- 三田用水コース(1)
- コース 踏破記
- 年末が近くなってきました。6月から始めた「東京の河川を歩く」シリーズも半年が経過し、そろそろ終わりが近づいてきました。まだまだ歩きたい河川はあるのですが、近場には殆ど残っていないので新川を最後にしようかなと思っていたのですが、目黒を歩いているときに日の丸自動車教習所の前で三田用水のモニュメントが目に留まりました。この道は目黒駅から山手線沿いに恵比寿駅に行くときに通るのですが、今まで何度も目にしながら三田用水には全く関心が沸きませんでした。そもそも目黒の地に用水が流れていたなんて想像もできませんでしたからね。今までは「ふ〜〜〜ん、三田用水かぁ」で通り過ぎていたのですが、六郷用水なんかを歩いてみて三田用水も歩けるかもと思い、家に帰ってからネットで調べてみました。
三田用水
三田用水は、かつて世田谷区北沢から目黒区三田方面を経て白金猿町に流れていた用水路で、既に廃止されています。世田谷区北沢(旧・下北沢村)において玉川上水から分水され、目黒区駒場と渋谷区大山町・上原・富ヶ谷・松濤との境界付近、神泉町・恵比寿・目黒区目黒付近等を流れ、三田方面に向かっていました。区間の多くが渋谷川水系と目黒川水系の間の稜線にあたる台地上にありました。概ねこの区間に沿う形で流れ、現在はその跡を都道420号鮫洲大山線・補助54号線・山手通り(一部は旧道)等が通っています。暗渠化されていたこともあり、遺構はあまり多く残っていませんが、玉川上水からの分水地点や現在の東京大学駒場キャンパス付近の一部等にその痕跡が見られます。元々灌漑用水でしたが、明治時代以降に付近の市街化に応じて、水車動力用・工業用水としての役割が大きくなってきました。三田用水の起源は江戸の六上水のひとつであった三田上水で、寛文四年(1664年)に開削され、玉川上水を下北沢村から分水して、代々木・渋谷・目黒・大崎・白金付近まで開渠で導き、伏樋で伊皿子・三田まで給水しました。中村八郎右衛門・磯野助六の両名によって開かれたといわれています。享保七年(1722年)に三田上水は廃止になったものの、分水を農業に用いていた周辺農村の願い出により、享保九年(1724年)に三田用水として再開され、世田谷・麻布などの十四ヶ村に給水しました。周辺の村では、これを基に互いの調整を図りながら開墾が進みました。明治時代に入ると、この水を利用した水車小屋が見られるようになり、さらに海軍火薬工場の動力として使用された時期もありました。明治二十三年(1890年)、水利利用組合が結成され、豊富な水利に着目して、エビスビールを製造する日本麦酒(後に大日本麦酒と合併)の工場が現在の恵比寿ガーデンプレイスの地に開設されたのもこの時期です。開設当時は工場と地域農民との間で水利をめぐるトラブルもありました。二十世紀に入り周辺の市街化が進むと灌漑用水としての利用は失われ、さらに電気の普及もあって動力としての利用も減少していきました。昭和四年(1929年)以降、大日本麦酒の負担によって水路の暗渠化が進められ、並行する道路の拡幅用地にされました。戦後は更に利用の減少が進み、昭和二十七年(1952年)の土地改良法の施行にともない、普通水利組合は法定解散となりました。昭和四十九年(1974年)に三田用水は廃止されました。
三田用水(もともとは上水だった)が玉川上水から分水したのは北沢(京王線の笹塚駅の近くらしい)で、枝分かれはしていたものの本流の終点は白金(都営浅草線の高輪台駅近辺)だそうです。大した距離もなさそうだし、お正月前の腹ごなしに丁度いいかと思って歩いてみることにしました。改めて日の丸自動車教習所前のモニュメントを眺めてみます。三田用水の流路図はあるのですが、大まかすぎてその跡を辿るのは無理です。ネットで調べても正確な流路は掴めません。ここは実際に歩いてみて確かめるしかなさそうです。
三田用水跡
かつてこの地を流れていた三田用水は、寛文四年(1664年)に中村八郎右衛門・磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしています。この上水は三田・芝・金杉方面の飲料水とするため、玉川上水を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したものです。享保七年(1722年)八代将軍吉宗は、室鳩巣の上水が火事の原因になるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止しました。しかし、三田・上目黒・中目黒・下目黒の目黒4ケ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代に出され、享保九年(1724年)に農業用の三田用水として再開されました。以後、三田用水は豪農等で組織された用水組合により管理されました。農業の他に水路が淀橋台とよばれる台地上を通るので、大正末頃まで台地の下に水車を設置した製粉・精米にもさかんに利用されました。また、明治末頃からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられました。戦後は急激な都市化により水質も悪化し、わずかにビール工場の洗浄用水などとして細々と用いられていましたが、それも不要となり、昭和五十年(1975年)にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じました。下の石は三田用水の木樋の下に設置された礎石(下図のとおり)です。
ということで、お盆の時期に悪戦苦闘して踏破した玉川上水にやってきました。三田用水の分水地点は笹塚駅近くにあるとのことで、そこいら辺りから分水地点の痕跡を探してみることにします。するとネットで三田、イヤ見た水門みたいな柵が笹塚橋の直ぐ近くに見つかりました。近くには案内板は見当たりませんでしたが、ここが三田用水の分水地点だったようです。現在では三田用水の流路は完全に埋め立てられていますので、分水地点といっても実際の水の流れはありません。何はともあれ、ここからかっての三田用水の流路の跡を辿っていきたいと思います。
この辺りの玉川上水は暗渠になっていて、上部が遊歩道として整備されています。両側が花壇になっているのですが、右側の花壇が三田用水の流路跡のように見えます。ただ、その先は右手に分かれていて、民家に突き当たります。三田用水の流路跡の土地は売却されて民家などが建てられたようで、この民家も流路跡の土地に建てられたのかもしれません。
民家の敷地に立ち入る訳にはいきませんので、隣接する道路に出ます。すると、この道路は一直線に延びていて、人工的に造られた感じがします。玉川上水との分水地点から少しクランク状に方向を変え、この道路が流路となって三田用水が流れていたように思えます。井ノ頭通りを斜断し、その先は都道420号鮫洲大山線に突き当たっています。
大山交差点近くにあった案内地図に、三田用水の流路跡(と思われる)を赤線で上書きしてみました。
三田用水の流路は、かって用水に架けられていた橋の痕跡などによって、都道420号鮫洲大山線に沿っていたものと思われます。現在、都道420号鮫洲大山線は拡幅工事の真っ最中で、地下化された小田急線跡と一体になって整備が進められています。東北沢駅も平屋のお洒落な駅舎に建て変わっています。
東北沢駅の直ぐ先に松蔭学園の校舎が見えます。男女共学の中高一貫校ですが、元々は松蔭女学校として設立されました。そのためか、卒業生には女優の太地喜和子さんとか歌手の華原朋美さんの名前も見られます。バレーボールの強豪校としても知られています。都道420号鮫洲大山線は三角橋交差点で東に向う都道と別れて南西方向に分岐します。資料によりますと、三角橋は三田用水の笹塚分水地点から数えて4番目の橋だったようです。
松蔭学園に隣接して、東京大学先端科学技術研究センターの敷地が拡がっています。正門の前には何やら橋桁を思わせる石積みの植え込みがあります。三角橋の次は四角橋、ではなくって笹塚分水地点から数えて5番目の駒場橋が架かっていたとのことですので、ひょっとしたらこの石積みはその痕跡かもしれません。
東京大学先端科学技術研究センターの敷地の隣には、日本近代文学館や日本民芸館がある駒場公園が続いています。その隣には東京大学の駒場キャンパスの広大な敷地が拡がっています。三田用水は駒場キャンパスの淵に沿って流れていたものと思われます。それを裏付ける痕跡として、駒場キャンパス沿いのバス停に笹塚分水地点から数えて6番目の二ツ橋の名前が残っています。
駒場キャンパス沿いに通る都道は東大裏交差点で山手通りに合流します。山手通りを少し先に進みますと、駒場キャンパスの外周フェンスに沿って歩道の端にコンクリート製の橋台のような構造物があります。露出しているのは100m位の区間なのですが、駒場キャンパスの敷地内から延びているように見えます。また、その先は山手通りから右に逸れて住宅地の中に消えています。橋台のような構造物の上部には取っ手らしきものが付いていますので、開閉して構造物の中に入れるようになっているようです。してみると、これは三田用水が流れていた水路跡のようにも思えます。
住宅地の中に消えたコンクリート製の構造物は見られなくなり、代わりに山手通りから一歩入った路地が構造物の続きのように延びています。微妙に曲がりくねっていて、人工の流路には見えませんが、恐らくは三田用水がここを流れていたものと思われます。
路地は井の頭線の神泉トンネルの出口辺りと交差します。といっても、井の頭線の線路は眼下に見えます。渋谷は地名の名前の如く谷底に位置するので、郊外に出るにはトンネルで抜けないといけないのです。そのトンネルよりの高い地点に三田用水が流れていたということは、用水全体の流路が渋谷川と目黒川の間の稜線に造られていたということと合致します。路地は山手通りの側壁にぶつかります。
山手通りを迂回して反対側に回りますと、路地が途切れた方向にまた別の路地が延びています。
淡島通りを越えた先で国道246号玉川通りとぶつかります。玉川通りの反対側にはまた路地が延びています。
青葉台の高台を進みますと、旧山手通りと合流する手前に西郷山公園があります。目K川に向って続く斜面に設けられた公園です。見晴らしの良い広場があるので、いつも子供連れのママ友で賑わっています。
西郷山公園は目黒区の「みどりの散歩道」のコースに組み込まれています。公園の入口に由来を記した案内板が立っています。公園のすぐ先の旧山手通りに架かる橋の名前も西郷橋になっています。橋の下を道路が通っていますが、この橋は下の道路を渡るための橋でも、旧山手通りの陸橋でもなく、ここに三田用水を渡すために架けられた水道橋だったとのことです。この先、三田用水は旧山手通りに沿って高台を流れていたものと思われます。
美しい庭園で知られた西郷山
このコースは全長3.1km。目黒川に沿って自然観察を楽しみながら歴史の跡を訪ねる。明治初期、西郷隆盛の弟従道がこの辺りの広い土地を購入。以来西郷山と呼ばれてきた。従道はここに兄隆盛を迎えようとしたが、西南戦争に敗れた隆盛は鹿児島で自刃。そのため従道の別邸に。洋館、和館と美しい庭園で知られたが、明治天皇も行幸した往時の栄華は今はない。洋館は犬山市の明治村に移築。昭和五十六年、一部が公園に生れ変わった。園内には西郷家の郷里鹿児島から贈られた木々や、桜島の溶岩を使った公園の由来碑も立っている。
旧山手通りにはお洒落な結婚式場とか高級レストランとか有名ブランドのお店とかが軒を連ねていますが、その中にエジプト大使館も旧山手通りに面しています。大使館にはそれぞれのお国のアイデンティティが置かれていますが、エジプト大使館の正門前には古代エジプトの彫像が守衛の役目を果たしています。これがミイラだったら訪れる人はいないでしょう。代官山の蔦屋はは単なる書店の枠を越えています。スタバも店内に有り、書籍棚もゆったりとしたスペースに置かれていて、フツーの本屋さんのイメージではありません。ヤマノテーゼ御用達の本屋さんとでもいった感じです。
旧山手通りの一角にヒルサイドテラスの案内板が立っています。ヒルサイド(hillside)とは、「山腹」とか「丘陵の斜面」の意味ですが、確かにこの辺りは旧山手通りの高台から目K川に向って崖のように斜面が続いていますね。
ヒルサイドテラス
ヒルサイドテラスは、渋谷区猿楽町・鉢山町の旧山手通り沿いに造られた集合住宅・店舗・オフィスなどから成る複合施設です。建築家の槇文彦(アネックスは元倉眞琴)により設計され、彼の代表作のひとつとなっています。第一期が竣工した1969年から1998年までの30年の歳月をかけて建てられました。D・E棟に隣接する駐日デンマーク大使館(1979年)も槇の設計です。ヒルサイドテラスのオーナーである朝倉家の祖先は元は甲州武田家に仕えた武士であったとされていますが、後に帰農して渋谷に居住しました。江戸末期には三田用水を利用した水車も所有し、朝倉徳次郎は明治になるとこの水車を利用した米の賃搗きの収益で渋谷付近の土地を買い集めて大地主となり、精米業を営みました。徳次郎の養子となった朝倉虎治郎は渋谷区会議長や東京府会議長を務めた政治家でもありました。しかし第二次大戦後、朝倉家は所有していた土地の大部分を失い、本宅も相続税支払いの為に売却を余儀なくされました(重要文化財・旧朝倉家住宅)。手元に残った旧山手通り沿いの土地を生かした不動産経営を検討していた朝倉家は、先代の当主である朝倉誠一郎および当代当主の朝倉徳道が慶應義塾大出身だったことから、教授の紹介で同じ慶應育ちの槇文彦と1967年に知り合い、「代官山集合住宅計画」を立案させました。当時、この地域は第一種住居専用地区に指定されていて店舗の開設は認められていませんでしたが、槇はヒルサイドテラスA・B棟を建設する際に行政と交渉して用途規制緩和を実現し、現在のような住居と店舗が混在する建築を実現させました。
デンマーク大使館の隣りに旧朝倉家住宅が残っています。現在は一般公開され、往時の栄華が偲ばれます。入口の横に旧朝倉家住宅の案内板が立っています。高台なので夕陽に沈む富士山の山容も拝めたことでしょう。
旧朝倉家住宅
旧朝倉家住宅は、猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎によって、大正八年(1919年)に建てられました。宅地北側に主屋が建ち、西に土蔵、東に庭門や附属屋(車庫)があります。このうち、主屋・土蔵及び宅地が重要文化財です。なお、庭門及び附属屋が附(つけたり)として指定されています。主屋は、一部2階建ての主体部を中心に、接客のための応接間、内向きの座敷や茶室など、機能に応じた異なる意匠でまとめられ、土蔵は主屋に附随しています。また一体となる庭園は、崖線という地形を取り入れた回遊式庭園となっています。
Kyu Asakura House (Important Cultural Property)
Kyu Asakura House, which utilizes the southwest slopes of Sarugaku-cho, was built in 1919 by Torajiro Asakura, chairperson of the Tokyo Council. On the site's north side is the main building (shuoku), while on the west is a storehouse (dozo), and on the east a garden gate and garage (annex). Of these buildings, the main building, the storehouse and the building site are designated "important cultural properties". The garden gate and annex are also designated as "additions." The main building, which is built around a partially two-storied central wing, features a function-based pattern of rooms, including a drawing room (osetsuma) for receiving visitors and an inward-facing zashiki room and a teahouse. The storehouse is attached to the main building. The garden, which is integrated with the buildings, is a circuit-style garden designed around the cliff-like contours of the land.
建屋は相当な広さですが、敷地も広大だったようです。でもトイレの場所がやけに母屋から離れていますね。雨風が強い夜にはどうやってトイレに行ったんでしょうか?
関東大震災の後に建て直された土蔵は、軸部を木造、外壁を鉄筋コンクリート造とし、入口や窓は重量感のある鉄扉で造られています。
回遊式庭園には、崖線を利用して三田用水から流水を導いた跡や四阿(あずまや)の形跡が残され、多くの石灯龍などの添景物が配置されています。
主屋では、意匠を凝らした欄間や襖、板戸の絵画などを見ることができ、かつては2階から富士山が望めたといいます。
旧朝倉家住宅の向かいに小さな地蔵尊が祀られています。
地蔵・道しるべ
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。この地蔵尊は、文政元年(1818年)の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
ここで旧山手通りを鎗ヶ崎交差点まで進めば良かったのですが、地蔵尊から目K川の方に下りる坂道に進んでしまいました。三田用水は高台を選んで流路が造られていた筈なので、ここで急激に坂下に向うとは思えません。でも下りてしまいました。下り坂の入口に目黒元富士跡の案内板が立っています。
目黒元富士跡
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化九年(1812年)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政二年(1819年)に、別所坂上(中目黒2−1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の「名所江戸百景」に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました。
その隣には「富士信仰と元富士」の案内板も立っています。富士塚は都内各地でみられますが、本物の富士山と一緒に拝めるのはここだけだったかもしれません。
富士信仰と元富士
富士信仰が広まった江戸後期、手軽に富士登山ができるよう各地に“ミニ富士”が造られた。高さ12mの元富士もそのひとつ。山頂からは本物の富士山も望め大勢の人で賑わった。
三田用水の流路から外れたなとは思いつつ、坂道を下りていきますと現代的な建物が現れます。東京音楽大学だそうです。初めて見ましたが、昔はここに何があったんでしょうか?
東京音楽大学を通り抜けて駒沢通りを越え、高台の縁に沿って進みます。行く手に目黒学院の校舎が現れます。目K学院はラグビーの強豪校として知られ、卒業生に元ラグビー選手を多数輩出しています。意外なことに、小林旭も卒業生なんだそうです。容貌からすると、ラグビー選手に見えないこともないのですが。
目K学院を過ぎて、さすがに三田用水の流路を外れたと悟りました。三田用水は高台を選んで流路が造られたいた筈なので、こんな坂下を通っていたとは思えません。ということで、たまたま目に付いた別所坂を上って流路跡を探そうと思います。
別所坂
この辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。
別所坂はすんごい上り坂です。路面には滑り止めの円形の窪み(オーリング)が付けられています。その坂上に庚申塔が祀られています。庚申の日は夜通し酒盛りをしたらしく、三戸の虫にかこつけて農作業に追われた日頃のうっぷんを晴らしていたのでしょう。
庚申塔
「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。仲間たちは60日に一度くる庚申の日に眠ってしまうと、「三戸(さんし)」という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。江戸時代には、豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦や農作の情報交換の場ともなり盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。形や図柄は様々だが多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。別所坂上庚申塔の昭和五十一年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天〜明和元年(1665年〜1764年)である。
旧朝倉家の近くにあった元富士に対して、ここには新富士が造られたとのことです。確かに、この高台からは富士山が綺麗に見えたことでしょう。
目黒の新富士と“新富士遺跡”
この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵がこの付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒“元富士”に対し、こちらは“新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。平成三年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。
新富士は既に取り壊されましたが、その山腹にあった石碑が別所坂の先の公園に置かれています。
新富士
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政二年(1819年)、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(「遊歴雑記」)と書かれるほどであった。新富士は昭和三十四年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二【己卯:つちのとう】年六月建之」とある)・「小御獄」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が現在この公園に移されている。
別所坂から高台の住宅地を巡って三田用水の痕跡を探しましたが何も見つかりません。恵比寿南交差点まで行き、結局何の収穫もないまま引き返します。別所坂を下りて東京共済病院の北側を通り、大きなマンションの入口に辿り着きます。坂道を上ったり下ったりの連続でもうヘロヘロです。マンションは中目黒第二住宅という名称で、国家公務員宿舎とのことです。道理で立派な建物です。公務員宿舎の駐車場に隣接して防衛省の艦艇装備研究所の敷地が拡がっています。ただ、駐車場からは急な崖になっていて、その崖上の敷地に研究所の施設があるようです。代官山の旧山手通りから直線的に線を引くと、ちょうど研究所の縁あたりに三田用水の流路があったような感じです。高台を幾ら探しても用水の痕跡が見つからなかったわけです。ところで、この研究所は旧日本軍時代から続く先端の軍事施設のようです。旧日本軍の巨大戦艦「大和」建造に関わったと言われる巨大な施設があるのです。恵比寿駅から南西部にひときわ目立つ細長い屋根の大きな建築物があるのですが、これは防衛装備庁艦艇装備研究所の「大水槽棟」で、かつて同じ場所に海軍技術研究所が置かれていたころから存在する施設です。艦船模型を実際に水槽に入れて走らせ、流体力学的な性能評価を実施しています。敷地の入り口から大水槽棟を見ても、ちょっと大きな工場か体育館ぐらいにしか見えません。しかし中に入ると、その奥行きに圧倒されます。屋内の水槽は長さ247m、幅12.5m、深さ7mの大きさがあり、最大速度8m/s(28.8km/h)で走行する曳引車が模型を曳航します。模型とはいっても長さ3mから6mにもなり、ちょっとした小船ぐらいのサイズです。この水槽には波長(波の山から次の山〈あるいは谷から谷〉までの距離)0.5mから20m、波高0.4mまで発生させられる造波装置があり、人工的に造った波の中での船体動揺を計測することもできます。深さが7mもあるので、潜水艦(模型)のような水中体も水面の影響を受けることなく実験できる施設とのことです。
マンションの敷地を出て中目黒公園を抜け、茶屋坂通りに出ます。道路の反対側には目K清掃工場の巨大な煙突が立っていましたが、今は建て替え工事の真っ最中です。令和4年、つまり来年の完成予定です。清掃工場は施設が巨大なので建て替えには5年もの月日がかかるとのこと。その間の目黒区民のゴミの焼却はどこが受け持つのでしょうか?その目黒清掃工場の先に茶屋坂バス停があります。道路の両側は切り立った崖になっていて、茶屋坂通りはその崖下を通っています。向かいの崖上には防衛省艦艇装備研究所の中にある職員用の住宅が建っています。
道路の上に三田用水の水道橋が架けられていたようで、その橋台と思われる場所に記念碑が置かれています。というか、元々は段差のない隧道だった三田用水の下をくり抜いて茶屋坂通りを造成したようです。
三田用水跡と茶屋坂隧道跡
三田用水は寛文四年(1664年)、飲用の上水として作られ、玉川上水から北沢で分水し、三田村を通り白金・芝へ流れていた。享保七年(1722年)この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ、14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保十年に三田用水となった。農耕・製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工場用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれる不用となり、昭和五十年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の暮を閉じた。茶屋叛隧道は、昭和五年に新茶屋坂通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成十五年に道路拡幅に伴い撤去された。
今日は三田用水の終点であ高輪台駅前まで歩くつもりでしたが、旧山手通りから茶屋坂に至る流路跡が確認できず、また急坂を上ったり下りたりで体力の消耗が激しかったりして茶屋坂バス停前で力尽きてしまいました。残り僅かな距離ですが、今日はここで中断し、日を改めてまた続きを歩きたいと思います。ちょっと事前調査が足りなかったですね。
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