- 新川コース
- コース 踏破記
- 旧江戸川を歩いた際に、今井水門の先に新川東水門という立派な施設を見かけました。今は耐震補強工事が行なわれていて迂回を余儀なくされ、その時に通ったのが新川に架かる新川口橋でした。年季を感じさせるコンクリート製の親柱は傷だらけで、手摺りの塗料もはげ落ちかかっていたので、その時はこんな橋が架かる新川はドブ川みたいなもんだろうと思っていました。私が歩けそうな東京の河川も残り少なくなり、どうしようかなと思っていた時にふと新川の存在を思い出しました。ネットで調べてみましたら、新川には綺麗な遊歩道が整備されているとのことです。ちょっと興味が沸いてきましたので新川を歩くことにしました。新川は旧江戸川と中川を繋ぐ水路です。旧江戸川に面して新川東水門、中川に面して新川西水門が設けられています。どちらが上流かというと、旧江戸川から水を取り入れて新川に流し、中川に排水しているということなので、新川東水門が上流側ということになります。ということで、新中川に引き続いて今井水門からほど近い新川東水門から新川を歩くことにします。出掛ける時は冬晴れだったし、この時期お天気は安定しているので、折りたたみの雨傘は持ってきませんでした。でも、何だか空に雲が広がってきましたね。時刻は午後の2時過ぎですが、大丈夫でしょうか?
新川
新川は、天正十八年(1590年)に江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削されました。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路となり、特に行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。現在では鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺として活用されています。また、平成六年から平成十九年まで護岸の耐震や環境整備を東京都が実施し、新川橋から東水門までを除く約2キロメートルを整備しました。その後江戸川区が都の未整備箇所の整備をするとともに、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を平成十九年4月からスタートさせました。平成二十三年度に計画の一部見直しを行い、平成二十六年度には、耐震護岸整備及び遊歩道整備が全川3キロメートルにわたり完了しました。春には20種・718本の桜が遊歩道を行き交う人々の目を楽しませています。
江戸時代 【開削・拡張と船運の開始】
天正十八年(1590年)、行徳の塩を江戸へ廻送するため舟運が始まりました。かつて船堀川とよばれていた新川は、当初現在の新川橋付近までで、そこから古川(現在の古川親水公園)を通って江戸川と繋がっていました。寛永六年(1629年)、幕府は船堀川の三角渡し(現在の三角橋)以東を掘り拡げ、三角から東の江戸川までは新たに陸地を一直線に開削しました。もとの川を古川、新しい川を新川と呼ぶようになったのです。寛永九年(1632年)には幕府直轄の客船「長渡船」が就航しました。
明治・大正時代 【蒸気船運航】
明治時代になると、利根運河が完成し、蒸気船が運航を開始しました。最初に登場したのは長距離路線で、東京〜銚子間を結び、成田参詣の客に人気となりました。総武鉄道の運行と共に短距離路線へと移り変わり、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始め、浦安と江東区の高橋の間を往復していました。
昭和時代 【運河から憩いの水辺へ】
昭和に入ると荒川放水路が完成し、昭和三年(1928年)には葛西橋、昭和十五年(1940年)には浦安橋が架橋されました。時代は徐々に陸上交通に移っていき、東に大きく流れを変えた中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられました。新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようになりました。新川は船の就航は行われなくなり、昭和五十四年(1979年)に船堀閘門も閉鎖されましたが、都市空間の中の貴重な水辺として親しまれてきました。
平成時代 【新しい集いと憩いの川辺づくり「新川千本桜計画」】
平成四年(1992年)から東京都による護岸工事・耐震工事が始められ、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が造られました。歴史あふれる新川を地域の人々の心の故郷・誇りとしていつまでも慈しんでもらえるよう『新川千本桜計画』が開始され、新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所として潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間の創出が図られています。
新川ってただのドブ川かと思っていましたら、なかなか歴史ある川(水路)なんですね。そういえば、小名木川を歩いた時に仙台堀川公園の入口で「塩の道」の案内板がありましたね。新川も塩の道の重要な位置付けだったわけです。新川東水門は堂々とした偉容を誇っています。とてもドブ川の水門とは思えません。旧江戸川と中川の水位差を考えると、これくらいの施設は必要なのかもしれません。
水門は立派ですが、その周辺は雑草が生茂っていて、新川の流れも細くてよく見えません。水門のすぐ手前には新川口橋が架かっています。旧江戸川を迂回した時に通った橋です。橋の周辺の道路もボロボロですが、その先には突然整備された公園が見えます。
公園というより広場といった感じですが、その脇に案内板が立っています。現在、千葉県では盛んに梨が栽培されていますが、新川梨がルーツというわけではないそうです。ちなみに、私の好きな二十世紀梨は鳥取県が主生産地ですが、そのルーツは千葉県の松戸だそうです。
新川梨について
享和(1800年頃)の時、大塚宗蔵は新川の南で梨の栽培を始めた。改良を重ね文政四年(1821年)の秋収穫した梨を幕府に献上し好評を得、その後も毎秋幕府に納めた。この梨は、甘く柔らかく歯切れがよく天下にない味覚で「新川梨」と呼ばれ江戸の町でも売られ、新川周辺で栽培も広まったが、大正六年(1917年)の大水害で被害を受け、その後梨栽培は衰退した。文政八年(1825年)宗蔵の子吉豊は父の一周忌にあたり業績を刻んだ石碑「楽誉君種梨樹碑」を梨園に建てた。この碑は、現在大塚家の菩提寺今井の淨興寺に移されている。
公園の先から本格的に新川の遊歩道が始まります。遊歩道は「新川千本桜」とも呼ばれています。新川の成り立ちと新川千本桜を解説した案内板が遊歩道の脇に立っています。
新川千本桜
新川
かって、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。天正十八年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳までの航路として、道三堀・小名木川と共に開削が計画され、実行されました。寛永六年(1629年)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行コの塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの様々な物資を運び、客船が行きかう重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わっててきました。しかし、昭和に入り荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。その後、平成五年より耐震護岸整備、親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。
新川千本桜
平成十九年四月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」が始まりました。新川の全長約三キ口メー卜ルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。
案内板には「塩の道」というタイトルで新川の全体像が描かれています。かっての古川との分岐点であった三角橋や、東京都が行なった耐震環境整備の東端である新川橋の位置関係がよく分りますね。また、江戸幕府によって開削された三角橋から新川東水門までの水路が真っ直ぐに延びているのも見て取れます。
この案内板は同じ内容で何ケ所か設置されているのですが、その場所を代表する写真や絵がそれぞれに挿入されています。この場所には歌川広重が描いた利根川(現在の旧江戸川)の様子が添えられています。誇張した投げ網の描き方がいかにも広重の浮世絵っぽいですね。
名所江戸百景 利根川ばらばら松 歌川広重
この利根川は、現在の江戸川(旧江戸川)です。場所は、新川東水門付近か妙見島あたりといわれています。帆舟や筏が通航し、松が風趣を添えていました。大きく投綱が描かれています。
さて、いよいよ遊歩道の始まりです。新川の東端は樋門で旧江戸川と繋がっているようです。大きく口を開けた導水管からは水が勢いよく流れ出ています。旧江戸川の水を新川に取り込んでいるのでしょう。導水管の出口の先の正面には水の勢いを弱めるためでしょうか、小山が置かれています。西に向って真っ直ぐに延びた新川の両岸には真新しい柵で囲われた遊歩道が続いています。
遊歩道の所々には休息所が設けられています。また、野鳥が飛来するのか、川面には鴨(?)が群れています。お散歩中の老夫婦が餌でも撒いているのでしょうか?
遊歩道には植樹スペースも併設されています。標識とか照明設備も置かれています。夕暮れ時の夜桜見物はさぞや風情があることでしょう。
新川の中程に花見橋が架かっています。橋というより、川の上に広場を造ったみたいな感じです。なので広場橋と呼ばれています。普通、お花見は川辺にシートを敷いて宴会をするものですが、川の上でお花見とは風流です。橋とはいっても広場なので、通行の邪魔にはなりませんね。でも密になるのは必至ですから、コロナ対策として今年のお花見も花見橋での宴会は禁止になるかもしれませんね。
環七が通る新川大橋の袂に新川千本桜の案内板が立っています。内容は遊歩道の起点にあったものと同じですが、船運が盛んだった頃の川の様子が写真に収められています。長閑な風景ですね。
新川を行きかう船
新川は、江戸時代頃から昭和の初期に至るまで、舟運の重要な川でした。明治になると、利根丸・通運丸・銚子丸等の旅客船や貨物船が就航しています。上の写真は、明治十年に就航した「通運丸」です。両国から銚子まで運行していました。下の写真は、高橋(江東区)と浦安の間の定期船である葛飾丸などの小型船でエンジン音から「ポンポン蒸気」と呼ばれ親しまれました。
新川の中程に「新川さくら館」というお休み処があります。瓦葺きの立派な建物です。新川を散策する人達の休憩スペースとなるだけでなく、イベントや文化活動・軽運動・会合を行うことができる多目的ホールや集会室等の施設も併設されています。新川さくら館では、年間を通して様々なイベントを実施しているそうです。現在はコロナ禍で利用は制限されているみたいですが。
小江戸といえば川越ですが、新川の遊歩道も江戸情緒が盛り込まれています。橋の名前が「小江戸橋」であったり、木製の灯籠が時代劇風であったりと、江戸時代にタイムスリップしたような感覚です。と、ここで雨粒がポツリ。空を見上げると雨雲が一面に広がっています。天気予報では雨が降るなんて一言もいってなかったのに。夏だったら用心のために常に折りたたみ傘を手提げの中に入れておくのですが、嵩張るので今の時期は出掛ける時にお天気であれば置いていきます。困ったな、近くにコンビニもないし、帽子も持ってきませんでした。しょうがない、雨に濡れながら残りの道を急ぎます。
小江戸橋から宇喜田橋の手前までの遊歩道に地下に通じる入口が開いています。駐輪場か何かだろうと思い、写真を撮らなかったのですが、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が造られているのだそうです。莫大なお金がかかった割には利用者が少なく、新川千本桜計画と共に議会でも問題になったようですが。確かに、新川の遊歩道は私が歩いたどの河川よりも整備されているという印象を受けます。利便性と投資効果のバランスは難しいものです。
宇喜田橋
初代の宇喜田橋は、昭和四年に架設され、賃取橋でした。写真手前の橋は、昭和十五年に木造で架橋された二代目で、当時はお屋敷橋とも呼ばれていました。写真奥の橋が、昭和三十二年に架設された日本初の鋼床版橋であり、現在も利用されています。なお、写真は宇喜田橋の西側から撮影されたものです。
遊歩道の脇に3本の石柱が立っています。何だかヘンな形をしているので、案内板が外された支柱かと思い、悪いことをする人もいるもんだと告発の意味も兼ねて写真に収めました。帰ってからよくよく見ると、各支柱には銅製の小さな船の模型を治めた四角い容器が飾られています。その下にはプレートがあって、何やら書いてありますが読み取れません。真ん中の支柱に飾られているのは、船の形状からして「通運丸」と思われます。蒸気船通運丸は廃業までに40隻近くが建造されました。第一通運丸は石川島平野造船所(東京都)で明治十年2月に竣工しました。全長72尺(約22m)、速力6ノット(時速約11km)でした。吃水の浅い外輪船が水深の浅い江戸川の航行に適していました。船体は木造で、船室は上中下の3等にわかれ、床下に荷物を積みました。この第一通運丸を購入して就航させた内国通運会社は、政府の庇護のもとに全国の貨物輸送を一手に扱うまでになり、舟運にも力を入れていました。明治十年2月24日の試運転は、両国から本所竪川を通って中川に入り、新川・江戸川を上って利根川の大越(埼玉県加須市)までを往復したといいます。5月1日に営業を開始し、第二・第三・第四と相次いで就航しました。通運丸の出発した原発場は当初深川の扇橋にありましたが、両国橋の袂にあった当時の東京市日本橋区米沢町三丁目の隅田川西岸両国橋際と日本橋区蠣殻三丁目の隅田川西岸に移りました。両国橋原発場は主として上利根方面、蠣殻町原発場は主として銚子方面に向かう船が出発していました。これらの原発場から終着地までの沿岸各地に寄航場があり、航路に応じて旅客や貨物を中継していました。江戸川区付近では、新川沿岸に船堀汽船寄航場(新川南岸)・栗渡汽船寄航場(新川南岸)・三角汽船寄航場(新川北岸)・桑川汽船寄航場(新川南岸)・新川口汽船寄航場(新川北岸)がありました。明治二十七年7月に市川〜佐倉間に鉄道が開通し、12月に市川〜本所(錦糸町)間が開通しました。開業当時の駅は、本所・亀戸・市川・船橋・幕張・千葉・四街道・佐倉の8駅でした。明治三十年6月には、成東・八日市場経由で銚子まで延長され、明治三十七年に本所〜両国橋間が開通して両国〜銚子間が鉄道で結ばれました。鉄道輸送網の発達に対し、航路を縮小し、運賃を値下げして対抗しましたが、時代の波には勝てず、大正八年12月17日をもって東京通船株式会社に譲り、内国通運は利根川水系の水運から手を引きました。東京通運株式会社に移った通運丸はその後も霞ヶ浦周辺、あるいは利根川・江戸川にもその姿をとどめていたようですが、昭和二年〜六年頃に姿を消しました。
遊歩道の脇に銅板に彫られたプレートが置かれています。内容は今まで出てきた新川の解説と重複するところも多いのですが、一番お金がかかっているように見えます。
新川
新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永六年(1629年)に三角から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。この新川は、銚子や行徳から年貢米・味噌・醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣の人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れをなし、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、昭和十九年(1944年)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業排水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和四十七年(1972年)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。まず、昭和五十一年(1976年)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して、安全性を向上させました。そして、旧江戸川から浄化用水を取り入れ中川に排水しています。一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込みきれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。平成五年(1993年)からは念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て、今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。
新川が中川に合流する新川西水門の手前に船堀中公園があります。小さな公園ですが、地域の歴史を記した案内板が草むらの中に立っています。
「船堀中公園」整備にあたり
船堀村の南を流れる川(現在の新川)は舟入堀と呼ばれ、やがて船堀川となったと伝えられています。「慶長十九年(1614年)宇田川弥次右工門初代、船堀村開発」と宇田川家の石碑に記述が残っています。宇田川・鈴木両氏が船堀開村時の草分けとの説もあり、この頃光明寺が開山され山王社(現日枝神社)が勧請されています。元禄の頃、現在の船堀中公園の西を流れていた水路(法然寺川)を境に西組と東組に分かれ、西組には稲荷社が鎮守として勧請され、西船堀の開発が進みました。「新編武蔵風土記稿」(文政年間刊)には、「公へは船堀村とのみ書し東西の分ちなし、されど村内に西組・東組と分ちて自らニ村ノ如し」と記されています。明治二十二年(1889年)の市制・町村制施行時に、西船堀村・東船堀村に現南船堀地区を合わせて船堀村としました。明治四十四年(1911年)に着工した荒川・中川放水路の開削により、西船堀地区は約百四十町歩が買収され、約百十戸が移転し、稲荷神社も現船堀一丁目に遷宮されました。
新川西水門の手前の左岸に何やら年代物の土塀が続いています。これは修景土塀といい、周辺景観向上の一環として、第一三共株式会社からの寄附をもとに、既存の壁を生かしながら江戸の景観を模した壁の設置を行ったのだそうです。壁の内側は公園になっています。
新川西水門の巨大な姿が見えてきました。近くで見上げるとその大きさが実感できます。
新川西水門の周辺には新川西水門広場が設けられています。ここにも新川千本桜の案内板が立っています。この案内板では歌川広重によるかっての中川口の風景が描かれています。これによると、中川と新川・小名木川が平面交差しています。荒川放水路がまだ開削されていない時代だったので、船の往来には何の支障もなかったのでしょう。
名所江戸百景 中川口 歌川広重
手前が小名木川で、左下に中川番所の建物や石段が描かれています。中央を左から右に中川が流れ、その奥が新川です。江戸時代から昭和中頃まで、水運の動脈でした。この絵にも材木筏や船の通行の盛んであった様子が描かれています。
新川西水門広場には、塩の道・新川という案内板も立っています。
案内板には3項目について写真付きで解説されています。新川西水門広場を整備するにも多額のお金がかかったことでしょう。
新川西水門広場
新川西水門広場は、新川千本桜の起点として整備され、敷地内には、昔ながらの石積や本瓦葺き屋根の白壁、桜を基調とした植栽等を配置した江戸情緒釀す広場です。その他に、白壁の蔵を模した手洗所や、新川千本桜のモニュメントとなる火の見やぐらがあります。この火の見やぐらには、開放時に登ることができ、あたりを一望することが出来ます。
私は見落としたのですが、旧新川西水門の一部が保存されているそうです。現在の水門とは形状は違いますが、巨大であったことは間違いありません。
新川西水門跡
高度経済成長時において、工業化による地盤沈下が進み高潮に耐えられなくなったため、昭和三十七年から昭和四十年にかけて東西の水門を、昭和四十一年から昭和四十三年にかけては、新川排水機場を設置しました。台風等の高潮や異常潮位に際しては東西の水門を閉鎖し、閉鎖中の水位の上昇に対しては、排水機場から中川に排水していました。昭和五十一年以降は東西水門を常時閉鎖して新川の水位をAP+0.5メートルまで低下させて安全性を確保しました。そして、水門の役目を終わった新川西水門がここにあったことを記憶に留めておくために、その柱の一部を残しました。
新川西水門広場には目玉となる火の見やぐらが建てられています。見上げるような大きさで、内部は無料公開されているとのことですが、雨が降っていることもあって入れるかどうかよく確かめませんでした。
火の見やぐら
【高さ五丈(15メートル)、根開き三間(5.4メートル)】
「火事と喧嘩は江戸の華」とはよく聞く言葉ですが、最初に江戸の町を襲った大火は、明暦三年(1657年)のいわゆる「振抽火事」です。大火の翌年(1658年)に、幕府直属の定火消が設けられた際、火消屋敷の敷地内に火の見やぐらが四箇所に建てられました。火事を警戒するために常時上って監視し、火災のときには出火場所の方向、距離などを見定めるためのやぐらでした。やぐら上には半鐘が設置されており、これを打ち鳴らして火事を知らせました。火の見やぐらは、高さ三丈(約9メートル)根開き二間(3.6メートル)で最も格式が高かったものを模して新川の江戸城に一番近い新川西水門広場に新川千本桜のモ二ュメントとして設置しました。
何とか新川を歩き切ったので、雨の中近くの船堀駅を目指します。幸いにして小雨だったのでズブ濡れにはなりませんでしたが、雨の中のお散歩はイヤですね。
戻る