- たまリバ−50キロコース(3−2)
- コース 踏破記
- <<たまリバ−50キロコース(3−1)の続きです>>
中央本線多摩川橋梁の少し上流に日本経済新聞社の立川別館の建物があります。首都圏の新聞印刷の一角を担う立川工場だそうです。地下1階で一部地上4階の建物は大きな半ドーム状の屋根が特徴です。多摩川の方角からはよく見えませんが、確かに建物の後方には蒲鉾を切ったような形状の屋根が見えます。晴れた日には富士山が一望できるとのことです。確かに今日のような快晴の日には富士山が綺麗に見えますね。
更にその上流には丸いアーチをした橋が見えます。都道59号八王子武蔵村山線が通っている多摩大橋です。昭和四十一年(1966年)に最初の橋が完成しました。両方向各1車線でしたが、多摩地域南西部と北東部を連絡する重要路線であり、周辺の市街化が進むにつれて交通量は一日3万台を越え、慢性的な渋滞が生じました。歩道幅員は70センチと狭く、歩行者の安全確保も求められました。この状況を改善するため、新たな橋を併設する拡幅事業が計画され、平成十九年(2007年)に既設の橋の上流側にもう1本の橋が開通しました。更に既設の橋に補強と歩道の設置が行われ、現在の多摩大橋は平成二十二年(2010年)に全面的に完成しました。つまり、現在の多摩大橋は上流側・下流側のふたつの橋で構成されているのです。こういう例は多摩川には多いですね。
土手の上の遊歩道は所々で分断し、河川敷の歩道に下りなければならない箇所もあります。河川敷ですから、木々が生茂ったところもあり、草むらの中にはマムシが潜んでいることもあるようです。今は冬なので活発に動き回ることはないのでしょうけど、注意書きの前を通るときはやはり身構えますね。
土手の外側に巨大なプラントらしき装置が連なっています、こんなところに石油精製施設が。。。と思ったのですが東京都下水道局の多摩川上流水再生センターというのだそうです。その処理区域は、青梅市・昭島市・福生市・羽村市・瑞穂町の大部分と立川市・武蔵村山市・奥多摩町の一部にまたがり、計画処理面積は9、349ヘクタールにも及びます。処理した水は多摩川に放流するとともに、一部をろ過してセンター内の機械の洗浄・冷却やトイレ用水などにも使用しているそうです。また、昔の清流の姿を取り戻すために、砂ろ過とオゾン処理を行い、野火止用水・玉川上水・千川上水にも送水されています。
遊歩道の一画に列車の車輪が展示されていました。近くを通る八高線で起きた痛ましい事故を記憶してもらうためのモニュメントのようです。
八高線列車衝突事故
太平洋戦争終戦からわずか九日目の昭和二十年(1945年)8月24日午前7時40分頃、ここ八高線小宮・拝島間の多摩川鉄橋上において、上り下りの旅客列車が正面衝突し、少なくとも105名の方々が衝突による衝撃、あるいは多摩川の濁流に流され死亡する大惨事が発生しました。日本鉄道史上でも有数の重大事故であるといわれています。救助には、地域の警防団(現在の消防団の前身)や住民があたりました。この事故は、折からの豪雨の中で発生したもので、犠牲者の多くは終戦とともに故郷に向かっていた復員兵や疎開先から自宅に帰る人々でした。鉄橋付近から発見された二対の車輪は衝突車両のものと思われ、事故を後世に伝えるため設置しました。
多摩川の河川敷には広大な運動公園が拡がっています。多摩川緑地くじら運動公園というのだそうです。くじら?こんな内陸部に鯨がいた筈はありません。
車輪のモニュメントの後に「アキシマクジラ」という案内板が立っています。どうでもいいですけど、「・・・と名付けらましたが、・・・」で、「れ」が抜けていますね。
アキシマクジラ
昭和三十六年(1961年)8月20日、多摩川にかかるJR八高線鉄橋付近の河川敷土中からほぼ全骨格のクジラの化石が発見されました。化石は、約200万年前の地層から発掘され、当時昭島周辺は海の中であったことから、全長13.5メートルのヒゲクジラの仲間で、現存するコククジラに近い種として推定され「アキシマクジラ」と名付けらましたが、新種かどうかは確認されませんでした。以来、研究のため長く国立科学博物館新宿分館に収蔵されていたが、平成二十四年(2012年)に群馬県立自然史博物館に移送され、本格的な調査、研究がすすめられ、現代のコククジラとは異なる種で、なんらかの理由で絶滅した新種と結論づけられました。平成三十年(2018年)1月1日に日本古生物学会の学会誌に「これまで世界で発見されたことのないヒゲクジラ属の新種」として、学名「エシュクリクティウス アキシマエンシス」と命名されました。
アキシマクジラの奇跡
- その1: 浅瀬で死に絶え比較的早く堆積物に埋まったこと
- → 深い海で死ぬと海面に浮かび腐敗するので骨はバラバラになる
- その2: 地殻変動による分断や温度、圧力の影響を受けなかったこと
- → 影響を受けると骨が分断されたり消失する
- その3: 河川敷に姿を出した、 ごくわずかな時間の間に発見されたこと
- → 大雨で川が増水すると浸食や流出が起こり、消失していた
- その4: 熱心な方々により発掘や復元まで丁寧に作業がなされたこと
- → 当時の知識や道具、材料を考えると驚異的な作業であった
くじら公園の先に八高線の多摩川橋梁が架かっています。河川敷も通れたのですが、敢えて土手と橋梁の間を窮屈な姿勢で通り抜けました。よく見なかったのですが、この橋梁は単線だったみたいです。なので上下線の列車が正面衝突を起こしたんですね。
土手が広くなったところに河津桜の木が植わっています。如何に早咲きとはいえ、12月初旬の今は未だ固い蕾のようです。
更に上流に進みますと、拝島橋が架かっています。国道16号線が通る橋で、昭島市と八王子市を繋いでいます。この辺りには国道16号を冠した道路が2本通っています。一方は東京環状国道16号(八王子街道)となっていて、もう一方は国道16号八王子バイパスとなっています。ややこしいですね。
拝島橋の袂の公園の壁に「拝島の渡し」のプレートが埋込まれていました。拝島橋のできる前は、上流100mほどのところを渡し舟で行き来していたのだそうです。でも、ここでいう日光街道は現在の奥多摩街道であり、東京の東部を通っていた日光街道(現在の国道4号線)とは異なります。八王子千人同心が日光勤番に赴く際に往還路として利用したのでそう呼ばれたのでしょう。
拝島の渡し
拝島橋の上流百メートルほどのところに、その昔、”拝島の渡し”と呼ばれる日光街道の渡し場がありました。日光街道は、江戸時代初期の慶安年間(1648年〜1652年)に、八王子千人同心が日光勤番に赴く際の往還路として開かれた公道で、江戸時代を通じて上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ重要な街道として機能していました。この渡しの管理は拝島村によって行なわれ、数人の船頭さんが常駐して随時船を往復させていました。もっとも、船を運行したのは春から秋にかけてで、冬の渇水期には数艘の船を流れに浮かべ、その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。文久元年(1861年)の記録によると、渡し賃は平水時が一人二十四文、大水の時は割増料金を徴収する、といった定めがありました。明治時代に入っても、なおさかんに利用され、昭和十年代には八王子〜川越(埼玉県)間を走る定期バスがこの渡し船を利用して多摩川を渡ったこともありました。しかし、明治後期から昭和初期にかけ、鉄道網・道路網の整備が進み、拝島の渡しは次第にすたれ、昭和二十年ころにはほとんど利用されなくなり、仮設の木橋が架けられて、細々と機能しておりました。その後、昭和三十年、拝島橋が開通し、この地は再び重要な渡河地点となって今日に至っています。
拝島橋の上流に赤いアーチが特徴的な橋が架かっています。但し、この橋は人や車は通れません。左岸の昭島市から右岸の八王子市に架かる水道専用の橋で、小作浄水場の水を八王子へ運ぶために造られました。正式名は多摩川横断水道橋ですが、地名が付いた拝島水道橋のほうが一般的となっています。赤い橋梁は新緑にも映えますが、雪景色にも合いそうです。
下流から数えて何番目でしょうか、多摩川に堰が設けられています。昭和用水堰という農業用水堰です。九ヶ村用水取水口から引く水の量が少なくなったことがきっかけで、昭和八年(1933年)に現在の場所に移動し、昭和三十年(1955年)にはコンクリート製の堰として改築されました。多摩川と秋川の合流点に位置する昭和用水堰は両川から水を取り入れて昭和用水へと流し、市域の田畑を潤しています。
河川敷を流れる用水路のような川に架かる人道橋を渡って多摩川緑地福生南公園に出ます。公園の中には人工の川が流れ、バーベキュー場も設けられているそうです。
多摩川緑地福生南公園の先には都道7号線(睦橋通り)が通る睦橋が架かっています。多摩川の対岸(右岸)には奇妙な外観の巨大な建物が見えます。何かの会社の建物かと思いましたが、パチンコ&スロットのデルパラ(DERUPARA)のあきるの店みたいです。西東京最大級とのことで、1,171台ものゲーム機が設置されているとか。私はパチンコには縁がないのですが、意外にも本社は鳥取県米子市にあるのだそうです。パチンコ業界も群雄割拠の状態なのでしょうか?
多摩川に架かる最上流の鉄橋が五日市線の多摩川橋梁です。その手前に「海から50キロ」の標識が置かれています。ということは、大師緑地から47キロ?かな?時刻は14:36分です。残り6キロなら羽村堰には16時頃到着する見込みです。マズイな!日没までに着けるかな?
遊歩道の脇に眺望案内板が置かれていました。奥多摩の山々は詳しくないのですが、案内図には、左から富士山(3776m)・生藤山(990m)・松生山(934m)・三頭山(1531m)・馬頭刈山(884m)・鶴脚山(916m)・大岳山(1266m)・本仁田山(1225m)と書かれています。山に詳しい人なら山頂の形を見ただけで山の名前が言えるかも。
福生緑地(多摩川緑地福生柳山公園)の先に永田橋が架かっています。永田橋は都道165号伊奈福生線が通り、多摩川左岸の福生市と右岸のあきる野市を繋いでいます。旧橋は昭和三十六年(1961年)に完成しましたが、大型車のすれ違いに支障があったために幅員を6mから16mに拡張し、複合トラス橋(PC箱桁橋の下フランジとウェブをスペーストラス構造とした国内初の橋梁形式)への架替工事を行い、平成二十三年(2011年)3月に完成しました。
遂に羽村堰のすぐ手前に架かっている羽村大橋が見えてきました。羽村大橋は都道250号あきる野羽村線が通っています。羽村大橋は昭和四十五年(1970年)から工事に着手し、昭和四十九年(1974年)3月に完成しましたが、都市計画で定めた幅の半分(多摩川の下流側半分)しか完成していないため、狭い歩道が片側にしかありません。このため、未整備の多摩川の上流側半分に新しい橋を整備し、現在の橋と併せて、「羽村大橋」として完成させる予定になっています。これにより、両側に幅の広い歩道が完成し、歩行者や自転車が安全・快適に「羽村大橋」を利用できるようになります。また、車道は往復2車線のままですが、奥多摩街道交差点についても改良を行い、朝・夕の混雑が緩和される見込みです。
羽村大橋を越えますと、見覚えのある給水塔(?)が視界に現れます。ゴールとなる羽村堰まではもう少しです。
と、突然に「たまリバー50キロコース」は終了となりました。羽村堰の手前ですが、遊歩道に標識がふたつ埋込まれていて、一方は始点でもう一方は終点を表しています。
標識の横には羽村堰下橋があります。歩行者と自転車専用の橋になっています。コースのゴールは羽村堰かなと思っていたのですが、この先は遊歩道が細くなるので手前にしたのかもしれません。時刻は15時27分です。何はともあれ、日暮れ前にゴールインすることができました。でも「海から50キロ」の標識から残り6キロ(53キロ【たまリバーの全長】+3キロ【河口から大師橋緑地までの距離】−50キロ【標識の海からの距離】)を1時間で歩いたことになります。そんなに早く歩いたつもりはないのですが、あの50キロという表示はどこを起点にしていたのでしょうか?何となく腑に落ちませんね。
羽村堰の手前に玉川上水の展示スペースとなっている広場があります。そこにたまリバー50キロの全体図を示した案内板が立っています。こうやって見ますと、多摩川は局地的に流路が曲っている区間はありますが、全体としては北西から南東に直線的に流れているように見えます。
せっかくなので、夏の玉川上水歩きで見落とした玉川兄弟の銅像台座裏面にあった碑文を確認します。普通は碑文は台座の前方にあるのですが、玉川兄弟の台座ではどういうわけか後方にあります。回り込めば見られるのですが、何でわざわざ後方に置いたのか理解に苦しみます。それにしても、この碑文は読み取り難いですね。
徳川氏の江戸に幕府を開くや市街を整え道路を通し衆庶の安住を計る 飲用水その主要なるを以て先に井頭溜池等の水を引いて之に充つ 三代家光の時に至って戸口増加し更にその対策に苦慮す 老中松平信綱は町奉行神尾元勝等をして多摩川の引水を計画せしむ 承應二年多摩郡羽村の生縁なる庄右衛門清右衛門の兄弟あり 触く水利に通じ土地の高低を察し幾多苦辛の末羽村に堰を設け水路を江戸四谷に通じて多摩川上水を引入れ以て市民の飲用に供す 幕府表彰して玉川の姓を免じて士分に列し明治政府また従五位を追贈す 爾来三百余年その規模は漸次拡大して今日の東京都の水道となり益々大東京の発展に寄与せり 茲に玉川氏往年創業の跡に兄弟の銅像を建設し東京都民の感謝の意を永遠に傳えんと欲す
多摩川の河岸に沿って53キロを歩き終えましたが、3日間で歩くには距離があり過ぎましたね。歩き終えた後の一週間は足裏に出来たマメの痛みで殆ど歩けませんでした。私が生きている間に羽村堰に行くことはもう二度とないでしょう。夕陽が川面に映える羽村堰に別れを告げ、帰宅の途につきます。
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