C恵比寿ガーデンプレイスコース  

コース 踏破記  

今日は渋谷区の恵比寿ガーデンプレイスコースを歩きます。恵比寿駅を起終点として、恵比寿の隠れた見所を探しながら恵比寿地区をほぼ一周します。  

恵比寿ガーデンプレイスコース

恵比寿ガーデンプレイスコースの歩行距離は約4.0km(約5,720歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約180kcalです。

スタート地点:恵比寿駅
↓ (約0.3km:約 4.5分)
@恵比寿東公園(タコ公園)【タコ形の大型すべり台、親水施設と芝生広場も】
↓ (約1.6km:約24.0分)
A恵比寿ガーデンプレイス【ビール工場跡の複合施設、南側に東京都写真美術館】
↓ (約0.1km:約 1.5分)
Bアメリカ橋公園【恵比寿南橋=アメリカ橋、光のモニュメントを設置】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
C恵比寿南一公園(イカ公園)【イカ型の大型複合遊具、地元のお花見スポット】
↓ (約1.6km:約24.0分)
D恵比寿神社【古き社名は天津神社、戦後区画整理で現在地へ】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
ゴール地点:恵比寿駅


スタート地点の恵比寿駅西口から歩き始めます。戎様は今日も鯛を抱えてご機嫌です。



恵比寿駅東口には昭和の面影が残っている一画があります。恵比寿は住んでみると実感できますが、案外と下町感が満載なのです。町会がしっかり機能していますし、お祭りには神輿の渡御も行われます。えびすストアは恵比寿駅東口のはす向かいにありながら、店先の雰囲気は街角の魚屋さんといった感じです。スーパーでのお買い物に慣れた若い人には対面での品定めは気後れしそう。えびすストアが入っている建物は奥が複雑に入り組んでいて、香港の九龍城砦を思わせます。恵比寿横丁は夜のお店が多くてなかなかに入りづらい感じですが、中は意外とパラダイスらしいとか。



恵比寿駅東口から渋谷川の方に歩いていきますと、川沿いに恵比寿東公園があります。「タコ公園」の名が示す通り、公園の中央にはタコをかたどった滑り台が置かれています。昔は遊具といえば幼児受けのする象さんなんかが人気だったんですけど、最近の子供さんには通用しないんですかね。



恵比寿には裏通りにも多くの魅力的なお店があります。渋谷川に沿って延びる裏道に面してメキシカンな派手な装飾のお店があります。「サラ・アンダルーサ」というスペインバルで、、スペイン南部アンダルシア地方にある臨場感溢れるフラメンコショーとお食事が楽しめると評判のお店です。フラメンコショーでは、「タブラオ」と呼ばれるステージの上で情感たっぷりに歌いあげる歌い手とギターの音色に加えて、踊り手が華麗にステップを刻んで舞い踊ります。店内はまるでスペインといった雰囲気で、壁面にはスペインから訪れるフラメンコ舞踊家からのメッセージやサインが沢山架けられています。夜はフラメンコのライブを楽しみながら本格的なスペイン料理が堪能できますが、ランチでもサラダバーが付くパエリアセットがお得に頂けます。テラス席もありますので、夏の夜はサングリアで乾杯というのもいいですね。建物内の4階にはフラメンコ専門ショップがあり、シューズやウェアを始め、アクセサリーなどの小物類やフラメンコに関する各種グッズを取り扱っています。



通りに面して台雲寺の入口があります。台雲寺は、港区の21ヶ寺・渋谷区の2ヶ寺から構成されていた西方三十三所観音霊場のひとつですが、現在では特に実態はないとのことです。



入口横には巨大な石碑があり、漢文で書かれていて、碑文は日清戦争の戦没者を慰霊する内容のようです。境内には軍馬の慰霊碑もあります。



入口横の案内板には慰霊碑と歌川国宗について解説してあります。

敵・味方軍人の供養碑 軍馬の碑 歌川国宗の墓

明治二十七・八年(1894・5年)の日清戦争に従軍し、戦没した日本軍人の慰霊碑とともに、相手側の清国軍人の霊を吊った石碑が明治三十年にたてられていて、当時の人々の博愛思想を知ることができます。また、この戦役に従軍して犠牲となった軍馬をあわれみ、

みいくさを のするのみかは かてをさへ
はこぶも馬の ちからなりけり

という歌を刻んだ珍しい軍馬の碑もあります。境内の墓地には、浮世絵師歌川国宗の墓があります。国宗は、本名を山下勇蔵といい、初代豊国の門下で、長文斎・杉嶺と号し、文政年間に錦絵や肉筆美人画を描いています。活躍した時期が短いことから、作品は極めて少ないといわれています。墓碑銘から安政四年(1857年)六月五日に六十六歳にて病死し、法名は寶山得勇信士と刻まれています。




渋谷川に架かる恵比寿橋は、明治三十四年(1901年)に当時の日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)が加計塚小学校前に製品の搬出路を通したことから、坂下の渋谷川に赤煉瓦アーチ状の橋を築いたのが最初だったそうです。この坂はビール坂と呼ばれており、加計塚小学校の所で分岐し、右は新橋・左は恵比寿橋へと下るふたつの坂を総称しています。昭和六十三年(1988年)に閉鎖された坂の上のサッポロビール恵比寿工場の従業員や搬送車がよく通行していたことからこのように呼ばれました。



恵比寿橋で右折し、更にその先で左に折れます。街路灯の柱に「新橋グルメ通り」というプレートが取り付けられています。道路の両側にはそれらしきお店は見当たりませんが、実際はこの界隈には飲食店が多く立ち並び、西口と違って大人向けの隠れ家的なお店が多くあるそうです。近くを流れる渋谷川に架かる新橋に因んで、地名は恵比寿新橋と呼ばれています。恵比寿なのに新橋と思われるでしょうけど、このあたりの地名は昔は「新橋町」と呼ばれていました。新橋グルメ通りが特徴的なのは各国料理が集まっていることで、イタリアン・フレンチはもとより、韓国料理・ハワイアン・ジャマイカ料理まであります。その他、牡蠣・ニンニク料理の専門店が30m程の間に密集しています。どこにそんなお店があるのかな?



日仏会館の手前の建物のシャッターに壁新聞が貼ってあります。かわら板とは思えないほどしっかりとした体裁です。恵比寿三丁目にはかって宇和島藩伊達家の下屋敷があり、その名残は今でも公園名などに残されています。昔はこの辺りは伊達町という地名で、その縁で宇和島市の商工観光課がわざわざ四国から届けられたのでしょう。宇和島といっても周囲が海に囲まれた島ではなく、豊後水道に面した四国の一部です。何故島でもないのに宇和島なのでしょうか?実は、宇和島の地名の由来は「宇和郡板島」を縮めただけなのです。では、板島は???

渋谷区 恵比寿 旧伊達町

渋谷に残る宇和島藩の面影 宇和島藩伊達家の江戸藩邸

東京都渋谷区恵比寿三丁目に下屋敷があった宇和島藩。かつての町名である「伊達町」は現在も町会の名前に用いられ、宇和島市との交流も行われています。坂本龍馬の婚約者だった千葉佐那が下屋敷で剣術指南をしたことなど、渋谷と宇和島の昔からのつながりを紹介します。

宇和島藩 って?

宇和島は四国愛媛県の西南部に位置し、じゃこ天・牛鬼・闘牛・真珠・みかん・鯛やハマチなどが有名で人口八万四千人の地方都市です。宇和島藩伊達家初代藩主「伊達秀宗」は独眼竜で知られる仙台の伊達政宗の長男で、慶長十九年(1614年)、伊予国宇和郡十万石を拝領、以後廃藩置県まで九代二百五十六年間にわたって宇和島藩を治めました。今なお伊達家の歴史の香りが強く残る街として宇和島は栄えてきました。

宇和島藩伊達家の江戸屋敷

享保三年(1718年)より宇和島藩伊達家「上屋敷」は麻布龍土(現・六本木国立新美術館付近)にあり、総面積約三万二千七百坪(東京ドーム約2.3個分)。また、「下屋敷」は広尾屋敷と言われ(現・恵比寿三丁目あたり)面積は約一万一千坪(東京ドーム約0.8個分)ありました。

幕末の四賢候

幕末期に活躍した四人の大名を「幕末の四賢候」と呼んでいます。
越前福井藩第十六代藩主
 ・松平春獄(松平慶永)
宇和島藩第八代藩主
 ・伊達宗城(だてむねなり)
土佐藩第十五代藩主
 ・山内容堂(山内豊信)
薩摩藩第十一代藩主
 ・島津斉彬(久光)
伊達宗城は、逃亡中の「高野長英」を宇和島に招き、シーボルトの娘「楠本イネ」を優遇し、「村田蔵六(大村益次郎)」を世に出す契機を作るなど、時代の先を見る目がありました。

ヘーそうだったんだって話

北辰一刀流桶町千葉道場の千葉定吉の二女「千葉佐那」は美貌と武芸に優れ、「千葉の鬼小町」と呼ばれ、坂本龍馬の婚約者として知られています。そんな佐那が宇和島七代藩主・伊達宗紀の七女・正姫、八女・節姫になぎなた・乗馬などを教えていました。宗城の日記には「正姫付の佐那(十九歳)という側女中の剣術・槍・なぎなたを見たが、女にしては達者なので感心した」、「正姫と節姫のなぎなたの稽古を見た。佐那は非常に強く、しかも美人である」、「九代藩主伊達宗徳が佐那と試合をした。佐那は上屋敷・下屋敷の誰よりも美人で、なぎなたも強く、宗徳(二十七歳)も負けた」とあります。

恵比寿という町名の歴史について

明治二十年(1887年)に設立されたサッポロビールの前身、日本麦酒醸造会社(後に日本麦酒株式会社)が明治二十二年(1889年)この地にビール工場を建設しました。ここで製造されたのが恵比寿ビールです。明治三十四年(1901年)、ビールの輸送のため貨物専用の「恵比寿停車場」が設置されると、付近の都市化と人口の増加が急速に進み、やがて旅客も扱う駅となり、工場周辺を「恵比寿」、駅も「恵比寿駅」と呼ばれるようになりました。昭和三年(1928年)には、正式に「恵比寿」の地名になり、昭和四十一年まで大字(おおあざ)名・町名として「伊達町」が用いられました。




ビール坂上の交差点角に日仏会館があります。日仏会館は日本経済の近代化の礎を築いた渋沢栄一と、著名な詩人であった駐日フランス大使ポール・クローデルなどによって、1924年に設立されました。日仏会館の建物は、財団法人日仏会館とフランス外務省所管在外研究所が共同で所有していましたが、2010年から公益財団法人日仏会館の所有となっています。建物の壁に古びた2枚のプレートが貼付けられています。「日仏協會:SOCIETE FRANCO−JAPONAISE」は、日本とフランス及びフランス語圏の国々との友好・親善・文化交流を目的とした協会です。「日仏會館:MAISON FRANCO−JAPONAISE」は、日本とフランスの文化交流を目的にした文化施設の日仏会館を運営する公益財団法人で、総裁は常陸宮正仁親王です。

このプレートは、当会館が1995年にお茶の水から恵比寿に移転した際、記念としてお茶の水の旧建物(1929年〜1995年)より移設したものです。



日仏会館の向かいには恵比寿ガーデンプレイスの敷地が拡がっていて、その一画にサッポロビールの本社ビルが建っています。恵比寿の地に相応しく、緑に囲まれたお洒落な建物です。



サッポロビールの本社ビル地下(というか、半地下)にヱビスビール記念館が設けられています。煉瓦塀に昔の恵比寿ビール工場の写真がはめ込まれていますが、牧場のような風景ですね。



ヱビスビール記念館は何度か訪れたことがありますが、いつも見学客で賑わっていました。今はコロナ禍でお客さんはまばらです。案内の方も手持ちぶさたなような感じでした。

ヱビスツアー

ブランドコミュニケーターによる有料のガイドツアーです。ヱビスビールの誕生から今日に至るまでを貴重な資料や映像で解説します。2種類のヱビスを味わっていただけます。

Yebisu tour

For a fee there is a guided tour by the brand communicator. Experience the history of Yebisu Beer from its birth till today using valuable materials and video footage. Two types of Yebisu Beer can be enjoyed.

ミュージアムショップ

ヱビスビール記念館のオリジナルグッズやヱビスグッズを各種取り揃えています。プレゼントや記念品にぜひご利用ください。

Museum shop

There are a wide variety of original goods from the museum in addition to Yebisu brand goods. Please come to the shop to purchase gifts or souvenirs.

テイスティングサロン

各種ヱビスをご用意しています。お好みのヱビスをお楽しみください(有料)。

Tasting salon

There is a variety of Yebisu Beer available. Please enjoy your Yebisu Beer. (fee applicable)




館内の壁にはヱビスビールの歴史を解説したプレートが古い順に並べられています。ちなみに、エビスの「エ」は「ヱ」になっていますが、「ヱ」はア行のエ段ではなく、ワ行のエ段です。平仮名では「え」ではなく、「ゑ」となります。「ヱ」が使われなくなったのは戦後の昭和二十一年(1946年)に政府が「現代かなづかい」のルールを定めた時点からです。明治からの伝統を重んじる恵比寿ビールとしては「エビスビール」とは改名できなかったのでしょう。

この地で生まれたヱビスビール

ビール事業の将来性に着目した東京や横浜の資本家が集まり、日本一のビール会社を目指して、明治二十年(1887年)9月、「日本麦酒釀造会社」が設立された。明治二十二年(1889年)10月、現在の東京・目黒区三田にビール醸造場が完成。当時、この辺りは畑や山林が広がる民家もまばらな土地であった。突如として出現したレンガ造り3階建ての近代建築に、人々は大いに驚いたことでしょう。そして会社設立から3年後の明治二十三年(1890年)2月、「ヱビスピール」が誕生した。

Yebisu Beer was born here

In September 1887, a group of local entrepreneurs in Tokyo and Yokohama who noticed the prospects of the beer business got together and founded the Japan Beer Brewery Company with an ambition to become the number-one brewery in Japan. In October 1889, a brewery was built in the current Mita area, Meguro Ward in Tokyo. At that time the area was comprised of fields and woods with sparsely scattered houses. People were surprised to see a modern three-story brick-made architecture out in the suburbs. In February 1890 or three ycars since the establishment of the company, Yebisu Beer was born.

ドイツビールへのこだわり

ヱビスビールが発売された明治二十年代、日本各地に小規模なビール醸造所が誕生。その数は100とも150とも言われている。しかし、品質が悪かったのか、ほとんどの醸造所はわずか数年で姿を消してしまう。ヱビスビールは、これらとは一線を画し、ビールの本場ドイツから醸造技師を招き入れ、仕込釜・蒸気機関・製氷機などの醸造設備も全てドイツ製を購入した。特に、ビールの味を知る外国人らに好評で、「(当時、人気のあった)舶来ビールの売り上げに大きな影響を与えている」、との新聞報道が残っている。

Loyal to German beer

In the 1890's when Yebisu Beer was launched in the market, small breweries were being built throughout Japan, with the number said to be 100 or 150. However, the majority of them disappeared after a few years, perhaps due to bad quality. Unlike these breweries, Yebisu Beer invited a brew master from Germany and all brewery equipment including mash kettle, steam engines and ice machines were imported from Germany. Yebisu Beer was especially popular among foreign people familiar with the original taste of beer, and a newspaper article from that time noted, "It (Yebisu Beer) affected the sales of foreign beer (which was popular then)".

明治三十五年(1902年)ごろの「恵比寿神社」

日本麦酒の専務であった馬越恭平は明治二十七年(1893年)、戎様を会社の守護神にすべきと思い立ち、兵庫県戎宮総本社の西宮神社から分霊を受けて構内に「恵比寿神社」として記った。
(撮影:徳川慶喜)

"Yebisu Shrine" around 1902

In 1893, Kyohei Makoshi, Senior Managing Director of the Japan Beer Brewing Company, had the idea of making Ebisu (God of Shipping, Fishing, Commerce) the genius of the company and honored Ebisu in "Yebisu Shrine" on site by making a branch shrine for a deity from Nishinomiya Shrine, the head shrine of Ebisumiya in Hyogo Prefecture. (Photo by Yoshinobu Tokugawa)

ヱビスビールをめぐるエピソード: ビールの値段

明治三十七年(1904年)ごろのビール1本の値段は20銭。庶民の食べ物、かけそば1杯が2銭ほどであったから10倍にもなる。ビールがなんと高価な飲み物だったことか。ビールが庶民の飲み物となるのは、1960年代の高度経済成長期まで待たなければならなかった。

庶民には高嶺の花であったビール。

Episodes about Yebisu Beer: Price of beer

Around 1904, a bottle of beer cost 20 sen (100 sen = 1 yen). Back then a bowl of soba noodles in hot broth was 2 sen, so beer was ten times the price. What an expensive beverage it was. Beer became a drink for common people only in the period of high economic growth in the 1960s.

For the general public, beer was something to gaze at in a shop window.

銀座に開店、”日本初”恵比寿ビアホール

明治三十二年(1899年)8月4日、現在の東京・銀座8丁目に、日本初となる「恵比寿ビール ビヤホール」が誕生した。「工場直送の出来立て生ビールを味わってもらい、そのよさを知ってもらおう」という、日本麦酒の社長馬越恭平のアイデアから生まれたビヤホールでは、氷室で冷やした生ビールを1杯(500ml)10銭で提供。開店すると、またたく間に評判は広がり、連日大盛況の賑わいとなった。馬越によるビヤホールは、単なるヱビスビールの宣伝に留まらず、ビールの普及にも大きく貢献したのである。

"First in Japan" Yebisu Beer Hall opened in Ginza

On August 4, 1899, the first "Yebisu Beer" beer hall in Japan opened in 8-chome Ginza. The beer hall was created thanks to the idea of Kyohei Makoshi, the head of the Japan Beer Brewery Company and offered a glass of draft beer chilled in the ice room at 10 Sen per glass (500 milliliters). Immediately after opening, the beer hall gained popularity, and was crowded every day. The beer hall built by Makoshi, not only promoted Yebisu Beer but also greatly contributed to the wide spread popularity of beer.



東洋のビール王、馬越恭平

三井物産の要職にあった馬越恭平は明治二十四年(1891年)、経営不振に陥った日本麦酒の再建に乗り出す。馬越は大胆な再建策を講じ、わずか1年で黒字会社によみがえらせた。明治三十九年(1906年)には日本・札幌・大阪麦酒の3社合同による大日本麦酒を発足させ、社長に就任。同社をスエズ運河以東最大のビール会社に育て上げ、東洋のビール王と呼ばれた。

Beer King of the East, Kyohei Makoshi

In 1891, Kyohei Makoshi who held an important post in Mitsui & Co. started to turn around the troubled Japan Beer Brewing Company. He took drastic revival steps and turned its performance into the black within a year. In 1906, he merged the Japan, Sapporo, and Osaka breweries to form Dai Nippon Beer Company and became the president of the company. He developed the company into the largest brewery to the east of the Suez Canal and was called the Beer King of the East.

明治四十二年(1909年)ごろの「開盛亭」

明治三十六年(1903年)、工場内にビヤホール「開盛亭」を開業。工場の建物と鉄道線路の間は「恵比寿公園」とも呼ばれ、市民の憩いの場所となっていたという。ここにビヤホールを設け、テニスコートやビリヤード場も併設した。気のきいた施設と評判もよく繁盛した。

"Kaiseitei" around 1909

In 1903, a beer hall, "Kaiseitei" opened at the brewery site. The area between the brewery building and the railroad was called, "Yebisu Park," serving as a place of recreation and relaxation for the local people. After the beer hall, a tennis court and billiard hall was established. It had a great reputation and flourished as a sophisticated facility.

世界が認めたヱビスビール

明治三十三年(1900年)、ヱビスビールは、パリ万国博覧会で欧米の並み居るビールを抑えて金賞を獲得し、世界でその味が認められた。ビール造りを始めて僅か10年、しかも航空機の無い時代に、数十日船で運搬した末の快挙だけに、ヱビスピールの品質に世界が驚嘆した。その後、明治三十七年(1904年)のセントルイス万国博覧会ではグランプリを獲得し、アメリカでも高い評価を受けることとなる。ヱビスビールの贈答用木箱には、その品質の高さを示す証として各受賞を伝える焼印が長らく押されていた。

Yebisu Beer recognized worldwide

In 1900, Yebisu Beer won a gold prize competing against beer products from Europe and the US at the Paris Expo, with its taste being recognized by the world. As this was accomplished in just a decade since beginning brewing and after several tens of days of transportation by sea in the era without airplanes, the quality of Yebisu Beer rocked the globe. Later, at the St. Louis Expo in 1904, the beer won the grand prix, being highly appreciated in the US. The wooden gift box of Yebisu Beer contained a brand indicating these prizes as evidence of the product's high standard of quality for many years.



駅名、地名になったビール「ヱビス」

出荷量の増大に伴い鉄道輸送の必要性が高まり、明治三十四年(1901年)2月、工場構内にヱビスビール専用の貨物駅が設けられた。駅名は「恵比寿停車場」と名づけられた。更に明治三十九年(1906年)には渋谷駅寄りに、ブランド名「ヱビス」にちなんで「恵比寿駅」が開業し、旅客営業を開始。昭和三年(1928年)には、周辺の地名も渋谷町下渋谷の伊達跡などが恵比寿通一丁目・二丁目と改称された。一企業のブランドが駅名となり、ひいては地名の起源になった極めて珍しい事例である。

"Yebisu" beer became the name of a train station and a place

Along with increasing shipments, railway transportation became necessary, and in February 1901, a freight station exclusive for Yebisu Beer was built on the brewery site. The station was named "Yebisu Station." Then, in 1906, current "Ebisu Station" was opened closer to Shibuya Station, named after the brand name of "Yebisu" and began passenger services. In 1928, the names of surrounding areas such as Dateato of Shimoshibuya in Shibuya Village were changed to 1-chome and 2-chome Ebisu-dori. This was a rare case of an origin of a train station and later a place name from a brand.



明治三十四年(1901年)、東海道線に食堂車が登場する。運営は西洋料理で有名な精養軒が担当した。メニューにはオムレツ、ビフテキ、 タンシチューと定番が並ぶ。ビール1本25銭。勿論、ビールはヱビスビールである。

In 1901, dining cars were introduced to the Tokaido Line. Seiyoken, which was famous for western-style food operated the cars. The menu included standard items such as omelets, beefsteaks, and tongue stew. A bottle of beer was 25 sen. Of course, the brand was Yebisu.


食堂車は紳士淑女の社交の場となった。
Dining cars became a place of social gathering for ladies and gentlemen.


ヱビスビールをめぐるエピソード: コルク栓と王冠

明治末期まで、日本のビールは主にコルク栓を用いていた。コルク栓はガス抜けしたり、抜け難かったり不具合が多かった。王冠は1892年ごろアメリカで発明され、日本にも紹介されていたが、当時の手吹き製のびんは口の大きさ・高さが不ぞろいで使用困難であった。製びん技術の向上で、規格化・標準化が進み、ようやく大正前期に王冠の本格採用となった。

Episodes about Yebisu Beer: Cork stoppers and crown caps

Until the end of the Meiji Era, Japanese beer bottles mainly used cork stoppers, which often caused trouble such as flat beer or difficulty in uncorking. The crown cap was invented in the USA around 1892 and introduced to Japan. At that time, however, hand-blown bottles had uneven openings and heights, and thus could not be used with crown caps. Thanks to bottle-making techniques, bottles became standardized, and finally in the early Taisho Era, crown caps were applied full scale to beer bottles.

ビールの大衆化

大正七年(1918年)、第一次世界大戦が終わり、一時的な反動不況に陥ったものの、翌年には反転して大戦中を上回る好況となった。このころ都市への人口集中が一段と加速し、人々の生活が大きく変わった。都市のサラリーマン層を中心に衣食住の西洋化が進み、洋服や洋食が普及。こうしたサラリーマン層の拡大がビール需要に大きく反映している。大正八年(1919年)ごろには「ビール党」という言葉が生まれ、ビールはまさに国民の必需品となりつつあった。

Popularization of beer

In 1918, with the end of the First World War, and though Japan temporarily experienced a poor economy in reaction to the end of the war, the country enjoyed economic conditions better than those during wartime the following year. Around this period, populations became further concentrated in cities, and people's lifestyles drastically changed. Food, clothing, and housing were all westernized especially among urban salary persons, and European clothes and Western-style food became popular. The expansion of the group of people working for a salary was reflected upon the demand for beer. Around 1919, an expression, "bi-i-ru tou" (beer enthusiast) was created, with beer about to become a necessity in the life of people.



消えたヱビスビール

昭和十二年(1937年)を境に、わが国経済は急速に戦時色を濃くしていく。物資の軍需優先使用などによって、物資不足は深刻化。ビールも公定価格が定められ、昭和十五年(1940年)には、配給も実施された。昭和十八年(1943年)5月、ついには、ヱビスビールをはじめ、全ビール会社のブランドラベルが廃止されるに至った。

Yebisu Beer disappeared

From 1937, the Japanese economy quickly turned into wartime finance. Due to priorities to military use of materials and resources, shortages became serious. An authorized price was established for beer, and in 1940, distribution control started. In May 1943, all brand labels of beer including Yebisu Beer were abolished.




解説のプレートの他、館内には昔の看板とか広告も展示されています。



さぁ、お待ちかねの試飲タイムです!この日は未だコロナ緊急事態宣言が発令される前で、かろうじて試飲ができました。ヱビスビール記念館に来てビールを飲まないで帰るのは、私的にはスタジアムに行って野球の試合を観ないのと同じことです。それにしてもこのおつまみ、お値段の割には随分と豪華ですな。あむっつ!



ヱビスビール記念館の出口にビールの缶で造られた巨大なオブジェが飾られています。まさか使用済の空き缶ではないのでしょうけど、中味は入っているのかな?使われている缶の数を当てたらビール1年分をプレゼントします!なんてことはないでしょう。いろんな場所で見かける戎様のお顔はまちまちですね。どの顔も鯛を釣り上げた喜びで笑顔にはなっていますが。



恵比寿ガーデンプレイスには「俺のBakery & Cafe」のお店が2016年11月5日にオープンしました。未だ高級生食パンがそれほど流行っていなかった頃で、2斤千円の食パンはお値段もお味も衝撃的でした。この日はバゲットを購入。今夜はチーズとパゲットと赤ワインで豪華晩餐。



恵比寿ガーデンプレイスのシンボルだった恵比寿三越百貨店が2021年2月末で閉店になりました。恵比寿のセレブマダムの購買力をもってしても経営は難しかったということでしょうか。跡地には2022年秋までにスーパー・カフェ・物販・オフィスなどのテナントが入居する予定だそうです。それに先立ち、2022年春には食料品・生活雑貨の地下2階フロアに、スーパーマーケットの「ライフ」・1885年創業の老舗「明治屋恵比寿ストアー(駅前のお店ではない!)」・都市型ドラッグストアを首都圏で展開する「トモズ」のお店が先行オープンすることになりました。味のある名店が揃っていた地下二階ののれん街はどうなったのかな?



恵比寿ガーデンプレイスに沿って走る山手線・埼京線・湘南新宿ラインの線路を跨いでアメリカ橋が架かっています。昭和五十四年の狩人のヒット曲「アメリカ橋」に登場する橋です。同じ曲名ですが、山川豊さんも平成十年に歌っています。狩人は別れの歌、山川豊さんは再会の歌。アメリカ橋にはそんな風情がピッタリのレトロ感があります。

アメリカ橋(正式橋名 恵比寿南橋)

アメリカ橋は、1926年に架設されましたが、当時の橋は、1904年に開催されたセントルイス万博(アメリカ)に出展された橋を架設した事から、この橋が「アメリカ橋」と呼ばれるようになりました。現在の橋はニ代目ですが、平成十八年の改修にあたり、安全性の向上を図ると共に周囲の景観に配慮し、街路灯については、世界的に著名な照明デザイナーの石井幹子さんによってデザインされました。この改修は、景観の向上について東京恵比寿ロータリークラブより提言と協力をいただき、渋谷区が計画をしたものです。渋谷区では、歌の題材としても皆様に親しまれているこのアメリカ橋を今後とも大切にしていきます。




恵比寿スカイウォークと恵比寿ガーデンプレイスを結ぶ横断歩道脇にアメリカ橋公園があります。公園には遊具施設はありませんが、光のモニュメントが設置されています。昼間はただの柱にしか見えませんが。

アメリカ橋公園

光のモニュメント「星のアンサンブル」

公園名は、セントルイス万博(1904年)に出展された橋(アメリカ橋)に由来しています。モニュメントのデザインは、アメリカ国旗のスターズ&ストライプスをモチーフとしています。大きな星には、未来を明るく照らし出す意味が込められています。大小の星がキラキラと輝く光演出を行います。

この光のモニュメントは、周辺景観との調和を図るため、20周年を迎えた東京恵比寿ロータリークラブの協力を得て渋谷区が設置したものです。

Americabashi Park

Light Monument "Ensemble of Stars"

This park is named after a bridge exhibited at the St. Louis World' s Fair in 1904 (the Louisiana Purchase Exposition) and later brought to Japan and named Americabashi. The monument has the motif of the stars and stripes of the U.S. flag. The big star on top signifies bright hope for the future. The large and small stars twinkle in the background.

Shibuya City constructed this light monument-designed to be in harmony with the surrounding scenery-with the cooperation of the Tokyo Ebisu Rotary Club, which marked its twentieth anniversary.




アメリカ橋の案内板の隣りに渋谷区の「住居表示街区案内図」が立っています。伊達町や新橋の地名の由来も記されていますね。

山下町

昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字広尾向・町田の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は当地が古くから山下と俗称されていたことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年西半部が恵比寿東一丁目の北半部(現行の恵比寿一丁目)となり、残余は同四十一年現行の恵比寿一丁目の西半部どなる。

景丘町

昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字欠塚・伊達跡・広尾向・向山の各一部で、渋谷町の大字として成立。地名の由来は区域の大部分を占める小字欠塚に代えて、目黒川の谷を望む景勝の地という意味の「佳景丘」が提案され、景丘と命名。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年〜四十一年一部が惠比寿東一丁目(現行の恵比寿四丁目)、残余が現行の恵比寿三丁目〜四丁目となる。惠比寿四丁目の加計塚小学校に下渋谷の字欠塚の名をとどめる。

恵比寿通

昭和三年〜昭和四十(一?)年の大字名・町名。一丁目〜二丁目があった。もと豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字伊達跡・伊達前・豊沢・広尾耕地・町田の各一部で、渋谷町の大字として成立。昭和七年からは渋谷区の町名。昭和四十一年現行の恵比寿一丁目〜四丁目となる。地名は恵比寿駅へ通じる通りの両側に位置することに由来し、恵比寿駅は明治三十六年に日本麦酒醸造有限会社の專用貨物駅として開設。恵比須信仰にちなんで命名したエビスビールの商標を駅名とした。

伊達町

昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字伊達前・伊達跡の各一部で、渋谷町の大字として成立。字名は伊予宇和島藩伊達家の下屋敷があったことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の恵比寿三丁目となる。児童遊園にその名をとどめる。

新橋町

昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字豊沢・町田の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷川に架かる橋の名による。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の恵比寿一丁目〜二丁目に二分される。区役所新橋出張所に名をとどめる。

豊沢町

昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字豊沢・広尾耕地の各一部、大字渋谷神原町の全域で、渋谷町の大字として成立。昭和七年洪谷区の町名となる。同四十一年現行の恵比寿二丁目となる。




アメリカ橋を渡った先にイカ公園があります。恵比寿東公園にはタコの滑り台がありましたが、この恵比寿南一公園にはイカの滑り台が設置されています。イカもタコも足の数が多いので、マルチ滑り台のモチーフに向いているのでしょう。ところで、イカの足は10本でタコの足は8本といわれていますが、実はイカもタコも足の数は8本です。では、イカの残りの2本は何でしょうか?これは足ではなく「手」なのです。正確にはこの2本の手は「触腕」と呼ばれるもので、獲物を捕るために使われています。タコの8本は全て足なので、それを総動員して獲物を獲るわけです。



恵比寿南一公園交差点の先に、都内では珍しいカナダ産ワインを専門に販売する「Heavenly Vines(ヘブンリー・バインズ)」というワインショップがあります。カナダは寒い国という印象があり、ブドウを育てるのには寒すぎるのではないかと思われがちですが、オンタリオ州ナイアガラの年間気温の推移を見てみますと、冬はマイナス10度以下と飛び抜けて気温が低いものの、ブドウの育成期である6月〜9月には世界の多くの主要ワイン産地よりも気温が高いのです。主な産地は太平洋に面したブリティッシュコロンビア州と東部オンタリオ州南部の五大湖周辺です。私はどちらの産地のワインも飲んだことがありますが、味はやや淡泊な印象でした。スイスのワインもそうですが、寒冷地のワインはちょっと濃厚さがイマイチのような気がします。とは言っても私が飲んだのは安いワインなので、高級なワインはそれなりに飲み応えがあるのでしょう。カナダワインを探しておられる方は立ち寄る価値はあるかも。



渋谷区と目黒区の境に、都心には不釣り合いな広大な敷地を占める艦艇装備研究所があります。ここでは、船舶・船舶用機器・水中武器・音響器材・磁気器材・掃海器材などのシステム化技術とこれらの要素技術について研究を行っています。研究所で一番の設備は、艦艇などの模型を曳引車で曳航して流体力学的な性能評価を行うための水槽試験施設です。水槽は長さ247m・幅12.5m・深さ7mの大きさがあり、最大8m/sで走行する曳引車で模型を曳航することができます。この水槽には造波装置があり、人工的に造った波の中での船体動揺を計測することもできます。戦前は旧海軍の施設でしたが、ここで戦艦大和の船体形状試験が行われたとの噂話も残っています。



道路の分岐点の脇に小さなお堂が建っています。ここは祐天寺に行く道と目黒不動尊に行く道が分かれていたところなのでしょう。

道しるべ

江戸時代中期の安永八年(1779年)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り、麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。




道しるべの先に馬頭観世音菩薩を祀った祠があります。「馬頭観世音」とは六観音のひとつで、頭の上に馬の頭をいただいていることから、六道のひとつの畜生界を済度するといわれ、馬の守護神として昔から広く信仰されています。観世音菩薩三十三化身のなかで唯一忿怒の相をしています。第三の目も持ち、普通は三つの顔で、腕は二つまたは八つを持っています。怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、また馬は大食であることから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれています。馬の頭を頂いた観音様の姿を見て、馬とともに生活する当時の人々に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれ、農家では農耕馬の、馬の産地では生まれ育つ仔馬たちの、そして馬によって稼いでいた人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、死んでしまった馬の冥福を祈ったり、そんな理由で馬頭観音が作られたといわれています。

馬頭観世音

このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四年(1719年)、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。そのお礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福にくらしたとのことです。この道は目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。




恵比寿駅に戻る途中の坂道の上に長谷戸(ながやと)小学校があります。「夕やけこやけ」の作曲で知られる草川信が音楽教師として教えていた小学校です。



草川信は「夕やけこやけ」の他にも誰でも知っている歌を多く作曲していますが、こんな先生に教わった子供達はさぞかし幸せだったことでしょう。

夕やけこやけの碑

草川信先生は大正六年三月に音楽学校を卒業、同年四月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。昭和二年四月までの十余年勤務されました。その間、児童の音楽教育に情熱を傾けられ、本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力、幾多の功績を残されました。さらに、本校在職中に児量の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表。子どもたちはこの歌を口すさみながら成長しました。ここに創立七十五周年を記念して草川先生を偲び、この顕彰碑を建立するものであります。

作曲・作品
「ゆりかごの歌」、「どこかで春が」、「風」、「夕焼け小焼け」、「春の歌」、「風鈴」、「緑のそよ風」、「汽車ポッポ」他




長谷戸小学校から坂を下りて恵比寿公園前の道路を渡ります。路地を入ったところに、吉田類の酒場放浪記で紹介された「居酒屋 かおる」の赤提灯が今宵のお客さんを待っています。昭和五十八年創業のやきとり屋さんで、夫婦とその息子さんで切り盛りする家庭的な酒場です。有名フレンチ出身の二代目息子が作る料理と店主が焼く焼き鳥をつまみながら今日の疲れを癒やせます。名物は小さいハンバーグのようなつくねとのことです。地元の常連さん達ですぐに席が埋まるそうですから、一見さんには入りにくいかも。



「かおる」のすぐ先に恵比寿神社が鎮座しています。とても狭い敷地ですが、入口には立派な石造りの鳥居が立っています。創建の最初から恵比寿神社を社名にしていたのではないのですね。

恵比寿神社 御由緒

恵比寿神社は古伝によると景行天皇の時代(約二千年前)古代の英雄・日本武尊が東国平定の折に、この恵比寿の地に憩い、神世七代の中の六天神を祀ったと伝えられています。その後、土地の民が尊のコを称え、天津神社(大六天樣)と称して家内安全・無病息災・五穀豊穰の神々として広く住民に崇め祀られて参りました。戦後、区画整理により記念事業として現在地に社殿を新築し、これを契機に昭和三十四年恵比寿という地名に因んで、兵庫県西宮神社より商売繁盛・縁結びの神である えびす様を合祀し、社名を恵比寿神社に改めました。




恵比寿駅西口に戻ってきました。大した距離ではなかったのですが、途中、ビールなんぞ飲んで楽しめました。



ということで、恵比寿ガーデンプレイスコース を歩き終えました。恵比寿ガーデンプレイスが主体のコースでしたが、他にも見所が沢山ありました。「新橋グルメ通り」って、お店はどこに隠れていたのかな?




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