- B中野四季の森公園〜中部スポーツ・コミュニティプラザコース
- コース 踏破記
- 今日は中野区の中野四季の森公園〜中部スポーツ・コミュニティプラザコースを歩きます。中野四季の森公園をスタート地点として、中野犬屋敷跡・紅葉山公園・桃園川緑道などを巡ります。
中野四季の森公園〜中部スポーツ・コミュニティプラザコース
中野四季の森公園〜中部スポーツ・コミュニティプラザコースの歩行距離は約2.1km(約3,000歩)、歩行時間は32分、消費カロリーは約96kcalです。
スタート地点:中野四季の森公園
↓ (約0.8km:約12.0分)
@中野区医師会
↓ (約0.3km:約 5.0分)
A中野区保健所
↓ (約0.3km:約 5.0分)
B紅葉山公園
↓ (約0.3km:約 5.0分)
C桃園川緑道
↓ (約0.4km:約 6.0分)
ゴール地点:中部スポーツ・コミュニティプラザ
スタート地点の中野四季の森公園から歩き始めます。中野四季の森公園は、中野四丁目にあった警察大学校等の跡地を再開発した約16.8ヘクタールにも及ぶ「中野四季の都市」(「なかの新都心」などと呼ばれることもあります)の敷地の中央部にできた防災機能を備えた公園で、その面積は約1.5haあります。中野四季の都市の敷地内には、オフィスビルや早稲田大学・明治大学・帝京平成大学のキャンパス、それに東京警察病院などもあり、中央に位置する中野四季の森公園はオフィスビルで働く人や大学キャンパスの学生など多くの人に利用され、中野にぎわいフェスタなどの大型イベントも催されています。この地は、江戸時代に生類憐れみの令で有名な五代将軍徳川綱吉が設けた野犬保護施設である「お囲い犬屋敷」がありました。中野四丁目の旧名「囲町」はこれに由来しています。この屋敷の広さは、現在の中野区役所付近を中心として、中野四季の都市を含めた約30万坪もの土地になり、生類憐れみの令で殺生が禁じられた野犬の保護が行われていました。この施設は元禄八年(1695年)から綱吉の死去によって宝永六年(1709年)に廃止されるまで続きました。その後徳川吉宗の時代になるとお囲い跡の一部に桃の木が植えられ、「桃園」という名前で江戸市民に親しまれたといいます。明治時代になると、中野四季の都市のある一帯は陸軍の施設が置かれました。一帯には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治三十年(1897年)に置かれ、後に交通兵団司令部も置かれました。その後、鉄道隊・気球隊が千葉県に移り、ここには第一電信連隊と称する電信隊のみが置かれました。昭和十四年(1939年)には、陸軍中野学校が移転・開設されました。戦後、跡地には警察大学校と警視庁警察学校が置かれ、平成十三年(2001年)まで使われました。警察学校などが府中市に移転した後、跡地の再開発がなされ、中野四季の都市が誕生しました。中野四季の森公園を含む中野セントラルパーク地区には、2棟の高層オフィスビルが建ち、キリンホールディングス本社が移転してきて話題になりました。
中野区役所の敷地の奥に、中野犬屋敷跡のモニュメントが展示されています。全部で10万頭も収容されていたといいますから、この親子のように繁殖するスピードも半端なかったことでしょう。
モニュメントの隣りに石碑が置いてあります。横にライオンの象があったので、犬と一緒に収容されていたのかと思いましたら、このモニュメントがライオンズクラブの寄贈によるものだからだそうです。紛らわしいですね。
かこい
この付近一帯は、徳川五代将軍綱吉の時代(元禄八年:1695年)に作られた、「犬屋敷」があったところです。犬の像は、その歴史を語り伝えようと、東京セントラルライオンズクラブが寄贈したものです。
その脇に、犬屋敷の顛末を記した案内板と、中野区の歴史と区役所庁舎建設の経緯を述べた記念碑があります。
犬一頭に年間1両をかけたとのことですが、江戸時代の1両の価値は現在の物価水準でいうと約13万円に相当するそうなので、年間の飼育費は10万両x13万円=130億円?
中野の犬屋敷
犬屋敷は、五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設で、犬を囲って飼育したことから「お囲い御用屋敷」ともいいました。中野四丁目あたりの旧町名「囲町」はこれに由来します。綱吉は「生類憐みの令」によって殺生を禁じ、特に犬の保護策を強行して、江戸郊外の中野に最も大規模な犬屋敷を造らせ、支配役以下多数の役人や医者を置いて、野犬の飼育にあたらせました。犬屋敷は元禄八年(1695年)末に収容を開始し、綱吉の死去により宝永六年(1709年)に廃止されるまで、十五年間存続しました。敷地は現在の区役所を中心にJR中央線をはさんで約三十万坪(百ヘクタール)に及び、五つのお囲には、各数百棟の犬小屋・餌場・日除場・子犬養育場があって、最盛期には十万頭以上、飼育費は年額九万八千両以上に達しました。その後、幕府は方針を変えて、めす犬の収容を主体とし、他は近在の農家に養育料をつけて預けることにしました。犬屋敷の莫大な費用は、江戸の商家や天領の農民たちの負担で賄われました。
記念碑の揮毫者は、都の文化財専門委員の方だそうです。
史跡
古来中野の地は武蔵野の中央に位する意と新編武蔵風土記稿に述べられ、應永年間(1400年)に紀州の人鈴木九郎正蓮がこの地を拓き、文明九年(1477年)四月には大田道灌が江古田原に豊島氏と戦い、これを破って江戸築城の基を開いた。永禄年間(1560年)の小田原衆所領役帳には、中野内正歓寺、阿佐ヶ谷、大場などの地名があり、本郷・雑色・江古田等を包含した今日の中野区の先駆が既に見られる。この地は江戸初期より将軍・大名の鷹狩の地として著名であり、元禄八年(1695年)には五代将軍綱吉が「生類憐み令」を出して犬小屋を設け多数の犬を飼育し、次いで享保二十年(1736年)八代将軍吉宗は、この地の景勝を賞して桃園を経営せしめ、御立場、大名山等を設けて江戸士民遊歩の處とした。降って明治二十九年(1896年)に中野電信隊、気球隊が創設され、次いで陸軍中野学校が設置せられた。特に電信隊は永く存して我国電信技術の発達に貢献する処大であった。昭和二十年八月十五日(1945年)第二次世界大戦の終結に伴い、一時進駐軍の駐留するところとなり、これが撤収の後、警察大学校の設立ありたるもその後この地は中野区発展の要衝とすべしとの衆議に応え、同校の移転跡地のうち、その一部は庁舎建設用地にして中野区有地となし、昭和四十三年十月五日(1968年)本庁舎落成とともに、中野区政中核の地に定められた。
中野のシンボルである中野サンプラザ前の広場に、沢山の金の鈴を付けた「カリヨン時計」と呼ばれる時計台があります。普段は行われていませんが、特別なイベント期間中には38鐘のカリヨンが音楽を奏で、4体のからくり人形のパフォーマンスが見られます。また、9パターンのカラーで変化する「サンプラザイルミネーション」を実施することもあるとのことですが、私は一度も見たことはありません。
中野駅のガード下を通り抜けた先の右手に「レンガ坂」という大人の路地があります。レンガ坂はその名の通り、レンガ敷きの坂道です。中野通りと桃園通りをつなぐ長さおよそ100mの坂道通りには、両側にお店が立ち並び、JR中野駅から歩いて1分という近さにありながら、まるでヨーロッパの小径のような洗練された雰囲気があります。この坂道が「中野レンガ坂」と呼ばれるようになったのは2002年のことです。かつてはアスファルトの舗装もままならず、通勤・通学・買い物の自転車がたくさん停められていたりと、少々煩雑な雰囲気の商店街でした。この場所の再開発計画が立ち上がった当初、でこぼこだった道をきれいにならした後はコンクリート製のレンガで覆う予定でした。しかしそれでは味気なく、何より特徴が出ないということで検討を重ねた結果、オーストリア産の色鮮やかな赤褐色のレンガを敷くことになり、「中野レンガ坂」という名前がつけられたのです。さらに足下の改修だけでなく、電線だらけだった頭上の整備をはじめ、レンガ坂のためにデザインされたLED街路灯や、東と西の入口にお洒落なゲートを設置し、東の中野通りに接する入口近くには水の流れる石造りの「壁泉」・石とレンガで作られたベンチ・オリーブとアイビーで緑の彩りを添えるなど、街路全体の雰囲気を整えることでより魅力的な坂道へと変わっていきました。現在、中野レンガ坂の両側には約50の個性的なお店が並んでおり、訪れる人を惹きつけています。また、レンガ坂からさらに奥まった通称「裏レンガ坂」にもお店があり、裏路地を探検するようにお店探しを楽しむことができます。商店街全体でのお祭りや、冬はイルミネーションも行われ、イベント時には坂道が埋まるほどの人が集まるなど、地元の人からも観光客からも愛されるようになった中野レンガ坂ですが、赤褐色のレンガ敷坂道にある商店街は国内でもここだけだそうです。ヨーロッパの雰囲気を感じさせる鮮やかなレンガ敷きの坂道は、美食の集まる商店街としても注目を集めています。
中野駅南口のバス乗り場に「桃園ルネッサンス」なるプレートが掛けられています。
桃の花見は中野の桃園地域へ
中野の桃園地域は、八代将軍徳川吉宗時代に「桃の園」と呼ばれるほどたくさんの桃の木が植えられ、江戸の名所として見物客を集めたそうです。その歴史を復活させるため、桃園まちづくり小委員会を母体とし、平成九年に本会を発足しました。その後、中野駅南口ロータリーでの桃の花の植樹祭を皮切りに、桃園地域で桃の木をたくさん植えています。
“中野の桃園に桃の花をいっぱい咲かせる会(桃の仲間)”
南口のバス乗り場をぐるっと回って、中野郵便局裏に抜ける路地を進みます。路地の両側は飲食店や大人の娯楽店が建ち並んでいます。その途中で左手の更に細い路地に入ります。路地の右手に中野区医師会館の建物があります。私には全く縁のないところです。
中野郵便局の東側から中央線の高架に至る一帯には10万uにも及ぶ広大な空き地が拡がっています。そこでは超高層ビル2棟の建設を含む「中野二丁目地区市街地大規模再開発」の工事が進んでいます。2棟のうち、業務棟は地上20階建て、もう1棟の住宅棟は地上37階建てになるのだそうです。2020年3月に着工し、2024年2月に竣工する予定だそうです。中野駅の拡張工事も始まっていますし、中野駅新北口駅前エリアの再開発も含めて、中野駅周辺は大変貌を遂げることでしょう。
工事用の大型ダンプが行き交う通路を抜けて、大久保通りよりひとつ奥に入った路地を進みますと中野保健所の脇に出ます。保健所も私には無縁の施設です。
そのまま路地を進みますと、もみじ山通りに出ます。緩やかな坂道を少し上りますと、左手に紅葉山公園の入口があります。その奥の木陰に毛糸の帽子を被り、長いマフラーをした「考える人」の像が立っています。口に手を当てているので今流行のマスクは出来なかったのでしょうけど、思考に集中できませんよね。
紅葉山公園あんない
この「紅葉山公園」は、中野区の東京開都百年記念事業として、建設されたものです。当地はもと石森芳太郎氏の所有地でしたが、古く大正年間からもみじの大樹が数多く植込まれ、「もみじ山」と呼ばれて四季折々の風情を伝えてきました。しかし、大戦をはさんでいつしかもみじも散逸し、もみじ山の名だけが残ってしまいました。このたび装いを新たにし、区立紅葉山公園として再び区民に親しまれうことになりました。
公園面積 5,162平方米
開園 昭和44年
公園の中には蒸気機関車が展示してあります。飛鳥山公園にもあったのですが、紅葉山公園にあるとは思ってもみませんでした。
形式C−11
C−11は代表的なタンク機関車で、昭和七年C−10の改良型として都市近郊や支線の旅客用に誕生しましたが、やがて貨物用・入換用にと用途をひろげ、15年間で400輌近く製造されました。C−11−368は昭和二十一年製作で、第4次製造に含まれる車輌です。標準型と異なり炭車上部が斜でなくなったり、サイドタンクやキャブ下側の線が変更されたりしています。ここへ来るまで延べ113万kmを走破し、昭和四十七年7月まで石巻線(宮城県石巻−女川間)で活躍していた機関車です。
中野区もみじ山文化センター(なかのZERO)は、中野区の生涯学習・文化芸術活動の拠点となる施設です。大ホール・小ホールや多目的練習室、プラネタリウム、学習室、生涯学習活動・支援コーナーなどがあります。
中野区もみじ山文化センターに向かい合って島忠ホームセンターがあります。ホームセンターは広い敷地が必要なために郊外にお店を構えることが多いのですが、中野駅まで数分という至極便利なところに立地しています。島忠は中野区南台にもお店があり、中野区民にとっては有り難い存在です。
もみじ山通りを下って桃園川緑道に出ます。「東京の河川を歩く」でも取り上げた旧河川ですが、緑道の手入れが行き届いていて、何回歩いても気持ち良くお散歩ができます。
何回も通ったのに、今まで気が付かなかった案内板が立っています。小さな橋の跡なんですけど、三味線橋とは何とも風流な名前です。三味線と唄は聞こえてきませんでしたが。
三味線橋の由来
三味線橋は、江戸時代中ごろから盛んになった新井薬師参詣のための「薬師みち」にかけられた橋として、村人はもとより近在の人々に頻繁に利用されました。橋の名前は、このあたりを通るといつも近くの家で弾く三味線の音が聞えてきたからだと言われています。
桃園川緑道には遊具も置かれています。私が見た限りでは、ここの1ケ所だけだと思います。
今回のコースでは桃園川緑道は三味線橋から北裏橋までのごく短い区間だけしか通りません。北裏橋で右折して桃園川緑道を離れ、住宅地の中の路地を進みます。右手奥に正行寺があります。昭和十二年(1937年)に開山され、開祖は代々浄土真宗の教えを広める家系出身の釋行雄でした。現在の南台に久遠山教会を設立したのが正行寺の起源です。昭和二十年(1945年)の空襲で久遠山教会が焼失したため、現在の弥生町に移転し、正行寺の寺号を公称しました。昭和三十年(1955年)に当地に移転しました。正行寺は比較的新しい寺ということから、「心地よく仏さまと向き合えるお寺をめざして」の理念の下、本堂にいち早く冷暖房設備(暖房は床暖房)を導入したり、畳でなく椅子席とするなど様々な工夫を凝らしています。
少し先の左手に千代の湯という今時古風な千鳥破風造りの銭湯があります。中野で昭和二十六年(1951年)から営業を続けている千代の湯は、テレビや映画のロケ撮影にも使われている中野の名銭湯です。質のよい井戸水を沸かしていて、乾式サウナは無料となっています。BGMを聴きながら富士山のペンキ絵を鑑賞するのも一興です。2011年12月に塗り替えられた富士山のペンキ絵は、絵師の丸山清人によるもので、男湯は西伊豆の雲見から正面に富士山を望む堂々たる作品です。一方の女湯には、主人の故郷が能登であることから見附島が描かれています。桶は手入れに手間ひまのかかる木製を使用しています。令和の時代も創業時からの銭湯文化を維持したうえで営業を続けていくとの心意気です。
住宅地の曲がりくねった路地を抜けてゴール地点の中部スポーツ・コミュニティプラザに到着しました。地域スポーツの推進のための様々な活動を行っている中部スポーツ・コミュニティプラザの建物と広場は、見るからに元小学校の校舎と運動場といった感じです。それもその筈、ここには中野区立仲町小学校がありました。都心にあっても児童数が減少し、中野区の学校再編計画により桃花小学校に統合されました。桃花小学校は、平成二十年に桃園第三小学校・仲町小学校・桃丘小学校の三校が統合し、元の桃園第三小学校の位置に開校した学校で、井上靖の小説にも登場した樹齢六百年といわれる愛称「千年けやき」は学校のシンボルになっています。
ということで、短い距離ながら「中野四季の森公園〜中部スポーツ・コミュニティプラザコース」を歩き終えました。トレンディな街の印象が強い中野ですが、路地裏の住宅地にはまだまだ昭和の香りが残っています。格別名所があった訳ではありませんが、こういう普段着のコースもいいですね。
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