E原宿&千駄ヶ谷コース(2)  

コース 踏破記  

<<E原宿&千駄ヶ谷コース(1)の続きです>>  

穏田神社から大山史前学研究所跡に向うのですが、コース図には番地は記載されておらず、道路の形状だけで進路を判断しなければなりません。ネッコ坂という奇妙な名前の坂道を見つけるのが大変で、この辺りを何回もグルグル回ってネッコ坂なる坂道を探します。ようやくそれらしい坂(案内板が見当たらなかったので確信はありませんでしたが)が見つかったのは行きつ戻りつを4回ほど繰り返した後のことでした。帰ってからネッコ坂のことを調べてみましたら、次のように書かれていました。

ネッコ坂は、旧渋谷川(穏田川)に近い穏田の商店街から北青山方面にある公務員(旧郵政省・旧郵政公社)住宅付近の台地上まで登る全長約200メートルの坂です。坂の名称の由来には、「木の根のように曲がっている道だから」というものと、「木の根がたくさん道に出ていたため」という二説があります。坂の歴史は古く、天保年間に作られた地図には稲葉長門守の下屋敷と戸田武次郎の屋敷とのあいだを通って穏田橋に通じる道に「子ッコ坂」が記されています。天保年間に発行された府内場末其他往還沿革図書には、「ネッコサカ」とあり、また、嘉永四年(1851年)に作られた「青山長者丸辺の図」にも、「子ッコサカ」として記されています。この坂は、一説には鎌倉街道の一部だったともいわれています。明治四十二年(1909年)には代々木の原に代々木練兵場ができ、明治神宮や表参道が作られる以前のこの狭い坂は東京市内と練兵場との間を行き交う兵隊たちで一日中混雑していたということです。



ネッコ坂上で左折し、団地らしき敷地に沿って進みます。突き当たりのT字路の左側に神宮前五丁目緑地という三角形のスペースが設けられています。この辺りに大山史前学研究所と大山柏邸跡があったようです。緑地には2本の案内板が立っています。



案内板の片方は主に大山柏博士の生涯を記した内容で、もう一方は彼が設立した大山史前学研究所と日本の考古学上の功績を解説した内容になっています。

大山史前学研究所と大山柏邸跡

昭和二十年(1945年)五月の大空襲によって焼失するまで、この場所には大山柏(元公爵・文学博士)の邸宅と主催する大山史前学研究所がありました。柏は、明治の元勲大山巌公爵の次男として明治二十二年(1889年)六月、東京に生まれ、兄の高が早世したことにより家督を継ぎました。軍人の家柄に生をうけた柏は、兄亡きのち、軍人の道を歩むことになります。大正十二年(1923年)に近代戦史研究の名目でヨーロッパに留学し、あわせて考古学の研究も行っています。大正十三年(1924年)に帰国した柏は、自邸内に史前研究室(のちに大山史前学研究所)を設立し、史前研究会(のちに史前学会)を組織しました。大山史前学研究所は、遺跡の調査研究・雑誌の刊行・出土品の展示・約一万冊にもおよぶ蔵書の閲覧など、現在の国公立研究所にも劣らない機能を持ち、戦後の日本考古学の基礎を築いたばかりでなく、そこに集った多くの若い研究者は、現在の日本考古学の躍進に寄与しています。戦後の柏は、西那須の別荘に移り住み、昭和四十四年(1969年)八月二十日に他界しました。

大山史前学研究所の由来と意義

大山史前学研究所は昭和四年(1929年)に公爵大山柏によって設立された私設の考古学研究所である。大山は大正十二年(1923年)にドイツに留学し、ベルリン大学で史前学を学び、帰国後邸内に私財を投じて大山史前学研究所を開設した。その母体は邸内に開設されていた史前研究室である。さらに史前学会を組織して日本の新石器時代を中心とした学術雑誌「史前学雜誌」を刊行するとともに100ヶ所以上の縄文時代の遺跡を調査し、その成果を次々に学界に発表した。大山らの発掘した主な遺跡には青森県是川遺跡・宮城県沼津貝塚・茨城県広畑貝塚・上高津貝塚・千葉県加曽利貝塚・遠部台遺跡・埼玉県真福寺貝塚・神奈川県子母口貝塚・勝坂遺跡などがある。研究所には甲野勇・宮坂光次・池上啓介・竹下次作・大給尹らの所員がおり、研究所の発掘調査や報告書の作製と史前学会の活動を支えた。昭和十八年(1943年)には貴族院議員であった大山柏も北海道根室・室蘭守備隊に出征し、研究所は閉鎖状態となり、昭和二十年(1945年)5月25日の空襲によって多くの貴重な文献や資料は邸宅や研究所とともに焼失した。しかし、戦前の皇国史観による歴史学への弾圧が続くなかで、大山柏の研究は純粋な科学的精神によって貫徹され、かつ今日の旧石器時代・縄文時代の研究においても重要なものが多く、日本考古学の歴史のなかに占める意義はきわめて大きいものがある。




表参道通りに出て、港区との境界沿いに延びる「オシャレとグルメの原宿二丁目」原二本通りに入ります。あまり高級感はありませんが、お店の建並ぶ庶民的な商店街です。



商店街の中程の左手に徳富蘆花の住居跡の案内柱が立っています。徳富蘆花って、女性の名前のように聞こえますが立派なおじさんです。

徳富蘆花住居跡

徳富蘆花は、明治三十三年(1900年)十月に、逗子からここに移ってきました。明治三十八年(1905年)十二月再び逗子に移るまでの間に「思出の記」を完成させ、また「黒潮」・「慈悲心鳥」・「霜枯日記」などの作品を次々に発表しました。




外苑西通りに出るひとつ手前の交差点で左手の細い道路に進みます。ちなみに、この付近の外苑西通りは通称キラー通りと呼ばれています。「キラー通り」の名前は世界で活躍するファッションデザイナーであるコシノジュンコさんによって付けられました。大阪万博が開催された1969年にそのころ青山通りにあったコシノさんのブティックが南青山に移転しました。しかし、その通りには特に名前がなかったので、何か名前があればと思われたそうです。青山墓地が近くにあったこと、時代背景として「ピンキーとキラーズ」も大ヒットしていたことがあり、「キラーストリート(killer street)」と書いてみました。それが雑誌などではわかりやすくするためか、「キラー通り」と呼ばれるようになっていきました。当時は形容詞として使う英語のスラングで「素晴らしい・素敵な」の意味で捉える方が多かったので、キラー通りは「殺し屋通り」ではなく、「素敵な素晴らしい通り」という意味でした。それはさておき、左手の道路を進むと妙圓寺の前に着きます。門の入口に2本の案内板が立っています。境内には「原宿発祥之地」の石碑が立っています。特に由来を記した案内板は見当たりません。帰ってから調べてみましたら、次のような経緯があったようです。この周辺は江戸時代から「原宿村」と「穏田村」のふたつの村があり、明治時代中期までその地名は続きました。明治二十二年(1889年)に市町村制が施行され、ふたつの村は合併して「千駄ケ谷村」となり、「千駄ケ谷村大字原宿」と「千駄ケ谷村大字穏田」と呼ばれるようになりました。さらに「千駄ケ谷町」を経て、昭和七年(1932年)に東京に区制が施行され「渋谷区」に属することになり「原宿一丁目〜原宿三丁目」と「穏田一丁目〜穏田三丁目」と「竹下町」に町名が変更されました。昭和四十年(1965年)には新住居表示になって「神宮前」という町名になりました。住居表示の変更をするに際して「原宿」と「穏田」の町名を推薦する声があがりましたが双方とも譲らず、結局明治神宮の前にあるから「神宮前」という安直な名前に落ち着いたといわれています。この時以来「原宿」という地名は存在しなくなりました。現在「原宿」の名前が残っているのは、「原宿駅」・「原宿警察署」・「原宿郵便局」などだけになっています。妙圓寺の境内に「原宿発祥之地」の石碑が立っているのは、原宿の地名が消滅したことを惜しむ声があり、どこかに残したいということで、特に妙圓寺で原宿の名前が発祥したということではないのですが、元「原宿」のどこかということでたまたま妙圓寺が選ばれたのだとか。なんだ、そういうことだったのか。

穏原小学校旧跡

この道路の向かい側に、かつて穏原小学校がありました。この学校は、妙圓寺などの寺小屋の児童を収容し、穏田・原宿両村の連合公立小学校として、明治十四年(1881年)に当時の原宿七十番地に開校したもので、当時の児童数は二十四名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同二十一年に原宿二百三番地であるこの場所に校舎を新築し、移転してきました。その後、校地が再び狭くなり、同三十三年に隣地である原宿二百二番地を加えて校舎を新築しました。この間、大正十二年(1923年)には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和二十年(1945年)五月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同ニ十一年三月、六十五年にわたる歴史の幕を閉じました。この間にはぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。

自昌院自筆法華経 八巻 附 函

妙圓寺が所蔵する法華経八巻は、広島藩二代藩主浅野光晟の正室である自昌院(満姫)により、万治二年(1659年)二月三日に写経されました。巻子本に仕立てられたこれらの経典は、見返しに箔地に日輪と月輪及び文殊と普賢菩薩が描かれ、烏の子紙を使用した写経料紙には、金泥による優美な装飾が施されています。自昌院は、加賀藩三代藩主前田利常の娘として、元和五年(1619年)十二月十五日に金沢で誕生しました。母親は、徳川秀忠の娘珠姫です。その関係からか、満姫は徳川家光の養女となって、寛永十二年(1635年)九月に浅野光晟に嫁ぎました。満姫は、万治元年(1658年)十月十二日に実父利常の死去をうけて剃髪したようで、自昌院と号しました。自昌院は熱心な日蓮宗信者で、神司ヶ谷の鬼子母神堂や広島の菩提寺となる自昌山國前寺を建立しています。法華経は、自昌院の写経にみられるように、日蓮宗の根本経典であるばかりでなく、女性の成仏を説く経典として、中世以来女性に信仰されてきました。自昌院による日蓮宗妙圓寺への法華経の寄進は、自身が日蓮宗信者であるとともに、女性ならではの法華経信仰を持っていたからと考えられます。妙圓寺は、安房小湊の本山誕生寺の末寺で、山号は蓮光山です。寛永四年(1627年)に円成院日光が四谷千日谷に草庵を営んだのが始まりとされています。その後、日寛が当寺を再興し、宝永三年(1706年)に現在の地に移転をしました。本法華経は、保存状態が極めて良く、経函などを含めて自昌院が奉納した当時の姿を今に伝える貴重な文化財です。




妙圓寺から青山熊野神社に向います。青山熊野神社は神宮前・北青山の総鎮守です。青山熊野神社は正保元年(1644年)正月7日、それまで紀州徳川家・徳川頼宣の邸内(現在の赤坂御所の位置に所在)に奉斎されていた御宮が、地元町民の請によって現在地に移遷されたことに始まりました。翌年の4月には本殿拝殿その他の造営が完成しましたが、神社自体の創建は徳川頼宣が自邸内に御宮を勧請した元和五年(1619年)に遡ります。初めは、紀州徳川家の鎮守であったものが移遷後に青山総鎮守となった経緯から、その後も神社の祭礼の際には紀州家からの代参があったといいます。社号は当初「熊野大権現」でしたが、明治維新時に発布された神仏分離の令により、明治二年(1869年)に「青山熊野神社」と改称されました。熊野神社は華麗な社殿を持つほか、俗謡に「青山に過ぎたるものが二つあり、鳶の薬缶に原宿の山車」と唄われるように、盛大な祭礼でも知られました。熊野神社は、江戸時代に作られた「江戸名所図会」にも江戸の名所のひとつとして描かれています。



青山熊野神社を出て右折し、緩やかな坂道を下ります。なんということもない普通の坂道ですが、勢揃坂と呼ばれて歴史的に価値のある坂だそうです。

勢揃坂

ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂といい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。永保三年(1083年)の後三年の役で八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。このとき従軍した武士のなかに、桓武平氏良文の嫡流にあたる秩父十郎武綱(渋谷氏等の祖)が参陣して、手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。




外苑西通りに出る手前にタテジマの虎のマークを付けた民家風の建物が見えます。外苑西通りからかなり入った目立たない場所にあるので、熱烈な阪神ファンが集う隠れ家的な居酒屋かと思いましたが、阪神タイガースのグッズを販売する「HANSHIN Tigers Shop神宮店」なのだそうです。ここだけでなく、全国にお店があるみたいで、阪神ファンなら場所が不便でも買いに来てくれるのでしょう。



仙寿院交差点の右手に、新装なった国立競技場が偉容を誇っています。隈研吾によるデザインは、周辺(明治神宮外苑)との調和を目指した「杜のスタジアム」のコンセプトを掲げ、「自然に開かれた日本らしいスタジアム」を提案し、屋根や軒庇などを鉄骨と木材のハイブリッド構造とし、最大高さを47.4mと比較的低く設定することで水平ラインを強調した構造となっています。使用する木材は47都道府県から集められた杉材およびカラマツ約2千平方メートル分を使用し、塗装により本来の木材よりやや白みがかったものとなっています。屋根の下には法隆寺五重塔からヒントを得たといわれる三層の庇が水平さをより強調しています。コロナ禍がちっとも収まらない中、東京オリンピックが中止になったら何のために建替えたのか意味がなくなってしまいますよね。



交差点の脇には交差点の名前にもなっている仙寿院があります。

法雲山仙壽院沿草

當山は、正保元年(1644年)紀伊の太守コ川頼宣の生母お萬の方(法名・養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遙(安房の太守里見羲康の次子)を開山として創立された。従って江戸期は、紀伊徳川家・伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれていた。お萬の方は徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖であるョ宣と水戸コ川家の祖であるョ房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。開山里見日遙(一源院日遙上人)は、後に飯高擅林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村田妙法寺へ瑞世した。日遙を祖とする千駄ヶ谷法類は、當山を縁頭寺とする江戸期において隆盛を誇った當山も明治維新の変革によって袁微し、明治十八年には火災によって全山焼失、その後里見日フ【王へんに夫】(體遵院日フ【王へんに夫】上人)により復興されるも、昭和二十年戦災で再び全山焼失した。更に昭和三十九年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和四十年には本堂・書院を再建、昭和五十九年には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている。




仙寿院を出て、外苑西通りを少し進んだ先で左手の曲がりくねった路地に入ります。聖輪寺というお寺の観音様の謂れを記した案内板が立っています。

聖輪寺観音略縁起

神亀二年(725年)五月、行基菩薩北越遊行の時、此地に暫く休息されました。谷の中より光がさし、聖如意輪観音が出現し、「此地は我に因縁あり、汝よろしく我姿を彫刻し、来世の衆生に結縁させよ、広く利益を与える事であろう」と申され、大きな古木の本に消えました。行基著薩は感激し、その古木を加持し、三尺五寸の如意輪観音像を彫み石の上に安置しました。これ故に山号を観谷山、寺号を聖輪寺と号することとなった。文明(1469年)の頃、渋谷氏一門の何某、この尊像を深く信仰し、その家は日々に栄え、子孫繁栄、富貴自在の身分となり、世の人々より黄金長者と呼ばれるようになった。同氏は堂宇を営造しこの尊像を崇いました。青山長者丸という所はこの黄金長者の跡である。天正(1573年)の頃、この里の童達が集りこの尊像を前の川へ運び、共に水浴びして遊びました。不思議な事に、ある夜、里人の夢の中に尊像が現れ「善哉善哉、童達毎日吾を浴びせし縁により、一切の病難から救うであろう、汝ら疑う事なかれ」と告げました。その頃、国中に疱瘡が流行(はやり)ましたが、この里の人々は病気から免れ、これ偏(ひとえ)に観音の大悲護念のしるしであると、この時より尊像の扉を閉め秘仏として崇め奉りました。又、慶長三年(1596年)三月、盗賊が忍び入り、この観音の双眼は、黄金であると伝へ聞き、鑿(のみ)で取り去ろうとした時、守護神の罰か、自然に自ら所特していた鑿に貫かれて死んだ。甲賀組の高橋四郎左衛門が親(まのあ)たりにこれを見、観音の霊験に驚き堂宇を再興して敬った。これより観音は「目玉の観音」・「千駄ヶ谷観音」と呼ばれ信仰を集めた。尚「江戸砂子」に、「この江戸において千余歳を数える霊場は浅草観音と当寺である」と記されている。




聖輪寺の直ぐ近くにある瑞円寺に庚申塔と案内板があります。お墓なのか庚申塔なのか区別がつきませんね。

庚申塔

右側の享保五年(1720年)のものには、天邪鬼を踏まえた青面金剛のほか、日月・三猿が彫られています。また、戒名が彫られているところを見ると、庚申塔を墓標に転用したものと考えられます。左のものは、造立年代は不明ですが、天邪鬼を踏まえた青面金剛・日月・三猿が彫られています。なお、この二基には、表面の上部に家紋が彫られているのも珍しいことです。また、いずれも塔の側面に稲穂をくわえた狐が彫られており、稲荷信仰が表現されているのも大変珍しいことといわれています。




瑞円寺から坂道を下ってやや広い通りに出ます。この坂は榎坂といい、坂の下に案内柱が立っています。

榎坂

「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。かって、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡神社へ向かうこの道の右手に商売繁盛・縁結び・金縁・子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。




榎坂下で右折して北向きに進みます。こんもりと繁った大木の中に将棋の神様で知られる鳩森八幡宮が鎮座しています。



境内の一画にかなりな大きさの富士塚があります。「千駄ヶ谷の富士塚」という都内最古の富士塚だそうです。

千駄ヶ谷の富士塚

この富士塚は寛政元年(1789年)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ばく【石ヘンに卜】(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が姿置されている。塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。この富士塚は大正十二年(1923年)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。




そこに山があれば登りたくなりますよね。でも、人工の山といっても馬鹿にはできません。登山道は細い上に岩がむき出しでとても歩きにくいです。てすりとロープはありますが、下手すると足を踏み外して転げ落ちそうになります。



富士塚には富士山のいろんな見所が再現されているのですが、足下に気を取られてどれがどれだか分らなくなってしまいました。ま、無事に下山出来ただけでも良しとしましょう。



鳩森八幡宮は将棋の神様が棲むといわれていますが、将棋に関係するのは境内の真ん中に建てられた将棋堂だけのようです。一応、氏神の八幡神が祀られていますが、元々は奉納された巨大な将棋の駒を安置するために建てられたそうです。堂の周囲には棋力向上の願いを込めた沢山の絵馬が架けられています。御利益や如何?

将棋堂由来記

昭和六十一年一月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長大山康晴十五世名人)より、山形県の駒師香月氏の製作による、高さ一米二十糎の欅製の大駒が奉納された。この縁により、同年十一月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表わし、屋根の上の飾り金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を析願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することがてきる。参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。




鳩森八幡宮の向かいに将棋会館があります。一度お邪魔してみたいものです。



将棋会館の先に国立能楽堂があります。国立能楽堂は、能楽の保存と普及を図ることを目的として1983年9月に開場しました。日本の伝統芸能のひとつである能楽は世界の古典劇のなかでも極めて古い歴史を誇るものであり、簡素で集約された演技・演出による独特の舞台芸術として後世に永く受け継がれるべき貴重な文化です。能舞台の床材には木曽の樹齢400年の尾州檜を、柱その他は台湾の大雪山系の檜で樹齢2000年のものを使用しています。鏡板揮毫は森田曠平画伯が担当し、見所(客席)は627席でゆったりとした雰囲気で観能を楽しめるようになっています。



千駄ヶ谷駅といえば津田塾大学のキャンパスですよね。私も会社が終わった後で英語講座に通ったことがあります。でも久しぶりに来てみますと、敷地の周りは工事用の塀で囲まれています。私は津田塾大学は全学部が千駄ヶ谷キャンパスにあると思っていたのですが、本部キャンパスは小平市にあるんですね。「千駄ケ谷キャンパス」自体はこれまで主に社会人向け大学院や公開講座の拠点として使用されていました。学部学生は長い間ほとんど使うことのないキャンパスだったのです。千駄ヶ谷キャンパスの歴史は、戦後の混乱期に母校の財政的援助をするためにと、1946年に同窓会理事長となった広瀬千代子氏の尽力により、同窓会が運営する英語スクール「津田英語会」が設けられたことに始まります。この土地は鷹司侯爵邸の跡地で、鷹司家から一坪あたり1円で借り受けることができたそうですが、当時は資金と物資の調達がままならない時代でした。広瀬氏の言葉に尽くせない労苦が実り、木造の建物が完成し、1947年に津田英語会を開講することができました。戦時中は敵性語として排斥された英語ですが、戦後はその必要性の高まりから多くの受講生を集めることができました。津田塾会はその後、財団法人となって同窓会から独立、津田英語会の他、専門学校津田スクール・オブビジネスや津田ホールの運営などを行いました。そして、2008年3月、財団法人津田塾会の歴史的使命は終了したということで解散し、その残余財産(土地・建物等)は津田塾大学に寄贈され、津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとして再スタートしました。大学はその間、新たな教育活動を展開するための検討を重ね、総合政策字学部開設を決定。2015年4月に旧校舎の解体と新校舎の建築が開始され、2017年1月に校舎が完成し、什器や視聴覚設備・情報関連機器が整備されました。今は工事の最後の仕上げをしているのでしょうか。



千駄ヶ谷駅にやってきました。殆ど乗り降りしたことのない駅ですが、東京体育館が駅前にあるので普段はスポーツ観戦やライブの催しで賑わうんでしょうね。コロナ禍が収まればの話ですが。



ということで原宿&千駄ヶ谷コースを歩き終えました。旧渋谷川の跡を辿れたのは良かったです。神社とお寺でえらく時間がかかってしまったのは誤算でしたが。




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