- @代官山&渋谷コース(2)
- コース 踏破記
- <<@代官山&渋谷コース(1)の続きです>>
広尾高等学校前交差点を左折し、広尾(町名は東ですが)の閑静な住宅地を進みます。左手に古風な建物があります。入口には「温故学会会館」と書かれた表札が出ています。温故学会?聞いたことがありませんね。入口の奥には銅像が置かれています。琵琶法師のような姿格好ですが、誰なのでしょうか?実は、温故学会会館は「登録有形文化財」に指定されているほど歴史的に価値あるの建物なのです。温故学会会館は、「群書類従」の版木(総数17,244枚に及ぶ国の重要文化財)を管理・保存する目的で、斎藤茂三郎初代理事長が渋沢栄一・三井八郎右衛門(三井総領家当主)ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て昭和二年3月に完成しました。温故学会会館は鉄筋コンクリート二階建で、正面からは鳳凰が両翼を広げたような形をしています。関東大震災の経験を生かし建設された会館は、すでに80年を経ていますが、空襲にも耐えたずっしりとした風格は今日でも変わりません。
「御江戸図説集覧」等 版木
版木は、「御江戸図説集覧」をはじめとする、江戸図・刀剣・絵画・易学・漢字学等に関するもので、その総枚数は1094枚にもおよびます。版木は、それぞれの分野の第一人者が江戸・明治・大正時代に編纂し、当代一流の版木師が彫刻したものです。版木は木版印刷の原形となるものですが、本学会の版木の材質は、すべて木質の堅い桜材を使用してつくられており、版木の両面には文字や絵図が彫り込まれています。摺る時は、版木に墨を塗って染み込ませ、その上に和紙をのせ、バレンで万遍なく圧力をかけて仕上げます。摺り上がった和紙は、丁寧に和綴じで製本されることとなります。ここにある版木は、日本の印刷文化を支え、後世に伝えてきた貴重な文化財です。
盲学者 塙保己一 (延享三年〜文政四年)(1746年〜1821年)
塙保己ーは、延享三年(1746年)5月5日、今の埼玉県児玉町保木野に生まれた。父は荻野宇兵衛、母はきよ。名は寅之助。7歳の時、肝の病により失明、名を辰之助とかえ、一名多間房となのる。12歳の春、母をうしなう。宝暦十年(1760年)に江戸へ出て、雨富須賀一検校の門人となる。時に15歳。名を千弥と改め、「般若心経」読誦(どくじゅ)千日の願を立て、衆分に至らんと決意する。その間、師匠から鍼・灸・按摩などを習うが、いっこうに上達しなかったという。それに引きかえ隣家にすむ旗本松平乗尹から手ほどきをうけた学問は大いに進み、その好学心に感心した乗尹のはからいで、萩原宗固・山岡凌明らから、文学・律令・神道・医学などを学ぶ。宝暦十三年に衆分に進み、名を保木野一とし、生まれ故郷の保木野村へ思いを寄せる。明和三年(1766年)21歳の春、父と共に関西に旅行した時、京都の天満宮に詣で、菅公を守護神と心に決める。同六年、宗固のすすめで賀茂真淵の門に入り、六国史を学ぶ。真淵に就いた期間はわずか半年であったが、師から得た学問は貴重な財産となる。安永四年(1775年)、勾当(こうとう)に進んだのを機に、師・雨富検校の生家の苗字をもらい塙姓を称し、名を保己一と改める。「文選」に「己を保ち百年を安んず」とあるのを出典とした名で、百歳までも生きて目的を遂げたいとの意味にも読める。同八年には、散逸のおそれのある一巻・二巻の貴重な書物を集めて版行しようと、「群書類従」の編集・刊行を企図し、これ以降足かけ41年の歳月をかけ、文政二年(1819年)に670冊の刊行を完了した。この間、天明三年(1783年)には検校にのぼり、同五年には水戸藩の彰考館に招かれ、「参考源平盛衰記」の校訂にあずかり、続いて「大日本史」の校正にも参画する。寛政五年(1793年)には、幕府から和学講談所の設立を許され、建設費350両の借用もかない、年内に完工する。この後、版木倉庫の建設費・諸書の編集・刊行費も幕府から借用し、さらに大阪の鴻池(草間)伊助から1500両もの大金を借り入れ、事業を推進する。寛政十一年には、堂上諸家の家記類の書写を計画、またこれまで六国史の中で逸書であった「日本後紀」を発見、ただちに刊行し、ここでいよいよ菅公の志を継いで六国史に続く史料の編集に着手する。塙史料とよばれるこの編集事業は現在、東京大学史料編集所の「大日本史料」編集事業に継承されている。文政四年(1821年)2月、総検校に昇進。この年9月12日逝去。76歳。法号を和学院殿心眼智光大居士という。墓は東京都新宿区若葉二丁目愛染院にある。明治四十四年(1911年)6月、特旨をもって正四位の位記を追贈された。
「群書類従」
総数1,273種(現在1,277種)の貴重な書物を収録、これを25部門に分類し、670冊(現在665冊、目録1冊)に仕立てた大叢書。この叢書によって、わが国の責重な書物が永久に散逸から救われ、いつでも、だれでもが利用できるようになった恩恵は大きい。版木はすべて桜材で、総計17,244枚あり、昭和三十二年(1957年)に国の重要文化財に指定され、版木倉庫内に完全保管されている。このほか「徒然草」・「元暦校本万葉集」ほか版木(東京都有形文化財・典籍)、及び「御江戸図説集覧」ほか版木(渋谷区重要文化財)も保管されている。三重の障害をもつヘレン・ケラーは、「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語っている。そのケラーが昭和十二年(1937年)4月26日に本会を訪ね、塙保己一の銅像と版木に手を触れ、盲学者への感懐を深くしている。「群書類従」は、全世界に共通の文化遺産であり、塙保己一の業績を永遠に伝えるあかしである。
温故学会
塙保己一の遺志を継承し、その遺業を大成する目的で、明治四十二年(1909年)末に創立する。大正十一年(1922年)に社団法人組織に改め、文部省認可の公益法人となる。創立発起人=塙保己一曾孫璃忠雄・子爵渋沢栄一・宮中顧問官井上通泰・文学博士芳賀矢一。
〈主要事業)
( 1)「群書類従」ほか版木の保管と摺立
( 2)塙保己一の著書及び関係図書の発行
( 3)塙保己一に関する研究と成果の発表
( 4)塙保己一記念文化史料館の経営
( 5)塙保己一生誕、周年忌記念大会の開催
( 6)塙保己一展、講演会、諸行事の開催
( 7)一般人、学生、生徒、児童の参観受入れ
( 8)全国盲・ろう学校、点字図書館との連携
( 9)全国研究機関、図書館等との情報交換
(10)その他、塙保己一の顕彰にかかわる事業
國學院大學の向かいに氷川神社が鎮座しています。氷川神社は渋谷氷川神社とも呼ばれ、渋谷地区の最古の神社であり、古くは氷川大明神といって旧下渋谷村・豊沢村の総鎮守でした。往時は松杉の類が鬱蒼と茂り真に昼猶暗く渋谷川が門前を流れていかにも神さびた宮であったそうです。境内にはかって「常盤松」と呼ばれた神木の老松があり、常磐御前が植えたという伝説も残っています。その松は780年前に枯れてしまいましたが、古株だけが後年まで「守武萬代石」という石の傍に残っていたといわれています。
境内には江戸時代に造られた由緒ある相撲場が残っています。氷川神社では、古来より祭礼として相撲が奉納されていて、大井鹿嶋神社・世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていました。例祭(9月29日)には昔から参道傍の相撲場で大相撲が行われ、「渋谷の相撲」・「金王の相撲」などといわれて、近郷近在は勿論、江戸表からも見物人が多く集まりました。ある年凶年のため休んだところ、集まった面々によって遂に大相撲になった事もあるというくらいで、将軍家でさえ「渋谷の相撲なら見に行こう」といわれたと伝えられています。近所の歩道には子供相撲を描いたタイル絵も敷かれています。
氷川神社金王相撲跡
この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村・下豊沢村の鎮守社でした。そのころの祭日は、九月ニ十九日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲揚は今も残っています。この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく、近郷の若者も大勢参加し、江戸時代の村のレクリェーションの場となっていました。
國學院大學の敷地に沿って、幾つかのモニュメントが置かれています。律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系のことです。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法・訴訟法・民事法など)に相当し、律令国家の基本となる法典になります。
法学博士 瀧川政次郎像
國學院大學名誉教授。明治三十年(1897年)〜平成四年(1992年)。律令学の開拓者にして法制史学の碩学。法学博士。東京帝国大学法学部を卒業後、大正十四年、九州帝国大学助教授就任を振り出しに、同教授・中央大学・満州建国大学教授を歴任した。その間、中央・法政・日本・東京商科・慶應義塾・早稲田の各大学に出講し、日本法制史講座の創設と充実に尽力した。昭和二十一年、極東国際軍事裁判の弁護人となり、元海軍大臣島田繁太郎を弁護した。その時に収集整理した裁判資料は、本学図書館に所蔵されている。昭和二十四年より同四十三年まで、本学政経学部・法学部の教授として日本法制史を講じた。昭和六年刊行の博士論文「律令の研究」は、いまなお初学者が繙く(ひもとく)べき基本書である。日中の各時代の法制史に通じ、その学は社会経済史・文化史の方面にも及ぶ。「法制史論叢」4冊・「万葉律令考」・「公事師・公事宿の研究」をはじめとして、生涯におよそ50冊の著書と30冊の編纂書を刊行した。
傍らに建つ板碑は、瀧川政次郎先生の顕彰碑である。建立は後継者小林宏(國學院大學名誉教授)、門下の法制史家金指正三、福岡市の石材店主國松大次郎・良康父子であり、設計は石造美術研究の大家川勝政太郎である。胸像は生前に親交のあった國松幹平(大次郎)の寄贈である。
既に桜の花は散り、今は青葉が眩しい季節ですが、この桜の木にはどんな花びらが咲いたのでしょうか?白や薄いピンク色の花びらならどこでも見られますが、紅い花びらってどんな感じなのでしょうか?梅には紅梅・白梅がありますが、桜にも紅桜・白桜があってもいいですね。
枝垂れ櫻(紅白)
由来 シダレザクラ「垂櫻・枝垂櫻」
バラ科の落葉高木。本州中部以西に生えるエドヒガン(江戸彼岸)の変種で、江戸でよく栽培され、春の彼岸の頃に、花が咲くというのでこの名がある。日本の櫻の中で最も寿命が長く若枝と葉には毛が生える。太い枝は横に広がり、細い枝は軟かく長く伸びて垂れ下がる。葉は長楕円形で鋭い鋸歯があり、花が先に開き、花色は淡紅色と白色で上品に咲き枝一面につける。花言葉は、「富と繁栄」・「精神の美しさ」
氷川神社の言い伝えにもありましたが、古い地名の由来ともなった常磐松の碑があります。ここに植えられている小ぶりの松は勿論常盤御前が植えたものではないでしょう。
常盤松の碑
もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約四百年、枝ぶりのみごとな松がありました。その松は源義朝の妾、常盤が植えたという伝説があり、また一説には世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるといいますが、はっきりしたことはわかりません。この近くにはかって渋谷城があり、渋谷一族の金王丸は義朝・頼朝の二代に仕えた臣ですから、常盤御前が植えたという伝説が生まれたのでしょう。この碑は御料地になる以前に、その地が島津家の持地だったことがあり、そのときに島津藩士によってたてられました。当時常盤松の代価壱千両といわれたほどの名木で、このあたりの地名であった常盤松町の起源となりました。
MONUMENT OF TOKIWA-MATSU
UNTIL 1966 THIS AREA WAS LONG KNOWN AS TOKIWA-MATSU BECAUSE OF A BEAUTIFUL OLD PINE TREE (MATSU) THAT STOOD BY THIS STONE MONUMENT. THE ORIGINAL PINE TREE WAS 400 YEARS OLD WHEN IT DIED SHORTLY AFTER WORLD WAR II. ACCORDING TO THE INSCRIPTION ON THIS MONUMENT THE PINE TREE WAS ORIGINALLY PLANTED BY LADY TOKIWA, FAMOUS IN THE OLD TALES OF HEIKE-STORY FOR HER BEAUTY AND FOR BEING THE MOTHER OF MINAMOTO YOSHITSUNE, WHO LED THE GENJI ARMY TO DEFEAT THE HEIKE FAMILY IN THE 12TH CENTURY.
島津藩士によって建立されたといわれる石碑は古い上に、古風な文字で読みとれません。ネットで調べましたら、原文と現代語訳が見つかりました。ちなみに、石碑には篆書(てんしょ)と思われる文字で漢文が刻まれており、源義朝や常盤御前のプロフィールとか常盤松にまつわる伝説とが書かれているのだそうです。現代語訳を引用させていただきます。それにしても、六本木の地名の由来が常盤御前の植えた六本の松に由来するとは!
嘉永六年(1853年)の春、わが薩摩の殿様が、新しい別邸を江戸城の西南、渋谷村の羽沢にお造りになった。その庭には年老いた松の木が一株あり、枝葉がよく茂って、濃い影を落としながら空高く広がっている。樹皮は竜の鱗のようで、枝振りは鳳凰が翼を拡げたよう。樹齢は千年に及ぼうかというありさまである。土地の者の言い伝えによると、昔、常磐御前が自分で植えたものだという。平家滅亡の一件があった後、常磐はこの村に隠れ住み、時間のあるときに散歩して六本の松を植えた。それらは現在でも残っていて、これはその1本である。長い年月を経ているし、また、植えた人が有名なので、自然と名のある木となった。隣村の麻布の地を六本木というのも、また、これに由来している。考えてみるに、この女性はとても美しかったらしい。最初、保元・平治の乱のころには、左馬の頭であった源義朝に愛され、牛若丸(源義経)など3人の子を産んだ。義朝がなくなった後、平清盛は牛若丸たちを探したけれども見つからなかった。そこで、常磐の母を捕まえた。そこで、常磐は母の身を案じ子の行く末を心配することになったが、親を思う気持ちが抑えきれなくなり、思い切って死の危険を冒し、三人の子どもを抱いて裁きの場に自分から出ていき、自分を殺して母を釈放するように求めた。清盛は、その美しさと親を思う深い気持ちに動かされ、母も子も釈放した。そして、常磐を側室とし、非常に寵愛したのである。その後、大蔵卿であった一条長成に嫁いだという。歴史書には、以上のように記されている。ただし、その晩年ははっきりしない。後になってこの村にやってきて住み着いたのは、何か理由があったのだろう。残念なことに、はるかな歳月が流れて文献は残っていない。ただ、隣の寺に、守り神の薬師仏一体が遺されているだけである。そうはいっても、今、幸いなことに常磐が日ごろから親しんでいた古い松の木が、薩摩藩の庭のものとなった。そこで、参議をつとめたご隠居(島津斉興)からご命令があって、木の囲いをめぐらせた。そして、言い伝えが忘れ去られそうになっていたので、立派な石に刻んで、永久に後世に伝えようとするのだから、冥界の常磐の霊も、ありがたく感じているにちがいない。ご隠居のいつも手厚いお心配りは、この世だけでなくあの世に対しても広く及んでいることが、よくわかるであろう。嘉永六年6月12日、おそばに使える家臣が、謹んで文章を書き記した。
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に向っていましたが、どうやら途中で見落としたようで東四丁目交差点に来てしまいました。引き返そうと思って振り向きましたら、右手に樹木で覆われた緑濃い邸宅が見えます。常陸の宮邸です。かって、この辺りの地名は東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字常磐松でした。常磐松の地名の由来は、氷川神社にも出てきましたが、古くからのこの地に「千両の値打ちが付くほどの銘木」と賞賛されていた松の古木「常盤松」があったことによります。元々の漢字表記は「常盤」でしたが、「皿は割れるから」縁起が悪いと「常磐」に改められました。この一帯は幕末には薩摩藩島津家の地所であり、これが明治時代以降の明治四十五年(1912年)頃までは皇室の「御料乳牛場」となっていました。大正時代の始めまでの地形図によれば、「御料乳牛場」は現在の常陸宮邸から青山学院初等部にかけて拡がっていて、ここでとれる牛乳は皇室に献上されていました。昭和四十一年(1966年)4月1日の住居表示実施・町名変更により、一部の道路敷を除いて「常磐」という町名は東と渋谷に分割され事実上消滅しました。新町名が「東」という記号的なものになったのは、新町名を巡って常磐松町と氷川町の住民が対立したため、やはり両町と合併することになっていた恵比寿東から「恵比寿」を抜いた妥協案を採用したためです。現在、常磐松の地名は、かつての町域に建つビルやマンションの名称などに冠されているのがみられるほか、渋谷区立常磐松小学校の名前に残っています。昭和三十九年(1964年)に正仁親王が常陸宮家を創設するにあたり、宮邸は常磐松町の常盤松御殿(旧東伏見宮邸)に定められました。常盤松御殿はそれまで正仁親王の兄である皇太子明仁親王(後の明仁上皇)の東宮御所でした。常磐松町の由来となった松の木は、大正期の地形図によれば現在の高松宮邸内の御用地にありました。この松は見事な枝振りの老木で、その由来には源義朝の側室・常盤御前が植えたという説と、世田谷城主・吉良頼康の側室・常盤が植えたという説の二説があります。その松は東京大空襲の被害を受けて焼失し、戦後は薩摩藩士によって建てられた「常盤松の碑」の傍らに新たな松が植えられました。
常陸の宮邸から引き返し、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館を見つけました。建物の外壁に沿って3枚の案内板が立っています。「板碑」の案内板の下には石像と板碑が置かれています。
板碑
この板碑は、博物館に保管してある三基の板碑で、建武元年(1334年)七月、延文六年(1361年)十一月、康正二年(1456年)七月十九日の年紀があります。このうち、建武元年の一基を区登録文化財、延文六年及び康正二年の二基を区指定文化財としました。板碑は本来、碑ではなく卒塔婆の一種であり、関東では主に秩父産の縁泥片岩(青石)を使用しています。その特徴としては、頭部を山型の二等辺三角形に造り、その下に二本の切り込み線(ニ条線)を刻み、蓮台の上に本尊となる種子(しゅじ)または図像を表し、年紀銘を入れます。この三基の板碑も、同様の形式を踏襲しています。延文六年と康正二年の板碑は、昭和四十年代に区内の同一地から出土し、渋谷区に寄贈されました。延文は北朝年号であることから、南北朝時代の当該地が北朝勢力に荷担していた可能性を示唆し、康正は室町時代ではありますが、同一地から出土していることが重視され、区の歴史にとって重要であるとの認識から区指定文化財となりました。建武元年の板碑は、区内で最も古い板碑です。しかしながら、区外から持ち込まれた可能性があることから、登録文化財となりました。建武と延文の板碑は、比較的保存状態も良く、完品に近い状態を保っています。康正の板碑は、下部を欠損し磨滅しているものの、中世の資料が少ない当区にとって欠くことの出来ない貴重な文化財です。
「五輪塔・傘屋の碑・聖観音」の案内板は板碑とは無関係で、実物は博物館に保管されているものと思われます。松崎慊堂宅地跡はこの博物館が建っている場所なのでしょうか?
五輪塔・傘屋の碑・聖観音
五輪塔は、中世以降につくられた墓で、これはもと神宮前一丁目(旧竹下町)にありました。銘文から正徳三年(1713年)に建てられたことが判明し、蔵治義盛氏から区に寄贈されました。傘屋の碑は、もと千駄ヶ谷にあったといわれ、江戸時代に土地の傘問屋の仲間がつくったものと思われます。金王八幡宮から寄贈されました。聖観音二基は、もと恵比寿橋から明治通りに出る左角にありました。言い伝えによるとある大名の奥方がこのあたりで急死し、その供養のために建てられたものといわれています。戦後、しばらく、ごみの中に埋まっていたのを齋茂一氏が保管され、齋厳氏から区に寄贈されました。
松崎慊堂宅地跡
松崎慊堂は江戸後期の儒者で、熊本に生まれ十六歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。三十二歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。四十五歳のとき藩を辞し江戸に出て、このあたり羽沢に山荘を営み研究と門弟の教育に尽力しました。弘化元年(1844年)七十四歳で没するまでここに住み、石経山房と名付けました。慊堂の学問は朱子学が中心でしたが、経書一般にわたり国典にも詳しく、考証の面や詩文にも長じ、学識はひろく、識見も卓越していました。「慊堂日歴」はこの山房の日記ですが、この時代の天候の模様や、村人の生活などを知るのに貴重な史料です。
博物館の入口の横に白樺のようなまだらな模様の松が立っています。「まつのき小唄」ではありませんが、松にもいろんな種類があるんですね。
白松
松の仲間として分類された中国原産の植物で「しろまつ」とも呼ばれています。日本の松とは幹の皮の感じが違いますが、葉は似ています。しかし、個々の葉をよくみると、赤松や黒松が二本なのに対して、これは三本に分かれていることが特徴です。また、樹形も上に向かって合掌するような形になっています。全国的にみても非常に数の少ない稀種です。この松は、大正の末ごろ、中国北京から持ち帰ったもので、内田治氏のご好意により昭和五十三年一月、区に寄贈されました。
博物館の催し内容を見てみましたら、4月17日から6月13日まで「昭和30年代の渋谷」というテーマで展示が行われていると張り紙がしてありました。首都高3号渋谷線が東横線のホームを跨いで建設されている珍しい写真なんかもあって興味がそそられます。今日は月曜日で休館なので日を改めて来ようかと思ったら、今はコロナ禍の緊急事態宣言下で休館になっているそうです。大勢の人が押しかけるわけでもなく、そこまでする意味はあるんでしょうか?
氷川神社まで戻り、渋谷図書館入口交差点を右折して路地に入ります。細い路地なので名前なんかないだろうと思っていましたら、道路の脇に真新しい立派な石碑が置いてあり「さくら横ちょう」という歌詞が書いてあります。どうやら個人で設置したみたいです。でも、通りには住宅が立ち並んでいるだけで桜の木は見当たらないんですけど。
さくら横ちょう
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
想出す 恋の昨日
君はもうここにいないけど
ああ いつも 花の女王
ほほえんだ夢のふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
通りの突き当たりに金王八幡宮社の鳥居と社殿が見えます。さすが青山・渋谷の総鎮守だけあって立派な鳥居です。参道の先には社殿に続く階段があります。
階段の先には、少し小さな鳥居とその奥に渡り廊下が附属した門が参拝者を迎え入れています。
金王八幡宮社殿及び門 附 渡り廊下
社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治六年(1092年)に創建したといわれます。現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長十七年(1612年)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。門は、明和六年(1769年)と享和元年(1801年)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。しかし、その城館は大永四年(1524年)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。平成二十二年には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。
算額と絵馬は社務所の隣の宝物殿に保管されているそうですが、見逃しました。
算額(嘉永三年奉納)・算額(安政六年奉納)・算額(元治元年奉納)
古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をとげた和算の絵馬です。算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈願のほかに難問を提起して名を広めようとする意図もあったと考えられます。この三点は、武家地域と商業地域の接点であった宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目されます。そのうちの安政六年(1859年)の一点は、西条藩の武士により奉納されました。また、元治元年奉納の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。
絵馬「大江山鬼退治之図」その一・絵馬「大江山鬼退治之図」その二
ニ面とも青山百人組から延宝三年(1675年)、金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した「御伽草紙」に収められている「大江山の酒呑童子」に基づく絵馬です。この鬼退治物語を描いた絵馬は、各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面」(その一)と「鬼退治場面」(そのニ)のニ枚の絵に表現したものは作例としても珍しく、また、細密な筆致と豊かな色彩から見て絵画としても優品です。大きさは二面とも縦78.5x横105センチメートルです。
乃木希典は、日露戦争において日本軍がロシア帝国の旅順要塞を攻略し陥落させた戦いを指揮しましたが、彼の遙か先祖は平治の乱に敗れて所領を失い、奥州へ落ち延びる途中でここ澁谷荘で過ごしたことがあるそうです。そういう経緯で境内には乃木希典が揮毫した日露戦争の記念碑が立っています。
明治三十八年戦役記念碑
日露戦争の記念碑で凱旋軍人により明治三十九年八月建立。揮毫は乃木希典陸軍大将。忠魂碑でなく記念碑であること、又、傍らに十五・二十・二十五・三十年の碑が立っていることが大変珍しく、凱旋軍人等の周年の集いがあったことが窺える。
乃木希典
「嘉永二年(1849年)十一月十一日長州藩の支藩長府藩上屋敷(現六本木)で出生。陸軍大将、第十代学習院院長として昭和天皇・皇族子弟の教育に従事。明治天皇御大喪の大正元年(1912年)九月十三日夜、妻静子とともに殉死。乃木家の祖佐々木秀義は、平治の乱に敗れ所領を失い奥州へ落ち延びる途中、澁谷重国に引きとめられ、その庇護を受け重国の娘を娶り約ニ十年を渋谷荘で送った。
境内には二社の神社が同居しています。一社は御嶽神社です。
御嶽神社 由緒
御嶽神社は、開運・商売繁盛の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は武州御嶽神社です。御祭神の日本武尊は、古来より武道の守護神として崇められ、この地が、武門の誉れ高き澁谷氏の居城であったことから、ここに把られたと考えられます。また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。
Mitake Jinjya
Kami of prosperous business, particularly admired by trade/service industries. Yamatotakeru no Mikoto is also known as the Kami of martial arts.
もう一社は玉造稲荷神社です。食べ物に御利益があるのならお賽銭をはずんで参拝するんだったなぁ。
玉造稲荷神社 由緒
宇賀御魂命は、食物・農耕をはじめ商売繁盛・殖産興業に関する信仰のほか、屋敷神としても多く祀られています。御本社は京都伏見稲荷大社で、稲荷社は全国に約三万社余あるといわれ、最も身近な神社と言えます。また、天照皇大神のお食事を司る豊受大神と同神であるといわれています。渋谷も明治の頃までは稲作が盛んで、多くの信仰を集めていました。都会となった現在でも、その信仰は変わる事無く受継がれています。
Tamazukuri Inari Jinja
Inari is the deity of fertility and harvest, and one of the most popular kami in modern days of Japan. Hatsuuma is a ritual for harvest, prosperity, and household well-being.
端午の節句が近いこともあって、境内にはミニ鯉のぼりが渋谷の空を泳いでいます。昔は黒い真鯉はお父さん、赤い緋鯉は子供達を表わしていたそうですが、男女同権の波は鯉のぼりにも押し寄せ、今では赤い緋鯉はお母さんに代わり、子供達は青鯉になっています。青鯉は何て読むのでしょうか?童謡の「こいのぼり」も歌詞を変えないといけませんね。
社務所の隣の宝物殿に二基の神輿が保管・展示されています。右側は三年に一度の例大祭で渡御に使われている鳳輦(ほうれん:元々は「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」という意味ですが、現在では「神社の祭りなどに使われる鳳凰の飾りがある神輿」を意味します)、左側は展示のみとなっているようですが本社神輿です。さすが渋谷・青山の総鎮守、鳳輦は立派な神輿ですね。重くて担ぐには難しいのか、牛車に乗せて渡御するみたいです。本社神輿は都内に現存する最古の神輿といわれています。これには伝説が残っています。追手は鎌倉から目黒まで追いかけてきたのですか!鎌倉八幡宮にとって余程大事な神輿だったのでしょう。
神輿
台座 四尺 高さ 八尺 重量 百貫(375kg)
鎌倉時代の作で名は不詳。都内最古の神輿である。江戸時代初期に當八幡宮の氏子、青山百人組の御家人が鎌倉の八幡宮の大祭に参詣した折、鎌倉より担ぎ来て當八幡宮に納めたもの。途中で日が落ち、追手の者は神輿を見失ったと伝えられ、この場所を「暗闇坂」(別名目黒目切坂)という。
境内の一角に巨大なレコード(現代風にはCD)を祀ったような祠があります。平安時代末期から鎌倉時代初期の武将だった金王丸(こんのうまる)を祀っています。金王丸は澁谷家当主だった澁谷重家の子で、17歳の時に源義朝に従って保元の乱で手柄を立て、その名を轟かせました。金王丸は義朝の死後、土佐坊昌俊と名を変え頼朝に仕えたといわれています。土佐坊昌俊は頼朝と弟の義経が対立した時、頼朝の命を受けて御家人の誰もが嫌った義経暗殺の刺客となって京都に上り、義経の堀川館を夜討ちにしましたが返り討ちにあい逃げ込んだ鞍馬山で義経の郎党に捕らえられ六条河原で処刑されました。澁谷氏は澁谷城内に宇佐八幡を勧請して渋谷八幡宮を創建しましたが、後に金王丸の名声によって金王八幡宮と称されるようになりました。
金王丸御影堂 由緒
平安末期、澁谷重家夫妻が当八幡官に授児祈願を続けたところ、八幡神の霊夢により永治元年(1141年)八月十五日に金王丸が誕生しました。金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(1185年)十月二十三日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。
Shrine of Konnohmaru
Konnohmaru (1141-1185) was a member of the Shibuya clan and a samurai who lived in the late Heian and early Kamakura period. A statue of Konnohmaru carved by him as a memento for his mother is kept in the shrine, and it is on display for public viewing during the annual festival.
境内に1本の桜の木があります。金王桜と呼ばれ、渋谷を代表する桜の木となっています。
金王桜
長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は五〜七枚ですが、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混って咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。この桜については、さまざまな伝承がありますが「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。
境内には澁谷城の砦の石も残されています。この石は900年近く渋谷の移り変わりを見てきたのでしょう。
澁谷城 砦の石
この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館の跡で、東に鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、その館いわゆる澁谷城は大永四年(1524年)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現品川区高輪付近)のとき、澁谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。
Last Stone of the Shibuya Fortress
In the late Heian period (794-1185), the Shibuya clan built their fortress in this area serving as an important traffic junction. The clan took residency at the fortress until it was burned down during the Warring States period in 1524.
渋谷警察署の前に出て、架け替えられた渋谷駅東口歩道橋デッキに上がります。渋谷ヒカリエ・渋谷ストリーム・渋谷スクランブルスクエアは既に竣工・開業し、銀座線の渋谷駅も駅前広場と明治通り上空に移設され、駅の周囲はまだ工事用の塀で囲まれていますが、渋谷駅東口の再開発はほぼメドが立ったようです。
東急東横店の西館は解体工事が進んでいて、建物は殆ど残っていません。跡地には「渋谷スクランブルスクエア第U期棟」が建つそうですが、随分と先の話になるそうです。
コロナ禍の外出自粛で一時は閑散としていた渋谷スクランブル交差点ですが、人出はイマイチなものの、大分人が戻ってきているように感じます。かっては訪日の外国人旅行者がさかんにカメラを向けていましたが、今やそんな光景も見られなくなりました。ちなみに、渋谷スクランブルビルはスクランブル交差点の名前から命名したのではなく、「多様な人々を渋谷の街に惹きつけ混じり合うことにより、渋谷の中心からムーブメントを発信して新たな文化を生み出すステージにしたい」という想いで名付けられたのだそうです。
ゴール地点のハチ公前広場にやってきました。忠犬ハチ公像は南側のモヤイ像と並んで渋谷駅の待ち合わせの定番ですが、この日も大混雑ということはありませんでしたが、そこそこの人で埋まっています。モヤイ像の周囲にはベンチなどの足を休める施設はありませんが、ハチ公前広場には腰掛け用のバイプが設けられています。長居はできませんが、待ち合わせならちょっと足を休めますね。広場の隅に忠犬ハチ公の伝記を記したレリーフ碑が置いてあります。日本文はなんとか読み取れたのですが、英文は全くダメでした。外国人にも興味がある逸話なので、何とかならんもんでしょうかね。
忠犬ハチ公小傳
帰らぬ主人を十余年 渋谷駅に待ち續けた ハチ公の忠実な行為は 深く賞賛の的となり 銅像に作られたが 戦時中撤ブン(てへん【手偏】に文)されて その愛姿を失ったのを 多くの人の同情により ここに銅像再建して 永く美談を後生に傳う
ということで代官山&渋谷コースを歩き終えました。距離はそれほどでもなかったのですが、見所が多くて撮った写真の枚数が膨大な数になってしまいました。でも、案内板を読み返すと渋谷の歴史が垣間見えて面白かったです。コースを立案してくださった方には感謝しかありませんね。
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