- A本町&幡ヶ谷コース
- コース 踏破記
- 今日は渋谷区の「本町&幡ヶ谷コース」を歩きます。お散歩でよく通るところも含まれていますが、幡ヶ谷の地名の由来となった旗洗池跡など、今まで知らなかった地域の旧跡にも触れることができるようで楽しみです。
本町&幡ヶ谷コース
本町&幡ヶ谷コースの歩行距離は約4.6km(約6,580歩)、歩行時間は約1時間9分、消費カロリーは約207kcal(少な!)です。
スタート地点:京王幡ヶ谷駅
↓ (約1.1km:約16.5分)
@中幡庚申塔・馬頭観音【庚申塔は明治5年建立、馬頭観音は大正11年造立】
↓ (約1.0km:約15.0分)
A幡ヶ谷氷川神社【旧幡ヶ谷村の総鎮守、永禄年間の書に記載あり】
↓ (約1.2km:約18.0分)
B旗洗池跡【伝説「源義家、旗を洗う」、地名「幡ヶ谷」由来の池】
↓ (約0.7km:約10.5分)
C幡ヶ谷不動尊【寺名は荘厳寺、嘉永3年の道しるべあり】
↓ (約0.5km:約 7.5分)
D新国立劇場【現代舞台芸術を軸に上演、子供・学生向けの公演も】
↓ (約0.1km:約 1.5分)
ゴール地点:京王初台駅
出発点の幡ヶ谷駅から歩き始めます。甲州街道と高架の首都高4号新宿線に面しているため、行き交う車の騒音と排気ガスで息が詰まりそうです。おまけに、高速道路の高架で一日中日が遮られ、気が滅入ります。
甲州街道を新宿寄りに進んだ先に、六号通商店街の入口があります。車の騒音と排気ガスから離れ、上空には青空が拡がっています。六号通商店街には昔ながらの個人商店が多く、昭和の雰囲気が残っています。水道道路までの僅かな区間ですが、多様なお店が並んでいますので日常のお買い物には困りません。
と、いつの間にできたのでしょうか、「から揚げの天才」のお店がありますね。最近、各地で爆発的に拡がっている唐揚げのお店ですが、「から揚げの天才」は特に出店のペースが早いようです。店先にはテレビでお馴染みのテリー伊藤さんの人形が置かれ、四六時中「○○(出店地域名)のみなさーん!テリー伊藤でーす!待たずにお渡し!スマホからも注文できますよー!」と本人の陽気な音声が流れています。私の住んでいるところにも「から揚げの天才」のお店が開店し、去年のクリスマスはフライドチキンに代えて唐揚げセットで済ませました。テリー伊藤さんの実家は築地の老舗の玉子焼き屋さんということもあって、テリー伊藤さん監修のオリジナルの卵焼きもメニューにあります。私はてっきりテリー伊藤さんがオーナーになって経営しているのかと思っていたのですが、実はワタミグループの新業態なのだそうです。きっかけは、ワタミグループの会長である渡邉美樹氏がパーソナリティを務めるニッポン放送のラジオ番組「渡邉美樹 5年後の夢を語ろう!」でした。テリー伊藤さんとの2人のトークがきっかけで、かねがねフランチャイズビジネスを始めたいと考えていたテリー伊藤さんに対し、起業家を応援するのが大好きな渡邉美樹氏は、ならばと大社長になるための本気の経営塾をやろうと決意し、テリー伊藤さんを看板にした唐揚げのお店を立ち上げたということです。
六号通商店街は水道道路と交差し、更に北方向に続いていますが、コースはここで左折して水道道路を環七方向に向います。交差点の脇に「玉川上水新水路跡」の案内板があります。玉川上水の旧水路は甲州街道の南側にありますが、この新水路は明治・大正期に使用され、その後現在の水道道路に生まれ変わったんですね。
玉川上水新水路跡
江戸市民の上水道であった玉川上水旧水路は、多摩川羽村から四谷大木戸まで堀り割りで造られていました。近代になると、水路を管理する役人がいなくなり、道路から汚水や動物の死骸が水路に流れ込み船も通行するなど、水質汚染は著しくなったのです。明治十九年(1886年)には、コレラが流行したこともあって、明治政府は改良水道を早急に設置する必要性に迫られました。そこで考案されたのが、淀橋に浄水場(現東京都庁付近)を新設して、水質の確保に努めることでした。旧水路を代田橋付近から分水し、ほぼ直線で築堤水路を構築し、浄水場まで通水するための工事が行われ、明治二十九年(1896年)にはほぼ完成しました。この新水路には十六の橋が架けられ、浄水場に近い方から順に番号が付けられていました。新水路は、戦後に道路となったため、橋は現存しませんが、かつてこの場所には六号橋が架けられていたことから、その通りを六号通りと呼ぶようになったのです。新水路は関東大震災等により損傷したため、甲州街道の地下に埋設した水道管に通水を開始した昭和十二年(1937年)にその役目を終えました。その後、新水路は道路に姿をかえ、水道道路と呼ばれるようになったのです。
中野通りと交差する直前の幡ヶ谷第三公園で右折し、六号坂通りに入ります。マンションの隣りにわりと新しい小さな祠が祀られています。「中幡庚申塔」と書かれています。近隣には「中幡」を冠した学校名などがありますが、地域の名称なのでしょうか?
庚申塔・馬頭観音
堂内には庚申塔がまつられています。ここの庚申塔は、天邪鬼をふまえた六臂(手)の青面金剛立像で、庚申講の人々によって、明治五年(1872年)に造立されたものです。庚申講とは、昔の暦に使われた庚申の夜、講の人々が集まり、念仏を唱えながら夜明けを待つ信仰で、無病息災を祈りました。また、青面金剛像は恐ろしい疫病から村人を守ってくれるものと信じられていました。庚申堂の右前に、馬頭観音を刻んだ石碑があります。これは観音菩薩の一形態であり、農村時代には農耕や運搬に重要な役割を果たす馬を守ってくれるものと信じられ、大正十一年(1922年)に造立されたものです。二体とも造立の年代が比較的に新しいことから、江戸時代にはじまったこれらの信仰が長く続けられてきたことがわかります。平成五年六月八日に、庚申塔建立百二十年を記念して、老朽化したお堂は新しく建て替えられました。地域の方々の厚い信仰心により、今日に至るまで庚申塔は大切に守られているのです。
六号坂通りを進んで行きますと、左手に赤い塗装を施した細い道が延びています。神田川笹塚支流の流路跡を遊歩道にしたものです。ちなみに、神田川笹塚支流は「東京の河川を歩く」で真っ先に踏破したのですが、何故か掲載するのを忘れていました。西新宿のド真ん中を流れていた希少な川だったのに、何で書き忘れたんだろう?
方南通りから南下する六号通りと交差する地点に幡ヶ谷新道公園があります。小さな公園ですが、地下には下水管の排水能力を超えた際に一時的に水を貯めておくための雨水貯水池が設置されているそうです。ここにはかって新道橋が架かっていて、神田川笹塚支流は住宅地の間を西新宿方向に緩やかに流れ、最終的に神田川に合流していました。現在は開口部はなく、全て暗渠化され、下水道となっています。
氷川神社は都内でもあちこちにありますね。総本社は大宮氷川神社で、東京都・埼玉県近辺には約280社もの氷川神社があるそうです。幡ヶ谷の氷川神社はかっては旧幡ヶ谷村の総鎮守でしたが、現在では幡ヶ谷地域の氏神様として尊崇されている神社です。境内にはご神木のイチョウの大樹が天を衝いています。ちなみに、別当寺(専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺のこと)は、この後に立ち寄る幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)でした。
コースは地蔵橋で神田川笹塚支流遊歩道を離れ、右手に向います。その角地に渋谷本町学園のグランドがあり、金網越しに都庁のツインタワーが見えます。渋谷本町学園は、平成二十四年(2012年)4月1日に渋谷区立本町小学校・渋谷区立本町東小学校・渋谷区立本町中学校を合併して、小中一貫教育校「渋谷区立渋谷本町学園」として設立され、渋谷区内で唯一の一体型小中一貫校となっています。
渋谷本町学園を過ぎて更に路地を南方向に進みます。最終的に水道道路に突き当たるのですが、水道道路は周囲よりも一段高い土手の上を通っていますので、横断するには階段を上ってまた下りなければなりません。そういうわけで、水道道路にはあちこちに階段が設けられているのです。車は階段を上れませんので、車道と交差する道路は坂道になっています。道路が傾斜していますので、当然両側の建物も傾斜に合わせて建てられています。
水道道路を越え、時折マップを見ながら住宅地の路地を進みます。次の見所は幡ヶ谷の地名の由来となった旗洗池跡です。場所が結構分かりづらくて行きつ戻りつしましたが、とあるマンションの敷地内の緑地に案内板が立っています。近づいてみますと、「旗洗池跡」と題してそのいわれが解説してあります。この説明とは少し違う内容がネットに出ていました。
平安時代の永保三年〜寛治元年(1083年〜1087年)に東北地方で戦われた後三年の役を終え、上洛の途上にあった八幡太郎義家がこのあたりを通り、ここにあった池で白旗(幡)を洗い、近くにあった松にかけて乾かしたという伝説があります。あくまで関東地方に多くみられる源氏伝説のひとつであり、本当に源義家がここで旗を洗ったのかどうかはわかりませんが、この「幡」を洗った池が「旗洗池」と呼ばれるようになり、幡ヶ谷の地名の由来だとされています。ただし異説もあって、このあたりの地形が由来となって畑ヶ谷ひいては幡ヶ谷になったとも言われています。この説は、正保元年(1644年)の「田園簿」に「畑ヶ谷」という表記がみられるという史実に基づいており、これは乾田の高台であった一帯をさす先住民の口伝を文字表現したものとのこと。さて池についてですが、この池は60uほどの大きさの自然湧水で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、余水は神田川に注いでいました。しかし、年々水量が減少し、水道水で補給するなどしていましたが、残念ながら昭和三十八年(1964年)には埋め立ててしまったといいます。
このマンションは、高知新聞・高知放送の社宅で、建物名は「洗旗(せんき)荘」となっています。何も知らない人がマンション名を聞いたら、「旗洗」という人が大家さんのアパートか何かと思うでしょうね。
旗洗池跡
後三年の役(1083年〜1087年)ののち、八幡太郎義家が上洛のときにこのあたりを通り、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があります。その白旗はのちに金王八幡宮の宝物となり、いま残されている旗がそれであるといわれています。この池は六十平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水でした。昭和三十八年(1963年)に理められ、今は明治三十九年(1906年)四月、ここに遊んだ東郷平八郎筆「洗旗池」の記念碑だけが残されています。源義家がはたして白旗を洗ったかどうかについての証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです。
案内板の脇に石碑があり、碑面には何やら文字が書かれています。「洗旗池」になっていますね。署名を見ますと、これを揮毫したのは東郷平八郎となっています。東郷平八郎といえば、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った英雄です。生前は海軍元帥に列せられ、明治天皇の崩御に際して自害し、後に神様として東郷神社に祀られています。かつてこの石碑があった屋敷の主である小笠原長生は海軍軍人として東郷平八郎の秘書官を務め、その伝記を書いた人物です。おそらく、そういった縁もあり、東郷平八郎が彼の屋敷に逗留した際にこの碑文が書かれることになったのだと思われます。碑文は「洗旗池」となっていますが、「旗洗池」を聞き間違えたか、春爛漫のほろ酔い気分で書き間違えたかのどちらかでしょう。
洗旗池
丙午四月遊小笠原邸書
海軍大将東郷平八郎
旗洗池跡を後にして、荘厳寺に向います。幡ヶ谷不動尊の名前で知られたお寺ですが、さきほど立ち寄った氷川神社の別当寺にもなっていました。
境内に「道しるべ」と題した案内板が立っています。
道しるべ
門内左手にある常夜燈は、現在の環状六号線(山手通り)と甲州街道の交差点付近にありましたが、道路工事のためここに移されました。この常夜燈は、嘉永三年(1850年)にたてられたもので、台石中段には幡ヶ谷の荘厳寺、十二社の熊野神社、大宮八幡宮、井之頭弁財天までの距離が刻まれていて、道しるべの一種であったことがわかります。また、台座には多数の人名が刻んであり、それによると、当地の人はもとより江戸市中の各地、遠くは神奈川県在住の人びとによって常夜灯が造立されたこともわかります。また、墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の
暮おそき
四谷過ぎけり
紙草履
という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなり多かったと思われます。
常夜灯はお寺の門の外にも2基立っていますが、「道しるべ」にある常夜灯は門を入った植木の中に1基だけ立っています。芭蕉の句碑は探したのですが、墓地に入るのが躊躇され、残念ながらパスしました。
荘厳寺を出て東京オペラシティに向います。商店街を抜けた先に視界が開け、高層ビルと巨大な低層の建物が現れます。高層ビルは東京オペラシティタワーといい、地下4階・地上54階・高さ約234mで、新宿地区の超高層ビルとしては3番目の高さを誇っています。低層の巨大な建物は新国立劇場で、オペラ劇場・中劇場・小劇場の3つの劇場が設けられ、オペラ・バレエ・現代舞踊・演劇の自主公演が行われています。平成十六年(2004年)から日本作曲家協会主催の日本レコード大賞発表音楽会が毎年12月30日夜に中劇場で開催され、その模様はTBSテレビ系列全国ネットで生中継されていますね。
オペラシティの敷地とか近隣には何ケ所かの京王初台駅の出入り口が設けられています。京王線は新宿駅から幡ヶ谷駅の先まで地下区間になっていますので、地上の駅はありません。ここで今日の歩きを終えることにします。
ということで「本町&幡ヶ谷コース」を歩き終えました。普段目にしないところにも行け、渋谷の歴史にふれることができました。距離は短いながらも、23区の散歩道はなかなかいいですね。
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