A哲学堂公園周遊コース  

コース 踏破記  

今日は中野区の哲学堂公園周遊コースを歩きます。哲学堂公園の正門である哲学門をスタート地点として、哲学堂公園を半周し、哲学の奥深い雰囲気に浸ります。  

哲学堂公園周遊コース

哲学堂公園周遊コースの歩行距離は約860m(約1,230歩)、歩行時間は13分、消費カロリーは約39kcalです。

スタート地点:哲学堂公園哲学門
↓ (約860m:約13.0分)
ゴール地点:哲学堂公園絶対城


「中野駅〜哲学堂公園周遊コース(薬師あいロード経由)」の歩きを中断し、「哲学堂公園周遊コース」のスタート地点である哲学門に移動します。ここは俗世界と真理界の境界となる地点です。

哲学堂七十七場1 眞理界(左柱)・哲學關(右柱)

本園開設当時の門柱であって、これより境内に進むことにより、哲学的に宇宙の真理を味わい、かつ、人生の妙趣を楽しむ所であることを標示している。




門の脇に哲学堂公園の由来を記した案内板が立っています。この門がコースのスタート地点となりますので、哲学門を通って真理界に足を踏み入れます。

哲学堂公園

哲学堂公園は、哲学館大学(現東洋大学)創始者である井上円了が、文部省より大学公称の許可を得たのを記念し四聖堂を建立(明治三十七年)したことに始まります。その後、自らの退隱所及び一般人に対する「精神修養的公園」として私費を投じて整備しました。台地部分の広い範囲は「時空岡」と称する中心広場とし、四聖堂などの主要施設を設けています。南側低地部に「唯物園」と「唯心庭」を配し、道筋には「経験坂」や「二元衢」などの思考状況を示す場所を設定しています。舌状台地先端の立地と崖、川や泉の自然地形を利用し、哲学的空間・概念を巧に配した特異な公園です。四聖堂や六賢台、宇宙館などの建物は、并上円了の哲学的思想と奇抜な意匠により、哲学堂公園の代表的な建造物となっています。井上円了の死後は財団による管理を経て、昭和十九年(1944年)に東京都へ寄付されました。昭和二十一年(1946年)に「哲学堂公園」として開園、その後中野区へ移管され、現在の「中野区立哲学堂公園」になりました。

Tetsugakudo Koen (Philosophy Hall Park)

The history of Philosophy Hall Park (Tetsugakudo Koen) started with the construction of a sanctuary called Shiseido (Philosophy Hall of Four Sages) in 1904 by a philosopher Inoue Enryo, who was the founder of Tetsugakukan University (the predecessor of Toyo University). He constructed the hall to commemorate obtaining a license for establishment of his university from the Ministry of Education. Later he created the park with his own expense to provide for public as a place for "Mental Training based on Philosophy". The most part on the terrace in this park is the main space called "Jikuko", which expresses philosophical time and space. Main facilities such as "Shiseido" are built there. In the southern lower land, philosophical spaces called "Yuibutsu-en" and "Yuishin-tei" are arranged. Along the trail, it is arranged the "Keiken-zaka" slope and "Nigenku" space that indicate philosophical thought. This is a specific park that is located at the edge of a tongue-shaped plateau, and used the natural geographical features such as cliff, river and spring with philosophical concept. "Shiseido", "Rokukemdai" and "Uchu-kan" are representative buildings in this park that Inoue's philosophical thought and original idea are well reflected on them. After his death, the park has been managed by the foundation and in 1944 it was donated to Tokyo Metropolitan Government. It opened as Philosophy Hall Park in 1946. After the jurisdiction was moved to Nakano Ward, the park was called Nakano Ward Philosophy Hall Park.




管理事務所の前を通り、常識門に向います。折角真理界に入ったのに、常識を取り戻しそうです。

哲学堂七十七場6 常識門

正門の哲理門に対して普通の出入口の意味で与えられた名称である。




常識門の脇に「一元牆」の石柱が立っています。一元牆の一元とは「全ての物事の根源がただ一つである」という意味です。円了はそれを「真理」と考えました。円了は迷信や偏見に満ちた多元(物事の根源がたくさんある)的な俗世界と、真理を探究する哲学世界を隔てるものとして、一元牆を置きました。

哲学堂七十七場5 一元牆

この垣根によって世間の多元的見解と哲学の一元的見解の境界としている。




休息所(四阿と言うらしい)の前の生け垣の中に奇妙なオブジェがふたつ並んで置かれています。哲学堂公園では非常識が常識なのです。

宇宙館の鳥帽子瓦 (二代目)

初代の鳥帽子瓦が一部破損していたため、平成四年〜五年(〜1993年)に行われた哲学堂ルネッサンス整備事業時に、ここにある二代目の鳥帽子瓦が代替として設置されていました。平成二十一年に、哲学堂公園文化財庭園部分が東京都名勝指定された折に、古建築物等の修復を行うための検討が行われ、本来の形状に復元すべきとの提言を受けて、現在の宇宙館の鳥帽子瓦(三代目)と交換されました。現在は暫定で保管されており、今後初代鳥帽子瓦とともに無尽蔵で展示する予定です。

四聖堂の宝珠(二代目)

初代の宝珠が一部破損していたため、平成四年〜五年(〜1993年)に行われた哲学堂ルネッサンス整備事業時に、二代目の宝珠として設置されました。平成二十一年(2009年)に、 哲学堂公園文化財庭園部分が東京都名勝指定された折に、古建築物等の修復を行うための検討が行われ、本来の形状に復元すべきとの提言を受けて、現在の四聖堂の宝珠 (三代目)と交換されました。



左側の写真は匹聖堂の宝珠、右側の写真は宇宙館の鳥帽子瓦です。


ぐるっと回って哲学堂公園の中心になっている広場(時空岡)に着きます。ここは四聖堂を中心にして、主要な建物が周囲を取り囲んでいます。

哲学堂七十七場14 四聖堂

本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの世界的四哲人を奉祀している。




公園内には幾つかの門がありますが、この門は妖怪門と呼ばれているのだそうです。哲学の世界もいよいよ妖怪の域に達したということなのでしょうか?この地にあった天狗松と幽霊梅に因んでいるとはちょっとこじつけが過ぎるような。

哲学堂七十七場4 哲理門(妖怪門)

本堂の正門に当り左右の天狗と幽霊は、もと、この地に天狗松と幽霊梅があったことにちなむとともに、前者を物質界、後者を精神界に存する不可解の象徴とみなしたものである。




哲理門についての手書きの案内板もあります。この門は四聖堂の正面にあるので、本来は正門の哲学門からこの哲理門を通って諸施設を巡るのが正しいルートなのでしょう。

哲理門 明治四十二年(1909年)11月築

哲学堂の本堂である「四聖堂」の正面にあたる門で、「妖怪門」とも呼ばれている。門の両側には、仁王尊の代わりに左右それぞれ「幽霊」と「天狗」の木彫を納めている。木彫の写真は無尽蔵2階に展示している。また、軒瓦に使用されている(◯で囲んだ)”哲”瓦は絶対城1階に展示している。




通常であれば門の左右には、阿形と吽形が対になった金剛力士像が置かれるのですが、哲学の世界では天狗像と幽霊像でも問題ないようです。

哲理門の天狗像・幽霊像について

哲理門の中に存置されていた天狗像・幽霊像は経年による破損・劣化が著しいため、平成三十年度の哲理門の修復に併せて修復及びレプリカの製作を行いました。
  • オリジナルの像は修復後、劣化防止の為、歴史民俗資料館で保管しています。
  • 現在存置されているものはレプリカになります。レプリカは、当時の古写真、およびオリジナルの像に残っていた塗料の分析結果を元に、創設当初の色を再現しています。




怖々と網戸越しに天狗像と幽霊像を眺めてみます。表情が感じられない幽霊像が不気味ですね。なんか夢に出てきそう。



「哲学堂公園」の案内板は何カ所かに立てられていますが、この説明文は井上円了の考えをまとめたものとして分りやすいです。数学が科学を学ぶ上での基礎になるのと同じように、哲学は世の中を生きていくのに欠かせない論理的な思考を育成するのに役立つのでしょう。

哲学堂公園(国名勝)

哲学堂公園は井上円了(1858年〜1919年)が、その独特な哲学思想をもとに、全財産を投じてつくった社会教育のための公園です。円了は「諸学の基礎は哲学にあり」とし哲学堂公園を開きました。それは、様々な理由で教育を受けられない「余資なく、優暇なき者」老若男女誰でもが学べる場、すなわち「精神修養的公園」と考えました。ここで目指したのは、多様な価値観を理解し、先入観・偏見にとらわれない、論理的・体系的に深く考える人間の育成でした。その方法とは「問う」ことであり「真理の追求」だったのです。そして、このような素養に満ちた人々による、社会の実現が円了の願いでした。哲学堂公園は、現代にも通じる円了の思想を物語る歴史的遺産です。




哲理門の近くに硯塚があります。「硯は考える石である」!

哲学堂七十七場74 硯塚

井上博士が全国巡遊中、求められて各地で揮毫した際に用いた硯を供養した記念碑で、筆塚とともに貴重なものである。




哲学堂公園には硯塚だけではなく、筆塚(後述)もあります。硯と筆はどちらが欠けても役に立ちませんからね。

硯塚と筆塚

哲学堂(公園)は、井上円了が全国巡講の際に各地で行った揮毫(依頼に応じて書をかくこと)により得た謝礼を基金として建設されました。硯塚【すずりづか】は、哲学堂の完成を記念し、建設を支援してくれた人々の厚志に対する謝意と、揮毫に用いた硯供養のためのモニュメントとして大正七年3月に建立されました。硯塚は、六賢台の裏手におかれている筆塚(大正四年1月建立)に対立するものとして位置づけられています。




巨大な硯塚の表面には碑文が刻まれています。さすがに直ぐ消えてしまいますので、筆では書かなかったみたいですね。碑文のなかの”〈〉”はどういう意味なんでしょうか?

硯塚の碑文@

園内には既に筆塚がある。どうして硯をモチーフにした塚のないことが許されるだろうか。諸々の人が「筆が男であれば、硯が女である。」・「筆が夫であれば、硯は妻である。」と喩えている。二つのものは互いに頼りにし合って字を生み出し、文を育み、哲学が完成した。私はだからこれらの媒酌をするのである。これが硯塚を築く理由である。

硯塚の碑文A

哲学正気歌
宇宙の霊妙なる気が活々としている幽明を塞ぐ。玄冥(闇のような黒さ)にして色があり、寂静にして声あり。日星はこれによって現われ、国土はこれによって成る。濁りを山川の質となして、清きを草木の生となす。生の中に神機を帯び、分かれて禽獣の情けと成る。情の中に霊性を含み、凝って人心の精と成る。天地は元めー体(一つで分かれていなかったの意)にして、万物もまた同根なり。動植〈物〉すでに別なく、人獣あに源異ならんや。親子として日に地を与え、兄弟として人に猿を与う。物心相照応し、故に心に乾坤を見る。天人相感合して、故に天生魂を動かす。宇内に万類在るも、人実に最尊と為す。その心大きく窺い難く、故に天生魂を動かす。宇内に万類在るも、人実に最尊と為す。その心大きく窺い難く、その知深く測り難し。方寸中に住するといえども、及んで六合の極(端っこの意)を照らす。或いは極微の際に入り、或いは絶対の域を進む。古今上下を貫き、東西南北を包む。明則は幽界を顕わし、暗則は白日を黒くする。その玄妙を究めんと欲すば、これ哲学職と成す。哲海の航路を開けば、三千星霜を移り、希臘(ギリシア)は古代に震え、独英は近時に鳴く。経験は独断を与え、論壇に雄雌を競う。唯心は唯物を与え、学林に本支を争う。爛〈漫〉たること春花乱れるが如く、鬱〈蒼〉たること夏雲滋が如し。真理の岸は猶お遠くとも、何日か大疑を決せん。漢に老荘の学在り、儒を与え供に天を説く。〈天〉竺に数〈論〉勝論在り。仏を与え同じく玄を談ずる。甲論乙駁しても、疑団猶依然たり、茫々たる哲学海に去来する路万千。迷雲査として認め難く、彼岸は何辺に在るや。帰来して自己を窺い、心天の性を月に懸ける。清影は虚窓を人にし、霊光は空谷を照らす。時に浮震の遮る有り、風が払い忽ちまた復す。麈隙に浄土を開き、毛孔に天禄を蔵す。死生に定めが有ることを知り、栄辱何ぞ須らく逐す(追い込う)べし。この無字書を披らき、清夜に心を傾けて読めば、理性は幽香を放ち、満身自から馥郁とする。




私は今までにいろんな形の屋根を見ましたが、三角屋根に出会ったのは初めてです。テントならあり得るでしょうけど、瓦を葺いた屋根ですからね。三角形の頂点に柱があるので、雨宿りには不向きなんじゃないでしょうか?

哲学堂七十七場73 三學亭

我国古来の神、儒、三道の中、最も著述の多い平田篤胤、林羅山、釈擬然の三碩学の石額を奉崇してある。




公園内は哲学の世界ですから、雨宿りなど実用性は関係ないようです。

三角尽くしの三学亭

世界的な四聖堂、東洋的な六賢台に対して、日本的な三学亭があります。ここでは日本的な三道(神道・仏教・儒教)の研究家として、最も著述が多い平田篤胤(神道)、釈凝念(仏教)、林羅山(儒教) が称えられています。円了曰く、「三学は三角と音相通じることから三角の意匠を用いた」としている通り、徹底した三角尽くしとなっています。三学亭は三角形の小山に建てられた三角形の屋根をもつ三本柱のあずまやで、斜面の三方に階段が設けられています。中央部にはフックが設置されており、かつては「神・儒・仏」という文字が彫られた三角形の石造物が吊されていました(石造物は、現在、無尽蔵において保管されています)。




哲学が宇宙の真理を研究する学問とはまたスケールが大きいですね。どうせならロケットの形をした建物にすればよかったのに。

哲学堂七十七場71 宇宙館

哲学とは宇宙の真理を研究する学問であって、その講話または講習を開かんがために設けられた講義室である。




よくよく見ると宇宙館の扉は平面でなく、尖っていますね。ふたつの「聯」それぞれに対応した扉ということでしょうか?

宇宙館入口に掲げられている聯(れん)

宇宙館は哲学上の講話や講習会を開催するための講義室です。宇宙館内の四角の室の中には横斜する一室「皇国殿」があり、世界万国の中の最も美なる日本を表現しています。

(原文)
宇宙万類中人類為最尊
世界万国内皇国為最美

(訳文)
宇宙万類の中、人類をもっとも尊しとなす
世界万国の内、皇国をもっとも美しとなす




皇国殿は「横斜」しているとのことですが、横斜ってイメージできませんね。

哲学堂七十七場72 皇國殿

本館(宇宙館)内部に横斜して位置する特殊構造の一室であり、国家社会の原理を講究する哲学堂として本殿が設けられたものである。




広場の一角に銅のプレートを貼った井上円了の案内板が置かれています。お寺に生れたということが、井上円了の哲学思想に宗教的な影響を与えたのではないかと思います。

心を養う公園

日本が世界へと開けゆく幕末に 井上円了先生は新潟県下の寺院に生れました やがて明治となり 東京大学文学部哲学科に学び 変わりゆく時代のなかで 世界・宇宙・人間を見つめる新しい心の必要を感じました その思いから明治二十年に東洋大学の起源である「哲学館」を設立して 教育によって新しい考えを創り出す人を育てようとしました さらに 全国の半数以上に及ぶそれぞれの市町村にまで身を運び 世界と心のあり方を説き続けました 全国巡回講演というこの壮大な事業における謝礼と人々の寄付のすべてを注いでこの公園を建設しました 先生は公共の利用を志し 人々の心を養う場として ここを「哲学堂」と名づけました 先生の没後八十年を記念して ここにその願いを記します




朱塗り・三層六角形のこの建物は、哲学堂公園のシンボル的な建物です。東洋の六賢人として、中国から道教の代表者として荘子、朱子学の創始者である朱子、印度から仏教を体系化した龍樹、バラモン教の数論哲学の開祖である迦比羅仙、日本から仏教の普及に寄与した聖徳太子、中世の学識者として菅原道真が記られています。かつては最上階の天井の六面に六賢の肖像を描いた局額が掛けられ、その中心の各面に六賢の名前が刻まれた小鐘が吊るされていましたが、扇額はいま無尽蔵で展示されています。その他、井上円了が全国や海外で蒐集した品物(石器・陶器)や数百種にのぼる寺社仏閣の守り札などが飾られていました(現在は、写真が展示されています)。また、屋根の中央には相輪と九つの法輪があり、最上部に宝珠を付け、屋根の棟瓦の一端には近接してあった天狗松に因んで、火伏せのための「天狗」の瓦がついています。

哲学堂七十七場17 六賢臺

ここに東洋的六賢人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っている。




六賢臺の近くに天狗松の案内板があります。高さが八間ということは、メートル法では14.5mということですね。天を衝く程の樹高とまではいかなかったようです。でも周りに何もなかったので、その高さが目立ったのかも。

哲学堂七十七場12 天狗松

和田山や一本高し天狗松
伝説によれば、昔、往民がこの松を伐ろうとする度に天狗が邪魔して果たせなかったといい、樹齢約二百年・高さ八間・周囲七尺五寸に及び、昭和八年枯死した。




六賢臺の脇から妙正寺川方向に急な階段を下っていきます。その途中に階段状の小さなスペースがあり、三賢人の石碑が立っています。石碑の前に煉瓦の段がありますので、そこに腰を掛けて瞑想、いやスマホをいじる若者もいるみたいです。哲学よりLINEですかね。時代は変わったものです。

哲学堂七十七場23 三祖(原文では、示部の漢字を使用)苑

三祖碑には、中国の黄帝・印度の足目・ギリシャのターレスの三人が刻まれている。

多礼須(タレス)

むかし、ギリシアに七賢人があり、多礼須がその一番最初の位に居て、西暦紀元前七世紀の人である。早くから数学を究め並行して星学(天文学)を修めた。当時の神話を破り物理原則に依ることを進めて、天地の太初にさかのぼって、最終的には原初存在を水とした。世界の真、森羅万象の元、皆水より生ずと言った。これより後、諸家が輩出して甲論乙駁して遂に西洋哲学の大観(大きな学問)を成した。よって始めて開く、その取っ掛かりが、即ちタレスその人である。

足目仙人(アクシャ・パーダ)

足目はインドの昔の仙人である。その年代は不詳。或いはいう、今の宇宙の始まりに大梵天主がこの仙人を作り上げたと、或いはいう、その人とは即ち帝釈天であると、両説とも荒唐無稽で、信じることはできない。まさにこの仙人は遠く釈迦以前にあって、始めて因明(物事の正邪を見極める論理)の法を説き、九句(正邪の判断基準9種類)のおおもとを立て、十四過(論理立ての過ち14種類)の類に及ぶ。これらを論理の物差しとする。それ以来、諸学派は皆、これに従って論争の邪正の是非を判断するそうである。故に今、アクシャ・パーダを印度哲学の鼻祖にすることを推すのである。

黄帝

伝えられて言うところには、黄帝は有熊氏で名は軒轅である。霊長の神であって、聡明で、五気を察し、五運を立てる。天地の決まりごとに従順で、幽明の占めるところを決定する。又、言うところには、黄帝が岐伯に与えたものは、上には天の規則を究めて、下には地の道理を極め、遠くは諸物を取得し、近くは諸身を取得する。さらに互いに問うことが難しいことには、大経を作った。よって、中国哲学が発する源となり、これよりその後、歴史は千年以上百家が競って立ち上がり、あるものは栄え、あるものは衰えて、今日に至るので、黄帝は、実にその先祖で始まりとなったのである。




急な階段を下りたところに筆塚が立っています。硯塚はまんまの形でしたが、筆塚も同様ですね。日本橋川に架かる俎橋の先に寿人遊星という寿老人みたいな像がありましたが、筆の穂先の形が寿老人の頭の形に似てますね。

哲学堂七十七場18 筆塚

字をかきて 恥をかくのも 今暫し
哲学堂の出来上るまで
哲学堂は井上圓了博士が全国巡遊中求められて各所で揮毫した際の謝礼を基金として開設されたのであるが、その謝意を含め、かつ、その筆供養のための記念碑として造られたのがこの筆塚である。

筆塚の碑文

余哲学堂を建設し人をして身心修養させしめんと欲し、筆を荷し諸州を遊歴し、もとめに応じ毫を揮い、その謝報を積みこの資に充つ、大半既に成り、ここにおいて筆塚を築きもってその由を記していう




哲学という学問は、「哲学とは何ぞや?」を追求するらしく、凡人にはなかなか理解しがたいものです。「光輝ある霊性」は極めて抽象的な概念ですが、「腹中に燈籠」となると急に現実界に戻されます。それにしても、人間の心情が狸と同じとは。。。確かにナントカのタヌキと言われる人はいますけどね。

哲学堂七十七場34 狸燈(りとう)

人間の心情には狸に類するものがあり、しかも、時には光輝ある霊性を発することもあるとして腹中に燈籠を仕込んである。




哲学堂の中は自然の山を思いおこさせます。起伏のある地形に池や階段が配置され、緑が豊かなので昼なお暗いというところもあります。小さな池(心字池と言うらしい)の岸辺に奇妙な石像が立っています。人の心中に宿る鬼を具現化したものだそうです。狸は腹の中に燈籠が入っていましたが、この鬼像は頭に燈籠を載せていたのだそうです。「。。。いた」というのは造られた当時のことで、今は頭の上にあった燈籠は欠けています。なんか窮屈な格好をしているなと思ったら、そういう事情があったんですね。

哲学堂七十七場47 鬼燈

唯物園の狸燈に対した燈籠で、人の心中に宿る鬼にも良心の光明は存することを示(?)している。



右の写真は灯篭をのせていた頃の鬼燈です。


四村橋に近い出入口手前に瓢箪の形をした池があります。池畔に菖蒲が植えられていて、菖蒲池と呼ばれています。池には鯉や亀がいて、カルガモの姿も見られます。池の北側の斜面上に循環水による滝があり、水はせせらぎとなって流れ下りって池に注いでいます。哲学の瞑想に疲れた脳にはオアシスのような存在です。



ゴール地点の絶対城を目指して高台に続く坂を上ります。坂の途中にキノコならぬ哲学の傘が立っています。屋根はありますが、腰掛けるところはありませんね。腰掛けると気が散るので、立ったまま深く内省しろということのようです。帰納場は見落としたみたいですが、この傘は演繹観のようです。

哲学堂七十七場54 演繹觀(傘型亭)

論理に達する参観者は、ここで小憩してよろしく内省し、よく道理にあてはめて断定するようにされたい。

哲学堂七十七場55 帰納場と演繹觀

帰納場【きのうじょう】は、絶対城の裏手につくられた三本脚の休憩台で、現在は周囲に木々が茂り視界が遮られていますが、かつては外に向かって眺望が開けていました。帰納場の帰納とは「論より証拠を先にする」という考え方で、帰納場は“広く目を外界に向けて事実を集めて論立すること”を体現しています。帰納場に対立するものとして演繹観【えんえきかん】があります。演繹とは「証拠より論を先にする」という考え方で、演繹観は“心の中で自分の道理(正論)にあてはめて物事を判断すること”を体現するものとして、唯心庭に近い場所に傘形の小亭としてつくられています。




ゴール地点の絶対城に辿り着きました。万巻の書を哲学界の万象とみたて、それを読み尽くせば「絶対の妙境」に到達できるという道理を示して、図書館機能を有する建物を絶対城と名づけました。当初より円了の蔵書を中心とした書籍を公開する図書館として設置され、1階右側の書棚に国書・漢書を、左側に仏書を収蔵していましたが、現在では蔵書が他所で保管されているために図書館本来の目的は果たさず今日に至っています。2階には観念脚と呼ばれる閲覧室があり、天窓からの光を受ける位置に畳が敷かれ、落ち着いた雰囲気を持つ空間となっています。また、婦人専用の閲覧室も設けられています。屋上には、読書後の休憩場所として観察境(観望台)が置かれ、かつては富士山を望遠することができたようですが、現在は一般公開されていません。

哲学堂七十七場62 絶對城(図書館)

万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する道程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。




絶対城の入口脇に、ふたりの唐子(中国風の髪形や服装をした子供)が石碑を抱えています。

哲学堂七十七場66 記念碑(きねんひ)

「絶対城」の入口脇にある記念碑は、二人の唐子が、「哲学堂図書館記」と刻まれた石板を、両側から支えている姿が愛らしい碑です。「絶対城は大正四年11月、御大典記念(大正天皇の即位礼記念)として開設したため、これを永く忘れないようにするため」に建てた、としています。

哲学堂図書館記

大正四年十一月の国家を挙げての大典の余波が各地に広がって、その喜びに沸き立っている。哲学堂図書館もまた姿を現した。ここに初めて甫水(井上円了の雅号)井上博士が遊息の園を設けんと欲して他の場所と引き比べながら和田山を見て、その景勝を嘆じて言うには、「今、足りないものは心身を養うことであろうか。」と。そのために、築堂した。中央に、孔子・釈迦・瑣克刺底・韓図を祀る四聖堂、聖徳太子・菅公・荘子・朱子・龍樹大士・迦比羅仙を祀る六賢台、平田篤胤・林羅山・釈凝然を祀る三学亭を。篤胤は神道から選び、羅山は儒道から選び、凝然は仏道から選んだものである。その庭を唯心庭、其の園を唯物園と命名した。すべてのところに名をつけた。他人が言うところによると、哲学堂はここに至って、和漢の旧籍およそ六千七百九十二種四万一千五百八十五巻二万一千百九十三冊を所蔵する高くそびえる図書館を完成させたそうだ。降盛であると言うべきである。その道には古今の教えに変わりなく、東西の違いだけがある。博士の志は、東西の文明を合体させて拡充することにある。この道於世界のさまざまなところを見て回り既に東西の両洋に足跡を極めていて、世界のほとんどにあまねく訪れている。今なお国内を歩き回り、風を食べ屋外で寝て、このように民を導いて、まったく休息することはない。そして、標そのすばらしい活動を示すものが、哲学堂である。よって、予め併記して書き入れた。この図書館にはそんな感動が呼び起こされるれるところなのである。




哲学堂公園の主要な建物の中で、「無尽蔵」を見落としたようです。

無盡藏

無尽蔵は、井上円了が22年間に行った3回の世界旅行と、30年、5,291回、130万人におよぶ人々に行った全国巡講したおりに蒐集した各地の品々を展示している建物で、博物館の機能を担っています。1階は[万象]、2階は[向上捜]と名づけられています。現在は、六賢人の肖像画や、蒐集品の一部が収蔵・展示されていますが、多くは、中野区歴史民俗資料館や東洋大学井上円了記念博物館に所蔵・展示されています。また、一時期、2階には井上円了の書斎が設けられ、研究活動や講演活動を行っていました。


いんやぁ、哲学の世界の漢字は難しい。視覚的には見てとれるのですが、それを漢字で入力できないことが多々ありました。ネットの漢字検索にはお世話になりましたが、目が潰れそうです。気を取り直して「中野駅〜哲学堂公園周遊コース(薬師あいロード経由)」の歩きに戻ります。




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