理によって、玉川上水が残堀川の下をくぐっているんですね。元々は交差してなくて平面合流していたそうですが、水質を保つために両川が混じり合わないように立体交差に変更したのでしょう。しかしそれ以降は年間を通じて降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまいました。



残堀遊歩橋と書かれた嬌名は錆び付いて判読も困難です。床板はそんなに古くはないのですが、プレートに描かれている絵らしきものと文字は解読不能です。

残掘川について

残堀川は西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎の狭山池に始まり、武蔵村山市・昭島市・立川市を流れて、立川市柴崎町で多摩川に合流する川です。川の長さは12.7kmで、流域(雨水の集まる区域)の面積は34.7平方キロ(立川市の約1.5倍)です。残堀川の流域のほとんどは立川段丘に属しています。立川段丘は、大昔、多摩川によってつくられた河岸段丘で、砂と礫の地層の上を関東ローム層で覆われています。

残掘川は多摩川の昔の川?

残堀川は、今から数万年前、多摩川が立川段丘をつくった時のなごりの川です。江戸時代に玉川上水ができるまでは、砂川三番の見影橋付近を通り、曙町二丁目を経て矢川につながり、青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれています。地形図と地質図によれば、確かにこの話の通りの谷筋が連続しています。その長さは約30km、流域面積は約85平行キロと推定され、今の2倍以上も大きな川だったと考えられます。




多摩川の河川敷に設けられた立川市の市民運動場の先にJR中央線の多摩川橋梁が見えます。甲武鉄道(現在のJR中央本線)の立川駅〜八王子駅間の延伸工事に伴って、明治二十二年(1889年)に完成し、供用が開始されました。建設当初は単線用の橋梁でしたが、昭和十二年(1937年)に立川駅〜豊田駅間の複線化に伴い、建設当初からの橋梁を上り線用とし、多摩川下流側に下り線用の橋梁を新たに架設しました。上り線用の橋脚は、一部コンクリート造に変えられてはいますが、煉瓦の楕円形橋脚であることが特徴です。



<<写真多数のため、たまリバ−50キロコース(3−2)に続きます。>>




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