- @中野駅〜哲学堂公園周遊コース(薬師あいロード経由)(2)
- コース 踏破記
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妙政寺川と江古田川が合流する地点に江古田公園があります。広場の隅っこに何やら記念碑と案内板が立っています。
江古田古戦場
このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(1477年)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。ここでの合戦は、享徳の乱(1454年〜1482年)という長期にわたる内乱の中の戦でした。享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。この乱により関東は二分され、慕府などの支援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。
江古田大橋は妙政寺川が江古田川と合流する地点に架かっている橋です。江古田川周辺の地元民以外にははあまり聞き慣れない河川名ですが、練馬区の豊玉地域にある学田公園あたりを源流として、中野区の江古田地域にかけて流れる一級河川です。練馬区では、かつて中新井村を流れていたことから中新井川とも呼ばれています。「東京の河川を歩く」でも取り上げたのですが、江古田の森公園の端っこにある下徳田橋までは暗渠区間で、そこから先は2km弱の開渠区間となって江古田の森公園の北側に沿って流れ、江古田大橋で妙政寺川に合流しています。通常は河底に掘られた細い溝を流れていますが、川幅からすると大雨が降った時は濁流が妙政寺川に押し寄せるのではないでしょうか?
橋の袂にふたつの石碑が立っています。小さい方の石碑の文字は判読できませんが、巨大な石碑は東京の郊外で実施された区画整理の重要性を説いているようです。
整地碑
この整地碑は、区画整理組合が河川改修・道路整備・土地・耕地の交換による区画整理などの事業を行った記念に建てたものです。碑文に見られるように、区画整理が行なわれたのは、膨張する東京への対策として、「大東京市」を実現する都市計画のためでした。日本資本主義が確立したといわれる日清・日露両戦争を契機に、東京の人口の密集化と郊外の市街化に拍車をかけ、とくに関東大震災以後は、東京市と隣接する近郊との連携のとれた都市計画が必要となり、その区域が定められました。この整地碑は、こうした東京のひろがりに対して郊外の側から、土地・道路・河川の整備を進めて対応した農村の区画整理事業の実態をよく説明しているといえましょう。この事業によって、それまでの江戸時代からの農村の景観は大きく変化し、街の機能をもった東京市の近郊農村へとうまれ変わっていきました。
新青梅街道を進んで、中野区立の歴史民俗資料館を目指します。江戸時代の紀行文に「少しのぼる所に、くろがねもて、たたみつくれるようなる、大きな蔵、三・四見ゆ、山ア喜兵衛といふ醤油作りあきなふ者の家也けり」と記述され、当時の繁栄ぶりが偲ばれます。この蔵はすでにありませんが跡地に建てられたのが中野区立歴史民俗資料館です。中野北部では明治時代に入ってから大発展した地場産業がありました。沢庵づくりと製茶です。中野北部では江戸時代から練馬大根の生産が盛んでした。実はその生産量はご本家練馬の2倍にも及んでいたのです。沢庵漬けが商品として飛躍的に発展したのは、日清・日露戦争から戦前の間です。日本が海外に派兵するとともに軍による需要が急増したためです。そして、地域の主力産業として重要な位置を占めましたが、高度成長期を迎え消滅していきました。製茶は、明治維新によって役割のなくなった広大な大名屋敷ではじまりました。その後、お茶は手間がかからずしかも輸出品として高価であるため、農家が製茶業に手をつけはじめたのです。主に、東京北部から埼玉南西部に広がりました。しかし、関東大震災後の急激な宅地化・都市化によって、つぎつぎと消えていきました。そして、現在でも残ったのが有名な狭山茶なのです。今や埼玉県では特産品となっています。博物館の建物横にかって使われていた道具類が展示されています。大根7千本が漬けられる大樽は初めて見ました。
とうご(漬物用大樽)
この大きな樽は鷺宮にあった漬物工場でたくあんづくりに使われたものです。
左40石樽(1.8lビン4千本分)
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ひとつの樽でおよそ4千本から7千本の大根を漬けることができました。
醤油の絞りかすも立派な資源ですよね。エコロジーの考え方は江戸時代から取り入れられてきたのが分ります。
石臼(Mill−stone)
この石臼は、油のしぼり糟のかたまりを細かくする際に使用されたものです。平行に並ぶみかげ石の円盤が車輪のように回り、また同時に鉄の皿の上を360度回転します。こうして枠かれた油糟は、肥料や、にわとりの餌として用いられました。
道具類だけでなく、杉の木の根っこまで展示されています。よく掘り出したものです。
御嶽神社の杉の根(樹齢500年)
鷺宮にあった御嶽神社の杉の根です。昭和三十九年(1964年)八幡神社に合祀された時に掘りだされました。
宝仙寺は青梅街道沿いにある古刹ですが、当時からお参りに足を運ぶ人達が多かったのでしょう。
道しるべ Guidepost
この道しるべは、野方三丁目7番付近に立てられていたもので、「向 中野宝仙寺、左 中村 鷺宮、右 野道」と記されています。これによって、練馬区の中村や中野区の鷲宮から野方を経て、宝仙寺方面に至る古い道があったことが分かります。
鍋屋の庭園にあった石橋のかけらまで展示する価値はあるのでしょうか?
鍋屋庭園の石橋
この石橋は、鍋屋横丁の名前の由来となつた鍋屋の庭園にあったものです。鍋屋は、青梅街道と堀の内妙法寺への参詣道との分かれ道にあり、江戸時代の中頃から明治の末までみごとな梅園のある茶店としてにぎわいました。
民俗歴史資料館の隣に大木が生茂る区画があります。「醤油屋の椎の木」と呼ばれているくらいなので、この敷地も山崎家が所有する土地の一部だったのでしょう。500年前といえば戦国時代のまっただ中です。今でも樹勢は衰えていませんので、あと500年位は生きながらえることでしょう。
椎の木
椎は「区の木」です。この木は樹齢500年といわれ、区内でも代表的な大木です。明治維新のとき彰義隊の敗残兵たちがこの木の根元で休息したとつたえられています。
山崎家が醤油製造を止めた後、この広大な土地が中野区に寄贈され、民俗資料博物館が建てられたようです。それで「山崎記念」が館名に付けられているんですね。
山崎記念 中野区立歴史民俗資料館顕彰碑
この資料館は、中野区に土地を寄贈された山崎喜作・千枝御夫妻のご厚志に沿い、郷土の歴史・民俗の保存展示のために建設されたものであります。山崎氏は、地元旧家の第八代当主であり、永年にわたる地域・区議会・体育協会などの活動を通じて、中野区民の文化・スポーツの振興に多大な貢献をされました。ここに、山崎氏の功績を称え、顕彰碑を建立し、永久に記念するものであります。
石森製粉は中野坂上近くで現在も製粉業を営んでいます。江戸時代から太正にかけて、中野坂上辺りには江戸で消費される蕎麦の製粉所が数多くあったのです。石森製粉の本社前には、ここに展示されているものと同じ大きさの石臼が案内板の絵のような形で置かれています。ここまでどのようにして運んできたんでしょうか?石貨が流通している国に行ったら、その価値は1億円にはなるかも。
製粉用石臼
青梅街道中野宿は、江戸時代を通じて、大都市江戸へ供給される物資の集荷地でした。江戸特代末期から明治時代初頭になると、ここに集められた大豆・蕎麦粉などを素材にして、味噌・醤油醸造・小麦粉・蕎麦粉の製造など醸造・製粉業が地場産業として成長してきました。ここにある石臼は、平成二年まで本町一丁目の石森製粉所で蕎麦粉製造に使われていたものです。二つの車輪状の石臼が回転しながら、下の石皿の上を中央のシャフトを軸に回り、蕎麦をすりつぶして粉にしました。一度に大量の蕎麦粉を生産できる石臼のなかでも最大級のもので、地場産業の繁栄を示す貴重な遺産と言えます。
民俗博物館から少し戻って沼袋方面に進みます。住宅地の中に百観音明治寺の入口があります。ちょっと立ち寄ってみましょう。
入口の脇に小さな祠があります。
玉井稲荷大明神
百観音明治寺開基榮照法尼が寺の鎮守として生地である埼玉県熊谷の玉井より勧請した稲荷大明神です。寺伝には、井戸より宝珠(如意輪観音が持つ望みを叶える宝の玉)が出現したことから、彼の地が玉の井と呼ばれたとあり、豊穣と商売繁盛のお稲荷様としてお祀りしております。
入口の奥に夥しい数の石像が置かれています。規則正しく配置されているのではなく、向きも間隔もバラバラです。これだけ数が多いと、お参りするのも大変ですね。
百観音霊場の由来
西国三十三ケ所、板東三十三ケ所、秩父三十四ケ所、あわせて百の観音札所を巡礼して旅することは、江戸時代以前から今に至るまで盛んに行われて来ました。この百観音霊場は、明治天皇が崩御された時にその遺徳をしのぶため、草野栄照尼によって最初の観音像が建立されたことから始まりました。以後、多大な信望を受けて、続々と百観音霊場の御本尊の姿が刻まれ、現在は番外も増えて合計百七十四体になっています。この石像を一体づつ拝むことで日本中の観音霊場の御縁をいただくことができ観音慈悲の恵みを受けることができます。
沼袋商店街の入口付近に、今日はお休みのようですが、スジャータという名前のスリランカカレーのお店があります。ウォーキングガイドには店名しか載っていませんが、カレー通にはかなり名の知れたお店のようです。中野の逸品・グランプリ2009ではスジャータのポーク・カレーがグランプリを受賞したといいますから、相当な実力なのでしょう。30数年前にスリランカから来日し、東大で学んだ経済学の専門家のジョセフ氏は、実は伝統的なスリランカ・カレーの伝承者でもありました。英語教育者として多くの弟子を育てるかたわら、中野区にスリランカ・カレー店「スジャータ」をオープンしました。知る人ぞ知る本格的なスリランカ・カレーを食べさせる店として、多くの雑誌やマスコミにも登場しました。その味は深遠で哲学的でさえあり、ジョセフ氏のお母さんが調達するスパイスが決め手でした。そのスパイスを駆使して、一口食べると「幸福」になる味を作り上げたのです。猛烈に辛いにもかかわらず、なんとも幸せになる不思議なカレーで、ある食通が「麻薬が入っているのでは?」と評論したほどです。しかし、このスジャータ店はビルのオーナーの都合で2007年暮れに閉店し、多くのカレーファンを悲しめました。ところが、一人の若者がこの味に惚れ込んで復活を決意し、ジョセフ氏とともに沼袋でカウンターだけの小さなお店ですが、本格的なスリランカ・カレー店をオープンさせました。カレーのメニューは黒板に書いてる4種類のみです。
・スジャータカレー: 100%牛挽肉を使用
・ポークカレー: 煮込んだ豚バラ肉を使用
・チキンカレー: ピリリと旨辛い味
・ダルカレー: レンズ豆のカレー
どれもジョセフ氏のカレーの味を引き継いでいます。余談ですが、店名の「スジャータ」はジョセフ氏のお子様の名前らしいです。そういえば、ウイッキーさんもスリランカ出身でしたね。英語をネイティブの外国人から教わったのはウイッキーさんが最初でした。デキの悪い生徒に見えたことでしょう。
沼袋商店街が西武新宿線にぶつかる直前の路地裏に、ウォーキングガイドにも掲載されている「アビニヨン」というお菓子屋さんがあります。沼袋で40年続く老舗のお店で、素材を見極めて手間暇を惜しまずにひとつひとつ丁寧にすべて手作りされています。小さい店ですが、常時生ケーキ30種類・焼菓子50種類を揃えています。カヌレも売っているのかな?
手作り菓子アビニヨン
沼チョコ/王様ポテト
各国から取り寄せたこだわりのチョコレートを使い、アーモンドクリームが層になった「沼チョコ」やサツマイモの香り豊かな「王様ボテト」を味わってみては。
電話 03−3385−4336
中野区沼袋1−37−11
営業時間 9時〜19時30分
休業日 水曜日
沼袋駅のちょっと先に沼袋氷川神社があります。沼袋氷川神社は、正平年間(1346年〜1367年)の頃、武蔵国の一の宮である埼玉県さいたま市(旧大宮市)の氷川神社から須佐之男命の分霊を奉祀したことで始まりました。太田道灌の戦勝祈願成就の古社として知られ、境内には道灌ゆかりの「道灌杉」をはじめ、御神木として祀られている「三本願い松」や福の神が一堂に会した「中野七福神」、また3回撫でると安産のご利益があると伝わる「子育て狛犬」などがあり、多くの信仰を集めています。
境内には中野七福神が祀られています。いわゆる1ケ所七福神です。私も昨年のお正月に初詣で参拝しましたが、10mほど歩いただけで七福神詣でが終了しました。中野区には本格的な七福神巡りコースがないようで、ここで済ますしかなさそうです。
二の鳥居を潜った先に狛犬が参拝客を出迎えます。普通はいかつい格好をした狛犬ですが、沼袋氷川神社の狛犬は子育て中の姿で、全国的にも珍しいそうです。水天宮なら似合っているかも。
子育て狛犬
古くより《子育て狛犬》として親しまれており、3回なでるとお産が軽くなると言い伝えられ、戌の日には、安産をご祈願する参拝者が多く訪れます。江戸時代の名工・平田栄太郎郎・平田栄次郎(牛込原町)により、文久四年(1864年)に作られました。
境内の片隅に力石が並べて置かれています。栄養が十分でなかった江戸時代に、こんな巨石を持ち上げられたのでしょうか?
力石
力石は、昔、若者たちが力くらべに使ったものです。現代とは違い、娯楽が少なかった時代には、祭りの日、若者たちが大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納しました。刻まれている銘文から二拾五貫目(約93キログラム)〜四拾八貫目余(約180キログラム)までの石を持ち上げ、奉納したことがわかります。力くらべの行事は、娯楽の面だけではなく、力石の多くが神社の境内にあることからも、本来は神事儀礼であり、また、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた、当時の通過儀礼のひとつでもありました。
同じく境内の一画に植栽スペースがあり、松の木らしきものが植えられています。本来は越瓜が植えられるのでしょうけど、季節がまだなのでしょうか?ちなみに、越瓜は中国原産らしく、その名前は地名(越は現在の中国南部)から名づけられたそうです。キュウリを太くしたような形状をしていて、果肉は漬け物にされていました。奈良漬けの材料にも使われていたようです。
江戸・東京の農業 東京大越瓜
この地域は江戸時代から、昭和の初期にわたり越瓜(シロウリ)の特産地でした。旧武州田畑村付近(現在の北区田端)から、旧豊島郡野方村(現在の中野区野方・鷺宮地域)の東京区部の北西部一帯は、一部水田のほか広い武蔵野の畑作地帯でした。越瓜の畑は低地から台地まで広く適したので、夏の野菜として盛んに栽培されていました。江戸時代後半から明治にかけては、漬物というと越瓜に限られ、キュウリはかえりみられませんでした。越瓜には漬物用専用の小型で緑色のものと、漬物あるいは煮物用にも使われた長さ60cmにも及ぶ大型で淡緑色のものとがありましたが、この地方では大越瓜と呼ばれる後者のものが特産で、季節には農家の女性たちが庭先でウリを縦割りにして、ハマグリ貝でタネをかきだしていた情景が各所でみられたものです。大越瓜は奈良漬けとして有名ですが、当地域も宅地化と共に産地は他の地域に移っていきました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Tokyo Oshiro Uri (Melon cucumber)
This area was a production site of melon cucumber from 1800s to 1930s. It was widely cultivated from lowlands to highlands as a summer vegetable. The local people called it Oshiro Uri (big melon cucumber). In the harvest season, one could see here and there in the dooryard the farmer's women cutting melons into halves and scraping the seeds out with a clam shell. With subsequent urbanization, the production of this melon shifted over to other regions.
太田道灌にまつわる逸話は数多くありますが、境内の隅に聳えている道灌杉もそのひとつです。
道灌杉
当神社には、太田道灌が植えたといわれる道灌杉がありました。惜しくも昭和十九年(1944年)頃枯れてしまいましたが、当時の写真からは、高さが30メートルに達し、樹齢数百年にもなると思われるご神木の姿がしのばれます。文明九年(1477年)四月、対立関係にあった関東管領方の武将太田道灌と関東公方方の豊嶋泰経は、江古田と沼袋の地で戦闘を交えました(江古田原・沼袋合戦)。その際、道灌によって戦勝を祈願して植えられたのが、この道灌杉であると伝えられています。道灌はこの合戦に勝利し、豊嶋氏にかわって武蔵野の支配を確立しました。
「三本願い松」というので、三本の松の木があると思っていたのですが、しめ縄が巻かれているのは1本だけでした。後で知ったのですが、他の2本は境内の別の場所にあるのだそうです。気が付かないと御利益が1/3になりそうです。
三本願い松
古来より「悪しきことは スギ去れ、願い叶うをマツ」と杉の木に願いを掛けて、不運・災難から逃れ、松の木に幸福を願うと、必ず叶うと信じられて来ました。豊かな森がいつも身近にあった我々日本人には自然の恩恵や営み、特に木に宿る魂に対する謙虚な姿勢がありました。「三本願い松」に思いを託し、大神さまのお陰を戴き健康で豊かな日々をお過ごし下さいますよう祈念申し上げます。
神社の裏参道に続く門に鋼鉄製の真新しい鳥居が立っています。倒壊した鳥居がすぐさま再建されるなんて、さすが江戸時代に下沼袋村の鎮守社だったことはあります。
大鳥居再建記念碑
雲に聳ゆる高千穂の 高根颪に草も木も
靡き伏しけん大御代を 仰ぐ今日こそ楽しけれ
明治七年に制定され、国の誕生日を祝う「紀元節」の名の下に永い間親しまれ、年配者にあっては思い出深い歌である。この紀元節は、初代天皇の神武天皇が即位した日として、肇国(ちょうこく:新しく国家をたてること)を寿ぐ祝祭日と制定され、長期に亘って国民の間に定着してきたが、終戦後の昭和二十三年に祝祭日から外され廃止された。これを憂えた人達が紀元節復活運動を起こし、幾度かの法案の上程、審議を経て漸く昭和四十一年に「建国記念の日」と改称されて再び国の誕生を記念する祝祭日の登場を見る事が出来た。昭和四十二年二月十一日に、初めての「建国記念の日」を祝う各種の祝賀行事が全国的に繰り広げられ、当社も呼応して関係者一同議を重ね、裏参道に建国記念の日制定記念と銘打って石造大鳥居を建立した。爾来、多くの参拝者を迎え入れ、神域の佇まいの上に大きな役割を果たしてきたが、平成二十三年三月十一日の東日本大震災により、惜しくも倒壊の難に遭った。早速、大鳥居再建の気運が内外より盛り上がり、併せて境内耐震・整備事業推進の名の下に募金活動を展開し、多くの募財の献納を受け、翌年五月七日待望の鋼鉄製大鳥居を威容高々と再建する事が出来た。誠に有難く、感謝の限りに存じます。ここに当初の募金要項に従い、奉賛者名及び奉賛金別の件数を掲げ後世に亘りその徳を顕彰いたします。
沼袋氷川神社を後にして中野通りを南下し、新井五差路に面した北野神社に立ち寄ります。北野神社は菅原道真を祀っています。鳥居の脇には「撫で牛」の像が寛いでいます。撫で牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという俗信です。この信仰はまじないの手法のひとつである「撫物」に由来しています。撫で牛は、病気平癒のみならず、諸願成就にも効力があるとされ、開運を信じて常に牛の身体をなでていれば、出世はもとより万事願いがかない、みずから思いもよらない幸運に恵まれることさえあるといわれます。牛は菅原道真公の「おつかい」と考えられています。菅原道真公を祭神とする神社では牛が聖獣とされ、境内に臥した牛の像が安置されていることが多いです。また撫で牛には、農耕神や雷神として祀られてきた天神が道真の御霊と結びつき、その一方で農耕のなかで大切にされ、天の祟りを祓う獣でもあった牛と天神信仰とが結びついたことにより、牛が天神の使いと考えられるようになったと思われます。
北野神社にも力石があります。というか、大抵の神社にはあるのですけど。
力石
この石碑の周囲にめぐらされている十三個の大きな石は「力石」といって、昔、若者たちが力くらべに使ったものです。今日とは違い、娯楽の少なかった時代には、神社の祭礼は人びとの最大の楽しみでした。祭りの日、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納したものです。刻まれている銘文からは、新井村や上高田村から集まった若者たちが、三十八貫目余(約143.5キログラム)〜七十貫(262.5キログラム)までの石を持ち上げ、奉納したことがわかります。力石の行事は、娯楽の面だけではなく、その多くが神社の境内にあることからも、本来は神事儀礼であり、また、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた、当時の通過儀礼のひとつでもありました。
境内の端っこに合祀された稲荷社があります。各地を転々として、北野神社に安住の地を見つけたようです。
合祀社 寶樹稲荷社由来
江戸時代後期の文化十四年(1817年)に板倉勝政氏により市ヶ谷の庭内に守護神として鎮守されたのが始まりである。平成ニ十七年十月、矯正研修所施設移転にともない、北野神社境内社・稲荷神社に合祀され現在に至る。尚、本殿の寶樹稲荷社・社号碑(背面由来書き有)は前鎮守地境内にあったものを当地に移設したものである。
由来書
この寶樹稲荷社は 江戸末期 文化十四年(西暦1817年)に 板倉勝政が 現在の東京都新宿区市ケ谷住吉町に構えた屋敷内の 鎮守神として祀ったものである 明治八年 同地に市ヶ谷囚獄(後の市ヶ谷監獄)が設置されて引継がれ 大正四年 同監獄が豊多摩監獄(後の中野刑務所)と改称され この地に移転するとともに遷座し 昭和五十八年 中野刑務所が廃庁になるまでの間 同所職員会等によって引続き祭祀を行い その後 中野友の会会員など多くの奉賛者に護持され 今日に至っている 稲荷社屋根葺替工事完成を機会に 久しくその由来を伝承し 万物の安泰と弥栄を祈願するものである
中野駅北口に戻ってきました。今日も良い天気でお散歩を楽しめました。
ということで、「@中野駅〜哲学堂公園周遊コース(薬師あいロード経由)」を歩き終えました。今日は後続の「A哲学堂公園周遊コース」も併せて歩いたので、結構充実した歩きが楽しめました。この後は暫く中野区の南側のコースを歩きます。
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