- F初台&西原コース
- コース 踏破記
- 今日は渋谷区の初台&西原コースを歩きます。代々木上原駅を起終点としており、これまで何度も通った道もありますが、令和の世に宇田川の支流の痕跡が残っているとは思ってもいませんでした。東京にはまだまだ歩いていない河川が残っているんですね。
初台&西原コース
初台&西原コースの歩行距離は約6.2km(約8,860歩)、歩行時間は約1時間33分、消費カロリーは約279kcalです。
スタート地点:小田急代々木上原駅
↓ (約0.5km:約7.5分)
@古賀政男音楽博物館【昭和歌謡の名作曲家、没後に国民栄誉賞受賞】
↓ (約0.3km:約4.5分)
A東京ジャーミイ【イスラム教のモスク、トルコ文化センター併設】
↓ (約2.1km:約31.5分)
B玉川上水旧水路【桜並木の名所として有名、幡代小付近に親水エリア】
↓ (約1.6km:約24.0分)
C旧宇田川支流・初台橋欄干【昭和四十年頃に暗渠化、暗渠の上に初台橋の欄干】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
D代々木八幡宮【代々木の総鎮守、竪穴式住居(復元)あり】
↓ (約1.3km:約19.5分)
ゴール地点:小田急代々木上原駅
スタート地点の代々木上原駅から歩き始めます。コース図を見ますと、代々木上原駅の南側が起点になっているようです。代々木上原駅は乗り降りしたことがありませんので、起点は現地で確認してみることにします。駅に着いてみますと、ホーム下に長々と延びるショッピングモールがあります。小田急線ということもあって、1階にはOdakyu OX代々木上原店が入っています。場所柄、高級品が多く売られていますね。それはさておき、構内の案内図で確かめてみますと南側には出入口が2ケ所あって、南口@・南口Aと番号が振られています。今までいろんな駅を利用してきましたが、出入口に番号が振られている駅は初めてです。コース図と見比べて、南口Aをスタートポイントとします。
代々木上原駅から商店街(というほどの数のお店はありませんが)を抜け、上原三丁目交差点を渡って井ノ頭通り(境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は「水道道路」と呼ばれていましたが、後に近衛文麿元首相によって「井の頭街道」と命名され、その後東京都によって「井ノ頭通り」と改められました)を西方向に進みます。左手に大きな建物が見えます。手前がJASRACのオフィス、隣が古賀政男音楽博物館になっています。JASRACとは、日本音楽著作権協会(JApanese Society for Rights of Authors,Composers and publishers)の略称で、協会のロゴとしても使われています。日本の著作権等管理事業法を根拠法にして設立され、日本国内において音楽著作権の集中管理事業を営んでいます。歴代会長には音楽界の大御所が顔を揃えています。古賀政男音楽博物館は、生涯で四千以上の曲を世に送り出した作曲家である古賀政男が住んだ地にある博物館です。古賀メロディーが奏でる大衆音楽の歴史を学ぶことができ、3階の古賀政男の世界では書斎や日本間など古賀の私邸を一部移築して公開しています。また、「酒は涙か溜息か」・「東京ラプソディ」・「悲しい酒」など千曲以上の古賀メロディーが視聴可能になっています。
井ノ頭通りを西に進み、小田急線のガードを抜けた先に中東風の建物が見えます。東京ジャーミイは、日本最大のオスマン様式のイスラム教寺院(モスク)で、トルコ共和国大使館の所属となっています。「ジャーミイ」とは、トルコ語では金曜礼拝を含む1日5回の礼拝が行われる大規模なモスクを意味しています。トルコ政府の所有になっているのには歴史的な経緯があります。大正六年(1917年)にロシア革命が起きると、ロシア帝国に住んでいた回教徒・トルコ民族の多くは国外に避難し、特にザバイカル州及び満州在住の回教徒商人ら約600人が日本に移住してきました。その人達を中心にして「東京回教徒団」が結成され、昭和十三年(1938年)に礼拝堂(代々木モスク)が落成しました。代々木モスクは、トルコ国籍ムスリムたちや地元代々木上原・大山町の人々に親しまれてきましたが、老朽化のため昭和五十九年(1984年)に閉鎖され、昭和六十一年(1986年)に取り壊されました。東京トルコ人協会はモスクの再建にあたって跡地をトルコ政府に寄付し、再建をトルコ政府に委託しました。トルコでは、国の宗教行政を主務するトルコ共和国宗務庁が中心となって「東京ジャーミイ建設基金」を設立し、トルコ全土から多額の寄付を募りました。建物の躯体工事は日本のゼネコンが行いましたが、トルコからは建築家を始め、モスクの建築資材や内装・外装の仕上げを手がける100人近い職人が派遣されました。平成十二年(2000年)6月30日に開堂し、東京ジャーミイ・トルコ文化センターとして、またモスクとしての活動とともにイスラム文化・トルコ文化を伝えるセンターの役割も果たしています。東アジアで最も美しいモスクとの呼び声もあります。
更に井ノ頭通りを西に進み、大山交差点から右斜めに延びる住宅地の路地に入ります。この辺り一帯は大山町という地番で、渋谷区でも屈指の高級住宅地です。どこかの国の大使館か機密性の高い施設かと思われるような一画があります。高い石垣とネットと木々に囲まれて中はうかがい知れません。周囲には警備員らしき人が巡回していますね。よっぽど何の施設なのか訊こうかと思いましたが止めときました。帰ってからネットで調べてみましたら、その区画全部が某企業のオーナー経営者の御殿と呼ばれる豪邸らしいとわかりました。大山町は田園調布の比ではない高級住宅地なんですね。
豪邸から緩やかな坂を上りきったところに代々木大山公園があります。渋谷区立公園のなかで一番大きな公園で、以前は防空小緑地として整備されていました。園内には少年野球場が2面あるほか、大きなジャングルジム(工事用の足場かと思いましたよ)やすべり台もあり、多くの子どもたちの遊び場になっています。大山町の町名は、このあたりが小山のような地形だったことに由来するみたいです。そのために、北側から公園を出るには階段を下りていかなければなりません。
代々木大山公園から階段を下りてそのまま進みますと、正面に東京消防庁消防学校の建物があります。消防職員の教育計画に関すること、新任消防職員の教育の実施に関すること、消防職員等の教育の実施に関することが主な業務のようです。同じ場所には東京都消防訓練所が設置されていて、常にキビキビした訓練の掛声が聞こえてきます。壁越しには沢山の消防車両が並んでいます。近所に住んでいる人にとっては大震災時の避難場所にもなりますし、火事になっても直ぐに消防車が駆けつけて訓練がてら消火してくれることでしょう。
東京消防庁消防学校の道路を挟んだ向かいに、国際協力事業団(JICA:ジャイカ)の東京国際研修センターの建物があります。JICAは、Japan International Cooperation Agencyの略で、外務省が所管し、政府開発援助(ODA)の実施機関のひとつです。開発途上地域等の経済及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的としています。東京国際研修センターには食堂が併設され、学食の感覚で一般の人も利用可能だそうです。「WORLD MENU」なるものも提供されているそうで、日本では滅多に口にすることができないような珍しいお料理も頂けるとのこと。日本人の舌に合うかどうかは微妙ですが。
JICAの先で玉川上水緑道に入ります。冬には葉っぱを落として寒々としていた木々ですが、新緑のこの季節は緑に覆われてオゾンたっぷりです。緑道の一画にフェンスで囲われたむき出しの地面があります。東急バスの幡ヶ谷折返所です。周囲に住宅はあるものの、バスの発着所としてはかなり辺鄙な場所にあります。そのためか、2021年4月1日付けでこの幡ヶ谷折返所は廃止になったんだそうです。昭和の一時期には、東急と都営バスの共同運行により幡ヶ谷折返所から渋谷駅を経て東京駅までバスが直通していたそうで、時代の流れを感じます。跡地は再び緑道に戻されるのでしょうか?
緑道の一画に小ぶりな菩提樹の木が植えられています。日本では菩提樹の木は殆ど見かける機会はないと思いますが、この木はインドで採取した種を日本に持ち込んで育てたとのことです。菩提樹は仏教において二番目に尊いとされています。平家物語の冒頭の文章でお馴染みの祇園精舎とは、インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院です。釈迦が説法を行った場所であり、天竺五精舎(釈迦在世中にあった5つの寺院)のひとつでした。
ちなみに、平家物語の冒頭の文章は、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
となります。現代語に直すと、こんな感じです。「盛者必衰の理」は歴史が証明していますね。
祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」、つまりこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれている。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。世に栄えて得意になっている者がいても、その栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまうような、風の前の塵と同じである。
菩提樹礼拝の習慣
仏教徒は仏舎利・菩提樹・仏像という三つに礼拝します。どんな菩提樹の木も礼拝の対象になるわけではありません。お釈迦さまが覚りをひらく時に座られた菩提樹か、その子孫の菩提樹のみが礼拝対象になります。ここに植えられた菩提樹は、お釈迦さまが覚りをひらく時に座られた菩提樹の子孫です。この菩提樹も礼拝の対象になります。お釈迦さまの覚りとは、生命としての究極の願いを叶えられたことです。病気平癒・祈願成就・学業成就・人生の成功などを期待して、菩提樹のお世話をしたり、礼拝をしたりするのです。皆様もどうぞお気楽に礼拝して、その御利益を試してみてください。
インド菩提樹(シナノキ属のセイヨウボダイジュとは別種)
◇学 名:Ficus rellgiosa
◇分 類:クワ科フィクス(イチジク)属
◇原 産:インドから東南アジアにかけて
◇タイプ:半落葉樹
◇インドの祇園精舎で採取した種から育った樹です
緑道には、昔の玉川上水に架かっていた橋がそのまま残っています。橋銘を見ると、その地域の名称の変遷が見て取れます。
大半の橋は地続きとなってもはや橋の機能は果たしていませんが、どういうわけか親柱と欄干だけは作り替えられたものもあります。所々には、昔の橋の親柱が保存されています。
改正橋で緑道から外れ、右折して初台商店街を南方向に進みます。
初台商店街には大きなスーパーとかはなく、個人商店が立ち並んでいます。その中に、窓ガラス越しにワインのボトルが飾られているビストロに興味がそそられます。「ビストロ ガブリ」という店名ですが、都内各地でチェーン店を展開しているみたいです。独自ルートの和牛赤身に拘る炭火焼ビストロで、オーナーの実家は茨城県行方にある非常に希少な屠蓄権利をもつ老舗肉問屋だそうです。独自ルートで仕入れた国産牛・豚・羊・ジビエや内臓肉を豪快な炭火焼や串焼きで頂けるのだとか。一品450円からのフランス田舎料理の数々は、つまみからメインまで全品手作りだそうです。800本が収納されたウォークインセラーからワインが自由に選べ、2300円から1本限りの限定ワインまで100種類以上のラインナップがあるとのこと。コロナ禍が収まったら一度お邪魔したいものです。
初台商店街の先は長い下り坂になっています。初台坂下交差点の手前で右方向からの路地が合流していますが、この道は旧宇田川支流の跡だそうです。宇田川は渋谷区を流れる渋谷川の支流で、1964年の東京オリンピックを前に暗渠化され、現在は下水道(宇田川幹線)となっています。かっては、渋谷区の代々木四丁目・初台・西原・大山町・上原などを源頭とする複数の支流を持ち、一帯の田畑を潤していました。水源の一部には玉川上水の漏水も含まれていたとする説もあります。最も大きな支流として河骨川があり、一説には童謡「春の小川」の題材となったとされています(河骨川は渋谷区の他のウォーキングコースにも登場します)。各支流は代々木八幡宮の南麓あたりでひとつに合流し、現在の井の頭通りにほぼ沿って南下して渋谷駅横の宮益橋付近で渋谷川に合流していました。最下流の流路は、西武百貨店渋谷店A館とB館の間に埋設されています。
路地を辿っていきますと、宇田川支流に架かっていた初台橋の跡が道路上に残っています。宇田川支流の痕跡を残す貴重な遺跡です。
よく見ますと、初台橋の親柱には剥がれて判読できませんが嬌名の跡が見てとれます。架橋年代は「昭和三十四年竣工」と書いてあります。宇田川支流が暗渠化されたのは昭和三十九年頃なので、実際に橋として使われたのは短期間だったようです。
再び初台坂下交差点に戻り、山手通りの向かいにある代々木八幡宮に向います。代々木八幡宮は代々木の総鎮守で、お正月には大勢の初詣の人で大変な賑わいになります。節分会では盛大な豆撒きが催され、撒くというより投げるといった方が合っているような豪快な豆撒きです。キャッチするにはグローブかミットを持参することをお薦めします。
代々木八幡宮由緒
御由緒
当社は、鎌倉時代の初め、建暦二年(西暦1212年)九月二十三日に、鎌倉幕府第二代将軍源頼家公にかかわる遣臣荒井外記智明によって創建された。智明は、頼家公が伊豆の修善寺で非業の最期を遂げられてから、この代々木の地に隠棲(いんせい)され、名も宗祐と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていたが、ある夜夢の中に故郷鎌倉の八幡宮から宝珠のごとき鏡を感得された。これによって小祠(しょうし)を営み、八幡宮を勧請(かんじょう:神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)されたのがはじまりである。
急な階段を上った先にもうひとつの鳥居があり、その横に庚申塔が並んでいます。
庚申塔
庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられました。庚申信仰は、六十日ごとにめぐり来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三戸と呼ばれる虫が出て天帝にその人の罪過(ざいか)を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行(ごんぎょう)をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。この人びとによって庚申塔は建立されました。庚申塔の多くは、青面金剛像が刻まれ、その下に三猿が彫られています。ここにある庚申塔の年記をみると、宝永六年(1790年)、宝暦五年(1755年)、寛政六年(1794年)などと刻まれています。
公共事業に住んでいた住民の立ち退きは必然ですが、現在の代々木公園に陸軍練兵場が設けられたときも多くの住民が住み慣れた土地から立ち退きを余儀なくされたのだそうです。
訣別の碑
この一対の燈篭は、明治四十二年、代々木の原(現在の代々木公園)に陸軍練兵場が設けられたとき、移転を余儀なくされた住民がこの地との別れを惜しんで奏納したものである。訣別の言葉は竿石部分にあり、拝殿に向かって左側には、「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々二移転スルノ際」、続けて右側には「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ想ヒ、茲二燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」とあり、この下段に奉納者の十七名の名前が刻まれている。
境内には神輿庫がありますが、残念ながら神輿は白布で覆われて拝めません。その神輿庫の脇に案内板がふたつ並んで立っています。年の暮れに農家の人が副業でもちつきをする習わしは今では見られませんが、高級住宅地となった代々木でも行われていたんですね。
代々木囃子
代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡宮の中で行われていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといいます。現在、保存会が使用している囃子鉦に「天保二年辛卯二月 代々木若」という記銘があり、言い伝えは信憑性が高いと思われます。その後、明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の時に一時中断しました。昭和に入っても継続されますが、第二次世界大戦が始まってからは低迷し、ついに中断を余儀なくされてしまいました。戦後、氏子らが先頭に立って復興させ、昭和二十一年に「代々木囃子保存会」を結成し、その保存活動を続け、現在に至っています。「代々木囃子保存会」は、代々木八幡宮の祭礼を中心に活動を続けています。二月の初午祭、五月の五社宮祭、九月の例大祭に町内を廻り、最後は神社に奉納します。このほか、正月には保存会の会員や依頼のあった家などの門口で獅子舞と一緒に演奏して廻り、最後は代々木八幡宮に奉納しています。
代々木もちつき唄
代々木の餅つきは、現渋谷区の初台・代々木・西原・上原一帯で、農家が五・六軒を一単位として共同で行われていました。歳末の早朝から一単位あたり二時間ぐらいでつきあげ、タ刻までかかったといいます。「もちつき唄」は、餅をつく前段のこねる作業の時に唄われていました。しかし、昭和三十年を過ぎる頃から、農家の減少や農地の宅地化、商店からの餅の購入等の理由で、次第に行われなくなりました。その餅つきや「もちつき唄」が忘れられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、昭和四十三年に「代々木もちつき唄保存会」を結成しました。毎年、代々木八幡宮において行われる節分会では、参詣者に餅が配られますが、その餅をついているのが「代々木もちつき唄保存会」です。
(一)目出たな 目出た目出たの 若松さまよ
枝も栄えて 葉も茂る
(二)庭にゃな 庭にゃ鶴亀 五葉の松
松の下にゃ おじじとおばば
(三)お前な お前な 百まで
わしゃ 九十九まで
共に 白髪の 生えるまで
絵馬は神社や寺院に祈願するとき、あるいは祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに社寺に奉納する、絵が描かれた木製の板ですね。何故馬が関係しているかというと、神々は騎乗した姿で現れるとされ、神輿が登場する前は神座の移動には馬が必須と考えられていて、崇神天皇の代から神事の際には馬を献上する風習が始まり、馬を奉納できない者は木や紙・土で作った馬の像で代用するようになって、奈良時代からは板に描いた馬の絵が見られるようになり、今日の絵馬のもとになったとのことです。境内にはふたつの絵馬について案内板が立っています。
絵馬 「代々木八幡縁起絵」
代々木八幡宮社伝によると、源頼家の家臣・近藤三郎是茂の家人荒井外記智明は、頼家が修善寺で殺害された後に名を「宗友」と改めて代々木に引きこもり、建暦二年(1212年)八月十五日夢の中で大神から宝珠のような鏡を授かったので源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり、小祠を営んだのが代々木八幡宮の創建といわれています。この絵馬は、その経過を表現したもので、このような作例は少なく筆致も優美なものです。天保十二年(1841年)に奉納された縦139×横186センチメートルの大絵馬です。
絵馬 伝「神功皇后之図」
神功皇后に関する神話の絵馬で、神功皇后とその乳飲み子(後の応神天皇)、従臣の武内宿禰が描かれています。一般に見られる作例と異なり背景の表現は少なく、人物を主体とした構成と雄渾な作風は、その彩色とともに明らかに芝居絵と共通している点で注目されます。天保十一年(1840年)に奉納されたものですが、このような大絵馬(縦139x横194センチメートル)が、芝居関係者の参詣が多かった江戸下町の有名社寺の場合とは異なり、江戸の郊外であった代々木に存在していたのは珍しいことです。
代々木八幡宮の社殿は現在屋根銅板の葺き替え中で社殿の全景は見れませんが、入口に参拝所が設けられています。今年の初詣をした時は工事は始まっていなかったような気がしますが。
境内にはいろんな歴史を刻んだ石碑が立っています。箒銀杏ですかぁ、一度見てみたいものです。
菅公一千年 歌碑
千とせ経て ますます高しつくしがた
みけし(御衣)あふぎし神のみいつは
正三位勲二等子爵 福羽 美静
文化学園の西側、甲州街道から入ったところに銀杏天神社があった。元和三年勧請、大正院持、社地は127坪あったという。そこには箒銀杏(ほうきいちょう:この大きな銀杏の木を少しはなれた所から見ると箒を逆さにたてたように見えるところからこう呼ばれた)と呼ばれる大樹があり、御祭神の管原道真公没後一千年を記念して歌碑がつくられた。天神社は明治三十三年五月、代々木八幡宮の末社に合祀され、歌碑も移転された。現在も天神社の跡地には小祠があり、この歌にも詠まれた箒銀杏がしげっている。
代々木八幡宮の社殿の右手奥に小さな神社が祀られています。出世稲荷社という名前で、仕事運と出世運上昇のパワースポットとして有名なのだそうです。太平洋戦争末期の大空襲によって焼け野原となった氏子地区の稲荷社をここに集めて合祀して出世稲荷社となりました。出世稲荷社は全国各地にありますが、関白太政大臣となった豊臣秀吉が聚楽第を造営するに際し邸内に日頃より信仰していた稲荷神社を勧請し、翌年後陽成天皇が聚楽第に行幸して稲荷社に参拝した際に、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたといういわれがあるそうです。ここの出世神社と関係があるかどうか分りませんが。
出世稲荷社
第二次大戦末期の昭和二十年(1945年)五月二十五日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集めて合祀したのがこの稲荷社の最初で、戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白の幟の奉納が行われる。
出世稲荷社の他にも、境内には幾つかの末社が祀られています。何れも明治期の一村一社政策を受けて近隣より遷座・合祀されたものです。
稲荷社(御祭神:豊受大神)
天神社(御祭神:菅原道真公)
榛名社(御祭神:日本武尊)
祭礼日・五社宮祭 五月二十三日
稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛域主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。その後、明治三十三年、神社合併政策によリ山谷301番地(現在の参宮橋駅の西)にあった掘出し稲荷と、新町3番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。また、本殿の八幡宮の相殿として、やはり明治三十三年、山谷365番地(現在の代々木公園駐車場あたり)にあった天祖社と、同じく山谷139番地(現在の南新宿駅の北)にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社を合せて祭礼を五社宮祭と称することになった。
もうひとつ、記念碑があります。石碑の碑文は全く読み取れません。案内板には「紀念」と書かれていますが、この言葉が使われていたのは昭和30年以前で、その後「紀念」という表記は失われていき、「記念」が一般的になったのではないかと言われています。
八幡宮紀念の碑
明治三十四年、拝殿の改築が成った際建立された。顕額は府知事・千家尊福、撰文は神田明神祠官・平田盛胤、執筆は子爵・福羽美静(ただし、福羽翁は高齢で病気がちであったため、門弟の野村伝四郎が代筆、裏面は義弟の福羽良曠)による。以下全文。「これの處の底つ岩根に宮柱太しき建て、天津御空に千木高知り鎮り座します村社若宮八幡宮はしも順徳天皇の御宇建暦ニ年九月二十三日といふに この地に往せし荒井宗友の霊夢により勧請し奉りし大神なり。そもこの宗友は頼家将軍に仕へし者の家人なりしかばそのかみ鎌倉に在りて鶴岡八幡宮は産土の神におはしまししより、ここに退隠したる後も朝夕の拝禮懈怠なかりき 然るに建暦二年八月十五日の夜 大神の御さとしによりて、寳珠の如き鏡を感得しければ 宋友の喜び限りなく 此の地の荊棘を披きて小祠を営み 同年九月二十三日始めて御祭を行ひにき これぞこの御社の起原にして毎年大祭を九月二十三日に行ふもこの故なりけり 後、コ川幕府の頃となりては神仏混淆の風なりしかば別当を寳珠山福泉寺智明院と称し、社地六千坪ばかりなりしが、明治維新の後は五段五畝二十四歩と改定せられぬ」
表忠碑は、明治三十七年〜明治三十八年の日露戦争の際にこの地域から出征した人達の名前を刻んだ碑です。揮毫は小笠原長生子爵です。かつての代々幡村奨兵会の手によって幡代小学校内に建立されましたが、戦後になって軍国主義の象徴として取り壊されそうになったものを有志の手で境内に移され保存されました。毎年3月23日に慰霊祭が行われています。
表忠碑
明治三十七年日露戦争が勃発すると、当時代々幡村と呼ばれたこの地区からも多くの人々が出征した。こうした出征兵士の家族・遺族の援護を目的に設立された奨兵会によって、明治四十九年九月、小笠原長生子爵の筆による表忠碑が幡代小学校に建立された。碑の裏側には日露戦争の戦没者九名、出征者五十六名の名前が刻まれている。第二次大戦後、表忠碑は軍国主義の象徴の一つとして多くが取り壊されたが、代々幡村の表忠碑は遺族や地域の方々の尽力によって、代々木八幡宮の境内に移転された。現在では、毎年三月二十三日、この碑に名前を刻まれている方々をはじめ、この郷土を守るために尊い命を捧げられた先人に対しての感謝と、世界の平和を祈る表忠碑慰霊祭が斎行されている。
臼田亜浪(うすだ あろう)は大正・昭和期の俳人で、「石楠花(しゃくなげ)」を主宰しました。亜浪が一時期、 代々木山谷(現在の代々木三丁目)に住んでいたことから、会の創立20周年を記念して石楠花同人の有志が昭和九年に建立したのがこの石碑です。
臼田亜浪の句碑
そのむかし 代々木の月の ほととぎす
亞息
臼田亜浪(1879年〜1951年)俳人。長野県出身。法政大学卒。大須賀乙字と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創刊して、高浜虚子らの俳誌「ホトトギス」に対抗した。この碑は、その創刊ニ十周年を記念して昭和九年に建てられたものである。明治・大正の頃までは、まだ、このあたりは東京近郊ののどかな田園地帯であった。
代々木八幡宮の境内には、神社としては珍しい古墳がのこされています。藁造りの本格的な住居ですが、勿論復元されたものです。
代々木八幡遺跡
代々木八幡宮は標高約三十二メートルの台地上にあって、その境内から石器時代の遺物が発見されていました。そこで、昭和二十五年(1950年)の夏に渋谷区がここを発掘調査したところ多数の遺物とともに、関東ロームを浅く掘りくぼめた住居跡を発見しました。ここから出土した加曽利E式土器によって、この住居跡には約四千五百年前に人が住んでいたことがわかります。渋谷区では、この住居跡に古代の住居を復元して、その保存につとめています。
地表近くに造られた入口はとても小さく、ドアのなかった古代においては、外敵を防ぎつつ室温を保つための工夫だったのでしょう。恐らく、中に入るときは腹ばいだったのではないでしょうか?
代々木八幡遺跡と石器時代住居
この遺跡は今から四千五百年程前の、石器時代中期を中心に栄えたもので、標高三十二・三メートルの、幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島の端に位している。当時、この前の低地は海の退きはじめた沼のようなところで丘のうしろは一面、カシやナラの森で、そこにはシカやイノシシなどの動物が多く当時の人達はそれを取ったり木の果を拾って、見はらしの良いこの丘の上で永く住みついていた。昭和二十五年渋谷区史を作るため発掘研究が行われたが、そのときには、地下三十センチメートル位のところから沢山の遺物が発見された。土器は縄文式土器中期の加曽利E式の鉢や壷が一番多く、その他わづかではあるが、前期の黒浜式や諸磯式、後期の堀ノ内式、加曽利B式なども出たから、前期にはじまり、中期に栄え後期までつづいたことがわかる。石器としては石斧、石槌、石棒、石錐、石鏃、凹石、皮剥などが発見されている。この発掘のとき、地下八十センチメートル位の下のローム層の上に当時の住居(堅穴家屋)の跡が一個分発見されたので、その上に当時のままの家を組み立て、作ったのが、この復元住居である。この家は直径約六メートルの円形にローム層を約二十センチメートル掘りくぼめ、その内がわの周に高さーメートル六十センチメートルの柱を十本程立て、その柱の頭に桁を横に結びつけ、その桁に椽(たるき)をニ十一本周から葺き寄せて、屋上で円錐形に結び合せ、この上に萱を葺いて作ってある。屋上の南北には煙出しを作り東側には入り口をその北側の貯蔵室の跡にはここだけ椽を葺き出し中央部には爐の跡がそのまま残してある。貯蔵室に掘り埋めてあった大型土器と爐の中に置いてあった底なしのニ個の土器は別に保存してある。この家の内は冬は屋外より十度温かく、夏は十度程涼しいし、内でたき火をすれば数時間で床面は乾いて案外住み心地が悪くない。使った木材は当時の附近の森相から考えてカシ・クリ等 濶葉樹にした。
(この復元家屋は東大建築工学教授藤島亥治郎博士の検閲を得て国学院大学教授樋口清之博士が立案したものを当区で作成した詳細は「渋谷区史」92−105頁参照)
代々木八幡宮を出てゴールの代々木上原駅を目指します。道路の脇に庚申塔と地蔵尊が並んで立っています。渋谷区には庚申塔が多く残されていますね。
庚申塔・地蔵尊像
中国道教の教えで、三尸(さんし)説を母体とした複合信仰を庚申信仰といいます。人の体内には、上尸(首から上にいる)・中尸(腹中にいる)・下尸(足にいる)という三匹の虫がいるというものです。庚申の晩に人が眠ると、その虫が、身体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告します。人は天帝の下す罰によって早死したり、病気になったりすると信じられていました。素朴な村びとたちは、庚申の夜になると当番の家に集まりお勤めをしたり、飲食や雑談をしたりしながら楽しく一夜を明かし、虫が体内からはい出さないように過ごしました。これを庚申待または庚申会といいました。渋谷区域にもこのグループがたくさんあり、これを庚申講といいました。その人びとが家内安全や五穀成就を祈って建てたのが庚申塔です。また地蔵講の人たちが、庚申塔のかたわらに地蔵尊像を建てて信仰していました。
通りから引っ込んだところに地蔵尊が祀ってあります。「田中地蔵」とは人の名前でなく、「田んぼの中に置かれた地蔵」という意味なのでしょう。
田中地蔵
「田中地藏尊縁起」によると、元文三年(1738年)十月、向井七左ェ門が五穀成就・庶民安楽・子供の延命を祈って、福泉寺寺領の田地に地蔵尊を安置Lたといわれています。その後、寛政二年(1790年)に、奈良岡寺の観音像を模写し、各尊像の台座を新調して、田中地蔵と呼びました。広い境内(敷地一畝、約百平方メートル)に杉一本を植えて村びとたちの 目標としました。毎年七月廿四日を縁日とし、この日には、農民や子どもたちが集まって祭典を行っていました。お堂には、五体の石仏がおさめられています。右手前の石仏が地蔵菩薩坐像、右奥の石仏が如意輪観世音菩薩半跏像、中央奥の石仏が鶏亀地蔵菩薩坐像、左手前の石仏が地蔵菩薩坐像、左奥の石仏が延命地蔵菩薩立像、左手前には享保十年(1725年)につくられた庚申塔、右脇には元文三年(1738年)につくられた石碑が建てられています。
通りから右手に続く坂の途中に雲照寺があります。庚申塔と板碑は案内板のところには見当たりませんので、お寺の中にあるのでしょう。
庚申塔・板碑
江戸時代の民間信仰のひとつに庚申講がありました。初期には六十日ごとに講中(グループ)が集まって念仏を唱え、長寿を祈る行事でしたが、のちにレクリエーションに変わっていったようです。その信仰の対象がこの庚申塔で、青面金剛・天邪鬼・日月・三猿・二鶏その他が彫ってあり、寛文十二年(1672年)の銘が刻まれている立派なものです。板碑は、鎌倉時代頃から作られはじめた卒塔婆の一種です。うすく割った石の頭部を三角形に作り、上部に二本の横線を刻み、その下に阿弥陀の梵字を彫ってあります。造立年代は不明すが、本区の中世史研究に欠くことのできない大切な資料です。
ゴールの代々木上原駅に着きました。スタート地点は南口でしたが、ゴール地点は北口になります。こちらも北口@と北口Aのふたつの出入口があります。恐らく、北口Aがコースで設定されたゴールなのでしょう。私は最後の区間のルートを間違えたようで、北口@の方に着いてしまいましたが。
ということで初台&西原コースを歩き終えました。今では見ることは出来ないと思っていた宇田川の支流跡を辿れたのは幸運でした。都心のレアな川として「東京の河川を歩く」にも含めたかったですね。
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