新中川コース  

コース 踏破記  

たまリバー50キロを歩いた後、足裏にできたマメの痛みに悩まされ、一週間ほど近所のお散歩で気を紛らわせていました。足裏のマメは徐々に小さくなってきましたので、無理のない範囲で河川の歩きを再開しようと思います。前に旧中川は歩いたのですが、中川本流とは別にもうひとつ都内には新中川があります。新中川は以前は中川放水路という名称だった通り、人工的に開削された河川です。都内で開削されたものとしては最も新しいのではないかと思います。時代的なロマンは感じられないとは思いますが、距離的にも8km弱と手頃な上に、帰りは別として交通の便もそれほど悪くはありません。ということで、中川と新中川の分流地点に近い京成電鉄の青砥駅に降り立ちました。  

新中川

新中川は、葛飾区および江戸川区を流れる、全長7.84km・幅員143.5mの一級河川です(人工的に開削された放水路なので川幅は一定になっています)。以前は中川放水路と呼ばれていました。葛飾区高砂で中川より分かれ、中川と江戸川の間を平行するように南下し、江戸川区江戸川で旧江戸川に合流します。昭和十三年(1938年)7月に東京東部で起こった浸水家屋6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年4月に中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置されました。しかし戦争激化のため昭和二十年(1945年)4月に計画は一旦中止となり、事務所も廃止されました。昭和二十二年(1947年)9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討されました。昭和二十四年(1949年)11月に中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化しました。江戸川区などでは多くの家屋等が立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、昭和三十八年(1963年)3月に中川放水路は完成しました。開削工事区間は約8キロメートルに及び、用地買収は32,818坪、今井水門と橋梁16橋の新設、鉄道線付替1箇所、工事費は約53億8千万円でした。昭和四十年(1965年)3月、中川放水路は一級河川に指定され、河川名が「新中川」に改称されました。


環七が通る青砥橋を渡って、新中川の開削によって分断され中州のような形状になった高砂一丁目に向います。中川と新中川の分流地点の突端に新中川開削工事を記念して造られた通水公園(奥戸三角公園とも呼ばれるみたいです)があります。公園の北端からは分流地点直前の上流に架かる美しいフォルムをした斜張橋の高砂橋が見えます。支柱が三角形の形をしていて、その上部から左右に橋を支えるケーブルが延びている珍しい橋です。現在の橋は二代目で、平成十五年(2003年)3月に開通しました。高砂橋付近には、江戸時代から明治時代にかけて「曲金の渡し」と呼ばれる中川の渡し船があり、江戸市中の人々が柴又の帝釈天への参詣路として利用していました。この「曲金の渡し」は享保十四年(1729年)に開設され、宝暦八年(1758年)に場所替えをするなどしながらながく利用されてきました。



公園の一画には巨大な石柱が立っています。何かの構造物をモニュメント化したもののようですが、よく分りません。



その隣りに黒光りする3個の石を繋いだ記念碑が置かれています。表面には「中川放水路通水記念碑」と書かれています。一枚石でないところに何か意味が隠されているのでしょうか?裏面に回りますと、文字でびっしりと埋め尽くされています。設置された当初は黒地に白の文字で読みやすかったのでしょうけど、年月を経て黒地と白字のコンストラストが失われ、殆ど判読不能になっています。何とか書き写したのですが、折角の記念碑なので時折修復がなされれば訪れる人にも読んでもらえると思うのですけど。

中川放水路のあらまし

この地方は昔から高潮や洪水による水害をしばしばうけてきましたので、東京府は昭和十三年に中川・綾瀬川および芝川の三河川総合改修計画をたて、ニ千四百十九万円の事業費をもって着工しました。とくに中川改修事業は足立・葛飾および江戸川の各区と埼玉県の一部にわたる地域の洪水をふせぎ、かつその排水と舟運のため着工しましたが、第二次世界大戦のため昭和十九年には工事が中止されて、一部の用地買収と一部の護岸工事ができただけでした。しかしこの地方が昭和二十二年九月のカスリーン台風による洪水のため利根川の堤防がこわれて大きな被害をうけましたので、ふたたび中川改修工事を再開する声がたかまり、東京都はさきの計画に再検討を加え、財政上の理由から九億九千五百万円の事業費をもつて中川放水路の開削だけを実施することになり昭和二十四年から工事を再開しました。この工事中に物価の値上り・用地の買収などといろいろ困難な問題がおきて工事はしだいにおくれ、たまたま昭和三十四年の伊勢湾台風による高潮の水位が意外にたかかったことから、この事業の一部を変更し事業費が増額されていましたが、ついに昭和三十八年三月十六日第一期工事を完成し通水に成功しました。この放水路は着工以来長い歳月と多額の事業費と多くの人員が投入されて完成しました。また祖先伝来の土地を提供された地元民の協力と工事担当の建設業者の尽力とこの事業関係の都職員の努力によってできあがったもので、この地方をながく水害から守る事ができるようになりました。この放水路の概要は左記の通りですが、第二期工事の完成によってその流量はさらにふえることになります。(以下略)




新中川の良いところは、開削されたのが60年前と比較的最近なので遊歩道が歩きやすいことです。他の人工河川だと途中で行き止まりになったり、整備されていない箇所があったりするのですが、新中川の遊歩道は設計の段階から遊歩道を取り込んでいるみたいで、路面もしっかり鋪装してあったりと気持ち良く歩けます。河川敷も十分な広さが確保されていて、見た目も綺麗です。



新中川には道路橋と人道橋が併用されています。道路橋の間隔が空いているところには人道橋が架けられ、元々は地続きだった地元の人達にも不便を与えないように考えられているようです。親柱のデザインにもレトロ感があって、映えますね。



遊歩道はお散歩の人だけでなく、ジョギング愛好家にも開放されています。橋間の距離が表示されているので、走るペースを計るには便利です。ただ、右岸と左岸では橋間の距離が微妙に違うため注意が必要です。トイレはおおむね橋の近くに設置してあり、走りを中断してトイレを探し回る必要はありません。



冬の今の時期は川の水量が安定しているので、どこも河川工事が集中します。護岸工事だけでなく、多摩川でもそうでしたが、橋の架け替え工事もこの時期だけ行なわれています。当然、遊歩道は閉鎖され、迂回を余儀なくされますが、新中川では対岸の遊歩道を歩けば川から離れることはありません。現在、新中川に架かる橋は架橋から60年近く経過していて、八剱橋と松本橋が架け替え工事の真っ最中です。架け替えといっても簡単ではなく、仮設橋の建設とか橋脚・橋台の設置とか本体の敷設とか仮橋の撤去とか、とにかく時間がかかります。この八剱橋の架け替え工事も、平成二十八年度に着工し、完成は令和九年度の予定だそうです。今期は2本目の橋脚工事が行なわれており、その次には橋台の設置が予定されています。スマートな朱色の新橋がお目見えするのはまだまだ先のことです。尚、橋脚とは「連続桁のような2径間以上の構造の橋を支えている足のこと」で、橋台とは「橋の両端にあって、橋を支える構築物のこと」だそうです。



前方にトラス橋(桁の部材を三角形状、つまりトラス形状に組んだ構造形式の橋)が見えてきました。全長1,097メートルのJR金町線中川放水路橋梁です。京成の金町線なら知っていますが、JRの金町線という名前は初めて見ました。正式な名称は「新金線」で、江戸川区にある小岩駅と葛飾区にある金町駅を結ぶ総武本線の貨物支線です。全線にわたり単線となっていますが、複線化するための用地と共に、複線用の橋梁の橋脚も当初から現在の橋梁の上流側に確保されています。単線の橋梁を見た時は、何故本体の架かっていない橋脚が橋梁の横に設置してあるのか理解できませんでした。確かに、将来の複線化を見込んで橋脚だけを用意しておくことは複線化時の費用の節約になるのかもしれませんが、長年のコンクリートの劣化を考えると果たしてそこまでするのが良かったのかどうか評価が分かれるところです。



新中川にはもう一本の橋梁が架かっています。同じくトラス形状の総武本線中川放水路橋梁です。こちらは最初から複線になっています。



新中川に架かる橋にはいろんな形状があって、橋マニアでなくても興味をそそられます。辰巳新橋はアーチの形をしていますが、アーチの天井が繋がっていて、そこから左右の橋桁にケーブルが延びています。しかも、そのケーブルが網の目のように交差しているところがユニークなところです。他では見かけない構造ですが、強度が優れているのでしょうか?



辰巳新橋の袂に地域の案内板が立っていました。新中川の右岸の地名が「上一色」となっています。小学校・中学校の校名にもなっていますね。どこかで聞いたことのある地名だと思っていましたら、オウム真理教のサリン施設のあった山梨県の上九一色村を思い出しました。地名の間に「九」が入っているので関係ないと思うのですが、地名の由来を知りたいものです。



今井水門まで5kmのところまで来ました。遊歩道には今井水門からの距離が500m毎に表示してあります。長年の懸案であった、歩数と換算距離を確かめる絶好の機会です。iPhoneのヘルスケアアプリでは自動的に歩いた歩数がカウントされ、記録されますよね。ところが歩いた距離は歩数に加えて歩幅が分らないと換算できません。以前、ある距離を歩き、そのときの歩数で割って歩幅を求めたことがあります。それから10年以上ずっとこの歩幅を使って歩行距離を算出してきたのですが、本当に正しいか確信が持てませんでした。今回遊歩道の距離表示を使っていろんな区間で計測してみたのですが、今まで使っていた歩幅とほぼ同じという結果になり、今までの換算距離がそれほど間違っていなかったことが分りました。私は気が付かなかったのですが、iPhoneのiOS14からは歩幅が自動的に記録されるようになりました。「ヘルスケア」アプリで「ブラウズ」タブを開き、「歩行」項目をタップすれば、歩行速度や歩行両脚支持時間に加えて1日前の「歩幅」情報が表示されます。この「歩幅」項目をタップすると、過去に記録された歩幅情報にアクセスできます。表示モードは日/週/月/年単位で切り替え可能です。どうやって歩幅を算出しているかですが、「ヘルスケア」アプリに登録されている身長を元にしてアルゴリズムが作られているのではないかと噂されています。日本人と欧米人とでは脚の長さが違いますから、国の違いも考慮されているのでしょう。iOS14には最近アップデートしたのですが、ヘルスケア情報には確かに歩幅が記録されていました。しかも、新中川で計測したのと1cmしか違いません。驚くべき精度です。短脚の私の歩幅は恥ずかしいので書きませんが。。。



ひときわレトロな親柱の小岩大橋にやってきました。10年ほど前に「街道を歩く:東金街道コース」で通った橋です。案内板には、江戸時代はこの橋を通る道は「元佐倉道」と呼ばれていたと書いてあります(新中川が開削される遙か前ですから、現在の小岩大橋はなく当然地続きでした)。古くは日本武尊がこの街道筋の現在の船橋市に上陸し、行基菩薩作の仏像もこの街道筋の寺院に残っています。更級日記の作者藤原孝標の娘一行や源頼朝公・日蓮聖人・連歌師柴屋軒宗長もこの道を通ったことでしょう。戦国時代には安房里見氏を始め多くの武将が闊歩し、徳川家康が鷹狩に行く道として船橋以東を御成り街道として整備しています。歴史上の有名人が通り、多くの足跡や万葉集はじめ多くの文学に詠まれ名所がこの道に残っています。小林一茶・松尾芭蕉・十返舎一九など江戸時代を代表する歌人や文人、正岡子規・伊藤佐千夫・高濱虚子も元佐倉道を通り、それぞれの時代の風景を記しています。橋の案内板には、「元佐倉道は将軍鷹狩の道として交通の便を最優先させ、村落や耕地を無視して造ったため、今も直線道路としてその名残をとどめています」と書いてあります。ちなみに、小岩大橋の灯具の上には鷹をモチーフにした像が配置されています。鷹を見上げて東金街道との関係を思い浮かべる人はいるのでしょうか?

小岩大橋と千葉街道

現在の千葉街道は、江戸時代元佐倉道とよばれていました。元佐倉道は、房総の諸大名の参勤交代路であると同時に、江戸中期以降は庶民の往来でにぎわった道でもありました。また本道は将軍鷹狩りの道として交通の便を最優先させ、村落や耕地を無視して造ったため、今も直線道路としてそのなごりをとどめています。現在の新中川は、中川の洪水があまりにも大きな被害をもたらすことから、昭和十六年から幾多の障害を乗り越え、昭和三十八年に出来た放水路です。この川と千葉街道が交差するところに架かる橋が小岩大橋です。このたび、小岩大橋を整備するに際し、昔日のおもかげを偲ぶ意味から、灯具の上に鷹を配し、高欄には自生している「葦」をデザインしたパネルを設置しました。




八剱橋と同じく、松本橋も架け替え工事が行なわれています。現在は橋脚・橋台と護岸工事が進行中のようです。八剱橋は橋桁が朱色に塗られるようですが、松本橋は真っ白な橋になるようです。地元の人には完成が待ち遠しいですね。



新中川は直接海に流れ出している訳ではありませんが、川岸のところどころにマリーナ(小型船舶の係留施設)が設けられています。中には不法に設置してあるものもあるようで、河川管理上の問題から撤去されることもあるとか。船舶は小型といえども簡単には処分できませんので、維持できなくなったオーナーに放棄される船もあるのでしょう。



遊歩道の脇に、新中川に架かる橋の一覧が表示してありました。次の橋までの距離も併記してありますので便利です。手前が京葉道路の通る一之江橋、奥の高い橋脚の橋が首都高小松川線が通る新中川道路橋梁です。



新中川を斜めに横断している橋が明和橋です。今井街道から川沿いに北上した道路を明和橋通りに繋げるのが明和橋です。新中川が開削される前は今井街道から真っ直ぐに道路が延びていたのでしょう。

明和橋完成記念碑

明和橋は、新中川の開削(昭和十六年から昭和三十八年)にあわせて、昭和三十四年に完成しましたが、車道・歩道とも幅員が狭く、また老朽化が進んで来たため平成元年十月より架け替えに着手し、平成四年六月、完成しました。江戸川区は、新中川橋梁の整備に当たり、「水とみどりのネットワーク」づくりの一環として、「水辺と橋の織りなすコミュニティ回廊」の形成を目指してきました。この中で、今後一層の都市化が進む新中川下流域において、明和橋は「ゆとりと賑わい」をテーマに街並みに映える風格ある橋として整備しました。橋名のとおり、「人々が明るく和やかに集える橋」として、地域の交通はもとより、コミュニティの場としても広く利用されることでしょう。ここに本橋の完成を託念し、永く後世に伝えるためにこれを誌す。




新中川にはもう一本鉄道が通っています。といっても、橋梁ではなく、河底の下にトンネルが通っているのです。都営新宿線の一之江駅の直ぐ先が新中川の河底の下のトンネルに繋がっている訳です。この区間はずっと地下を走っているので気がつきませんが。ちなみに、都営新宿線のこの区間が開業したのは昭和六十一年(1986年)で、新中川が完成してからずっと後のことです。



瑞江大橋の袂に「歴史と文化の散歩道:一之江名主屋敷散歩コース」の案内板がありました。10年以上も前にここを訪れていたんですね。当時の記憶は全くありませんが、よくこんなところまで足を延ばしたもんです。

一之江名主屋敷散歩

一之江名主屋敷散歩は、新中川の瑞穂大橋から都営新宿線瑞江駅までの約3.5kmのみちのりです。田園の面影が残る中、かつて一之江新田を開拓し、代々名主をつとめた田島家の屋敷や、多くの歌舞伎俳優が眠る大雲寺をめぐる散歩道です。


おくまんだしの水と熊野神社

宝永年間(1704年〜1711年)に創建された熊野神社は、「おくまん様」と言われ、船人の信仰を集めていました。熊野神社前の江戸川は、水流の関係で深い淵となっており、水流から堤を守るためたくさんの「だし抗」が打ってありました。この付近の水はきれいで美味しいことで有名で、徳川将軍家でも茶の湯に用いたと言われています。そこで人々はこの水を「おくまんだしの水」と呼んで珍重しました。熊野神社の境内には、芭蕉の句「茶水汲むおくまんだしや松の花」の碑があります。




瑞江大橋の袂にはもうひとつの石碑があります。一部が煉瓦で覆われていて、大きな石板には何やら文字が書いてあります。何が書いてあるか確かめないまま、何かの標識だろうと思ってシャッターを切りました。家に帰って写真を拡大してみますと、「瑞江葬儀所 ← 入口」と読み取れます。こんなところに葬儀所が?とネットで調べてみましたら、瑞江葬儀所は東京都の公営火葬場なのだそうです。都内には葬儀のみ行なう斎場は多くありますが、殆どは火葬場を併設していません。ちなみに、都内の火葬場は23区内では公営2ケ所(臨海斎場と瑞江葬儀所)と民営の7ケ所、23区外では公営8ケ所と民営の1ケ所となっているそうです。瑞江葬儀所には葬儀用の式場はなく、火葬設備のみ設置されています。1938年に使用が開始され、開設当初から他の模範となりうる理想的な火葬場として運営されてきた近代火葬施設の草分け的存在でもあります。1975年には新施設が運用を開始し、火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化・燃料のガス化・控室の個室化・火葬受付件数の設定を行いました。私もいつの日かお世話になるかもしれません。



瑞江大橋は今井街道が通る橋ですが、旧江戸川との合流点手前に架かるのは瑞穂大橋です。何だか紛らわしいですね。瑞江大橋の袂には魚釣りの格好をした少年の像が立っています。ご機嫌な顔をしていますが、釣果はあったのでしょうか?



瑞穂大橋の手前に新中川をまたぐように今井水門が設置されています。本来は門扉は7門あるのですが、現在は4門が稼働中です。残りの3門は耐震補強工事のために建て直し中となっています。すでに巻上機室は取り外され、堰柱の補強工事に入っているようです。今井水門は昭和三十七年に造られましたが、耐震補強工事を施してより頑丈な水門にするということのようです。水門は地震でダメージを受けるとうまく閉まらなくなってしまい、水門本来の役目である水の堰き止めができなくなるのです。確かにそうなってしまっては高潮・津波は防げませんからね。この水門、実は東京都内で最大級なのだそうです。



新中川と旧江戸川の合流地点に架かる瑞穂大橋にやってきました。橋名の下には魚釣りをしている人の様子が描かれています。さきほど見た少年に似てますね。



ということで新中川を歩き終えました。都内で最も新しい放水路ということもあって、遊歩道はとても歩きやすかったですね。案内板も各所に設置されていて、初めての人でも迷うことなく歩けます。時刻は14時ちょうどです。ちょっと遅めですが、近くに駅がないので、この後は旧江戸川を歩いた時に見かけた新川を歩きます。午前中はよく晴れていたのですが、空には厚い雲が広がってきています。新川を歩き終えるまでお天気が持つか、イマイチ心配なんですけど。。。




戻る