B美術館コース  

コース 踏破記  

今日は渋谷区の美術館コースを歩きます。渋谷駅を起終点として、超高級住宅地松濤地区に散在する美術館巡りをします。  

美術館コース

美術館コースの歩行距離は約2.8km(約4,000歩)、歩行時間は42分、消費カロリーは約126kcalです。

スタート地点:渋谷駅
↓ (約0.1km:約 1.5分)
@ハチ公像【現在の銅像は2代目、初代除幕式にハチ公も参加】
↓ (約0.5km:約 7.5分)
ABunkamura【道玄坂の複合文化施設、美術館・映画館・劇場等】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
B松濤美術館【区立。美術教室も開催、設計は建築家・白井晟一】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
CギャラリーTOM【芸術に触れられる美術館、視覚障害者が楽しめる】
↓ (約0.3km:約 4.5分)
D戸栗美術館【陶磁器専門の美術館、伊万里など東洋陶器を所蔵】
↓ (約1.3km:約19.5分)
ゴール地点:渋谷駅


スタート地点の渋谷駅ハチ公改札前から歩き始めます。



東急百貨店東横店西・南館は、渋谷エリアの大規模再開発に伴い、2020年3月31日をもって閉館し、現在解体工事が進んでいます。東横店は1934年に東館で創業し、1954年に西館を増築、1970年に南館を増築し、東・西・南の3館で営業を行っていました。日本初のターミナルデパートである梅田駅の阪急百貨店に倣った関東初の私鉄ターミナルデパートであり、日本初の名店街であった「東横のれん街」やデパ地下ブームにつながる「東急フードショー」などの先進的な売り場づくりで幅広い顧客を獲得してきました。跡地には2027年に渋谷スクランブルスクエア2期棟(中央棟・西棟)が建設されることになっています。地下1階の売場は引き続き営業が継続され、2021年7月に新たなコンセプトの下で再オープンされる予定です。



渋谷駅ハチ公前広場の名物だった青蛙は姿を消しました。渋谷駅ハチ公前広場に置かれていた東急5000系車両・愛称:青ガエルは2020年6月に秋田県大館市に移設されました。緑色の塗装と丸みを帯びた愛嬌のある外観から「青ガエル」として親しまれ、外国人旅行者向けの観光案内所としても使われてきました。忠犬ハチ公像のモデルとなった秋田犬のハチの生まれ故郷が大館市だったことから、これまで忠犬ハチ公を縁に交流を続けてきた渋谷区と大館市の親交の象徴として、大館市に移設・再展示されています。



ハチ公前広場にやってきました。忠犬ハチ公像は渋谷駅の待ち合わせの定番ですが、この日もコロナ禍の外出自粛の中でもそこそこの人で埋まっています。ハチ公前広場には腰掛け用のバイプが設けられていて、長居はできませんが待ち合わせならちょっと足を休めますね。広場の隅に忠犬ハチ公の伝記を記したレリーフ碑が置いてあります。日本文はなんとか読み取れたのですが、英文は全くダメでした。外国人にも興味がある逸話なので、何とかならんもんでしょうかね。

忠犬ハチ公小傳

帰らぬ主人を十余年 渋谷駅に待ち續けた ハチ公の忠実な行為は 深く賞賛の的となり 銅像に作られたが 戦時中撤ブン(てへん【手偏】に文)されて その愛姿を失ったのを 多くの人の同情により ここに銅像再建して 永く美談を後生に傳う




渋谷といえば、スクランブル交差点と渋谷センター街ですね。外国人観光客に人気だったスクランブル交差点ですが、コロナ禍前の混雑には及びませんが、徐々に人出は戻ってきているようです。渋谷センター街はコギャルの姿はなくなり、大人の街の雰囲気が濃くなってきています。渋谷の再開発が終わったら、熟年元ギャル向けの街に変身するのでしょうか?これも時代の流れですかね。



渋谷109(イチマルキュー)は、東急グループが運営するファッションビルです。「109」とは、東急(とうきゅう)」の読みを数字の「10−9:いち・まる・きゅう」にあてた語呂合わせに由来します。「営業時間が午前10時から午後9時まで」という意味も盛り込まれています。昭和五十四年(1979年)の開業当初は20代後半から30代の女性向けテナントが中心でしたが、現在では店内のほとんどが10代後半から20代前半の女性向けのテナントで占められています。そのうち、50代以上のリッチな熟女向けのお店ばかりになるかも。



文化村通りの名物だったドンキ渋谷本店跡が工事用の塀に囲まれ、いつの間にか本店が通りの反対側に移転・営業しています。元の敷地跡には、地上28階・高さ120m・床面積4万uの店舗・オフィス・ホテルなどの複合ビルが建つ予定だそうです。



渋谷文化村のシンボル的存在の東急百貨店本店は2023年4月から長期休館し、建物が解体され、隣接するBunkamuraの改修と併せて、大規模な再開発が行われることになっています。渋谷はどこもかしこも再開発計画だらけですね。



東急百貨店本店前を通り、その先で左折して路地に入ります。歴史と文化の散歩道の「13 世田谷コース 松濤駒場ギャラリー散歩」で歩いたルートです。10年以上も前のことで全く記憶はありませんが、案内の標識は今でも健在です。ですが、都の歴史と文化の散歩道の事業は廃止となり、これらの標識も順次撤去されることになりました。東京から文化の香りが消えていきます。



松濤の住宅街の一画にポルトガルの伝統的な料理を楽しめる隠れ家的レストランがあります。素材を活かした優しい味わいのポルトガル家庭料理を供するというのがモットーのお店です。お店の名前は、”ポルトガルの台所”を意味する「Manuel Cozinha Portuguesa:マヌエル・コジーニャ・ポルトゲーザ」、略して「マヌエル渋谷」です。日本で最初のポルトガル料理レストランとかで、ここ松濤に2001年にオープンしました。一軒家風の小じんまりとした店内には民衆歌謡「ファド」が流れ、リスボンの街で過ごすような雰囲気が感じられて落ち着けます。ポルトガルや国内各地から直送した海や山の幸を使い、本場のシェフが毎晩腕をふるっています。ポートワインを始めとする多彩なポルトガルワインもお薦めです。



松濤美術館は外観の立派さから私立だと思っていたのですが、実は渋谷区立の美術館なんですね。企画展を中心に、渋谷区に関連する公募展・絵画展の他、音楽会や美術教室なども行われています。2010年3月までは、2階にある喫茶室「サロン・ミューゼ」で展示を眺めながら軽食をとることができたそうです。紅味を帯びた韓国産の花崗岩(紅雲石)の外壁にブロンズ製のグリルと化粧垂木、銅板葺きの屋根からなり、建物中央には噴水のある外部吹抜を設け、展示室が円形に囲む構造になっています。このような造りから、区立の建物としては通常の倍の単価となったそうです。お金持ちが住む渋谷区ならではですね。美術館では、「フランシス・ベーコン・ドローイング」展が開催されています。20世紀を代表するイギリスの巨匠フランシス・ベーコン(1909年〜1992年)ですが、アトリエの近所に住んでいた縁で晩年その身の回りの仕事を頼んでいた隣人バリー・ジュール氏に死の直前に千点を超える作品を渡したのだそうです。そこにはベーコンが描かないと語っていたドローイング(線画:線がメインになる作品で基本的に一色)や多くの写真や複製画に直接描きこまれたイメージなどが含まれていました。これら画家の生前にはその存在が確認されていなかった作品ですが、ベーコン自身が創り上げたセルフ・イメージと相反するような資料の出現は話題となり、さまざまな意見が取り交わされてきました。今回の展示では、このバリー・ジュール・コレクションの約130点を日本で初公開しています。



今日のコースは美術館巡りがテーマですが、鍋島公園にも立ち寄ります。紀伊徳川家がこの地に下屋敷を築いたのは、将軍家の鷹狩場だった駒場野(現在の駒場公園周辺)・碑文谷原・碑文谷池に近く(目黒は将軍家で人気の鷹狩の場所でした)、大山街道(青山通り)が通るという地の利と共に、江戸府内と府外の境に位置していたために広い土地が得られたということもあります。その後、幕末まで紀州藩徳川家下屋敷は存続しましたが、明治維新によって体制が変わり、それに乗じてこの土地に目をつけたのが新政府側の佐賀藩でした。佐賀藩鍋島家は紀伊徳川家の下屋敷の払い下げを受けたのです。佐賀藩最後の第十一代藩主である鍋島直大は進取の気性に富んだ佐賀藩の藩主らしく、1867年に開催されたパリ万博に有田焼を出展するなど、殖産興業にも務めていました。幕末の戊辰戦争では政府軍として活躍し、明治新政府の誕生後は軍制改革と海軍創設の急務を説き、明治四年に岩倉使節団としてアメリカに留学しました。明治六年にはイギリスにも留学しています。失業した武士の救済策として茶園経営が始まったのは鍋島直大がイギリスに留学していた明治九年の頃でした。茶の苗は故郷の佐賀県からではなく、狭山茶を移植しています。富ヶ谷の三田用水から水を引いて茶畑を造成し、松濤園で生産された茶は、茶の湯の釜がたぎる音を松風と潮騒に例えた優雅な呼び名の「松濤」と名づけられ、明治時代の東京市民に愛飲されました。明治二十二年に東海道線が全通(現在の御殿場線回り)すると、東京にはやはり武士が開拓した牧之原台地などの静岡茶が流入しました。これにより、鍋島家の茶園は幕を閉じ、茶畑は畑・果樹園・種蓄牧場の「鍋島農場」へと変わります(明治二十年代にはすでに大塚など東京近辺に牛乳などを生産する牧場が数多く誕生していました)。現在の鍋島松濤公園は、明治時代に華族となった鍋島候爵が池の周囲に周回道をつけ、岸の斜面に芝を植えて公園としたものです。鍋島侯爵の邸宅は現在の松濤郵便局辺りにあり、鍋島家本邸は現在の松濤中学校付近にありました。大正十三年には湧水からなる池を児童公園として一般に公開し、昭和七年に東京市に寄贈された後、渋谷区に移管されました。これが現在の鍋島松濤公園に引き継がれています。現在では遊具や池の周りにベンチが配置され、桜が咲く時期には多くの人が花見に訪れます。蛇足ですが、現在は超高級住宅地として知られる松濤地区ですが、その始まりは大正末期に松濤地区の大地主であった鍋島家の農場の宅地分譲でした。当時、豊多摩郡渋谷町の大山・神山・大向地区(現在の渋谷区松濤一丁目・松濤二丁目)はまだまだのどかな農村地帯だったのです。「忠犬ハチ公」の飼い主だった東京大学農学部教授の上野英三郎博士も現在の渋谷区松濤一丁目に住んでいました。

鍋島松濤公園沿革

此地一帯は元紀州徳川家の下屋敷跡にして、明治五年鍋島家の有となり、同九年拓きて茶園となし、松濤園と構へたり。池は当時既に存し、防火並灌漑用に供せられたるものの如く、明治三十七年至り茶園を畑地となせしも池付近は遺存し、大正十三年に至りて此處を小庭園とし、植物を植え運動器を備へ公衆の慰楽並児童遊技場とし、鍋島遊園地と名づけ今日に至れり。昭和七年十月一日市域拡張に際し、挙げて公園地とし本市に寄附せられ、新市域公園の先駆となる。本市は永く之を保存管理し、鍋島侯爵家の芳志を後生に伝えんとす。
(旧漢字は当用漢字に置き換え、句読点も適当に付加しました)




かつて渋谷区には自然湧水地が数多くありましたが、宅地開発などで現在ではほとんど姿を消してしまいました。この鍋島松濤公園の池は数少ない自然湧水地で、池の水は渋谷粘土層上の上から湧き出す湧水によって維持され、水深も1mとかなり深いのが特長です。現在では水車小屋が設置され、「江戸時代に似た雰囲気」を醸し出しています。



公園の隅に大きな石灯籠が立っています。江戸時代の紀伊徳川家の庭園に置いてあったものなのでしょうか?

鍋島松濤公園

鍋島松濤公園の付近一帯は、江戸時代には紀州徳川家の下屋敷でした。明治時代になって、その跡地を購入した鍋島家が、士族授産のために開いた茶園につけた名称が松濤園でした。松濤とは茶の湯のたぎる音から出た名で、この銘のお茶を生産していました。それがもとになって、昭和三年(1928年)にこのあたりの松濤という町名が生まれました。松濤園のなかにあった、池を中心とするこの一画が現在の松濤公園です。大正十三年(1924年)に鍋島家が児童遊園地としての施設をつくって公開した松濤遊園地が、昭和七年(1932年)十月に東京市に寄附され、昭和九年から渋谷区の管理に移り、戦後に区立の公園となりました。かつて渋谷区内には、数多くの自然湧水地がありましたが、開発などにより著しく減少してしまいました。松濤公園の池 は、数少ない湧水地として貴重であると同時に、池の周辺には昔ながらの面影が残されています。




鍋島松濤公園の池は他の公園の池と同じく、投棄物による水の汚染や外来種魚類の混入によって深刻な事態になっていました。最近、テレビ番組でも行われている「かいぼり」が数年前に実施されたのだそうです。

もう一度見たい! 美しい池・豊かな自然 鍋島松濤公園の取り組み

鍋島松濤公園の池は、かつては水深が浅く、ヨシなどの水生植物が茂っていました。池の周りは開放的な芝生で、林には「松濤」の由来である松の木立があり、渋谷の原風景が残されていました。その後、湧水の減少や、外来魚が増えた影響で水質が悪化し、水生植物が消えてしまいました。

かいぼりとは?

ため池を干し上げて、護岸や水門を点検したり、泥を取り出すこと。外来魚駆除や水質改善にも効果がある。

池を再生する「かいぼり」

汚れてしまった池をよみがえらせるために、平成二十六年(2014年)にかいぼりが行われました。在来魚の救出には小中学校や町会から182名が参加。約3ヶ月間、池底を干し上げて泥を取り除きました。かいぼり後は水質がよくなり、池底まで見えるようになりました。

知ってる? 渋谷区の湧水

渋谷区の湧水は、都市化の影響で涸れてしまったり、場所そのものが無くなってしまったものがあります。現在確認されている湧水は、明治神宮など3ヶ所のみ。鍋島松濤公園の湧水は、かいぼりのときに池底の9地点で湧き出しているのが確認されました。水量は1日約24トンと推定され、大変貴重なものです。




ギャラリーTOMは、視覚障害者が彫刻に触って鑑賞できる場所として(故)村山亜土・治江によって1984年に創設された私立の小さな美術館です。村山亜土は独創的な美術家であった村山知義を父に、叙情性豊かな童話作家である籌子を母に生まれました。村山亜土自身も児童劇作家として知られています。「ТОМ」という名称は大正時代のダダイストのグループ「マヴォ」の代表的なアーティストとして知られた村山知義の署名のロゴからとったものです。村山亜土と治江の一人息子、(故)錬は生来の視覚障害者として生まれ育ちました。あるとき、錬が「ぼくたち盲人もロダンをみる権利がある」と言った言葉に突き動かされた二人が視覚障害者のための美術館を設立したのがギャラリーТОМの誕生の経緯です。それ以来、「TOUCH ME ART」:触れられるアートというコンセプトで視覚障害者が彫刻に触って美術体験をできる施設として機能してきました。視覚障害者の美術鑑賞の場として視覚障害者も晴眼者も同じように体験ができるような先駆的で実験的な方向を求めています。



屋敷町の中に、緑の木々が鬱蒼と茂る一軒家風のレストランがあります。シェ松尾は、昭和五十五年(1980年)にシェフの松尾幸造が松濤に開店した高級フレンチレストランです。各界の著名人や三笠宮崇仁親王などの皇族による利用でも知られ、1986年9月には浩宮徳仁親王(当時)も友人らとともに来店されました。さらに1993年6月には、皇太子になっていた徳仁親王と婚約中の小和田雅子様が家族とともに訪れ、徳仁親王の来訪を記念して個室は「インペリアル・ルーム」と名付けられているそうです。



豪邸が建並ぶ松濤の街並みですが、その一画に石塀で囲まれた大きな建物があります。戸栗美術館は、実業家の戸栗亨が蒐集した東洋陶磁器を主に保存・展示している日本でも数少ない陶磁器専門の美術館です。山梨県の土木建築業の家に育った戸栗は、第二次世界大戦後の日本における欧米文化の普及を目にし、伝統的な日本文化を保存し後世に伝える必要があると考え、昭和二十七年(1952年)に上京すると、殖産住宅相互の指定建築業者である「富士工務店」の代表として同郷の小佐野賢治を補佐する傍ら、将来の展示公開を見据えて10年余り古民具や古道具の蒐集を行ないました。昭和四十年(1965年)頃からは古美術に通じた友人たちの助言を得て、観賞用陶磁器を国内外で蒐集しました。戸栗が戸栗美術館を設立するにあたり、1500点の美術工芸品・土地(松濤の旧鍋島藩屋敷跡)・建物・運営資金の寄付が行なわれました。戸栗美術館は昭和六十二年(1987年)11月21日に開館しました。収蔵品は2008年時点で7000点を数えています。主な収蔵品は伊万里・鍋島などの肥前磁器、および中国・朝鮮の陶磁器です。



松濤を過ぎ、井ノ頭通りに出る手前に宇田川の跡に造られた緑道があります。宇田川は現在は暗渠化されていますが、かっては渋谷区を流れる河川でした、代々木四丁目・初台・西原・大山町・上原などを源頭とする複数の支流を持ち、一帯の田畑を潤していました。水源の一部には玉川上水の漏水も含まれていたとする説もあります。かつては最も大きな支流として河骨川があり、一説には童謡「春の小川」の題材となったといわれています。各支流は代々木八幡宮の南麓あたりでひとつに合流し、ほぼ現在の井ノ頭通りに沿って南下し、渋谷駅横の宮益橋付近で渋谷川に合流していました。1964年の東京オリンピックを前に暗渠化され、現在は下水道(宇田川幹線)となっています。最下流の流路は西武百貨店渋谷店A館とB館の間に埋設されています。また、最下流流域一帯の行政区域は宇田川町と命名されています。



NHK下交差点の先にNHK放送センターがあります。NHKは、神南二丁目にあるNHK放送センターを地上17階・地下2階・高さ88m(最高91m)・延床面積272、118uの新施設に建て替えることになっています。2020年9月に解体工事に着手し、2021年5月に着工しました。改修して存続する「NHKホール」以外は全て建て替えられることになっています。全体が完成するのはナント2036年12月の予定なんだそうです。気が遠くなりそうな先の話ですね。



三段に積み上げた石造りの土台の上に、長崎の原爆慰霊碑のようなポーズをした女神(普通の女性?)像が立っています。二・二六事件の慰霊蔵なのだそうです。なんでこんな場所に?と思ったのですが、当時ここは陸軍刑務所の敷地の一部だったそうです。

二・二六事件慰霊像

昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第一第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。世に是を二・二六事件という。昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中・河野両大尉は自決、香田・安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。




長らく建替え工事が続いていた渋谷公会堂が「LINECUBE SHIBUYA」という奇妙な名称で蘇りました。渋谷公会堂は渋谷区役所に隣接し、初代は昭和三十九年(1964年)に開業し、平成二十七年(2015年)に建て替えのため閉館しました。二代目は令和元年(2019年)に竣工しました。2029年3月31日までLINE株式会社が命名権を保有しているために、このような奇妙な公会堂名になりました。渋谷公会堂は、昭和五十年(1975年)頃からTBSの人気テレビ番組「8時だヨ!全員集合」の公開録画会場としてしばしば使われました。また、日テレの歌番組「NTV紅白歌のベストテン」・「ザ・トップテン」・「歌のトップテン」の公開生放送にも使用されていました。渋谷公会堂は、2015年10月2日〜4日に開催された沢田研二のコンサートライブを最後として閉館されましたが、「最後の渋公3days」としてファンが全国から集まり、沢田とともに渋公への感謝と別れを告げたラストステージとなりました。渋谷区役所も建て変わり、見違えるような近代的な建物に変身しました。建替え前は来訪者用のトイレこそ最新式でしたが、オフィスは昭和時代を想わせるような雑然とした雰囲気で、空調も効かないような劣悪な環境でした。最近、土地の有効利用によって区役所があちこちで建替えられていますが、こういうスキームを考え出したお役人って凄いですね。



公園通りの坂の途中のビルにウッディ・ガスリーの肖像と彼の言葉を書いたプレートが掲げられています。ウッドロウ・ウィルソン・ガスリーは、アメリカ合衆国のフォーク歌手・作詞家・作曲家です。ガスリーは生涯を社会主義者かつ労働組合活動家として生きました。ガスリーの死までに、彼の作品は新しい聴衆によって発見され、その一部はボブ・ディランを通して紹介されました。ボブ・ディランはガスリーの人生の最後の年に彼を訪問して、彼を「私の最後の英雄」だと描写しました。後にディランは5ページの賛辞「ウディ・ガスリーについての最後の考え」を書き、そして彼の1962年の最初の同名のアルバムに「ウディに捧げる歌」を入れました。

"I hate a song that makes you think that you're not any good. I hate a song that makes you think you are just born to lose. I am out to fight those kind of songs to my very last breath of air and my last drop of blood."

-Woody Guthrie




建て替えが完了して見違えるように綺麗になった渋谷PARCOですが、コロナ禍の直撃によってお店を開けることすら出来ません。「かき小屋パルコ店」のバイキング、復活しないかなぁ。



西武A館とB館の間は、宇田川の流路であっただけでなく、井ノ頭通りの起点ともなっています。何年か前に、ここから武蔵野市の関前五丁目交差点まで歩いたことがありましたね。懐かしい思い出です。



渋谷駅ハチ公前改札口に戻ってきました。駅の壁に何やら白い飾りがあると思ってよくよく見たら、犬のモチーフでした。ハチ公をイメージしているのでしょうか?



ということで、美術館コースを歩き終えました。結局、コロナ禍で閉館中だったり、私の好みと違っていたりして、どの美術館にも入りませんでした。シェ松尾はムリとしても、せめてポルトガル料理くらいは頂きたかったですね。美より食。。。




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