- D広尾コース
- コース 踏破記
- 今日は渋谷区の広尾コースを歩きます。広尾駅を起終点として、広尾のハイソな街をほぼ一周します。
広尾コース
広尾コースの歩行距離は約4.0km(約5,720歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約180kcalです。
スタート地点:広尾駅
↓ (約1.0km:約15.0分)
@大銀杏【渋谷区指定天然記念物、樹齢は約500年】
↓ (約0.9km:約13.5分)
A旧いもり川道【渋谷川支流の暗渠、水源は今の青学構内】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
B山種美術館【日本画専門の美術館、カフェやショップも人気】
↓ (約1.4km:約21.0分)
C祥雲寺【福岡藩主・黒田長政墓所、鼠塚は明治35年建立】
↓ (約0.3km:約 4.5分)
ゴール地点:広尾駅
スタート地点の広尾駅から歩き始めます。広尾の街の中心は、日比谷線の広尾駅ですが、駅の出入口に面した交差点の名前は「広尾駅前」という名称ではなく、「広尾橋」となっています。広尾駅が開業する昭和三十九年よりも以前、この場所には都電の広尾橋電停がありました。広尾橋という名称は、広尾の中心を南北に貫いていた、南青山周辺を水源とした笄川に架かっていた橋の名に由来します。笄川は震災後の大正末期には暗渠となっていますから、橋も同じ頃に撤去されたものと思われます。川には親川、龍川などの別称もあったようで、広尾の南、天現寺橋付近で渋谷川に注いでいました。広尾の地名の由来ですが、かつてこのあたりに「樋籠(ひろう)」の地名があったからといわれます。昔はツクシが生えていたために「土筆ヶ原」あるいは「豊沢の里」などの別名も見られ、江戸時代初期の頃には広々とした荒野だったといわれます。その後「広野」となり、元禄検地(1688年〜1703年)のころから「広尾」と呼ばれるようになりました。
広尾駅の出入口に隣接した広尾橋交差点の角にヴィノスやまざきのお店があります。静岡に本店がありますが、2021年4月に建物の老朽化と都市開発により、創業以来108年間営業を続けてきた静岡本店を閉店し、本店機能を新静岡セノバ店に移管しました。旧本店の閉店に際しては多くのなじみ客が閉店を惜しんで詰めかけたそうです。ヴィノスやまざきは、1913年に行商をしていた創業者の山崎豊作が旧本店の土地に小さな酒屋を開店したのがその始まりでした。二代目の山崎巽の代になると、スーパーやコンビニがお酒を扱うようになり、廃業も決意した時に出会った教えが「店はお客様のためにある」という言葉でした。「本当にお客様の欲しいもののためなら」と、灘の大手酒蔵に原料酒として売られていた静岡の地酒を買い取り、静岡県の工業試験場と共に静岡の酒の品質向上に尽力して、全国区のレベルにまで引き上げました。現在、全国の有名店で販売されている静岡の酒は、そのほとんどが「蔵のためになるなら」と競合の酒屋にまで紹介して広めていったものでした。息子のいなかった山崎は廃業を決意しようとした時、「酒屋は嫌」と言って商工会議所の国際部門で仕事をしていた娘に「ここでワインの商売をやらせて。免許とのれんを貸してほしい。家賃も払うから。」と懇願されてワインの商売を始めたのです。当時、酒屋の経営を女性がするということ自体類がなかったのですが、父から引き継いだDNA「店はお客様のためにある」を、今度は難しいワインで挑戦することになったのです。ワインの勉強をして有名ワインを販売しましたが地方ではなかなか売れず、「もっと手頃で美味しいワインはないの?」というお客様の声に、当時は無名だったフランスのラングドック産のワインを借金をして1コンテナ分仕入れました。1994年の直輸入開始当時は、大手商社が現地のネゴシアン(ワイン商)を通してフランスのボルドー産やブルゴーニュ産のワインを中心に取り扱っていました。そのため、日本中で「シャトー」や「ワイナリー」という表現がほとんどでした。ヴィノスやまざきは、より親しみやすくて分かりやすい「蔵元」の文字を使い、お客様の声をもとに直接現地を訪問して産地や銘柄にとらわれない、蔵元から直送するシステム「蔵直」を日本で初めて確立しました。私はヴィノスやまざきさんが東京に初進出された際に開催された試飲会に出ましたが、元気溌剌としたスタッフの方々が印象的でした。
三井住友銀行の横で外苑西通りから脇道に入ります。更にその先で広尾ガーデンヒルズへと続く道から分岐して外苑西通りと平行する裏道を進みます。蛇足ですが、広尾ガーデンヒルズは、1972年にかっての堀田備中守の屋敷跡に位置する日本赤十字社医療センターが老朽化したため、日本赤十字社が敷地の半分に新しい病院棟を建設する目的で事業プロポーザルを実施し、住友不動産・三井不動産・三菱地所・第一生命保険の4社による共同事業体の提案が選定されたことに始まります。共同事業体が選定された理由は、計画案全体が住宅建設という公共性をもったプロジェクト内容で、日赤側の趣旨に見合ったものだったからです。当初のプロジェクトの全体計画案は、いずれも超高層の住居棟3棟(総戸数1000戸)を建設するというものでした。ところが、土地取得後の1年後に第一次オイルショックが発生し、それによって計画案は見直さざるを得なくなり、新規計画案では中高層住宅に変更されました。1982年11月、イーストヒルA・B・C棟の第1期分譲が開始され、翌年から順次入居を開始しました。最終的に1987年2月に全体が竣工しました。広尾ガーデンヒルズは、起伏に富んだ約6.6haの敷地に2〜3棟ごとに同じデザインコンセプトで建設された「ヒル(Hill)」と呼ばれる単位に分けられており、5つの「ヒル」に全15棟・合計1,181戸が設けられたほか、管理センター・スーパーマーケット(ナショナル麻布)・銀行ATM・医院も配置されました。また各ヒルには共有部分として遊歩道や庭園が設けられ、植栽スペースが広がり、設置率75%の駐車場の大半が建物と庭園の地下に設けられています。東京ではよく知られた超高額のいわゆる「ヴィンテージ・マンション」の筆頭格であり、緑豊かで落ち着いた住環境の良さなどが評価され、竣工以来現在まで中古市場で高い人気を維持しています。
現在の日本赤十字社医療センターや広尾ガーデンヒルズと共に聖心女子大学の敷地も、江戸時代には幕末の安政の五カ国条約締結時など重要な時期に幕府の老中首座を務めた下総佐倉藩主の堀田正睦を輩出した堀田家の下屋敷でした。聖心女子大学は、正式名称が「University of the Sacred Heart」となっていて、1800年にフランスで設立された女子修道会「聖心会」が母体となり、1916年に私立聖心女子学院高等専門学校として開校しました。1948年の新学制により、日本最初の女子大学のひとつとして聖心女子大学となりました。上皇后美智子様の出身大学でもあります。皇室とのつながりは他にもあり、聖心女子大学のキャンパスはかっての久邇宮邸であったことから、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごした地でもあります。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は当時のものがそのまま修復保存されています。
聖心女子大学の隣りにオマーン・スルタン大使館があります。オマーン国(正式名称はスルタナトゥ・ウマーン)は、アラビア半島の東端にあり、アラビア海(インド洋)とオマーン湾に面し、北西にアラブ首長国連邦(UAE)・西にサウジアラビア・南西にイエメンと隣接し、更にUAEを挟んだムサンダム半島先端部に飛地(ムサンダム特別行政区)を擁しています。石油輸出ルートとして著名なペルシャ湾とアラビア海を結ぶホルムズ海峡の航路もオマーン飛地の領海内にあります。大使館の名前に「スルタン」が付いているのは、オマーン国は国王(スルタン)が政務全般を取り仕切る絶対君主制だからです。国王は首相・外務大臣・国防大臣・財務大臣・軍最高司令官を兼任し、全ての法律は王室政令として発布され、行政官や裁判官の任免権も持つなどの絶大な権力を保持しています。
西麻布方面からの上り坂は、堀田家の下屋敷があった名残りで堀田坂と呼ばれています。
堀田坂
江戸時代には、大名堀多家の下屋敷に向って登る坂になっていた。
広尾北公園に隣接して、広尾ガーデンフォレスト敷地内に巨大な銀杏の老木が立っています。
広尾ガーデンフォレストは、広尾ガーデンヒルズの北西隣接地に竣工した大規模マンションです。桜レジデンス(A棟・B棟)、楓レジデンス(C棟・D棟)、白樺レジデンス(E棟・F棟)、椿レジデンス(G棟・H棟)と名付けられた全8棟のマンションに、合計674戸が配置されているほか、郵便局なども入居する業務棟も設けられています。駐車場をすべて地下化することで車両と歩行者の動線を分離しています。セキュリティも万全で、日本赤十字医療センターとの医療連携サービスも備えられています。50年後にはマンションは取り壊されて更地になるそうなので、永久の住まいとはいかないようです。
大銀杏
この説明板の後ろにみえる大きな銀杏は、根本の周囲が約5.1メートル、目の高さの周囲は、4.7メートルもあり、樹齢は約五百年と考えられます。日赤医療センターの敷地と付近一帯は、江戸時代初期の延宝年間(1673年〜1681年)以前から下総国佐倉領主堀田家の下屋敷でした。樹齢からこの大銀杏は、それより前の時代にすでに生育していたものとわかります。かつては、区内にあった名木・古木のほとんどが戦災などで失われていました。そのため、区内に現存する最古の樹木として、大切に保存してゆきたいものです。
東京女学館の手前で右折し、直進して常陸宮邸が正面に見える東四丁目交差点を急角度で左折します。
この道路はかっての「いもり川」の跡地になるそうです。東四丁目交差点から延びてきた道路は広い道路に突き当たりますが、その道路の反対側には階段が設けられています。「いもり川」は、青山学院大学敷地東側にあった湧水池が水源となり、鶴沢から羽根沢と呼ばれる谷を南下して臨川小学校の西側で渋谷川に合流していた全長2km弱の渋谷川の支流でした。現在では全区間が川跡(暗渠)となっており、一部は遊歩道として利用されています。いもり川というちょっと独特な名前の由来には諸説あり、最も有力とされているものが「川にイモリが棲息していたから」というものです。他には、源義朝の側室であった「常盤御前」が牛若丸など3人の子供を連れてこの近辺を通りかかった際に子供や自分の「いもじ」(腰巻)を川で洗ったので“いもじ川”と呼ぶようになり、のちに「いもり川」に変化したという説、この地の古名である“谷盛荘(やもりのしょう)”の“やもり”が訛った、などの俗説が伝えられています。
いもり川の流路跡から外れて山種美術館に向います。いもり川は羽根沢と呼ばれる谷間を流れていましたが、かってこの谷間にレストラン・宴会場・結婚式場などを備えた飲食・宴会施設の羽澤(はねざわ)ガーデンがありました。紆余曲折を経て2011年から解体され、現在はその跡地に低層の超高級マンションが建っています。
旧中村是公邸跡
中村是公(1867年〜1927年)は、満鉄総裁、関東大震災後の復興に尽力した東京市長。文豪夏目漱石との親交が知られる。大正四年(1915年)、是公は、この地の3000坪の緑林に豪壮な近代和風建築の邸宅を建てた。是公邸は、周縁の武蔵野の自然林のたたずまいと建物周りの日本庭園が絶妙に調和した緑の小宇宙だった。第二次大戦後は料亭となり、一時、GHQ職員家族に日本文化を教える場となったほか、将棋名人戦名勝負の舞台ともなり、多くの人々に愛された。
山種美術館に向う坂道の途中にペルー大使館があります。敷地の一画にいかめしい顔の軍人らしき銅像が置かれています。説明板にはスペイン語で短い言葉が添えられていますが、ちょっとだけスペイン語を囓った経験から、次のような内容であったと推測されます(あくまで推測です)。
GRAN ALMIRANTE DEL PERU(グラン・アルミランテ・デル・ペルー ): ペルー大提督
MIGUEL GRAU SEMINARIO(ミゲル・マリア・グラウ・セミナリオ): 銅像になった人の名前
EL PERUANO DEL MILENIO: ミレニアム(千年紀【千年に一度現れる?】)のペルー人
PIURA(生れた日): 1834年7月27日 〜 ANGAMOS(命日):1879年10月8日
ネットの情報によりますと、ミゲル・マリア・グラウ・セミナリオはペルーで最も尊敬されている英雄なんだそうです。
ミゲル・グラウは、太平洋戦争(1879年から1884年にかけてボリビア共和国およびペルー共和国とチリ共和国の間で行われた戦争です。1941年に始まった日米の戦争と区別するため、硝石戦争とも呼ばれています。)で活躍したペルーの海軍士官で、アンガモスの海戦で最後まで勇戦したことからペルーでは英雄となっています。敵兵を丁重に扱う騎士道精神に満ちた紳士的態度から「海の紳士」と呼ばれ、ペルー人のみならず敵であったチリ人からも尊敬を集めています。ペルー海軍を象徴する人物であり、アメリカ大陸で最も有名な商船船長および海軍指揮官の一人とされます。ミゲル・グラウは、1879年10月8日のアンガモスの海戦で1対4の死闘を演じた末、チリ海軍の装甲艦アルミランテ・コクランが発射した徹甲弾を受けて戦死しました。乗艦ワスカルは直撃弾多数を受けて大破し、自沈しようとしたところを拿捕されました。拿捕された後、最後まで生き残って艦を指揮していたペドロ・ガレゾン中尉は、チリ海軍に対して退艦する前にミゲルの遺体を捜索させて欲しいと申し出ました。チリ海軍はその申し出を受け入れ、徹底的に捜索させたところ、ふくらはぎの中ほどから足までの皮膚だけが見つかりました。チリ海軍はミゲルのためにミサを開くなど栄誉礼をもって埋葬し、1890年には他の太平洋戦争での戦死者の遺体と共にペルーに返還しました。チリにはミゲルの脛骨の断片が残され、サンティアゴの博物館で帽子等の私物とともに展示されていましたが、これも1958年にペルーに返還されました。返還の際にはチリではカルロス・イバニェス・デル・カンポ大統領が出席する式典をもって送り出され、ペルー側はマヌエル・プラド・イ・ウガルテチェ大統領が賛辞をもって出迎えました。
山種美術館は広尾にある日本画専門の美術館です。昭和四十一年(1966年)7月、証券会社・山種証券(現在のSMBC日興証券)と同社創業者の山崎種二が蒐集した数百点に及ぶ美術コレクションを展観する国内初の日本画専門常設展示施設として日本橋兜町に開館しました。その後、平成十年(1998年)10月の千代田区三番町への仮移転を経て、平成二十一年(2009年)10月に現在地である広尾に新築されたビル(ワイマッツ広尾)に移転しました。速水御舟・川合玉堂・奥村土牛のコレクションを中心として、主に近代・現代の日本画を約1,800余点所蔵しています。その中には、近世・江戸期の作品も含めて重要文化財に指定された作品が6点含まれています。また長期間の展示に弱い日本画を管理し、定期的に企画展を開催しています。御舟コレクションの大部分は安宅コレクションに由来し、安宅産業破綻に伴って同社の最大の債権者であった住友銀行の樋口廣太郎(当時常務)が、山種美術館の運営母体である山種証券の山崎富治(当時社長)に購入を依願し、昭和五十一年(1976年)に美術館を運営する山種美術財団に有償一括譲渡されたものです。速水御舟の作品を好んだ山崎富治が入手していた作品に一括購入された105点を加えて計120点のコレクションとなって以来、「御舟美術館」として親しまれてきました。広尾への移転開館10周年を記念して、2019年6月から8月まで「生誕125年記念速水御舟」展が開催され、御舟コレクションの全作品が10年ぶりに公開されました。ロゴマークは佐藤卓が制作し、「日本画」と「YAMATANE」のふたつの言葉を重ね合わせたもので、色は東山魁夷の好んだ群青色を実際に使用された色絵の具から選び、並べられる館名は安田靫彦による揮毫されたものです。
再びいもり川跡の遊歩道(殆ど路地)に戻り、明治通りに出ます。本当は東北寺にも寄りたかったのですが、場所がわかりませんでした。明治通りの手前に臨川小学校がありますが、校名の通りかってはいもり川に臨んでいました。いもり川は明治通りを渡った先で渋谷川に合流していたとのことです。明治通りから広尾駅に向う道の分岐点近くに、「88HACHIHACHIHIROO」と大書きした建物があります。前々から気になっていたのですが、よくよく見ますと、「HAKATA YAKINIKU」と書いてあります。焼肉屋さんだったんですね。おしゃれな空間で最高のお肉をリーズナブルに楽しめるというのがキャッチフレーズだそうです。焼肉って、博多の名物だったのかな?
明治通りから分岐し、広尾駅に向う商店街の道路は「広尾散歩通り」という名前が付いています。クランク状に曲っているのが特徴です。「鍵の辻」と呼ばれる城下町で敵兵の進攻を食い止めるための道路みたいです。今では誰でもウエルカムですが。
何故道路がクランク状になっているのかというと、祥雲寺の敷地に沿って造られた道路だからです。祥雲寺は、広尾五丁目にある臨済宗大徳寺派の瑞泉山という山号の寺院で、広尾駅のすぐ傍の広尾商店街の突き当りに位置しています。渋谷区最大の巨刹で、江戸時代初期に筑前福岡藩主・黒田忠之が黒田藩赤坂江戸中屋敷内に父の黒田長政を弔うために建立したのが始まりです。以後、広尾に寺地を移転し、福岡藩や黒田家に縁のある数々の大名家や武家の墓所となっていることで知られています。筑前福岡藩二代藩主黒田忠之が元和九年(1623年)に赤坂溜池の福岡藩中屋敷(赤坂二丁目の赤坂ツインタワー一帯)内に江戸における黒田家菩提寺として創建され、当初は長政の戒名より竜谷山興雲寺と号しました。長政が生前帰依していた京都大徳寺の164世住持だった竜岳宗劉和尚により開山されました。江戸時代を通じて関東における同派の最高位寺院の触頭(ふれがしら)でした。境内裏手墓所には屋根で覆われた黒田長政の6メートル程の巨大な墓標があり、渋谷区指定史跡となっています。その他、長政の正室だった大凉院栄姫・息女亀子姫など黒田家と同家に連なる人物の墓所が多数あります。祥雲寺境内に残る東江寺・霊泉院・香林院は江戸時代を通して祥雲寺の塔頭(たっちゅう:禅宗寺院で祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院をいいます。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは門徒らが塔のほとり(「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説があります。塔中・塔院・寺中・院家ともいいます。)でした。現在は、祥雲寺からは独立しているものの、関係は深く現在も移転せず祥雲寺の境内や山門内に立地しています。
祥雲寺の山門を入って右手に妙高山東江寺があります。寛文元年(1661年)に下野烏山藩主堀親昌を開基とし、祥雲寺一世竜岳の嗣法仙渓和尚を開山として那須郡烏山城外に建立されました。寛文十二年(1672年)に堀家の信濃飯田藩への転封に伴い廃され、後に景徳院内に再建されました。その後景徳院と合寺となりました。境内の鐘楼銘によれば、初代の鐘楼は万治四年(1661年)5月に堀親昌が父堀親良の25回忌に寄進したものとされています。
木造聖観音坐像
本像は胸前で蓮華をとる左手と、これに添えられるように右手を構える聖観音坐像の典型的な姿を表しています。なだらかに結上げた垂れ髪やゆったりとした姿形には平安後期の趣きがありますが、玉眼をはめた理知的なお顔や体部の肉どりの部厚さなどには、対象を明確にとらえようとする鎌倉時代の作風が感じられます。比較的小ぶりの像ながら、体全体を通していくつか のヒノキ材を組み合わせた寄木造の構造で、お顔の表現や背中側の腰布に表わされた衣文表現などには、慶派仏師にならう特色が認められます。総じてやや硬さが目につくことから制作年代は十四世紀前半頃とみられます。本像の東江寺への伝来については残念ながら記録に残っていません。
山門を入って左手に瑞泉山霊泉院があります。寛文九年(1669年)に出雲広瀬藩主松平近栄により開基、祥雲寺二世黙翁の嗣法徳峰宗古により開山され、祥雲寺内に建立されました。
板碑
板碑は鎌倉時代から江戸時代のはじめごろの間に盛んに造られた卒塔婆の一種です。関東では主に、秩父地方原産の縁泥片岩を材料として、それを板状に加工して銘文などを刻みこんで造られました。この板碑の形態は、関東のみならず区内で最も多く目にする典型的な板状塔婆です。板碑の一般的な特徴は、頭部を山形にし、二段の切りこみ(二条線)を入れ、その下に本尊としての仏像、または楚字の種子が彫られ、造立年代・願文・偶文などが刻まれている点にあります。この板碑は、二条線の下に天蓋と阿弥陀の種子、その下に蓮台を刻み、明徳五年(1384年)五月廿九という造立年月日と、以下の供養の文字が彫りこまれています。
光明遍照
十法世界
善法
念仏衆生
摂取不捨
古文書の少ない渋谷区の中世史研究にとって、この板碑は欠くことのできない大切な歴史資料です。
霊泉院には他にも古くからの仏教遺産が残っています。
歴代頂相画 附 子順和尚像
「頂相」は高僧の頂(頭部)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の徳峯宗古から十四世の廉州宗貞までのすべての像が揃っています。開基の頂相は二幅あり、貞享三年(1686年)作製の像が壮年の姿を描き、宝永二年(1705年)作成の像が晩年の姿を表しているのは興味深いものです。霊泉院の頂相は寿像(生前の像)の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。また、多くの画像の制作年代が、画賛の年紀などから判明し、絵師名が知られるものもあり、江戸時代における頂相制作の一端を知ることができます。
木造十一面観音立像
本像の形は、左手をおなかの前で曲げ蓮連華茎をとり、右手を蓮華に添える聖観音の姿であり、本尊聖観音像として伝来しています。しかし、頭上部にのこる数か所の埋木が頭上面を挿し込んでいた痕跡であることが確かめられ、当初は十一面観音像であったことがわかります。像は頭から両腕を含め両足先までを一本の木材から彫り出した、一木造といわれるものです。右脚の膝をゆるめ、わずかに左に腰を振って立つ姿は、やや細身の優美なさまで、体にまとう裾の衣文が幾重にもたたんで彫り出され、簡素ながら鎌倉時代の作風がみられます。わずかに、高く結上げるや切れ長の眼にも鎌倉時代の特色がのぞいています。本像は保守的な平安期の作風を踏襲する鎌倉末期の作例と考えられます。お顔には後世の彫り直しが認められるほか、両手の肘から先や足先など部分的に補修されていますが、根幹部は当初のままを伝えています。
山門を入って正面に瑞泉山香林院があります。寛文五年(1665年)に三河大給藩主松平乗次が父故松平真次のために麻布小山に開基、景徳寺開山愚溪宗智の嗣法絶山宗信により開山しました。寛文八年(1668年)の大火により境内に再建されました。
香林院茶室
香林院茶室は、仰木魯堂が大正八年(1919年)に自らの茶室として設計施工したものです。魯堂は近代の茶室建築に深く関わった人物で、大正四年(1915年)には、三井財閥の益田鈍翁(孝)の茶室で御殿山にあった為楽庵の工事の一部を担当しました。近代の財界人による茶の盛行を主導したのは、鈍翁・団琢磨・高橋箒庵・原三渓らですが、魯堂はこの動きに深く関わり、茶人として高い評価を受けていました。かつて都心にあった財界人の邸宅には、このような茶室が数多くありましたが、戦災でその大半が焼失し、また戦後の再開発によっても多くが取り壊されました。魯堂の茶室もほとんどが失われ、救棟が現存するのみです。香林院茶室は、元の所在地に残されたものとしては唯一のものです。
香林院と大給恒の墓
香林院は、大給松平氏の菩提寺として、寛文五年(1665年)に建立されました。開基は大給恒の先祖真次で、法名から寺号を香林院としました。大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治十一年(1878年)には、賞勲局副総裁となり、同二十八年には、総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。また、明治十年(1877年)五月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。墓は、この説明板の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官 正二位勲一等 伯爵 大給恒墓 明治四十三年一月六日甍(いらか)」と刻まれています。
歴代頂相画 附 絶山宗信像(模本)
「頂相」は高僧の頂(頭郭)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の絶山宗信から十二世の洞明宗仙まで、十八世紀初頭から二十世紀半ばまでの像が揃っています。香林院の頂相は寿像(生前の像)の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。また、ほぼ全ての作例が、画賛の年紀などからその制作年代が判明し、多くの作例で絵師名が知られることから、頂相画の研究資料としても貴重なものです。
で、祥雲寺の境内に入ります。豊臣秀吉の天下統一に貢献した福岡藩主黒田長政は京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたために、 元和九年(1623年)に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立しました。寛文六年(1666年)には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、 寛文八年(1668年)の江戸大火により現在の地に移りました。長政の墓は墓標形として建てられた雄大なものです。祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめとして福岡藩の分家秋月藩主黒田家・久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍池・小野藩主一柳家・狭山藩主北条家・園部藩主小出家など諸大名の墓地群があります。
墓地に入りますと、入口の奥に明治三十五年建立の鼠塚があります。明治三十二年(1899年)から数年間にわたり日本国内でペストが流行したとき、感染源としてねずみが大量に駆除されたために、鼠の霊を供養して明治三十五年に建てられた珍しい動物慰霊碑です。犠牲となったねずみ達のおかげか、大正十五年(1928年)を最後に日本では今日までペストの発生は全くありません。鼠塚には3匹の鼠の絵も添えられています。碑の裏側には「数知れぬ 鼠もさぞや うかぶらむ この石塚の 重き恵みに」という歌も彫られています。
墓地には新旧取り混ぜて様々な墓石が立っていて、どれが黒田長政のものか分りません。墓地の入口近くにも大名の墓石を思わせるような格式高いものもあったのですが、墓地の奥に入っていきますと、黒田家墓所と書かれた一画がありました。
それらの奥に朽ち果てた案内柱が立っていて、擦れた文字で「黒田長政の墓」と書いてあります。階段を上った先には、やけに背の高いお堂のような建物があります。この堂の中に巨大な石碑があり、何やら戒名が書いてあります。これが黒田長政の墓石のようです。それにしてもデカイ。
祥雲寺を出ますと、広尾駅までの短い通りに商店街が続いています。飲食店が多いのですが、意外と昭和を思わせるお店が並んでいます。広尾橋交差点の角にある広尾プラザだけは別格の趣ですが。
ということで、ゴール地点の広尾駅に戻ってきました。大した距離ではなかったのですが、セレブな街というだけではなく、江戸時代からの歴史の痕跡があちこちに残っている魅力的な街でした。今度広尾にお邪魔したら、ヴィノスやまざきさんでラングドックのワインを買ってみましょうかね。ロックフォールのチーズもあるかな?
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