E原宿&千駄ヶ谷コース(1)  

コース 踏破記  

今日は渋谷区の原宿&千駄ヶ谷コースを歩きます。原宿駅を起点として、ギャル(もう死語になったか?)の聖地である竹下通り・今は暗渠となった旧渋谷川・表参道の高級ショッピングモール・将棋の神様が棲むという鳩森八幡神社などを巡り、終点の千駄ヶ谷駅を目指します。  

原宿&千駄ヶ谷コース

原宿&千駄ヶ谷コースの歩行距離は約6.4km(約9,150歩)、歩行時間は約1時間36分、消費カロリーは約288kcalです。

スタート地点:原宿駅
↓ (約0.4km:約 6.0分)
@東郷神社【東郷平八郎元帥を祀る、勝利の神様として有名】
↓ (約0.5km:約 7.5分)
A旧渋谷川歩道【通称キャットストリート、’64東京五輪時に暗渠化】
↓ (約3.0km:約45.0分)
B青山熊野神社【青山の総鎮守、植林・樹林の神様を祀る】
↓ (約1.4km:約21.0分)
C鳩森八幡神社【千駄ヶ谷の総鎮守、富士塚・将棋堂あり】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
D国立能楽堂【能楽の専門公演場、資料展示室・図書室も】
↓ (約0.5km:約 7.5分)
ゴール地点:千駄ヶ谷駅


出発地の原宿駅竹下口から歩き始めます。原宿駅は2020年3月に新駅舎が開業しましたが、それは表参道に近い方で、竹下口改札の方は未だレトロな雰囲気が残っています。表参道でショッピングをする人は新設の東口、明治神宮で参拝をする人は新設の西口、竹下通りで流行を先取りする人は竹下口、目的もなく原宿にやってきた人は表参道口と、改札口が使い分けられています。竹下口改札の目の前は竹下通りの入口になっていますので、当然竹下口から竹下通りに向うのはローティーンが大半です。中には例外的な人もいますが。



竹下通りの入場門は色合いがド派手です。まるで中国の旧正月の飾り付けのようです。ちなみに、通りの正式名称は「Takeshita Street」となっています。余談ですが、通りの英語名にはいろいろな種類があります。
・Road (Rd.)
2つの地点を結ぶところは全てRoadと言えます。最も基本的な言い方です。ビートルズの名アルバムのタイトルで使われた「Abbey Road」がその一例です。
・Way
roadから外れた小さな脇道をいいます。
・Street (ST.)
道の両側に建物がある公道です。Avenueとは垂直方向になります。シャーロック・ホームズが住んでいるとされるロンドンの「Baker Street」が有名です。
・Avenue (Ave.)
道のどちらかの側に建物か木がある公道です。Streetとは垂直方向になります。ブランド店が建並ぶマンハッタンの五番街「Fifth Avenue」が有名です。
・Boulevard (Blvd.)
町の中を通る広い道で、道の両側に木や植物が植えられている道です。通常は真ん中に中央分離帯が通っています。1950年に公開されたアメリカ映画「Sunset Boulevard」が有名です。
・Lane (Ln.)
都市部でよくみられる狭い道をいいます。基本的にはBoulevardの反義語です。ビートルズの「Penny Lane」が代表格ですね。
・Drive (Dr.)
まわりの環境にあわせて作られた、長く曲がった道です。例えば湖や山にある道などが該当します。
・Terrace (Ter.)
坂の上からおりてくるstreetです。
・Place (PL.)
行き止まりになってしまうroadかstreetです。
・Court (CT.)
最後が循環道路になっているroadかstreetです。


「Takeshita Lane」なんてお洒落な名称だと思うんですけど。



竹下通りはローティーン向けのお店ばかりかと思っていましたが、今ではBICカメラやDAISOのお店もあるんですね。懐の寂しい女の子にはDAISOの百均化粧品は重宝なんでしょうけど、BICカメラで何を買うのでしょうか?でも、ちゃんと食べ歩きのお供のクレープのお店もあります。なんか太りそう。



竹下通りの途中から東郷神社に抜ける細い路地があります。境内に続く階段の先には小ぶりながら鳥居も立っています。鳥居とは神社の入り口などにある建造物で、神様の世界と人間の世界を分ける境界と考えられています。鳥居の内側は神聖な神域とされ、鳥居をくぐる際には一礼するのが作法となっています。



境内に入りますと、白い土蔵が目に入ります。神社に土蔵とはあまり見かけませんが、東郷蔵と言うんだそうです。

東郷蔵由来

昭和二十年三月の戦災に依り麹町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました。同二十三年五月麹町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して三十数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の五十年祭に当り従前の蔵の姿を模して少しく大きく不燃建物にて新築した記念の蔵です。




東郷平八郎は日露戦争時の連合艦隊司令長官だったので、彼を祀った東郷神社の境内には海軍関係の記念碑が多く建立されています。特年兵之碑もそのひとつです。ちなみに、特年兵とは、十四歳の少年から志願者を採用した海軍特別少年兵のことです。殉国碑は自然石に碑名を刻んで昭和四十六年5月16日に高松宮殿下及び同妃殿下の臨席の下に除幕式が行われました。毎年四月上旬に特年会の慰霊祭が催されています。少なくとも、女性と子供は絶対に戦場に出してはいけませんね。

海軍特年兵

あゝ十四才。大日本帝国海軍史上最年少の勇士である。少年兵より更に二才も若く、しかも特例に基ずいたものであったため、特別年少兵・特例年令兵の名があり、特年兵と略称された。昭和十六年、帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した。太平洋戦争の時局下に純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた。その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ、二期生四千名、三・四期生各五千名、終戦の二十年まで約一万七千二百名におよんだ。横須賀・呉・佐世保・舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した。戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは昭和の白虎隊と評価された。だが反面、幼いだけに犠牲者も多く、五千余名が南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした。しかし、特年兵の存在は戦後歴史から忘れられていたため、長い間幻の白虎隊という数奇な運命をたどっていた。このままでは幼くして散った還らぬ友が余りにも可哀想であり、その救国の赤誠と犠牲的精神は日本国民の心に永遠に留め讃えねばならない。英霊の声に呼び覚まされたかの如く、二十五回目の終戦記念日を迎えた四十五年、俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まった。戦火は消えて、二十六年の長い歳月の後に多くの人たちのご協力によって碑がこゝ東郷神社の聖域に建立されるに至った。そして幻の特年兵はようやく蘇った。そのうえ、特年兵たちが国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む。除幕式には、特年兵にもゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した。また、全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため、それぞれ各県の石四十七個を持ち寄り、碑の礎に散りばめた。吾々は、今は還らぬ幼い戦友の霊を慰め、永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に、特年兵を顕彰し、その真心と功績を後世に伝え祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う。




碑の脇には香淳皇后(昭和天皇の皇后)の御歌を記した碑板も立っています。「君のため」って、誰のためなのでしょうか?

香淳皇后御歌

やすらかに
ねむれとぞ思う
君のため
いのちささげ志
ますらをのとも




軍隊では戦闘員だけでなく、後方支援要員の確保も重要です。そのため、海軍には海軍兵学校・海軍機関学校と並び、海軍三校といわれた海軍経理学校も重要な幹部育成機関として設けられました。海軍経理学校では、庶務・会計・被服・糧食などを受け持つ主計科要員を育成していました。

海軍經理學校の沿革

明治七年十月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍經理學校となった。この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田川河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戰力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戰役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献をしている。




海軍経理学校は築地の勝鬨橋の近くにありました。今は史跡の案内板が立っているだけですが、こんなところに敷石が残されているんですね。

海軍經理學校正門敷石

御水舎の前の敷石は海軍經理學校正門の敷石として使用されたものであります




どの神社もその由緒を記した案内板には力を入れていますが、この案内板もかなりの力作です。読み取るのも大変ですが。木の板に書かれているので、もしかしたら手書き?

東郷神社 由緒沿革

東郷平八郎命は弘化四年(1847年)薩摩藩士東郷吉左衛門の四子として鹿児島市加治屋町て生まれ、昭和九年(1934年)五月三十日八十八歳で東京麹町三番町で薨去(こうきょ:皇族または三位以上の貴人が死去すること)されました。明治四年(1871年)二十四歳のとき英国留学、七年間海軍士官としての修業をつまれました。以来軍務に精励し、同三十七年〜三十八年(1904年〜1905年)の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し、特に同三十八年五月二十七・八日の日本海海戦て露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り、世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ、国難を救ったことは有名であります。大正三年(1914年)東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重大な貴任を果され明治・大正・昭和と三朝に至誠一貫臣節を全うされました。その功績に対し、元帥海軍大将従一位大勳位功一級候爵の栄誉が贈られ高い人格と陰影なきまごころの人として日本だけでなく、世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるようになりました。昭和九年九月財団法人東郷元帥記念会が設立され、全国民敬者の協賛により同十五年(1940年)五月創建鎮座祭を執行し府社となり、別格官幣社列格寸前の同二十年(1945年)五月、戦災により一切炎上しました。戦後は仮殿に奉斎、同三十九年(1964年)の祭神三十年祭を目標として同三十三年五月復興奉賛会の設立となり全国崇敬者の絶大なる協賛を得て御社殿復興、同三十九年五月二十七日御遷座祭を執行し、二十八日竣工。奉祝祭並に三十年祭が盛大に斎行されました。同五十九年(1984年)は祭神の五十年祭並に復興二十年記念祭に相当するのて数年を費して神符授与所・透塀・西参道灯籠四基・北参道鳥居再建・池の改修・井戸新さく・旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め、同五十九年五月に五十年式年例大祭・次いて命日祭・五十年墓前祭奈(於多磨畫園)が厳修されました。平成二年(1990年)には御鎮座五十年記念に当り、崇敬者各位の據金(きょきん:ある目的のためにお金を出し合うこと)によって御鎮座五十年記念事業として御社殿改修・神池の整備・社務所和楽殿の改修・新築・記念出版等を完遂しました。




本殿のある敷地の一画に海の宮という小ぶりな拝殿があります。「海の宮」という珍しい名称は、東郷平八郎が海に縁のある人物だから付けられたのでしょう。

海の宮 奉斎の趣

神を敬い、祖先を崇び、先覚を敬慕してその霊を祀ることは、わが国古来の美風であります。東郷神社におきましては、敬神・崇祖の信仰厚き人々と共に、その精神を実践するため、境内霊社「海の宮」を創建し、御霊神として海軍・海事・水産関係者また崇敬者の霊を合祀奉斎しております。




神社の境内を囲んでいる壁に、東郷平八郎の一生を描いた絵とその解説を記したプレートが年代順に掲げられています。全部写真に撮ったつもりなんですけど、6番が抜けていますねぇ。

  1. 薩摩武士の子として生まれた平八郎は17才になった1863年鹿児島砲撃にきた英国艦隊と戦った。彼は海からくる敵を防ぐため海軍に入ろうと志し、英国留学を熱望した。
  2. 戊辰戦争などで7年間苦労した未、明治四年(1871年)待望の英国留学が実現して航海術などを学んだ。途中帆走の練習船で世界一周の遠洋航海も行なった。
  3. 海軍士官になった平八郎は明治二十六年(1893年)浪速艦長としてホノルルに派遣され、王制が倒れたハワイの居留民保護に任じた。
  4. 日露戦争直前に聯合艦隊司令長官に任ぜられ、明治三十七年(1904年)2月大詔を拝受して威風堂々佐世保を出撃し、まず旅順の敵艦隊を攻めた。
  5. 旅順の敵艦隊を封じこめて陸軍部隊を安全に遼東半島に揚げるため、商船を港口に沈める閉塞戦を決行した。任務を果たしてボートで帰る途、広瀬中佐は壮烈な戦死をとげた。
  6. 見落とし。
  7. 旅順艦隊が全滅したのでいったん内地へ帰った東郷司令長官は明治天皇の御前で、来攻するバルチック艦隊に対し 「誓ってこれを撃滅いたします」と固い決意を申し上げた。
  8. 韓国南岸の鎮海湾で敵発見の報告を受けた東郷司令長官は、直ちに出撃し旗艦三笠に「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」を意味するZ旗を高く揚げさせた。
  9. 敵前で大回頭を決行し、敵の前路をT字形にさえぎってわが聯合艦隊は猛撃を加えた。
  10. わが猛攻撃のため敵艦は次々と大損害をこうむった。特に新鋭戦艦オスラビヤは大火災を起こし、まっ先に沈んだ。
  11. 日が暮れると東郷司令長官は駆逐艦・水雷艇に魚雷攻撃を命じた。これら小艦艇は弾雨をおかして敵艦に迫り、その数隻を撃沈した。
  12. 海戦第2日の明治三十八年(1905年)5月28日残った敵艦はわが艦隊に囲まれて降伏した。右手の2本煙突が旗艦ニコライ1世。(実写)
  13. 日露戦争が終り、聯合艦隊は横浜沖で凱旋観艦式を行ない、捕獲した軍艦や英米の軍艦も参加した。御召艦浅間の後艦橋で東郷司令長官は明治天皇にご説明申し上げた。
  14. 大正三年(1914年)皇太子であられた昭和天皇は学習院初等科御卒業後の7年間、東宮御学問所で特別の学習をされた。東郷元帥は、その総裁を命ぜられ、老く(老体の意)をむちうって誠心誠意大任を果たした。
  15. 昭和九年(1934年)東郷元帥は88才の長寿を保って逝去した。その直前、侯爵を賜わったが意識のはつきりしていた元帥は皇居に向かって合掌し、お礼申し上げた。




本殿のある境内から階段を下りたところに鳥居が立っています。祠はありませんが、この鳥居は築地の水交社(海軍将校の親睦団体)にあった水交神社の鳥居です。明治四十四年に建立され、曲折を経て昭和五十六年に東郷神社に寄贈されました。

水交神社鳥居の由来

この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、そ の初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまねがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられる事になったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。




東郷神社は本殿のある高台と階段を下りた明治通り口に高低差があります。明治通りから入ると大きな鳥居の奥に庭園と池が拡がっています。池の奥には結婚式場で知られる東郷記念館の建物があります。昭和五十二年(1977年)に東郷神社内に開館し、日本庭園を擁するほか、館内には約130人まで対応可能な5つの披露宴会場や、ラウンジなどを併設しています。40年以上営業を続けてきましたが、設備の老朽化や耐震の問題・営業環境の変化などから全館建て替えることとなり、昨年末で休館となりました。建て替えに際しては、開館時から使っている現在の建物の躯体を生かす再生建築工法が採用されます。2022年春に竣工予定とのことです。境内の奥まった場所に位置しているために難工事になりそうですが、それにしては随分と工期が短いですね。



明治通りに面した入口には立派な石造りの燈籠が二基参道の両脇に立っています。

第一駆逐隊

第一駆逐隊は日露戦争直前の明治三十六年(1902年)我国最初の駆逐隊として編成され、日露戦争に参加ののち、大正九年迄艦隊第一線で活躍後、一旦解隊された。大正十一年(1922年)改めて第一駆逐隊が野風・沼風で編成され、続いて波風・神風が加わり、昭和初期まで聯合艦隊の新鋭駆逐艦として活躍した。その後は主に大湊(むつ市)を基地としてオホーツク海及び千島列島カムチャッカ半島沿岸の漁業保護に尽力、その発展に大きな力となった。大東亜戦争では北はアッツ・キスカ方面から南はインド洋ジャワ方面まで幾多の戦闘に参加野風・沼風は勇戦空しく沈没したものの神風・波風は一部損傷を受けたが最期迄戦い抜き、神風はシンガポールにおいて、波風は瀬戸内海で終戦を迎えた。その間渡辺保正司令・山下喜義沼風艦長外五百四十名の方々が国に殉じられた。この燈籠は青春を国に捧げ、若くして戦いに殉じた勇敢な戦友と、最後まで海上で戦い抜き、戦後の復興に尽力、物故した乗員の霊を慰め、我が国永遠の平和を念願して、駆逐艦神風会が駆逐艦波風会有志及び司令各艦乗員御遺族、ならびにこの主旨に賛同の方々の協力をえて建立・奉納したものである。




東郷神社を出て明治通りを渡り、「HARAJYUKU ST」という名前の細い通りに入っていきます。その通りと交差する道路は旧渋谷川の跡に造成されたものです。今では道路の両側に時代の先端をいくアパレル関係のお店が建並んでいて、表参道や竹下通りとは一線を画しています。注意して見ると、道路は緩やかにうねっています。川の流路がそのまま道路になったような感じです。



道路の先端は表参道のメインストリートと交差します。その地点に「表参道まちかど庭園」と名づけられた小さなスペースが設けられています。ここには旧参道橋の親柱が二基残されています。親柱の間隔が川幅としますと、ちょっと広いように思います。それに先ほど通った旧渋谷川跡の道路とちょっとずれているような。



庭園には旧渋谷川の案内板が立っています。葛飾北斎の画には「穏田の水車」というタイトルが付いています。周りの人物と比べても数倍巨大な水車が勢いよく回っていますので、昔の渋谷川の水流はかなりなものだったのでしょう。

表参道まちかど庭園

今、渋谷川は遊歩道の下となり、参道橋の石碑だけが当時の面影を残しています。この川は、明治時代中期まで「富獄三十六景」にも描かれたほど、水車を使った精米業が盛んに行われていました。時代の先端をいく表参道の町並みとは対照的に、古き時代を思わせる原宿が、ここにあると感じるのではないでしょうか。




表参道の通りを歩道橋で渡ります。正式には、東京都道413号赤坂杉並線と呼ばれているのだそうです。新緑の緑が風景に合っています。



道路を渡った先に旧渋谷川の跡に造られた遊歩道が続いています。「穏田キャットストリート」という名前が付けられていますが、これには理由があります。かつては穏田川と呼ばれて水車を回していた渋谷川ですが、「穏田」という地名の由来は徳川幕府が開かれた400年近く前に遡ります。家康は信頼していた伊賀忍者の一族郎党をこの辺りに住まわせました。忍者の隠れ里ということで「隠田(おんでん)」と呼ばれましたが、いつからか「穏田」という字を使うようになりました。当時はのどかな農村で、穏田には渋谷川の水流を利用した水車があちこちにあり、その光景はさきほど見た葛飾北斎の富嶽三十六景のひとつの「隠田の水車」として描かれています。昔はまだこの界隈は住宅街で子どもたちが大勢いましたが、周辺に公園がなかったために、子どもたちの遊び場をつくろうと現在のキャットストリートがある場所に滑り台やブランコ・砂場などが設置されました。やがて公園にはどこからともなく野良猫が集まり始めました。周辺の住人が餌を与えたために猫の数は増え続け、しだいに猫だらけの公園になっていきました。「キャットストリート」という名称の由来には諸説ありますが、そのように多くの猫が集まっていたからというのが最有力の説とのことです。



旧渋谷川遊歩道、通称穏田キャットストリートには旧渋谷川に架けられていた旧穏田橋の親柱がひっそりと残されています。他にも、橋の跡を思わせる遺構もあちこちで見られます。



コースは遊歩道の途中で左の道路に出て、更に左手路地奥の穏田神社に向います。



<<写真多数のため、E原宿&千駄ヶ谷コース(2)に続きます。>>




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