C中野四季の森公園周遊コース  

コース 踏破記  

今日は中野区の中野四季の森公園周遊コースを歩きます。中野四季の森公園のセントラルパークイーストをスタート地点として、中野四季の森公園を一周し、新緑の緑に浸ります。  

中野四季の森公園周遊コース

中野四季の森公園周遊コースの歩行距離は約1.3km(約1,860歩)、歩行時間は20分、消費カロリーは約60kcalです。

スタート地点:中野四季の森公園セントラルパークイースト
↓ (約1.3km:約20.0分)
ゴール地点:中野四季の森公園セントラルパークイースト


中野四季の都市は、中野四丁目にあった警察大学校等跡地を再開発し、平成二十四年に誕生しました。オフィスビル・大学・病院・防災公園などを一体的に整備した施設です。施工地区面積は約16.8ヘクタールにも及び、「なかの新都心」と呼ばれることもあります。中野四季の森公園(注記)は中野四季の都市の中央部にある広大な防災公園です。休日には家族連れやジョギングなどのスポーツをする人達で賑わいます。「東北復興大祭典なかの」や、「中野ランニングフェスタ」などの大型イベントの会場としても使用されています。中野四季の森公園の東側には中野セントラルパークイースト、南側には中野セントラルパークサウスの巨大なオフィスビルが建っています。西側には、明治大学と帝京平成大学のキャンパス、道路を挟んだ反対側には早稲田大学中野キャンパスも拡がっています。今回歩くコースは、四季の森公園の北東端に当る中野セントラルパークイーストから防災公園、帝京平成大学、明治大学、中野セントラルパークサウスを周回して戻ってくるルートになっています。スタート地点の中野四季の森公園セントラルパークイーストから歩き始めます。

注記:「中野四季の森公園」は狭義には防災広場を指しますが、ここではオフィス・大学を含めた全体の区画を指すこととします。



防災広場の前に施設の案内板が立っています。災害時に一番不自由するのはトイレですよね。

防災施設紹介

この公園を含む中野区役所一帯は、 広域避難場所として指定されています。災害時には、下記の施設が利用できます。

・防災用井戸  生活用水・トイレ用水として活用します。
・せせらぎ・池 生活用水として利用できます。
・管理棟トイレ 井戸水使用で利用できます。
・災害用トイレ テントやトイレを管理棟で保管しています。
・災害用照明灯 主要出入り口の4箇所で点灯します。
・発電装置   管理棟内にあり、必要な電力を供給します。

Description of disaster-management facilities

The vicinity of the Nakano City Office, Including this park, has been designated as a wide-area evacuatlon site.

Emergency well: Supplles water for washing and toilet flushing
Stream and pond: Can supply water for dally needs
Administration building restroom: Flushable with well water
Emergency portable tollets: Tents and portable tollets are stored at the administration bullding
Emergency lghting: Illuminates four main entrances and exits
Emergency generators In the administration bullding can supply electrical power




防災広場の南側には大きな建物が並んでいます。手前の一際巨大なビルは中野セントラルパークサウスです。地上22階・高さ100mにも及びます。その隣には明治大学の校舎が見えます。更にその奥(実際は明治大学の北側)には帝京平成大学の校舎が建っています。近未来都市のような光景です。



防災広場の真ん中に、中野四季の都市の歴史を記した案内板が立っています。

中野四季の森公園 いまとむかし

広大な武蔵野台地であったこのあたりを最初に使用したのは、「生類憐れみの令」で有名な第五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設である犬屋敷でした。この屋敷はお囲い御用屋敷とも呼ばれ、中野四丁目あたりの旧町名「囲町」はこれに由来します。この犬屋敷の敷地は現在のJR中央線をはさんで約30万坪(100ヘクタール)におよび、5つの犬囲いが設けられ、最盛期には約10万頭を収容・飼育していました。元禄八年(1695年)末に収容を開始して、宝永六年(1709年)に廃止されるまで15年間存続しました。その後、第八代将軍吉宗の時代にはお囲い跡の一部に桃が植えられ、花を楽しむ江戸市民で賑わったと言われています。

時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治三十年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は「「諜報謀略の科学化」に対応するための要員養成所」として設けられたと言われています。

戦後、この地は警察庁警察大学校と警視庁警察学校として、施設が移転する平成十三年(2001年)まで使用されました。警察庁警察大学校の施設としては校舎・寮・体育館・講堂・図書館・グラウンド・テニスコート等が設置されていました。警視庁警察学校の施設としては校舎・道場・図書館・グラウンド・プール・自動車教習所等が設置されていました。

そして平成二十四年(2012年)3月30日、「中野四季の都市」となり、その一角にこの「中野四季の森公園」を整備しました。今まで国の公共施設用地として使用され、区民に馴染みのなかったこの地は、業務ビルや大学・病院などが立地して新たな活力を生み出す都市空間として生まれ変わりました。今後は区民の安全・安心を守り、多くの人々が集う憩いの場となることを願っています。




案内板の中に江戸時代と昭和初期の図・写真が添えられています。徳川綱吉がいなかったら、中野四季の都市も誕生しなかったことでしょう。



昭和四十二年の写真を見ますと、警察大学校の敷地が如何に広かったかが見て取れます。



中野四季の森公園と道路を挟んだ反対側に真新しい東京警察病院があります。中野四季の都市の一部ですが、警察大学校等跡地ということもあって建てられたのでしょう。元々は千代田区富士見(飯田橋駅の南側)にあったのですが、平成二十年(2008年)に中野四季の都市に移転してきました。昭和四年(1929年)に財団法人自警会(警視庁職員で構成)会員の拠出金により開設され、当初は警視庁職員及びその家族の診療を行う職域病院として発足しましたが、終戦後の1945年には一般にも開放されるようになりました。東京警察病院に特異な点には、政府や警視庁本部の特命に基づいての医療活動があり、1996年12月のペルー日本大使館占拠事件への特別医療チーム緊急派遣や、1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後に山梨県上九一色村にあるオウム真理教のサティアン強制捜査の援護活動などが行われています。富士見にあった旧病院の跡地は飯田橋グラン・ブルームとして再開発され、業務棟と住宅棟の超高層ビル2棟および教会棟(日本基督教団富士見町教会)が建設されました。東京警察病院は犯罪捜査に絡む負傷に対応するために高度な治療設備が備わっており、中野で病院に行くなら警察病院という人もいるほどです。



帝京平成大学の角を左に折れ、中野四季の森公園の外周に沿って進みますと、3人の顔を形取ったレリーフが貼られた「明治大学発祥の地」の記念碑があります。

明治大学


学部の増設にともなって総合大学となった現在でも、創立時からの伝統によって確立された建学の精神「権利自由、独立自治」に基づき、自由と自治の精神を養うことを明治大学の理念としています。「権利自由、独立自治」は、個人の権利や自由を認め、学問の独立を基礎として自律の精神を養うという理念を広く普及させることを意味しています。明治法律学校、のちの明治大学は岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操によって創立されました。岸本は鳥取藩、宮城は天童藩、矢代は鯖江藩といったように3人とも地方、それもかなり江戸から隔てた藩内で、しかも禄高が低い士族の家に嘉永年間に生まれ育ちました。やがて、彼らは幕末維新の動乱と変革の中、明治政府の命をうけた藩の選抜生(貢進生)として上京しました。そして彼らが出会ったところは明法寮(のちに司法省法学校)でした。同校は司法省が設立したものであり、司法官僚を速成することが目的でした。この学校で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らはそれぞれの道を歩みました。すなわち、岸本はフランスに留学して帰国後は判事に、また宮城も同国に留学して帰国後は検事になりました。矢代は元老院に就職し、その傍ら法律私塾の講法学社(北畠道竜設立)等の経営と教育に当たりました。

明治法律学校の誕生

司法省法学校在学以来、きわめて親しい間柄の創立者3人は、本務は異なりながらも、常に最新かつ本格的な法律教育をすることが脳裏にありました。一方、講法学社の設置者の経営姿勢に不満をもっていた学生らは退学し、その内、十数名は神田小川町の長屋で自主学習をしていました。彼らはやがて、以前同社で講師をしていた岸本・宮城に新しい法律学校の開校を願いました。岸本らは友人であり、講法学社において学生に慕われていた矢代を誘い、東京府に私立法律学校設置願いを提出しました。そして、ついに明治十四年(1881年)1月17日、麹町区の数寄屋橋の一角(現在の有楽町・数寄屋橋交差点近く)・島原藩邸跡に法学校を開校しました。時あたかも自由民権の風潮の真っ只中、明治法律学校は「権利自由」を校訓とし、フランス法を中心として教育に当たっていきました。同校は資金難に苦しみましたが、志願者は日に日に急増していきました。そのため、ついに明治十九年(1886年)年12月11日、神田南甲賀町に自前の校舎を新築し、移転しました。しかし、その後の同校の歩みは必ずしも順調ではなく、特別監督条規等により東京帝国大学の統括・管理下に置かれたり、私学併合を企図されるなどしました。いわゆる「私学撲滅」策です。「権利自由」を標榜する本学は特にその標的とされました。また、国策によるドイツ・イギリス法の保護は、やがてフランス法と対立を引き起こし、その頂点は民法典施行をめぐる大論争でしたが、結果としてフランス法系は敗北しました。

大学昇格から戦時体制下へ

明治法律学校が大学令による大学(明治大学)となったのは大正九年(1920年)4月1日のことでした。しかし、そこに辿り着くまでには並々ならぬ苦闘と努力がありました。学位「明法学士」の発案と授与、専門学校令による「明治大学」認可、法・商・政・文の4学部体制、駿河台移転、大学昇格のための募金運動等々はその代表的な事例です。とにもかくにも教職員・学生・校友らの奮闘努力により、総合大学としての明治大学が成立したのです。このキャンパスでは留学から帰った新進気鋭の教員、かなりの数に上る留学生、さらには大正デモクラシーを謳歌する学生、そして時には学園騒動に関係する人達といった新たな動きが顕著になってきました。まさに伝統の在野精神・反骨精神を基軸に学園は右に左にと揺れたり、また良きにつけ悪しきにつけ活況を呈していったといえます。そのような学園に大打撃を与えたのは関東大震災(大正十二年(1923年)9月1日)でした。ですが、壊滅的な学園の焼き跡に駆けつけ、いち早く復旧・復興に当たったのは教職員はもとより、学生・校友でした。その結果、昭和三年(1928年)年4月21日には記念館で復興の式典を挙行できるまでになりました。しかし、やがて社会は経済不況・軍事拡大・テロといった暗雲がたちこめ、明治大学もまたファシズムや戦時体制(とくに太平洋戦争)に巻き込まれるようになりました。興亜科の設置や勤労動員・学徒出陣などはその典型的な例です。ただ、その一方で女子教育の拡大、スポーツの振興、予科の移転(和泉校舎)等々、前向きの側面が認められたのも事実です。

戦後の復興から新時代へ

昭和二十四年(1949年)2月21日、新制明治大学として認可され、新たな出発をしました。学部は法・商・政経・文・工・農の6学部からなり、さらに翌月25日には第2部(夜間制)が設置されました。当然、このころは当時の社会状況と同様に、本学内においても大きな戸惑いと混乱が生じました。しかし、その一方、新しい大学をめざして気概と希望にみちていたわけでもあります。その後、明治大学は生田キャンパスの開設、大学院の拡充、経営学部の新設、さらには新校舎の建設が進められていきました。こうした制度と施設設備の拡充は急速に推進されたのですが、やがて1960年代ころより学内の質的な改革が叫ばれるようになりました。例えば専教連改革、学費問題、あるいは全共闘運動等々です。そうした経緯を経て、明治大学は昭和五十五年(1980年)11月4日、創立100周年を祝いました。さらに21世紀を迎えた平成十三年(2001年)11月1日には創立120周年の式典を催しましたが、この年は創立者生誕150周年も記念して祝賀の行事を行ないました。そして、それを契機として今まで以上に建学の精神に基づき本学の歩みを検証しようとする動きが活発化しました。また、それと同時に新しい時代を担う大学としての在り方が急速に求められてきています。




明治大学は文系の学部だけだと思っていたのですが、理系の学部もあるんですね。

マイクロ風力発電装置 (風力・太陽光ハイブリッド街路灯)

この装置は、明治大学理工学部機械情報工学科教授小島昇が、自身の発明した「ねじれ円弧翼型水平軸風車」を活用して(株)京三製作所と共同研究を行い製品化された「独立電源型の街路灯」です。外部商用電力を使用しないため二酸化炭素(CO2)の削減に寄与でき環境にやさしい街路灯です。




中野四季の森公園で最も大きなオフィスビルが中野セントラルパークサウスです。多くの企業が入居していますが、キリンの本社が移転してきたときは大きな話題になりました。こんな素晴らしい環境で働けるキリン社員は幸せですね。



中野セントラルパークサウスと、もうひとつのオフィスビルである中野セントラルパークイーストの間に、中野セントラルパークの入口があります。ただ、公園は仕切りとなる塀がない開放的な造りなので、入口とは関係なくどこからでも入れます。そもそも公園を塀で囲む必要はないと思うんですがね。



中野セントラルパークイーストには水処理プラントで知られる栗田工業の本社が入居しています。水処理といっても飲料水ではなく、半導体や液晶などの製造に欠かせない超純水を製造する水処理装置・水処理薬品の製造・開発を行なう企業です。水処理専業としては国内最大手に位置付けられています。



超短いコースでしたが、スタート地点でもありゴール地点でもある中野セントラルパークイーストの角に戻ってきました。



中野四季の森公園は、学びと仕事と憩い、それに防災機能を備えた未来空間のような感じがします。中野駅北口再開発と一体化した街造りが完成した暁には、東京でも最先端の未来都市に変貌することでしょう。




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