都電10系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電10系統跡を歩きます。都電10系統は渋谷駅から須田町までを結び、その路線は主に国道246号(青山通り)・内堀通り・国道20号(新宿通り)・大妻通り・靖国通りを通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、須田町には多くの都電が発着していました。  

都電10系統

都電10系統の全長は8.8kmで、昭和38年10月1日に運転区館が変更され、最終的に昭和43年9月28日限りで廃止となりました。変更後の都電10系統跡については独立した路線として歩きます。

都電10系統の電停(路上の駅)は、渋谷駅・青山車庫・青山六丁目・明治神宮・青山五丁目・青山四丁目・青山三丁目・青山一丁目・赤坂表町・豊川稲荷・赤坂見附・平河町二丁目・三宅坂・半蔵門・三番町・九段上・九段下・専修大学・神保町・駿河台・小川町・淡路町・須田町でした。


ネットの情報によれば、都電10系統の渋谷電停は何度かの移動を繰り返した後で、現在の渋谷ヒカリエ前辺りに落ち着いたみたいです。私はそこから往復共に宮益坂を経由していたんだろうと思っていましたが、実は都電10系統は渋谷駅前でループ状の線路になっていたのだということが後で分りました。渋谷に向う電車は青山通りから玉川通りに抜ける金王坂を下り、右折して渋谷電停に向かいました。そして、須田町行きの電車は渋谷電停を出発してから地下鉄銀座線の高架の下を通り(地下鉄なのに線路が道路の上にある!)、宮益坂下交差点で右折して宮益坂を登って行ったのです。そんな訳で、今日は渋谷電停跡だと思っていた東口の都営バス乗り場からスタートします。



渋谷は「谷」の字が付く通り、谷底に位置しています。道玄坂と宮益坂の坂下がちょうど谷底のような感じで、そこに現在の渋谷スクランブル交差点があります。地下鉄銀座線が渋谷駅地下に潜れなかったのも、宮益坂の高低差に打ち勝つだけの馬力が得られなかったからかもしれません。都電は地上を走っていたので、地下鉄ほどは高低差の影響はなかったのでしょう。

宮益坂

かつて、富士見坂とも呼ばれたこの坂一帯は、古くから矢倉沢往還(大山道)として江戸の町と郊外農村との接続点でありました。御嶽権現の門前であったことから、宮益坂と呼ばれるようになりました。




宮益坂の途中に旧宮益町の地名の由来となった御嶽神社の入口があります。境内には全国的にも珍しい日本狼による狛犬が鎮座しています。原形は江戸時代の延宝年間(1673年〜1681年)の作品と言われていますが、太平洋戦争以前から損傷が甚だしく、社殿復興に際して修復し、現在は社務所内に安置してあります。社殿前に鎮座している日本狼像狛犬はブロンズ製で、原形をモデルにして製作した多田端穂の作です。11月の酉の日には、御嶽神社境内に神社熊手・商人熊手の市が立ちます。また、門前の宮益坂には屋台が立ち並びます。



宮益坂上に、東京を中心に展開しているカレーの「もうやんカレー」のお店があります。安い値段でこだわりのカレーが楽しめることで人気を集めています。もうやんカレーの主なポイントは次の3点にあるそうです。
1.仕込みから完成までに2週間を要すること
もうやんカレーのこだわりの一番目のポイントは、1杯のカレーを作るのに要する時間です。カレーが完成するまでに約2週間をかけています。最初に行う工程は、大釜で大量の野菜と果物を2日間、真っ黒いペースト状になるまでじっくりと炒めます。この工程がカレーにコクと深みを生み出しています。ペースト状になった野菜とスパイスで取ったスープ、それに熟成スパイスで仕上げたカレーソースを寝かして混ぜ合わせることでこだわりのカレーが出来上がります。長い時間をかけることで生まれる角の取れたまろやかな味が特徴です。

2.一般的な欧風カレーと比べて3倍の野菜を使用していること
もうやんカレーのこだわりの二番目のポイントは、使用する野菜の量です。一般的な欧風カレーと比べ、約3倍の野菜がカレーに入っています。玉ねぎ・にんじん・トマト・リンゴ・マンゴーなどの多くの種類の具材を大量に使用し、バージンオリーブオイルのみで2日かけて煮込んでいます。もうやんカレーのほとんどは野菜と果物で出来ていて、様々な野菜の旨味が染み出しています。

3.低カロリーであること
もうやんカレーのこだわりの三番目のポイントは、低カロリーなことです。もうやんカレーには大量の野菜が使われているので、100gあたり約90kcalとかなり低カロリーになっています。さらに漢方薬膳の薬剤師監修のもと、25種類以上のスパイスを調合していることもポイントです。大量の野菜と薬膳スパイスを配合したカレーを食べることで、翌日の便通が良くなることでも話題になっています。



都電の旧青山車庫跡には国連大学が誘致されています。一般の大学生が学ぶのではなく、各国の研究者が地球規模の課題に取り組んでいるとのことです。それにしても、沢山の国連下部組織が集まっていますね。

国連大学

United Nations University
Headquarters Building



United Nations University Centre
国際連合大学本部

United Nations University
Institute for the Advanced Study of Sustainability
国際連合大学 サステイナビリティ高等研究所



ILO International Labour Organization
国際労働機関

UNICEF United Nations Children's Fund
国連児童基金

UNDP United Nations Development Programme
国連開発計画

UNIDO United Nations Industrial Development Organization
国連工業開発機関

UNIC United Nations Information Centre
国連広報センター

UNFPA United Nations Population Fund
国連人口基金

WFP United Nations World Food Programme
国連世界食糧計画

UNWTO World Tourism Organization
国連世界観光機関



JFUNU The Japan Foundation for the United Nations University
国連大学協力会

GEOC Global Environment Outreach Centre
地球環境パートナーシッププラザ

United Nations University Headquarters


For the past four decades, the United Nations University (UNU) has been a go-to think tank for impartial research on the pressing global problems of human survival, development, and welfare. With more than 400 researchers worldwide, we bring together world-renowned experts to develop realistic solutions to global issues.

国際連合大学(国連大学)は40年間にわたり、人類の存続と発展、そして福祉に関わる緊急かつ地球規模の問題について、公平な立場から研究を行うシンクタンクとして機能してきました。400人以上の学者・研究者が集まり、世界の様々な課題に対して実行可能な解決策を生み出しています。

UNU's global network of research institutes, coordinated by the headquarters in Tokyo, generates a comprehensive portfolio of research and knowledge on the challenges faced by the UN and its Member States.

世界各地に研究機関を持つ国連大学のグローバルネットワークは、東京にある本部の調整のもと、国連とその加盟国が直面している課題を解決するために、研究や得られた知識の普及など幅広い活動に取り組んでいます。

The UNU Headquarters Building
The unique design of the UNU Headquartersbuilding was based on a mixed-use concept featuring large public event spaces on the lower floors, and private offices on the upper floors. Completed in 1992, the building is positioned to respect and complement the neighbourhood and offers space for public use.

国連大学本部ビル
国連大学本部ビルの独特なデザインは、多目的な利用をコンセプトにしています。低層階には公共のイベント会場として利用できる広いスペースがあり、高層階には国連大学のオフィスがあります。1992年に建設されたこのビルは、周辺の環境を尊重し、地域の機能を補うものとして、一般利用のためのスペースを提供しています。

The building was designed by Kenzo Tange Associates in 1985. The firm's namesake was a prolific architect, influential in the Metabolism and Structuralism architectural movements. His work in urban development continues to inspire architects and planners around the world.

このビルは、1985年に丹下健三・都市・建築設計研究所(現:丹下都市建築設計)によって設計されました。丹下健三氏は多くの作品を生み出した建築家であり、メタボリズム建築運動や構造主義といった建築界の発展に大きな影響を与えました。都市開発の中で生み出された丹下氏の作品は、世界中の建築家や都市づくりに携わる人々に影響を与え続けています。




With global conflict on the rise, preventative diplomacy has never been more important. Every year, violent conflict kills hundreds of thousands of people and costs nearly US$14 trillion. UNU is compiling best practices and lessons learned to provide guidance in times of crisis and boost the UN's ability to achieve peace and security for all.

世界では毎年、紛争や武力衝突によってたくさんの命が奪われ、経済的損失は14兆ドルに及んでいます。紛争が増加している今、外交で衝突を防ぐ取り組みは、かつてないほど重要です。危機的な時代に対応し、世界の平和と安全を守る国連の機能を強化すべく、国連大学は、紛争解決のベストプラクティスや過去の教訓を分析しています。

NTACEF W For the past four decades, the United Nations University has been a go-to think tank for impartial research on pressing global problems. With more than 400 researchers worldwide, we generate knowledge to develop solutions to the world's interconnected challenges.

40年以上の実績を持つ国連大学は、社会の安定や地球の存続を脅かす差し迫った問題について、公平な立場から研究を行うシンクタンクとして信頼を集めています。世界中から集まった400人を超える研究者たちが、複雑さを増す課題に対して、解決をもたらす知識を生み出しています。




表参道交差点の手前に、超高級スーパー紀伊國屋と俺のフレンチ・イタリアン青山店が入ったお洒落なビルが逢っています。俺のフレンチ・イタリアン青山店は、「俺の〜」系列のお店としては唯一ランチバイキングを提供しています(6月末までは特別にディナーバイキングも行うそうです)。バイキングといっても、お客が大皿から好みの料理を取るスタイルではなく、いわゆる着席スタイルです。席に座ったままで注文し、運ばれてきたお料理を食べる訳です。9種類の前菜が盛られたトレイが最初に運ばれ、その後は自分の好きな料理を選んで注文するシステムになっています。俺のフレンチ・イタリアン青山店はコスパは抜群ですが、決して安くはありません。なので定額で好きなだけ高級料理を食べられるということで、コロナ禍での営業自粛が要請される前は連日満席の状況でした。お店は高級ですが、バイキング目当てのお客はそうでもなく、中には手当たり次第注文するお客もいます。ワインも頼まず、水だけでひたすらお料理を掻き込むのはどうなんでしょうね。現在は飲食店でのアルコールの提供が禁じられていますが、そういうお客には合っているかも。



青山通りの周辺には沢山の多国籍料理を提供するレストランが集まっています。そんな中にちょっと目を惹くスパニッシュレストランがあります。サングリア青山店は、静岡の地で1975年に開業したスペインレストラン「サングリア」が全国展開した中の4店舗目になります。店内はグラダナのような雰囲気を演出し、噴水のオブジェや木目のテーブル・椅子、それに壁面にあしらったタイルなど、スペインから直輸入したものを中心に作り上げられているとのことです。パエリアなどの伝統的なスペイン料理を揃え、飲み物は自家製サングリアやスペイン焼酎・カヴァ(発泡酒)などから選ぶことができるとのこと。ワインの品揃えが気になりますね。



青山二丁目交差点から眺めた絵画館に続く銀杏並木はいつ見ても美しいですね。銀杏並木の入り口の両脇には城門跡のような石積みの土台が築かれています。これがまた構図に新旧のアクセントを添えています。



計算された構図ですが、その美しさを保つのに大変な労苦がかかっています。石積みの土台の奥の植え込みの中に、銀杏並木の経緯を述べた案内板と神宮外苑の成り立ちを記した巨大な石碑およびその解説板が立っています。

銀杏並木

いちょう(銀杏・公孫樹)
銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生代ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従つて、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられており、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。
並木の総本数は一四六本(雄木44本・雌木102本)

四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(1926年)十月二十二日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年八十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(1908年)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数1600本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十二年(1923年)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高二十四メートル・目通り周り二メートル八十センチ、最低十七メートル・目通り周りーメートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従つて植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。

この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境・手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるガを、如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、よき揚所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に、同じ苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましょう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしよう。

平成御大礼の日 之を建つ
平成二年十一月十二日
明治神宮外苑

石碑碑文の大意

明治四十五年(1912年)七月三十日に、明治天皇(第百二十二代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正三年(1914年)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(1920年)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動カとなられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(1926年)十月に、明治神宮外苑は完成しました。苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が揚げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球揚、競技揚その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。




青山一丁目交差点から赤坂警察署前交差点まで、赤坂御用地を囲む長い石塀が続いています。赤坂御用地は、江戸時代に紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)があったところで、明治維新後は政府に接収されて皇室に献上されたものです。赤坂御用地は元々、他の御料地などと同様に皇室財産でしたが、第二次世界大戦の敗戦と日本国憲法の発布とともに国有地となり、皇室の用に供せられています。明治六年に失火によって皇居が焼失した際は、明治天皇がこの地に移り、明治二十一年に新皇居(明治宮殿)が落慶するまでの間、ここを皇居としていました。赤坂御用地には、現在、天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下が住まわれる赤坂御所の他、秋篠宮邸・三笠宮邸・三笠宮東邸(旧ェ仁ともひと親王邸)・高円宮邸があります。皇族の中では常陸宮邸だけが赤坂御用地でなく、渋谷区東にあります。なお、上皇上皇后両陛下は現在高輪にある仙洞仮御所(旧高松宮邸)を御仮寓所として使用されていますが、天皇皇后両陛下と愛子内親王殿下が皇居に移られた後、赤坂御用地内に新設(赤坂御所を改装)される仙洞御所に住まわれることになっています。



赤坂警察署に隣接して、ガラス張りで弾頭のようなユニークな外観の建物が目を引きます。和菓子の「とらや赤坂店」です。東京オリンピックが開催された1964年に建設された地上9階建ての旧ビルは、和菓子屋として必要な要素に特化した地上4階の低層の建物に生まれ変わり、2018年10月1日(月・寅の日)にリニューアルオープンしました。長年とらやの店づくりを手がけてきた内藤廣が店舗設計を担当し、内装には吉野の檜を使用し、一部の壁面は黒漆喰で仕上げられています。自然光を採り入れた明るい店内とするため、外観はガラス張りとし、屋根にはシンプルさと強さとを兼ね備えたチタンが使用されています。1階・2階の広々とした売り場のほか、3階には製造の様子をガラス越しに見ることのできる「御用場」と喫茶「虎屋菓寮」も設けられています。さらに地下1階のギャラリーでは、和菓子や日本文化を発信する企画展やイベントも開催されています。



赤坂御用地には6つの門(出入口)があり、テレビなどによく出てくる門は「巽門」と呼ばれています。皇族方のほか、御用地を訪問する客人の多くはこの門を使います。陛下の通勤などの特別な場合は、赤坂御用地の北側にある「赤坂御所正門」が使われます。



巽門の向かいには豊川稲荷が鎮座しています。豐川稲荷という名前から、私はてっきり神社だと思っていたのですが、実際は正式名を「豐川閣妙嚴寺」と称する曹洞宗のお寺です。



豊川稲荷の脇を九郎九坂が通っています。赤坂見附一帯は青山方面と三宅坂方面の谷間になっていて、あちこちに坂道があります。

九郎九坂(くろぐざか)

江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。




赤坂見附交差点の角に案内板が立っています。

赤坂見附交差点

ここ赤坂見附交差点は、東京都内でも有数の商業・業務地区をひかえ多様な目的の交通が集中していますが、駐車場が不足していること等から違法路上駐車が慢性化するとともに、地下鉄赤坂見附駅が隣接していることもあり、多くの歩行者が横断歩道を利用して車道を横断していました。このような違法路上駐車や車道を横断する歩行者が、交通渋滞や交通事故の原因の一つにもなっていたため、建設省では、地元の方々と協力して、交通渋滞の緩和、交通事故の防止、歩行者の利便性の向上を目的に、共同溝工事により生じた地下空間を活用して、平成五年度より地下駐車場と地下歩道を一体的に整備し、あわせて交差点周辺部の歩道の整備を行いました。この整備の一部には、サントリー株式会社が寄贈したガラス再生タイル・ブロックが使用されています。




赤坂見附交差点の角地に本格的ヴィクトリアンパブの「THE ROSE&CROWN」のお店があります。「ROSE:市民」から「CROWN:貴族」まで、「飲む歓び」・「食べる幸せ」そして「語り合う楽しみ」をすべての人たちと分かち合いたいという思いで、英国ヴィクトリア朝時代から市民の社交場として親しまれてきたパブの楽しみを特製ハウスエールビールと伝統的なフードメニューで提供しています。ちょっと敷居が高いと思われる方は地下のカーヴ・ド・ヴァンがお薦めです。薄暗いワインセラーにはヴィンテージものから手頃なものまで、サントリーが選んだだけある価値のワインが揃っています。もう20年以上も前の話ですが、私が今まで飲んだワインの中で最も美味しいと感じた1994年の「LOS VASCOS CABERNET SAUVIGNON GRANDE RESERVE」も1本だけ置いてありました(ここを見てください)。このワインはチリ産ですが、フランスの名門ロスチャイルド家がかかわっているブランドなのです。

チリのプレミアムワインのパイオニアを目指して

19世紀中頃までにヨーロッパの一大財閥として成長したロスチャイルド家(ロートシルトの英語読み)は、1868年にボルドー地方メドック地区の公式格付けグランクリュ第1級の第1位であるシャトー・ラフィットを所有し、ワイン事業を本格的に展開するためにドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト・ラフィット社を設立しました。時代は進み1988年にワイン事業を世界で展開するためにドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト・ラフィット社は、1750年創業のビニャ・ロス・ヴァスコスを取得して経営を開始します。「チリにおけるプレミアムワインのパイオニアになる」。そのために無数のワイナリーの中から厳選に厳選を重ねて選んだのがビニャ・ロス・ヴァスコスでした。最大の魅力は、プレミアムワインづくりに理想的な微気候(ミクロクリマ)でした。三方を山で囲まれたコルチャグア・ヴァレーのカニェテン盆地は太平洋から約40キロメートルの距離に位置し、夜の間に吹き込んだ海からの冷涼な風が日中の強い日射による気温の上昇を緩和し、ぶどうの完熟をうながします。また、充分な水源があり、霜害のリスクが少ない半乾燥土壌であることなども理想にかなっていたのです。理想的な土地であるからこそ、リュットレゾネ(減農薬農法)が実現できています。ロス・ヴァスコスのラベルには、ロスチャイルド家の紋章「伝統と上質の5本の矢」が描かれています。これは高い品質の証で、ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト・ラフィット社が生み出したすべてのワインに5本の矢のロゴが使われているのです。




弁慶橋は江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられています。かつては神田松枝町と岩本町との間にある藍染川下流に架かっていましたが、明治十八年(1885年)に藍染川が下水道工事で埋められて弁慶橋も不要となって撤去されました。しかし、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、明治二十二年(1889年)に紀尾井町から元赤坂一丁目に通じる道筋にある江戸城外堀へ移設され、元の弁慶橋の廃材を利用して架橋されました。堀は橋にちなんで弁慶堀と呼ばれるようになり、橋がなくて困っていた両岸の住民は大いに喜んだといわれています。橋は戦災により被害を受け、しばらく欄干がないまま使われていましたが、1951年10月に修復工事が完了しました。新しい欄干には木曽ヒノキ材が用いられ、被災以前の姿が再現されました。さらに1985年に改築されたのが現在の弁慶橋になります。本体はコンクリート製であるものの、木製の欄干や古風な擬宝珠から外国人を含む観光客に人気があります。



赤坂見附から永田町に至る短い富士見坂の途中に赤坂門の石垣(発掘調査で出土したもの)の一部と、それを解説した案内板が立っています。

赤坂門跡

赤坂門は寛永十三年(1636年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之により築造されました。門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。この門は脇往還のひとつ矢倉沢往還(大山街道)の出発点となっており、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)を参詣する江戸の人々で賑わいました。櫓などの建築部分は明治四年(1871年)に撤去され、石垣も明治三十年代に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる掘や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されています。

Akasaka-mon Gate Remains

Akasaka-mon Gate was constructed by Kuroda Tadayuki, the feudal lord of the Fukuoka Domain, Chikuzen Province (current-day Fukuoka Prefecture) in 1636. The gate is so named because it kept watch over Akasaka (Red Hill) outside Edo Castle. This gate was the starting point for the Yakurazawa Highway (Oyama Highway), one of the Waki-okan (connecting highways), and thronged with visitors from Edo to Oyama Afuri Shrine (Isehara City, Kanagawa Prefecture) and Daiyuzan Saijoji Temple (Minamiashigara City, Kanagawa Prefecture). The towers and other structures were demolished in 1871, and the stone walls were also demolished in the period from the late 1890s until around 1906. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a cultural property and as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.




石垣の前には別の解説を記したプレートも置かれています。明治初期の写真を見ますと、もはや防御門の役割は不要となったのか、長閑な風景が写っています。人力車で送迎している途中なのでしょうか?

史跡 江戸城外掘跡 赤坂御門

正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。赤坂御門は、寛永十三年(1636年)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同十六年(1639年)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成三年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。




永田町から緩やかな坂を下り、三宅坂交差点を左折します。交差点の角には最高裁判所があります。ちなみに、三宅坂は永田町からの下り坂を指すのではなく、三宅坂から国立劇場に向う上り坂をいいます。坂の名前は、江戸時代にこの坂の途中に三河国田原藩三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来します。当時はこの坂に沿って三宅家のほかにも近江国彦根藩井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もありました。また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)でしたが、堀端に皀莢(さいかち)や橿(かし)の木が植えてあったため、「皀莢坂(さいかちざか)」・「橿木坂(かしのきざか)」の別名もありました。明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれました。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前・戦中には「三宅坂」といえば参謀本部の代名詞でした。戦後、参謀本部跡地は国会用地に転用され、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分は国会の観光バス駐車場などになり、一角には国有地を借地して社会文化会館(日本社会党本部)が昭和三十九年(1964年)に建設されました。三宅坂界隈は戦前と戦後で様相を一変させ、「三宅坂」は戦前の参謀本部から新たに国会の議席の多数を占めるようになった日本社会党(現在の社会民主党)を指す通称として使われるようにもなりました。しかし東日本大震災後に建物の耐震性が疑問視され、2013年春に建物は解体され、社民党本部は近くのビルに移転しました。一方、三宅家屋敷跡の方は戦後米軍に接収され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住むパレス・ハイツになりました。米国による占領が解除されてパレス・ハイツの土地が返還された後、跡地には昭和四十年(1965年)から国立劇場や最高裁判所が相次いで建設されました。三宅坂には長〜〜〜い歴史があるんですね。ちなみに、最高裁判所の前にある像は裁判所とは関係のない「広告人顕頌碑」です。場所も裁判所の敷地でなく、三宅坂小公園内になります。電通創立50周年記念事業として、広告功労者顕彰のための記念碑を彫刻家の菊池一雄が制作し、東京都に寄贈されたものです。「愛情」・「理性」・「意欲」をテーマとして制作した3体の裸婦彫刻が据えられています。これは日本の公共空間に初めて設置された女性裸体像とされています。



国立劇場は、日本の伝統芸能を上演するほか、伝承者の養成や調査研究も行っています。歌舞伎・日本舞踊・演劇が演じられる大劇場、文楽・邦楽・琉球舞踊・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が演じられる小劇場で構成されています。落語や漫才などが演じられる国立演芸場が隣接し、2003年には国立劇場裏に伝統芸能情報館が開館しました。芸能だけでなく、毎年4月に行われる日本国際賞の授賞式や、毎年3月11日に政府主催で行われている東日本大震災追悼式の会場にも使用されています。



皇室の要人が皇居に出入りする際に使われる半蔵門で左折し、短い区間ですが国道20号(新宿通り)を西に進みます。麹町一丁目交差点を右折して大妻通りの長い坂を下ります。この区間は都電10系統だけが運行していました。



<<写真多数のため、都電10系統跡コース(2)に続きます。>>




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