- D桃園川緑道〜神田川コース
- コース 踏破記
- 今日は中野区の「桃園川緑道〜神田川コース」を歩きます。中野駅南口をスタート地点として、竹橋から神田川合流点までの桃園川緑道と、末広橋から大東橋までの神田川を巡ります。
桃園川緑道〜神田川コース
桃園川緑道〜神田川コースの歩行距離は約4.8km(約6,860歩)、歩行時間は1時間12分、消費カロリーは約216kcalです。
スタート地点:中野駅南口
↓ (約1.3km:約20.0分)
@桃園橋【石造りの親柱が残っており、川があった面影を感じられます】
↓ (約0.7km:約11.0分)
A三味線橋【新井薬師参詣のための道に架けられ、いつも三味線の音が聞こえたことからその名がついたそうです】
↓ (約0.5km:約 8.0分)
Bカフェ モモガルテン
↓ (約1.1km:約17.0分)
C神田川歌碑
↓ (約1.2km:約18.0分)
ゴール地点:東中野駅西口
スタート地点の中野駅南口から歩き始めます。中野駅は平成三十一年(2019年)4月1日に開業130周年を迎えました。明治二十二年(1889年)、江戸時代からの青梅・秩父街道の一宿場であった中野村を経由して、甲武鉄道が新宿・立川間に鉄道を敷設することとなり、同年4月11日に草の生い茂る荒野の中に中野駅は誕生しました。当時の甲武鉄道広告によりますと、妙法寺・新井薬師への参詣者の大部分が中野駅を利用し賑わっていたと伝えられています。当時汽車の運行本数は上下各4本で、新宿まで9分、立川まで47分を要し、運賃は新宿〜中野間で上等9銭、下等3銭だったそうです(明治初期の1銭は現在の200円ほどになります)。その後日本初の電化駅のひとつとなった中野駅は町の発展を支えます。昭和四十一年(1966年)には営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線の駅が開業し、中野駅周辺は大正・昭和にかけて人口が急速に増加しました。現在の中野駅は、島式ホーム(線路と線路の間にプラットフォームがある形式)4面8線を有する高架駅で、開業当初は1日の乗車数が約300人だったのに対し、平均約30万人(乗降者数:JR東日本エリアでは第19位)が中野駅を利用しています。「アニメ・サブカルのまち」としてだけではなく、警察大学校跡地にできた中野四季の都市、そして中野サンプラザを含む駅北口の大規模再開発や中野駅西側の新しい橋上駅舎の新設・中野駅の南北を結ぶ新たな連絡通路の整備など、さらなる発展をとげようとしています。それらの動きを陰で支えてきたのは、130年もの間この地の交通の要であった中野駅といえるかもしれません。
中野駅前の再開発は北側だけでなく、南側でも進行中です。昭和二十七年(1952年)に建設された「公社中野住宅」は令和元年(2019年)に建替えられて「コーシャハイム中野フロント」に生まれ変わりました。また、残りの跡地は「中野二丁目地区市街地再開発事業」と「中野二丁目土地区画整理事業」が一体的に進められていて、超高層オフィスビルと超高層マンションが建ち、公園や道路・駅前広場なども整備されることになっています。
中野には江戸時代の元禄期に徳川五代将軍綱吉が設けた広大な犬屋敷が置かれ、犬屋敷が廃止された後には八代将軍吉宗によって桃の木が植えられました。中野駅南口広場のバス乗り場の前に、あまり目立ちませんが案内板が置かれています。
桃園ルネサンス
桃の花見は中野の桃園地域へ
中野の桃園地域は、八代将軍徳川吉宗時代に「桃の園」と呼ばれるほどたくさんの桃の木が植えられ、江戸の名所として見物客を集めたそうです。その歴史を復活させるため、桃園まちづくり小委員会を母体とし、平成九年に本会を発足しました。その後、中野駅南口ロータリーでの桃の花の植樹祭を皮切りに、桃園地域で桃の木をたくさん植えています。
中野は丸井創業の地です。かっての丸井中野本店はA館とB館とからなっていましたが、平成十九年(2007年)に閉店し、旧A館部分のみに規模縮小の上で建て替え、平成二十三年(2011年)1月28日に再オープンしたのが現在の中野マルイ店です。地階にはピーコックストアがテナントとして入居しているほか、5階にはレストラン街があります。なお、旧B館跡地には、中野ツインマークタワーが建設されました。
駅南口広場と中野通りを挟んだ反対側にレンガ坂通りがあります。レンガ坂はその名の通り、レンガ敷きの坂道の両側に飲食店を中心に雑貨店・不動産店・印鑑店などの一般店舗も営業を行っている商店街です。中野通りと桃園通りをつなぐ長さおよそ100mの小さな坂道通りは、まるでヨーロッパの小道のような洗練された雰囲気があります。この坂道が「中野レンガ坂」になったのは平成十四年(2002年)のことです。かつてはアスファルトの舗装もデコボコで、駅そばのために自転車がたくさん停められていたりと、少々煩雑な雰囲気の商店街でした。この場所の再開発計画が立ち上がった当初、デコボコだった道をきれいにならした後はコンクリート製のレンガで覆う予定でした。しかしそれでは味気なく、何より特徴が出ないということで検討を重ねた結果、オーストリア産の色鮮やかな赤褐色のレンガを敷くことになり、「中野レンガ坂」という名前がつけられたのです。さらに歩道の改修だけでなく、電線だらけだった頭上の整備をはじめ、レンガ坂のためにデザインされたLED街路灯や、東と西の入口におしゃれなゲートを設置しました。東の中野通りに接する入口近くには水の流れる石造りの「壁泉」、石とレンガで作られたベンチ、オリーブとアイビーで緑の彩りを添えるなど、街路全体の雰囲気を整えることでレンガ坂はより魅力的な坂道へと変わっていきました。現在、中野レンガ坂の両側には約50の個性的なお店が並んでおり、訪れる人を惹きつけています。また、レンガ坂からさらに奥まった通称「裏レンガ坂」にもお店があり、裏路地を探検するようにお店探しを楽しむことができます。
レンガ坂では、2020年11月1日から2021年1月18日まで、期間限定のアートシャッターストリートが開催されました(5月3日時点でも店舗のアートシャッターは残っていますが)。店舗10ケ所のシャッターに「光の情景画家」としても知られている人気のアーティストの笹倉鉄平さんのアートが描かれて(貼られて)います。多くの飲食店がシャッターを閉めている昼間の顔と、イルミネーションが印象的だが一般店舗がシャッターを閉めている夜の顔があるので、シャッターにレンガ坂のイメージに合ったアートを施し、コロナ禍に負けないようさらなる賑わいと癒やしのストリートを生み出したいと思いから実現しました。笹倉さん本人が店ごとの雰囲気に合わせてシャッターに貼る絵を選定したということです。シャッターに直接描けば落書きになりますが、シートに描かれた絵をシャッターに貼付けたんですね。バスの車体の全面広告も同じようなやり方をとっているのでしょう。人に隠れて落書きをする輩もこれくらいの気遣いをしてくれるといいのですが。
レンガ坂を抜けた先が工事用の塀で囲われています。この空き地は、中野駅西側の新しい橋上駅舎の新設に伴い、南北を結ぶ新たな連絡通路の起点となる新南口広場になるようです。令和二年度から駅舎建物本体の工事に着手し、令和八年(2026年)に開業予定とのことです。5年後にはコロナ禍も終息していることでしょうから、レンガ坂通りは新南口広場から直結の商店街として更に賑やかになることでしょう。
レンガ坂の西口から始まる桃園通りを進むと、住宅地の中に小規模劇場4館の総称であるポケットスクエアがあります。小劇場ながらも「観やすさ」・「使いやすさ」にこだわり、全ての劇場でハイクオリティな設備が揃っているため、多くの劇団から支持されています。
ザ・ポケット
ポケットスクエアの中心となる劇場で、客席数はポケットスクエア内で最大の約180席となっています。
道路を挟んだ向かい側には劇場MOMOがあります。
劇場MOMO
約90席のキャパシティながら天井が高く、ロビーの使い勝手がよい小劇場です。
MOMOの隣には向かい合ってふたつの劇場があります。現在は4つの劇場とも公演の案内はありません。飲食店もそうですが、中野の演劇文化も瀕死の状態です。
テアトルBONBON
ポケットスクエアの中で最も天井が高く、実際よりも雄大に感じられる空間です。
劇場HOPE
ポケットスクエアの中で唯一の地下劇場です。客席数は約70席と少ないですが、設備は充実しています。
桃園通りを更に進みますと、囲桃園公園という、桃園通りに面した珍しい名前の公園があります。今は深緑の季節ですが、園内には桜の木が植樹されていて、春には満開の桜の下でお花見が楽しめます。「囲桃園公園」の「囲」は、江戸中期に東京ドーム20個分にも及ぶ広大な野犬保護施設「御囲場」があったことに由来します。現在の中野サンプラザや中野ザ・ポケットがある地域は全てこの御囲場のあったところです。その広大な敷地を5つに分け、全部で10万頭もの野犬をまとめて飼育していたそうです。しかし、この法令は、綱吉の死後、六代将軍家宣に仕えた新井白石によってすぐに廃止されてしまいます。「囲桃園公園」の「桃園」は、江戸時代に徳川家八代将軍吉宗がこの地を気に入って桃の木を大量に植えさせ、その一帯を桃の名所にしたということで「桃園」と呼ばれた名残です。今の季節は藤棚が見ごろを迎え、秋にはもみじの紅葉も楽しめます。
囲桃園公園先の竹橋跡から桃園川緑道に入ります。
桃園川緑道には、かっての桃園川に架かっていた多くの橋の痕跡が残されています。宮園橋もそのひとつで、中野五叉路から延びる大久保通りに架かっていた橋です。
桃園橋は、桃園川の面影を最も感じさせる石造りの親柱が残っています。現在は橋の周辺が工事中のため、その全容を眺めることはできなくなっています。
中野駅南口再開発の様子を中野郵便局方向からに見た風景です。奥のルーフテラスの備わった建物は、JKK(東京都住宅供給公社)の「コーシャハイム中野フロント」です。最上階のルーフテラスから眺めた新宿の高層ビル群は絶景でした。
大久保通りと桃園川緑道に挟まれた敷地に東京医療生活協同組合の新渡戸記念中野総合病院があります。新渡戸稲造・賀川豊彦らによって創設されました。新渡戸稲造(にとべいなぞう)、は日本の教育者・思想家です。農業経済学や農学の研究も行っていました。国際連盟事務次長も務め、著書「武士道」は流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている名著です。平成十九年(2007年)年4月2日に発行が停止された日本銀行券の五千円券の肖像としても知られています。現在の五千円券の肖像は平成十六年(2004年)から発行されている樋口一葉ですが、令和五年(2024年)に発行予定の新しい五千円券の肖像は津田梅子になるそうです。一万円札の肖像は今も昔も男性、五千円札は樋口一葉から女性になったというのも日本の男女の格差を象徴しているようです。もっとも、新渡戸稲造は東京女子大学の初代学長や東京女子経済専門学校(東京文化短期大学:現在の新渡戸文化短期大学)の初代校長も務め、日本における女子教育の向上に力を尽くしたので、一概に男性だからと決めつけるわけにはいきませんが。ついでですが、一万円札の肖像は最初が聖徳太子、次いで現在の福沢諭吉、そして令和五年(2024年)からは2021年の大河ドラマの主人公である渋沢栄一に変わります。大河ドラマの記憶が世の中に残っていればいいのですが。。。
桃園川緑道の路面には、中野駅から東中野方向に向って、桃太郎・浦島太郎・かぐや姫の昔ばなしが描かれたタイルが貼られています。浦島太郎のタイル絵は物語の逆順になっていますのでご注意。
最初は桃太郎の物語です。
昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ・ドンブラコと大きな桃が流れてきました。「おや、これは良いお土産になるわ」とお婆さんは大きな桃を拾いあげて、家に持ち帰りました。
そして、お爺さんとお婆さんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。「これはきっと神様が下さったに違いない」子供のいなかったお爺さんとお婆さんは大喜びです。桃から生まれた男の子をお爺さんとお婆さんは桃太郎と名付けました。
桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。そしてある日、桃太郎が言いました。「僕、鬼ヶ島へ行って、悪い鬼を退治します」。お婆さんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出掛けました。
旅の途中で犬に出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」。「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」。「それでは、お腰に付けたきび団子をひとつ下さいな。お供しますよ」。犬はきび団子をもらい、桃太郎のお供になりました。そして、今度は猿に出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」。「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」。「それでは、お腰に付けたきび団子をひとつ下さいな。お供しますよ」。そして今度は雉に出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」。「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」。「それでは、お腰に付けたきび団子をひとつ下さいな。お供しますよ」。こうして、犬、猿、雉の仲間を手に入れた桃太郎は遂に鬼ヶ島へやって来ました。鬼ヶ島では鬼たちが近くの村から盗んだ宝物やご馳走を並べて、酒盛りの真っ最中です。「皆、抜かるなよ。それ、かかれ!」。犬は鬼のお尻に噛みつき、猿は鬼の背中を引っ掻き、雉は嘴で鬼の目をつつきました。そして桃太郎も、刀を降り回して大あばれです。とうとう鬼の親分が「参ったぁ、参ったぁ。降参だ、助けてくれぇ」と、手をついて誤りました。桃太郎と犬と猿と雉は鬼から取り上げた宝物を車に積んで、元気よく家に帰りました。お爺さんとお婆さんは桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。そして三人は、宝物のおかげで幸せに暮らしました。
次は浦島太郎の物語です。
昔々、浦島太郎という漁師がいました。浦島太郎が釣りに出掛けると、浜辺で子どもたちが亀を虐めているのを見つけたので、浦島太郎は亀を助け海へ逃がしてやりました。すると亀が「助けていただいたお礼に竜宮城へ案内します。わたしの背中に乗ってください」と浦島太郎に言いました。
竜宮城では、美しい乙姫さまに歓迎され、魚たちの踊りや美味しいご馳走でもてなされ、毎日とても楽しく過ごしていました。楽しい日々が続き、浦島太郎はそろそろ地上に帰ることにしました。そのことを乙姫さまに伝えると、乙姫さまは「この箱は決して開けてはなりません」と言い、浦島太郎に玉手箱を渡しました。
玉手箱を手にした浦島太郎が亀に連れられ浜辺に戻ると、あたりの様子がすっかり変わっていて、知ってる人が一人もいなくなっていました。
浦島太郎は竜宮城のことを思い出し、乙姫さまが決して開けてはいけないと言った玉手箱を開けてしまいました。すると、箱の中から白い煙がもくもくと出て、たちまち浦島太郎は白い鬚を生やしたお爺さんになってしまいました。
これはタイムトラベルの原型で、スティーヴン・スピルバーグが製作総指揮をした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は浦島太郎に影響されたに違いありません。
最後はかぐや姫の物語です。
昔々、竹取りのお爺さんが山で竹を採っていると、1本の竹がピカピカと光り輝いていました。不思議に思い切ってみると、竹の中から可愛らしい小さな女の子が出てきました。これは神様からの授かりものに違いないと思い、お爺さんは女の子を家に連れて帰ることにしました。
かぐや姫と名付けられた女の子は、お爺さんとお婆さんに大切に育てられ、それはそれは美しい女性に成長しました。美しいかぐや姫の噂は瞬く間に広がり、5人の立派な若者から結婚を申し込まれましたが、結婚をする条件として一人には「仏の御石の鉢を持ってきてください」と言いました。その他の若者にも、燕のこやす貝、火鼠の皮衣、蓬莱の玉の枝、龍の頸の玉を持ってくることを条件に挙げましたが、誰も果たすことができませんでした。
やがて十五夜が近づくと、かぐや姫は月を見ながら泣いていました。お爺さんとお婆さんが泣いている理由を尋ねると、かぐや姫は月の都の者であり、八月の満月の夜に月から迎えがやって来ることを打ち明け、お爺さんとお婆さんと別れるのが哀しいと話しました。
お爺さんとお婆さんは月の使者からかぐや姫を守るために侍たちに家の周りを守らせましたが、月の使者がやってくると侍たちは動けなくなってしまいました。眩しい光を放つ使者を退けることはできず、かぐや姫は月の都へと帰っていきました。
スティーブン・スピルバーグ監督の「E.T」はかぐや姫のパクリかも。
桃園川緑道には桃園川に架かっていた多くの橋の跡が残されていますが、三味線橋という橋名は風流ですね。この橋は新井薬師参詣のための道に架けられ、いつも三味線の音が聞こえたことからその名がついたそうです。
緑道の植え込みに桃園川緑道の概要を解説した案内板が立っています。
桃園川の水源と名前の移り変わり
桃園川は、もともと荻窪・天沼両村(現在の杉並区内)の湧き水を水源として、当時の中野村を東西に横切り神田川に至る農業用の水路でした。しかし、水源付近の開墾が進み、湧き水の量が少なくなったため、幕府の援助を受けて天保十二年(1841年)、善福寺川から引水したと言われています。このころは、流域に広がる水田の用水として大切なものでした。川の名前も時代によって移り変わりました。明治の中頃までは、石神井川または石神川と呼ばれていました。その後、宮園川と呼ばれる時期があったようです。大正十四年から昭和六年にかけて土地区画整理が行われ、蛇行した川もまっすぐに改修されました。桃園川と呼ばれるようになったのは、昭和初期以降のようです。昭和四十一年には、川にふたかけを行い、下水の幹線となりました。川の面影は消えましたが、桃園川という名は今も息づいています。
緑道の概要
- 延長
- 2.3km
- 幅員
- 平均6.5m(中央通路部 2.5m〜3.5m)
みどころ
- 植物
- 約90種類を植栽しています。
- 高欄
- 川の印象や水辺の動植物をテーマにした鋳鉄の高欄を設けています。
- 彫刻
- 鉄を鍛造した「清流」や、絵タイルの「三重塔」などを設けています。
- 壁画
- 「子供の未来」を抽象的に表現しています。
- 絵陶板
- 動・植物、昔ばなしなどをテーマにしています。また、子供の描いた作品もあります。
- 水の施設
- カナール(水路)や壁泉があります。
緑道の植え込みの奥に「カフェ モモガルテン」という隠れ家のようなカフェがあります。「モモ」は桃園川からとられたのでしょう。「ガルテン」はドイツ語で「庭・菜園・果樹園」を意味します。その名前の通り、カフェの建物は緑の木々で覆われています。築60年の長屋を改装した古民家カフェでは、陽だまりを感じながら落ち着いた気持ちでのんびり時間を過ごせます。読書をするために訪れるお客さんも多いそうです。素材を活かしたお料理やスイーツが評判で、中でも手作りカレーは本格的と人気です。金曜日の夜のみ営業があるBARタイムでは、種類豊富な肴やお酒を味わいながらライブやイベントを楽しむことができます。尚、テラス席はペット可となっています。
桃園川緑道を背にして、平成二十八年に落成した真新しい堀越高校の校舎が建っています。全日制課程への通学が困難な芸能人やスポーツ選手に対応した「トレイトコース(旧・芸能活動コース)」や「体育コース」を設置し、卒業生名簿には芸能界・スポーツ界のスター達がきら星の如く並んでいます。
桃園川は暗渠化されて下水道となっていますが、それでも水位計が設置されています。暗渠になっていても、大雨で水位が上がればどこかで溢れ出しますもんね。
桃園川緑道は宮下交差点で山手通りを越えます。今は道幅の広くなった山手通りですが、桃園川が流れていた頃はかなり狭かったようで、そこには宮下橋が架かっていました。ちなみに、「宮下」とは近くにある氷川神社の下手に当るという意味のようです。
緑道の脇に「中野の三重塔」と記された石碑が置かれています。中野塔は宝仙寺の昔の境内敷地(現在の境内からは200メートルほど離れた中野区立第十中学校の校庭付近)に建っていたことから、宝仙寺三重塔とも呼ばれていました。寛永年間(17世紀前期〜中期)の建築で、高さ24メートルで、屋根は檜皮葺でした。江戸近郊で唯一の三重塔でしたが、昭和二十年(1945年)5月の大空襲で焼失しました。残されている写真や実測図から、池上本門寺五重塔や上野寛永寺五重塔と並んで、江戸時代初期の典型的な建造物だったことがわかります。
桃園川緑道の終点は小さな広場になっていて、広場の隅にはかぐや姫の定番ソングである「神田川」の歌碑が置かれています。神田川は目の前に流れていますが、歌詞の内容からしてこの場所は関係ないようです。
末広橋の袂で桃園川は神田川に合流していました。現在は橋の下に下水幹線の排出口が口を開けています。末広橋から伏見橋までの神田川に沿った268.5mの区間は「神田川四季の道」と呼ばれ、様々な木々や地被植物が植えられています。
特に、川沿いの桜並木は素晴らしく、新宿方面・東中野方面どちらも桜の名所となっています。新緑の5月は葉っぱが川面を覆っていますが、お花見の頃は桜の花びらで覆い尽くされます。
神田川沿いの遊歩道はこの先も続きますが、大東橋で神田川から離れ、東中野のランドマークである2棟のタワーマンション横を通ります。かって東中野には広大な敷地を構えていた日本閣があり、結婚式場として有名でした。その跡地の東半分を再開発した場所に2007年に竣工したのがこのユニゾンタワー東中野とパークタワー東中野という名称のマンションです。
一方、日本閣跡地の西半分には「West 53rd日本閣」が新たな結婚式場として2005年にリニューアルオープンしましたが、これも2020年5月に閉館し、建物が解体された後、現在緑溢れるその敷地は工事用の塀で囲われています。ここもパークタワー東中野というマンションの建設が予定されています。この緑豊かな大木が伐採されるのかと思うと、東中野住民でなくても残念な気持ちになります。
東中野四丁目交差点近くに「東中野イタリアンダイニング Grato」という地元では知られたお店があります。「BISTRO GRATO」という古い看板も残っていますが、こちらは旧店名になります。中野逸品GP金賞受賞のつけ麺スパゲッティ、極み岩塩を使ったピザ、極上カルボナーラなど、ここでしか食べられない料理が魅力です。コロナ禍で現在は提供されていませんが、豊富なドリンクが味わえるお得な飲み放題付きコースがお薦めです。
東中野駅前にやって来ました。駅の北側には飲食店が密集しています。中でも、「東中野ムーンロード」という小路には現在約40店舗ものお店が軒を連ね、昭和の雰囲気を感じさせる飲食店街です。昭和二十年頃に「飲食店街 住吉小路」という飲食店会が発足し、以来約60年の長い歴史があります。正式名称は「東中野駅前飲食店会」という名前ですが、駅通りから入った小路が三日月のように曲がっていることから「ムーンロード」と呼ばれるようになりました。通りの中には様々なジャンルのお店が集まっていて、仕事帰りの人々の疲れを癒しています。東中野ムーンロードには普通の居酒屋以外にも、生演奏のジャズやシャンソンを間近で聴けるお店や映画・アニメ・プロレスなどのサブカルチャー系のマニアックなバーなど、他の場所にはない珍しいお店もたくさんあります。個性的で気さくな店主が多く、初めての方も常連の方も温かく迎えてくれます。飲んだり食べたりだけでなく、話して遊んで楽しめるので、「また明日も来たい!」と思えるようなお店ばかりです。
東中野駅西口がゴール地点になります。山手通りに面した正面改札前には「アトレヴィ東中野」が建ち真新しくて綺麗ですが、この西口はエスカレータもない狭い階段になっています。昔の東中野駅を知る人にはこちらの方が雰囲気が残っていていいのかもしれません。
ということで、「桃園川緑道〜神田川コース」を歩き終えました。東中野の晩杯屋を探そうかと思ったのですが、場所が分かりませんでした。どっちみち、コロナ禍が収まらないと行ってもしょうがないのですけどね。
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