- @代官山&渋谷コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は渋谷区の代官山&渋谷コースを歩きます。渋谷駅をスタート・ゴール地点としており、南平台の高級住宅地やセレブ御用達の代官山、それに氷川神社・金王八幡宮といった渋谷の古刹も巡ります。
代官山&渋谷コース
代官山&渋谷コースの歩行距離は約6.0km(約8,580歩)、歩行時間は約1時間30分、消費カロリーは約270kcalです。
スタート地点:渋谷駅モヤイ像前
↓ (約0.3km:約4.5分)
@渋谷区文化総合センター大和田【図書館等の複合施設、12階はプラネタリウム】
↓ (約1.5km:約22.5分)
A旧朝倉家住宅【主屋は国重要文化財、崖線のある回遊式庭園】
↓ (約1.3km:約19.5分)
Bふれあい植物センター【日本一小さい植物園、熱帯植物やハーブetc】
↓ (約1.1km:約16.5分)
C氷川神社【渋谷最古の神社、奉納相撲の相撲場跡あり】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
D白根記念渋谷区郷土博物館・文学館【テーマは渋谷の歴史文化、縁のある文学も紹介】
↓ (約1.4km:約21.0分)
ゴール地点:渋谷駅ハチ公像前
スタート地点の渋谷駅モヤイ像前から歩き始めます。渋谷駅には2ケ所の待合ポイントがあります。どちらも西口にあり、北側にあるのが忠犬ハチ公像、南側にあるのがモヤイ像です。今回のコースはモヤイ像前からスタートし、渋谷を一回りしてからハチ公像に戻るという設定になっています。モヤイ像はモアイ像に似ていることから、太平洋に浮かぶイースター島あたりから持ち込まれた物だとばかり思っていました。新島はイースター島からは遙か離れていますので接点は全くないと思うのですが、こういう巨石文化が根付いていたんですね。
新島のモヤイ像
新島には古くから「モヤイ」と呼ぶ美しい習慣があった。それは島民が力を合わせる時にのみ使われた。いわば共同の意識から生れた素朴な人々のやさしい心根を表すものであった。「モヤイ」は島の歴史とロマンを秘めた言葉なのである。ここに集う人々よ、ものいわぬモヤイ像はあなた方に何を語りかけるであろうか。願わくば私たちと共に、そのかすかなる祖先の「モヤイ」合う連帯の心に胸を大きく開かれんことを。
モヤイ像は以前は東急東横店の出入口の真ん前にあって待ち合わせ場所として人気があったのですが、東横店は2020年3月末で営業を終了し、今はビル解体工事の真っ最中です。周囲は工事用の板塀に取り囲まれていますので、待ち合わせの人は殆ど見当たりません。ふと見ますと、昨年東横店地下から渋谷マークシティの地下に移転し、規模を大幅に縮小して営業しているFOODSHOWが今年の7月に場所を3ケ所に拡大してリニューアルオープンするという告知が工事用の板塀に貼ってありました。私も以前はよく買い物をしていたのですが、いつ復活するのかと心待ちにしていました。元々あったハチ公前広場地下にはデリーの売場が戻ってくるみたいですね。渋谷マークシティ地下の売場は生鮮・グロッサリー専門となり、スイーツは1階に移動するそうなので、それぞれの売場は随分と広くなりますね。渋谷駅周辺最大規模の食品売場が誕生するんですかぁ。楽しみですぅ。
渋谷駅東口に続いて、西口の歩道橋デッキも50年ぶりに架け替えられ、通路というより広場みたいに拡幅して供用が開始されています。昭和四十三年(1968年)年3月、当時日本一となる全長199メートルの歩道橋として開通した西口歩道橋は、国道246号線上に□の字形に広がる橋桁や首都高が頭上を走る「絵になる」ロケーションでテレビドラマや映画の撮影にも使われてきました。歩道橋の架け替えといっても、国道246号線という通行量の多い幹線道路を通行止めにしないと架け替え工事はできませんので、大変な苦労があったそうです。通行止めに許容される時間は最大で10分間。この間にクレーンで吊り上げた橋桁を寸分狂わず所定の位置に固定するのですから、工事の難易度は大変なものです。実際の工事は、国道246号線の上りと下りを夜中の1時〜3時の時間帯に2回、10分程度の車両通行止めを行って完了しました。といっても、私は工事を見た訳ではなく、テレビのドキュメンタリー番組で観ただけなんですけど。
歩道橋デッキから西側を眺めますと、昨年営業を終了した東急東横店の西館と南館の解体工事が進んでいる様子が見て取れます。いつも不思議に思うのですが、このような巨大なビルを解体した時に発生する膨大な廃棄物はどこで処分されているのでしょうか?
歩道橋デッキから東側を眺めますと、国道246号線を挟んだ南側一帯も大規模な再開発工事が行われています。工事前は入り組んだ路地に雑多なお店が立ち並び、昭和の風情を感じさせる懐かしい雰囲気の場所でした。立ち飲みの聖地だった雑居ビル地下の富士屋本店は更地となり、今ではタカラ焼酎ハイボールのCMでしか当時の様子を窺い知ることはできません。渋谷から昭和が消えていきます。
渋谷駅桜丘口地区再開発
延床面積 約254,830u
建物規模 A街区 地上39階・地下4階
B街区 地上29階・地下2階
C街区 地上4階
竣工 2023年度竣工予定
歩道橋デッキから国道246号線の反対側に下りますと、3方向に坂道が延びています。真ん中の道路は桜並木が続く「桜丘さくら通り」ですが、コースは右端の間坂(あいだざか)を通るように設定されています。この道を境にして北側を大和田町、南側を桜丘町としたので、その間の坂道ということで、間坂と命名したと言われています。位置的にはセルリアンタワーの裏道になります。
間坂を進んで直ぐのところに「富士屋本店」の看板が見えます。富士屋は渋谷駅周辺に何店かあるとは聞いていたのですが、こんなところにもお店があったんですね。しかも本店です。南口再開発で閉店した立ち飲みの富士屋本店を引き継いでいるのでしょうか?道路から窓ガラス越しに半地下のようになっている店内を見ますと、立ち飲みではなくカウンター席とテーブル席があるようです。壁に貼ってあったメニュー表を見ますと、かっての立ち飲み専門の富士屋本店の大衆的な安い一品料理ではなく、かなり高級な品々が並んでいます。富士屋グループにはいろんな形態のお店があるようですが、ここは私が入るにはちょっと敷居が高そうです(実際は敷居を跨ぐのではなく、階段を下りるのですが)。ちなみに、「敷居が高い」という言葉は本来、「相手に不義理をしたり、面目のないことがあったりするためにその人の家に行きにくくなる/またはその人に会いにくくなる」状態を指すそうです。現代語の意味とは随分と違いますね。
間坂はセルリアンタワーの裏を通っています。セルリアンタワーは1992年までこの地にあった東急本社の跡地に建てられ、2001年4月に開業しました。レストラン・オフィス・ホテルなどで構成される超高層複合ビルで、名称の「セルリアン」は英語で”青空色の”という意味です。「青空のように、爽やかで快い空間でありたい」・「世界の人々が空を共有するように、グローバルに日本と世界を繋ぐ国際交流の拠点でありたい」という願いが込められ、「美しい生活環境を創造する」という東急グループの企業理念を反映させたものになっています。この日の青空はまさに”セルリアン”ですね。
間坂の左手に、渋谷区文化総合センター大和田があります。この建物の一番の特徴は、遠くからでも望める丸い屋根で、12階にプラネタリウムが設置されていることです。入ったことはありませんが、単に星空を写すだけでなく、投影スケジュール表を見ますと物語風の内容の作品もあるようです。時間帯によって作品が変わりますので、事前に投影スケジュールを確認してから出掛けた方がよさそうです。
間坂に戻って更に進みますと、聖ヶ丘教会に突き当たり、道路はT字型になっています。ここは南平台の名で知られる都内でも有数の高級住宅地です。左手に進みますと、森のような緑の木々の中に邸宅とかマンションが散在しています。
とある広大な敷地の角地に不自然に塀に囲まれた常夜灯らしき古い石塔が立っています。まるで昔からそこに立っていて、敷地を囲うときに無理矢理残したといった感じです。昔はここは街道筋だったのでしょうか、それとも大名屋敷かお寺だったのでしょうか?
鉢山交番前交差点で二股の右手の道路を進みますと、旧山手通りに出ます。
旧山手通りには1ケ所だけ橋が架かっています。この辺りは目黒川と渋谷川に挟まれた丘陵地になっていて起伏が激しく、かっての三田用水を通すために谷間に橋を架け、それが今の西郷橋になったのだそうです。橋の下には川は流れておらず、道路が通っています。ちなみに、西郷橋はすぐ脇ある西郷山公園に因んで名づけられました。この公園がある一帯はかつて西郷隆盛の弟であり、政治家・軍人だった西郷従道の邸宅として使われた「旧西郷邸」の敷地でした。その敷地は隣接する菅刈公園にも及び、西郷邸は高台に位置していたことから近隣の人たちは「西郷山」と呼んでいました。1979年に目黒区が西郷邸跡の4千坪を取得し、1981年に開園したのがこの西郷山公園です。
旧山手通り沿いに都立第一商業高等学校の校舎が建っています。歩道の近くまで建物が迫っていて、校門から続く並木の奥に佇む時計台付きの校舎といったイメージはありませんね。でも、東京で初期に設立された伝統ある公立の商業学校で、戦前の旧制第一商業学校時代には多くの生徒が旧制東京商科大学や旧制第一高等学校などに進学していました。また、多くの卒業生が財界で大企業の重役を努めるなどの功績を残し、天下の一商と呼ばれていました。現在では都立商業高校の中でも先進的な商業教育(簿記や商学・会計学・英語教育等)をしているとして、平成十七年(2005年)から低迷する商業高校の牽引役を担うリーディングコマーシャルハイスクールに指定されているそうです。卒業生に重信房子元日本赤軍最高幹部が名を連ねているそうですが、少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組んで表彰を受けたそうです。高校時代も真面目な女子高生だったのでしょうけど。
代官山にはいろんな趣向を凝らした建物がありますが、ここもダントツで目立ちます。旧山手通りに面した入口から続く階段には深紅のカーペットが敷いてあります。階段には屋根がありませんので、雨が降ったらカーペットは台無しにならないのでしょうか?部外者が心配することではありませんが。ここは「ARKANGEL DAIKANYAMA」という結婚式場のようです。「ARKANGEL(アークエンジェル)」とは「大天使」という意味で、「神と人間の連絡係を務める、人間に近い存在」といった位置づけみたいです。「天使(アンゲロイ)」よりかひとつ上の位ですが、「天使の九の階級」では下から2番目だそうです。天使の世界にも人間と同じように序列があるんですね。それにしても、ここで記念写真を撮ったら新婦さんよりも建物の方が映えそう。。。
各国の大使館はそれぞれのお国をアピールすべく趣向を凝らしています。エジプトといえばピラミッドとミイラですよね。大使館の入口には、古代エジプト王朝の壁画に描かれた人物像に似た像が2体置かれています。二人とも男性みたいですけど、座り込んでおしゃべりでもしているのでしょうか?イヤ、きっと酒盛りの最中でしょう。
エジプト大使館の向かいは代官山 T−SITEという商業施設になっています。蔦屋書店はその商業施設の中心で、カフェの中で本を楽しめるような斬新なスタイルで人気があります。カフェを運営しているのはスターバックスコーヒーですが、ドトールじゃダメなんでしょうか?代官山蔦屋書店の建物で印象的なのはファサード(建物の正面デザイン)の白い外観ですが、これは蔦屋の”T”をモチーフにしているそうです。外壁の写真を拡大してみますと、竹編みのような格好をしていますが、”T”を重ねたように見えなくもありません。言われてみないと気づきませんよね。
エジプト大使館の先にはデンマーク大使館があります。こちらは国章がなければビルの駐車場入口のような感じです。ちなみに、デンマークの国章は、金の盾型を背景に、王冠と3頭の青いライオンと9つの赤いハートマークで表されます。
ヒルサイドテラスのオーナーである朝倉家の祖先は、元は甲州武田家に仕えた武士であったとされていますが、後に帰農して渋谷に居住しました。江戸末期には三田用水を利用した水車も所有し、明治になると朝倉徳次郎はこの水車を利用して精米業を営み、米の賃搗きの収益で渋谷付近の土地を買い集めて大地主となりました。徳次郎の養子朝倉虎治郎は、渋谷区会議長や東京府会議長を務めた政治家でもありました。しかし第二次大戦後は朝倉家は所有していた土地の大部分を失い、本宅も相続税支払いの為に売却を余儀なくされました。手元に残った旧山手通り沿いの土地を活かした不動産経営を検討していた朝倉家は、先代の当主である朝倉誠一郎および当代当主の朝倉徳道が慶應義塾大学出身だったことから、教授の紹介で同じ慶應育ちの槇文彦と1967年に知り合い、「代官山集合住宅計画」を立案させました。当時、この地域は第1種住居専用地区に指定されており、店舗の開設は認められていませんでしたが、槇はヒルサイドテラスA・B棟を建設する際に行政と交渉して用途規制緩和を実現し、現在のような住居と店舗が混在する建築を実現させました。
東京都選定歴史的建造物 HILLSIDE TERRACE A・B棟
ヒルサイドテラスA・B棟は、その後四分の一世紀にわたって展開されたヒルサイドテラス集合体の第一期の建物であり、1969年に完成している。当時、この地域は第一種住宅専用地域で、建物の最大高さは10mに抑えられ、容積率も150%までしか許されなかった。したがって、周辺は緑の多い屋敷町で、このような白い低層のモダーンな建物は珍しかった。基本的には1階がレストランを含む店舗、2・3階は集合住宅の構成であるが、A棟のコーナーに小さな広場を設けたのも、当時としては珍しいアイディアであった。そのリフレッシングな姿は今でもそのままで、特に東側の恵比寿の方から代官山を訪れる人達にとって、いつも変わらないヒューマンな導入部を形づくっている。もしもここが神社であれば、この広場はさしずめ鳥居というところであろう。
ヒルサイドテラスのオーナーである朝倉家が代々居住した邸宅は国の重要文化財に指定され、現在は一般に公開されています(コロナ緊急事態宣言が終了するまで休館中)。
旧朝倉家住宅
旧朝倉家住宅は、猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎によって、大正八年(1919年)に建てられました。宅地北側に主屋が建ち、西に土蔵、東に庭門や附属屋(車庫)があります。このうち、主屋・土蔵及び宅地が重要文化財です。なお、庭門及び附属屋が附(つけたり)として指定されています。主屋は、一部2階建ての主体部を中心に、接客のための応接間、内向きの座敷や茶室など、機能に応じた異なる意匠でまとめられ、土蔵は主屋に附随しています。また一体となる庭園は、崖線という地形を取り入れた回遊式庭園となっています。
Kyu Asakura House
Kyu Asakura House, which utilizes the southwest slopes of Sarugaku-cho, was built in 1919 by Torajiro Asakura, chairperson of the Tokyo Council. On the site's north side is the main building (shuoku), while on the west is a storehouse (dozo), and on the east a garden gate and garage (annex). Of these buildings, the main building, the storehouse, and the building site are designated "important cultural properties". The garden gate and annex are also designated as "additions". The main building, which is built around a partially two-storied central wing, features a function-based pattern of rooms, including a drawing room (osetsuma) for receiving visitors and an inward-facing zashiki room and a teahouse. The storehouse is attached to the main building. The garden, which is integrated with the buildings, is a circuit-style garden designed around the cliff-like contours of the land.
関東大震災の後に建て直された土蔵は、軸部を木造、外壁を鉄筋コンクリート造とし、入口や窓は重量感のある鉄扉で造られています。
回遊式庭園には、崖線を利用して三田用水から流水を導いた跡や四阿(あずまや)の形跡が残され、多くの石灯龍などの添景物が配置されています。
主屋では、意匠を凝らした欄間や襖、板戸の絵画などを見ることができ、かつては2階から富士山が望めたといいます。
旧朝倉家住宅の向かいに小さな地蔵尊が祀られています。
地蔵・道しるべ
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。この地蔵尊は、文政元年(1818年)の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
交番前交差点を左折し、代官山のメインストリートである八幡通りに入ります。右手に超高層マンションが代官山の空を突き抜けています。このマンションを含む一帯は代官山アドレスという住居・商業一体型の施設で、平成十二年(2000年)8月に開業しました。代官山アドレスは、ここにかつて存在した旧同潤会アパート36棟などを建替え、再開発によって建設されました。住宅部分は36階建の高層マンションの「ザ・タワー」を中心とし、商業施設はショッピングセンター「ディセ」、それに渋谷区の公共施設「代官山スポーツプラザ」、駐車場などで構成されています。ショッピングセンターの「ディセ(dixsept)」とは、フランス語で“17”の意味であり、代官山アドレスの住所が、「渋谷区代官山17番地」であることに因んでいます。番地を施設の名称にするのはあんまり聞いたことがありませんね。ちなみに、ディセに入っている代官山ピーコック(「Peacock」とは、雄のクジャクの意味)は、かっては珍しい食材や輸入品が充実した旧大丸系の高級スーパーマーケットでした。2013年にイオン系列になり、品揃えが大衆化した感はいなめません。
代官山は、鉢山町・猿楽町・代官山町一帯を指します。猿楽町には、猿楽古代住居跡公園があります。古代人が代官山に住んでいたんですか!きっとセレブな人達だったのでしょうね。
猿楽古代住居跡
このあたり一帯は古代人が居住していたところであろうと推定されていました。昭和五十二年一月、渋谷区教育委員会ではその調査を国学院大学考古学第一資料研究室に委託して発掘しました。発掘作業を行っているうちに出土して来た土器は壷・甕(かめ)・高坏(たかつき)などの破片ばかりでしたが、この土器に付けられた模様からみると、久ヶ原式・弥生町式・前野町式に属し、それらが作られた時期は今から約二千年前の弥生時代で、これらの文化は南関東一帯にひろがっていました。弥生時代というのは、生活の方法はその前の縄文時代と同じですが、現代人のように米を裁培して食べる習慣がはじまり、文化が進んだ時代といえます。発掘を進めて行くと、いくつかの住居跡が発見されましたが、中には他の地域でみられる住居跡よりも大型で珍しいものが発掘されました。区は昭和五十三年、樋口清之博士の指導により古代住居を復元しましたが、その後焼失したので、現在は住居跡の上を被覆し保存に努めています。
公園の隅っこには何体かの石碑が並んでいます。元々この地にあったものではなく、いろんな事情でここに集められたのだとか。どうりで関連性が見当たりませんね。
廿三夜塔(一基)・庚申塔(三基)・道しるべ(一基)
江戸時代に流行した民間信仰のひとつに、ニ十三日の夜に集まって月の出を待つ講中(グループ)がありました。これを廿三夜講といい、室町時代からすでに行われており、それを記念して建てられたものが廿三夜塔です。この廿三夜塔(右から二番目)には、「廿三夜待一結衆」と刻まれており、さらに勢至菩薩が彫り込まれていることが特徴です。また、庚申講も行われており、六十日ごとにめぐってくる庚申の日に、人々が集まって念仏を唱え、一晩中眠ることなく過ごしました。その結果として建立されたのが庚申塔です。表面には、青面金剛・天邪鬼・日月・三猿などが彫ってあります。これらの講は、のちにレクリエーションとなり、飲食をしながら、一夜を明かすようになりました。道しるべ(左から二番目)は、石の傷みが激しく「左目黒道」と読むことはできますが、「右□□□道」と文字が欠損しており、具体的な道の名前はわかりません。これらの石造物は、猿楽周辺にあったものが、道路の拡幅工事や宅地開発によって移動させられ、猿楽古代住居跡公園に移設されることとなりました。
八幡通りには、JRの線路を跨ぐ格好で大きな陸橋(猿楽橋)が架かっています。猿楽橋の先に渋谷清掃工場への出入口があります。よくこんな場所に清掃工場を建てたよなと思えるくらいの立地です。それなのに杉並ゴミ戦争のような話は聞きませんね。
猿楽橋の先に旧東横線橋脚のモニュメントが置かれています。東横線は現在は代官山から地下に潜っていますが、かっては恵比寿西でJR線の上を高架で大きくカーブして横切り、渋谷駅に向っていました。東横線は何度も乗りましたが、この辺りの風景は全く覚えていませんねぇ。
旧東横線橋脚
旧東横線の高架橋の支柱を一部残し、鉄鋼やレールを組み合わせたオブジェを遺構として設置した。オブジェや遊歩道上に記された番号は、渋谷駅から数えた高架橋の柱の管理番号を示している。
Former Toyoko Line Pier
With some of the former Toyoko Line viaduct support pillars left up, various objects made from a combination of iron and steel with rails are set up, representing the remains of the line. The numbers written on the objects and the promenade are the pillar management numbers of the elevated bridge, counted from Shibuya Station.
東横線はJRの線路を越えた先で渋谷川と平行して走っていました。現在はその高架跡が遊歩道と商業施設になっています。
八幡通りは明治通りにぶつかり、並木橋交差点で終りとなります。交差点の角に渋谷区の町名案内板が立っています。八幡通りの名称は金王八幡神社に由来するんですね。
住居表示街区案内図
氷川町(ひかわちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字永川裏・伊藤前で、渋谷町の大字として成立。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東一丁目〜東三丁目となる。区役所出張所・学童館・児童遊園にその名をとどめる。区域内にかつて下渋谷村の鎮守氷川神社があり、9月29日の「大祭日には此処にて素人角力を執行す。氷川の角力とて古より有名」であった。また昭和十一年に神宮通一丁目(神南一丁目)に移転するまで、渋谷村役場・渋谷町役場・渋谷区役所の所在地であった。
中通(なかどおり)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字渋谷上広尾町・大字下渋谷字四反町・居村・伊藤前・伊勢山・大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷橋から渋谷駅前に至る明治通り沿いの南北に細長い区域。同時に設けられた上通とは渋谷駅前で、下通とは渋谷橋で接していた。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年一部が恵比寿東二丁目となり、同四十一年残余が現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目・東一丁目〜東三丁目・広尾一丁目の各一部となる。
田毎町(たごとちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとば豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字田子免・代官山の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれた東横線の南北にわたる区域で、大部分を占めた田子免の語感をきらい田毎と改称。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年一部が恵比寿東二丁目の一部に、同四十一年残余が現行の東一丁目の一部となる。
並木町(なみきちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字並木前・長谷戸・大和田下の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれ、渋谷駅から並木橋に至る南北に細長い区域。昭和七年渋谷区の町名どなる。同四十一年現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目となる。小字並木前の由来は、金王八幡神社から渋谷川に架かる並木橋を渡って猿楽町方面に行く道を鎌倉道といい、かつての鎌倉街道で、この道路沿いに並木があったことによる。
若木町(わかぎちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字永川裏・羽沢の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は地域内に東京市種苗園があったことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東四丁目・広尾三丁目の各一部となる。種苗園の跡地は国学院大学・広尾高校・広尾中学校などになっている。
常磐松町(ときわまつちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字常磐松・伊勢山・大字青山南町七丁目の各一部で、渋谷町の大字として成立。「盤」の字は皿は割れるので縁起が悪いということで、成立の際磐の字に改めた。常磐松と称する古木があって千両の値がつくほどの銘木であったが、第二次大戦で焼失し、現在あるのは戦後になって植えたもの。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東一丁目・東四丁目・渋谷四丁目・広尾三丁目の各一部となる。常磐松小学校にその名をとどめる。
八幡通(はちまんどおり)
昭和三年〜昭和四十四年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山南七丁目・大字中渋谷字並木・並木前・大字下渋谷字常盤松・伊勢山・猿楽・田子免・代官山・長谷戸・鎗ヶ崎の各一部で、渋谷町の大字として成立。青山通りから並木橋を経て駒沢通りに至る道路(旧鎌倉街道)沿いの南北に細長い区域。青山通りに接していた一丁目の近くに金王八幡神社があったのが命名の由来。昭和七年渋谷区の町名となり、昭和四十一年〜昭和四十五年、現行の渋谷二丁目〜渋谷四丁目・東一丁目・猿楽町・鶯谷町・惠比寿西一丁目・代官山町の一部となる。
金王町(こんのうちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山南町七丁目・大字渋谷宮益町・大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷氏の居城(渋谷城)跡に鎮座する金王八幡神社にちなんで命名。昭和七年渋谷区の町名となり、同四十一年現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目の各一部となる。金王八幡は渋谷八幡ともいい、江戸八所八幡のひとつで、渋谷区内現存の最古の建造物(江戸中期)。境内に金王桜・鎮座の松があり、「しばらくは花の上なる月夜かな」という芭蕉句碑もある。また、渋谷警察署の近辺は渋谷城の濠跡と伝える。
交差点の反対側の角には鎌倉道の案内板が立っています。「右手の細い道」は八幡通りでなく、渋谷川に架かる古い並木橋から延びる脇道のようです。よく確かめなかったのですが、そんな脇道ってあったかな?
鎌倉道
この右手の細い道を、古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚のニつの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。また、東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに束北地方に向かっていたといわれています。大永四年(1524年)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
並木橋交差点から明治通りを少し進んだ先の東交番前交差点で右折すると、都営バス車庫前に渋谷区ふれあい植物センターがあります。日本一小さな植物園と張り紙がしてありますが、どう見ても民家にしか思えませんね。現在はコロナ禍で1月始めから休園しているとのことです。観葉植物はコロナには感染しないと思うのですが。
植物園の先の比丘橋で左折し、明治通りを越えて東町に入ります。「東(ひがし)」という町名には違和感がありますが、それには経緯があるみたいです。昭和四十一年の住居表示実施以前には「東」という町名は渋谷区には存在していませんでした。住居表示実施の際に常磐松町と氷川町を合わせて新たな町名を決めようとしたのですが、常磐松町の住民と氷川町の住民が対立したために「渋谷市街地の東側にある」かつ「恵比寿の東側にある」という理由から、妥協案として提示された「東」が採用されたのだそうです。どちらかが折れていれば、少なくとも片方の伝統ある名前が生き残ったものを。
緩い傾斜の坂道を上った先の広尾高前交差点の手前に「服部南郭別邸跡」の案内板が立っています。荻生徂徠の名前は知っていますが、服部南郭の名は聞いたことはありません。まぁ、別邸を所有するくらいですから相当な人物だったのでしょう。
服部南郭別邸跡
服部南郭は、江戸中期の儒学者。漢詩人で幼名を勘助、のち元喬といい字を子遷、書斎を芙きょ館(ふきょかん)と称しました。この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。南郭は、天和三年(1683年)に京都に生まれ、十六歳の時に和歌と絵画をもって江戸の柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人となって、古文辞学と詩を学びました。三十四歳の時、柳沢家を辞し、ここの別邸で塾を開いて在野の人となり、もっぱら漢詩文に親しみ、後継者の育成に努めました。宝暦九年(1759年)没。享年七十七歳。著書に「南郭文集」・「大東世語」・「南郭先生燈下書」などがあります。
<<写真多数のため、@代官山&渋谷コース(2)に続きます。>>
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