- E朝日が丘公園〜南部スポーツ・コミュニティプラザコース
- コース 踏破記
- 今日は中野区の「朝日が丘公園〜南部スポーツ・コミュニティプラザコース」を歩きます。朝日が丘公園をスタート地点として、本町・弥生町の住宅地を巡ります。
朝日が丘公園〜南部スポーツ・コミュニティプラザコース
「朝日が丘公園〜南部スポーツ・コミュニティプラザコース」の歩行距離は約2.6km(約3,710歩)、歩行時間は39分、消費カロリーは約117kcalです。
スタート地点:朝日が丘公園【公園内に象小屋跡があります】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
@成願寺
↓ (約1.1km:約17.0分)
A本郷氷川神社【かって本郷村と呼ばれていた地域の鎮守、一対の狛犬のうち阿形の狛犬は授乳している姿です】
↓ (約0.3km:約 5.0分)
B第二中学校
↓ (約0.3km:約 5.0分)
C本五ふれあい公園【多目的運動場と草地広場がある広い公園です、防災施設も備えています】
↓ (約0.7km:約11.0分)
ゴール地点:南部スポーツ・コミュニティプラザ
スタート地点の朝日が丘公園から歩き始めます。
朝日が丘公園は住宅地の中の小さな公園ですが、ここには日本で初めて象が飼育された小屋があったそうです。公園の入口に案内板が立っています。
象小屋(象厩)の跡
江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。当時、象は、まだ珍しい動物で、人々の好奇心をそそり、「象志」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、また、象にちなんだ調度品、双六や玩具類もさかんに作られました。中野に来た象は、享保十三年(1728年)中国人賀易商鄭大威が将軍吉宗に献上するため、ベトナムからつれて来たもので、途中、京都で中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち中野村の源助にさげわたされ、源助は、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが寛保二年(1742年)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。
山手通りに出て、神田川方向に坂を下って行きますと、右手に変わった造りのお寺が見えます。縦5m・横11mの大達磨絵の大看板と中国風の山門が中野には似つかわしくない感じです。達磨絵の左側に書いてある「莫妄想(まくもうぞう)」とは、「周りの物事にとらわれたり、妄想をたくましくして、真実を見誤ることなかれ」という意味だそうです。
多宝山成願寺は、今から約600年前、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が亡くなった一人娘小笹の菩提を弔うために出家し、お寺を建立したのが始まりとされています。また、成願寺には蓮池鍋島家の墓所があります。山門の横に案内板が立っています。
鍋島家の墓所
この成願寺には、大名・蓮池鍋島家の墓所があります。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永十六年(1639年)五萬二千六百石を与えられ分家したのに始まります。墓域に入ると十基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が四代藩主・直恒の供養碑、三番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は、寛延二年(1749年)に麻布龍土町(港区)の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移されました。他の八基の墓は、二代直之・八代直与・九代直紀の子供たちのものです。また、墓地の右手の奥に鍋島地藏と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙党童女之霊」の法名が刻まれています。
山門を入った横手に六地蔵が置かれたお堂があります。仏教では、生前の行為の善悪の如何によって、人は死後に地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六界の境涯を輪廻転生するといわれますが、そのそれぞれに衆生救済のために配される檀陀・宝印・宝珠・持地・除蓋障・日光を6地蔵といいます。
六地蔵のお話
今から千年の昔、玉祖惟高という人が急な病であの世・・・冥土に旅立ちました。冥土は広い広い野原、道を失い立ちすくむ。その時、杖と宝珠を携えた子どもの僧六人現れ、惟高に言う。「我ら地蔵菩薩なり。ここに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道あり。道に迷う者あれば、我ら六種の姿で救わん。汝元の世に戻り、六地蔵の像を祀るべし」。惟高は生き返り、お目にかかった六体の地蔵様の像を彫り、皆で拝みました。
「今昔物語集」より
墓地に入っていきますと、鍋島地蔵が門番のように石段の前に立っています。墓地の奥まったところには鍋島家の墓所があります。
境内の一画に、成願寺の開祖である鈴木九郎のお墓があります。その横には、「中野長者鈴木九郎のものがたり」と書かれた長〜〜〜〜い看板が立っています。長い文章ですが、多くの信徒や縁のあるお寺の方が数行ずつ分担して書かれたのだそうです。よくよく見たら、確かに書体が微妙に違っていますね。尚、現在では「西新宿十二所熊野神社」は、「西新宿十二社熊野神社」と書いて「じゅうにそう」と読まれています。バスに乗っていると、「次は十二社(じゅうにそう)池の上」とアナウンスされ、何で十二社がそんな風に読めるのだろうと不思議に思っていました。
中野長者鈴木九郎のものがたり
鈴木九郎が中野本郷に住みついたのは約六百年前足利時代の初めである。彼の先祖は古代の貴族穂積氏を元とし、紀伊態野権現の別当を代々務め、のち武家となった。源平合戦の頃には鈴木重家・重清の兄弟がおり、義経に従い西は壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼし、北は衣川の館で戦って義経に殉じた。足利の世には南朝の臣に列する刀槍を重んずる一族であったが、応仁の世天下入乱れて領地権力を奪い合うあさましい時代となった。これに愛想のつきた鈴木九郎は新地開拓を志して神田川の辺に至り、鍬を手に田園生活に入った。芒ばかりの湿地を起して稲を植え、松のみ茂る荒れ地を拓いて馬数頭を養ってなりわいとしていたが、その貧しさはまことに眼を覆わしむるものであった。そんな或日、九郎は下総葛西の馬市を目指して東に向った。
葛西とは、利根川(現在の江戸川下流)の地域で中野からはほど遠い道筋である。その途次浅草観音に詣でた九郎は「馬代金に大観通宝が入っていたら、それをすべて賽銭にいたします。どうか馬が高く売れますように」と願をかけた。大観通宝とはその時代おおいに使われた宋銭。輸入穴あき銭の一つである。馬は予想外の高価に売れて一貫文(二十万円位か)を得た。しかし驚くなかれ代金はすべて大観通宝だった。九郎は観音様に祈願した約束通り大観通宝をそっくり奉納し一銭も持たずに家路を辿った。無一物の九郎を迎えてうろたえた妻もことのいきさつを知った時「それはよいことをしました。これからは観音様が私たちを見守って下さり、つとめに励めば必ず報いられましょう」と合掌して喜んだ。
その日から九郎は妻の言葉通り今まで以上に開拓に精進した。妻女も又貧しさに負けなかった。そんなある日のこと・・・ある朝突然・・・九郎の家が黄金色に輝いた。なんと黄金がぎっしりとつまった壷が九郎の家に出現した。「南無観世音菩薩」。九郎は改めて観音様に感謝をし約束をした。「この地を平和と幸福にあふれた土地にいたします」。その後、九郎は人々のために大きな田や畑をつくり、橋と舟もつくり、人や物が行き交う豊かな土地に発展させた。神田川のほとり鈴木九郎あり。九郎は人々の評判となり、「中野長者」と賞賛されるようになっていた。
一粒種の娘小笹は成長するに従って光るが如き美しさを加え、人々は「中野長者の持つ最上の宝はあの娘じゃ」とうわさした。今、長者夫妻の幸福はまさに頂点に立ったと思われた。しかし、長者の宝と称された愛おしく美しい娘小笹は若くして病気になった。長者はお金をどんどん使って様々な手をつくしたが小笹はその甲斐もなく死んでしまった。悲しくて悲しくて長者夫妻は食事ものどをとおらなかった。
「この世に幸福をと願い、生きてきたその結果が愛おしい娘の死とは・・・」。夫妻は絶望し生きる力さえ失い苦しんだ。「本当にこの世に平和や幸福はあるのだろうか」。絶望の底にある夫妻を救ってくれたのは・・・若き日に観音様に祈り、約束通り全てをさし出したあの時と同じ心であった。相模の国道了尊最乗寺の春屋宗能禅師こそ大徳なりと耳にした夫妻は直ちに上山参籠中野本郷への巡錫を乞うた。諸行無常是生滅法。巨万の富も無に異ならず。大義を悟った九郎夫妻は宗能禅師に就いて授戒した。授戒は佛門に入る儀式である。夫は正蓮、妻は妙珊の戒名を授かった。
また精舎(お寺)を興し、小笹の戒名真正観善女に因んで正観寺と号した。正観寺は九郎没後、邸を境内として伽藍を整備した。川庵宗鼎和尚を迎えて開山とした。現在の成願寺の名は、江戸時代再興の折に「願い成る」として名付けられたものである。これより先、九郎は祖先の地熊野より十二所(そう)の天神地祇を勧請し、お祀りした。西新宿十二所熊野神社の始まりである。発心の人鈴木九郎を偲ぶよすがである両社寺に今なおさかんに人は集まる。観世音菩薩の大慈悲功徳をまさに仰望せん。
終わり
この「中野長者鈴木九郎のものがたり」は成願寺に伝わる縁起にもとづいて創作したものです。縁起によると、紀州熊野神社の神職をつとめていた鈴木氏がのちに奥州におちのび、その子孫である鈴木九郎が家の再興を願ってこの地に至り、応永年間(1394年〜1428年)に開墾の鍬を下ろしたとあります。成願寺縁起のほかにも長者伝説はいくつか伝えられており、このような人物が実在したことは疑いようがありません。おそらく中野・西新宿の開拓発展に指導的役割を果たした人物が中野長者こと鈴木九郎であったのでしょう。この看板を制作するにあたり、作画は前田康成氏に、文字は当山檀信徒をはじめ有縁の御寺院様方に数行ずつ分担してお書きいただきました。
合掌
中野本町二丁目交差点で山手通りから右に折れ、住宅地の中を進みます。ほどなく東京工芸大学中野キャンパスの真新しい校舎が見えてきます。いかめしい門も校舎に続く並木道もない、いたって現代的な雰囲気の大学です。東京工芸大学は中野キャンパスに本部と芸術学部を置き、厚木キャンパスには工学部が置かれています。小西六写真工業(現コニカミノルタ)六代目社長杉浦六右衛門の「日本の写真技術の振興に寄与する人材を世に送り出し、国家の発展に貢献するためには、写真教育を行う専門の学校が必要である。」という理念を継ぎ、七代目社長杉浦六右衛門(先代を襲名)により、1923年に小西写真専門学校として設立されました。日本では数少ない、写真学科・メディア画像学科を設置した大学です。芸術学部には、アニメーション学科やゲーム学科、それにマンガ学科もあります。
原点は写真技術と写真表現
東京工芸大学は、アートとテクノロジーの融合を目指した先駆的な大学として、これまで多くの人材を育成してきました。その前身は1923年に創設された小西写真専門学校。写真は工学的技術を使った芸術表現であり、創設当初から「アートとテクノロジーを融合した無限大の可能性」を追究し続けてきました。時代の流れとともに写真を初めとするメディアアート、テクノロジーの最先端教育・研究機関として進化を遂げてきた東京工芸大学。その理念は、創設当初から変わっていません。2023年、東京工芸大学は創立100周年を迎えます。私たちは今までも、そしてこれからも、メディアアート分野、テクノロジー分野の世界的人材の育成に貢献していきます。
月見橋から花見橋まで神田川沿いの遊歩道を進みます。中野のこの辺りは新宿副都心の真西に位置していることと、神田川で視界を遮る建物がないために西口の超高層ビル群が綺麗に見えます。それにしても、月見に花見とは風流な名前の橋ですね。
花見橋から一旦神田川を離れ、北に向かいます。四つ角で左に折れた先の福寿院と道路を挟んだ反対側に、かって貴乃花部屋がありました。今はどうなっているのかな?と探してみましたが、それらしき建物は見当たりません。ネットの情報ではどうも2019年に建物ごと取り壊されたようです。
中野新橋駅前の通りを渡った先に、かって本郷村と呼ばれていた地域の鎮守であった本郷氷川神社があります。本郷氷川神社は、文明元年(1469年)に太田道灌が江戸城を築く際、鎮護のために大宮氷川神社より勧請し、創建したといわれています。
本堂の前には一対の狛犬が鎮座していますが、どちらも子供と一緒です。右側は阿形の狛犬ですが、珍しく授乳している姿ですね。左側の吽形の狛犬は子供をあやしているように見えます。この狛犬夫婦は子育て中なのでしょうか。
本郷氷川神社のすぐ先に秋津子育地蔵尊があります。路地の角地に面した境内には4基の石塔が置かれています。中央の地蔵は模造して昭和二十四年(1949年)に新しく建てられたそうで、左端の石塔が昔からある秋津子育地蔵尊といわれています。秋津子育地蔵尊と呼ばれているのは、この地蔵の再建に尽力した津田氏の母が秋元家から津田家に嫁いだことで、頭文字を取って秋津と名付けたそうです。本当かいな?
中野通りに面して本五ふれあい公園があります。広い運動場や芝生が拡がる緑溢れる公園です。私がお散歩に持ち歩いている10年前の地図には公園の名前は見当たりません(さっさと買い換えろ!)。実は、中野区が企業の社宅跡地を取得し、平成二十八年(2016年)に開園したのだそうです。都心に新しく造成された敷地面積1.2ヘクタールにも及ぶ公園は珍しいのではないでしょうか?
本五ふれあい公園と隣の中野二中の敷地を合わせて防災機能を持たせているそうです。フェンスに囲まれた中野二中の敷地の角に古ぼけた時計台(換気塔?)が建っています。張り紙には次のような説明が記されています。
この「時計台」の地下50m付近には、神田川沿いの地域(中野区本町付近)に降った雨の一部を一時的にため、浸水被害の軽減を図るための施設があります。この施設の空気を入れ換える役割をこの時計台で行っています。
神田川には沢山の橋が架かっています。古い橋もありますので、順次掛け替え工事が行われています。本郷橋という名前には全く関心はなかったのですが、かっての「本郷村」から由来しているんですね。
ゴール地点の南部スポーツ・コミュニティプラザに着きました。南部スポーツ・コミュニティプラザは、平成二十八年に開館した複合施設「みなみらいず」の一部です。中野区の複数の公共施設を融合させた複合施設「みなみらいず」は住宅地の中の旧中学校跡地に新設されました。「みなみらいず」は、未来図(みらいず)と中野南地域の「みなみ」それに「繁栄(Rise)」を掛け合わせた名称は、一般公募で決まったものです。開館に伴って、福祉センターや地域包括支援センターなどいくつかの施設がここに集約され、新たに「障害者相談支援事業所」や、スポーツを通じた地域交流拠点「スポーツ・コミュニティプラザ」などが新設されました。区役所の出張窓口として行政手続きを行う地域事務所も入居し、中野区南部地域における行政・子育て・保健・福祉・支えあいの地域拠点として機能しています。
ということで、短い距離でしたが「朝日が丘公園〜南部スポーツ・コミュニティプラザコース」を歩き終えました。中野区にも多くの歴史的な遺産が残されているんですね。区のウォーキングマップには、地元の人でなければ知らないような隠れた見所が数多く掲載されています。歩く度に新たな発見と知識が得られるのですから、活用しないと勿体ないです。
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