F青梅街道〜中野新橋コース(1)  

コース 踏破記  

今日は中野区の「青梅街道〜中野新橋コース」を歩きます。東中野駅をスタート地点として、中野区の南半分を巡ります。  

青梅街道〜中野新橋コース

「青梅街道〜中野新橋コース」の歩行距離は約7.2km(約10,290歩)、歩行時間は1時間48分、消費カロリーは約324kcalです。

スタート地点:東中野駅
↓ (約0.4km:約 6.0分)
@中野氷川神社
↓ (約0.9km:約14.0分)
A宝仙寺
↓ (約3.0km:約45.0分)
B多田神社
↓ (約1.6km:約24.0分)
C正蔵院【境内には桜の木が植えられており、桜の季節の参拝がおすすめです】
↓ (約1.3km:約20.0分)
ゴール地点:中野新橋駅


スタート地点の東中野駅西口から歩き始めます。昔は東中野駅といえばダサイ印象だったのですが、現在では東口は以前と変わらないものの、西口はとてもお洒落な雰囲気になりました。東中野駅は、明治三十九年(1906年)に甲武鉄道の柏木駅として開業しました。駅名が東中野駅に変わったのは大正六年(1917年)のことでした。ちなみに、中央本線が立川駅まで長い直線区間に入る起点が東中野駅になります。ダサかった西口の風景を一変させたのは、平成二十四年(2012年)に開業した商業施設「アトレヴィ東中野」です。その後、山手通りに面した広大な西口駅前広場が平成二十七年(2015年)に完成し、現在の姿になっています。



山手通りを南下していきますと、ほどなく氷川神社の鳥居が見えてきます。中野氷川神社は、かって旧中野村の総鎮守社でした。五穀豊穣・縁結び・厄除け・勝利成功などのご利益があると言われています。御祭神は、須佐之男尊・稲田姫尊・大己貴尊だそうです。



境内はそれほど広くはありませんが、木々に囲まれて立派な本殿が建っています。本殿の前に案内板が立っています。

中野の氷川神社

この神社は、旧中野村の総鎮守社で、創建は長元三年(1030年)に武蔵一の宮である埼玉県大宮市の氷川神社から勧請したと伝えられています。室町時代の応永年間に社殿を改築した伝えもありますから、中野村の開発とともに鎮座も古いことがうかがわれます。祭神は素佐之男尊・稲田比売尊・大己貴尊の三柱で、例祭は九月十四・十五日ですが、もとは二十六・二十七の両日でした。江戸時代には護摩修行が行われ、湯立神楽をあげ、淀橋・上宿・下宿・西町・仲宿・打越・囲・原の氏子がそれぞれの地区の幟や提灯の美を競いました。豊年には、獅子舞・相撲・力石くらべなども行われて、近在をあげての盛大な行事になっていました。明治・大正期の華麗な神輿や山車の巡行はいまも語り草になっています。拝殿にある中世の石の狛犬をはじめ、境内には中野の歴史を語る多くの遺品があります。




境内には様々な石像があります。日光東照宮で有名な「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が描かれている庚申塔がありますね。庚申信仰は中国の道教の伝説に基づくもので、日本には平安時代に入り、室町時代を経て江戸時代に盛んになった民間信仰です。人間の体の中には「三尸(さんし)の虫」がいて、60日に一度くる庚申の日の夜、人が寝ている間に体から抜け出して天帝にその人の罪過を告げに行くとされています。天帝はその罪状に応じて、邪鬼に命じてその人の寿命を縮めるのです。そこで、人が寝なければ三尸の虫は体から抜け出して罪過を告げに行けないので、庚申の夜は講中の人々が集まって飲食や談笑しながら寝ずに夜を明かしました。これを「庚申待ち」といいます。庚申の「申(サル)」から、この庚申塔に刻まれた「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿は、「自分たちの罪状を見聞きしたり、天帝に告げないで欲しい」との願望を表現したものです。境内には、石垣のように並べられ力石もあります。石の表面には数字らしき文字が彫ってありますので、首尾良く石を持ち上げられた人が記念に石の重量を彫り込んだのでしょう。



山手通りに面して小さな祠があります。黄金の龍が出現したといわれる城山町には、地名の通りかって城郭がありました。九百坪ほどの土手を築き、から堀を掘った造りだったそうです。戦国時代に各地に群雄割拠した土豪屋敷の一種だったと考えられます。黄金の龍は土豪の隠し財産だったのかも。

白金龍昇宮由来

白金龍昇宮
日本の国土は龍体の姿をしておりますので、このお宮には昭和二十四年中野区城山町に現れました黄金の龍を国土の神としてお祀りしてあります。国土を祀らずしては平安の来るはずもありません。ここに日本の国土を祀り国家の安泰をはかり世界人類の幸福をお祈りしております。

七曜の心霊
日月火水木金土の七曜もこのお宮にお祀りしてあります。七曜は世界共通の生きながらの神で、生命の根源でありますので人類はもとより万物にとって一日もなくてはならぬ神々です。ここにお祀りして世界平和と人類の幸福をお祈りしております。



山手通りと大久保通りが交差する宮下交差点脇から桃園川緑道に入ります。何回も通った緑道ですが、新緑の季節ということもあってか、植栽が一段と緑濃いですね。



宝仙橋で右折して桃園川緑道から離れます。さほど広くない道路の両側に実践学園の敷地が拡がっています。実践学園は私立の中高一貫校で、その前身は昭和十年(1935年)に設置された実践商業学校でした。中学・高校の男子卓球部や高校女子バスケットボール部はインターハイなど全国大会出場の常連校として知られています。また、2007年に日本で初めてすべての普通・特別教室にIWBを設置しています。IWBとは電子黒板のことで、ホワイトボードに描いた内容を電子的に変換することが可能な電子機器です。タッチペン付き巨大画面といったところでしょうか。なお、実践学園の卒業生には、女優の上白石萌歌さんの姉・妹さんとか、スナック&町中華の帝王と呼ばれている玉袋筋太郎さんの名前もあります。



青梅街道から一歩入ったところに中野の古刹として知られる宝仙寺があります。宝仙寺は、平安後期の寛治年間に源義家によって創建されました。このとき義家は奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり、陣中に護持していた不動明王像を安置するための寺を父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地に建立しました。お寺が竣成した時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え、「この珠は希世之珍宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明かならん」と言い終わるや白狐となって去りました。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられています。



宝仙寺には壮麗な三重塔があります。昔から宝仙寺の三重塔は有名でしたが、現在の塔は二代目になります。初代の三重塔は江戸時代に建てられ、その場所は現在の宝泉寺境内ではなく、山手通りを超えた先の中野区立第十中学校の校庭にありました。残念ながら、昭和二十年(1945年)5月の空襲で焼失してしまいました。宝仙寺の三重塔と同じ江戸時代初期の塔を見ますと、池上本門寺五重塔・上野寛永寺五重塔・浅草寺五重塔(焼失)は、何れも時の最高権力者により建てられました。しかし、宝仙寺の三重塔は地元の一般人であった飯塚惣兵衛夫妻によって寛永十一年(1636年)に建立されました。とてつもない財力の持ち主だったのでしょう。



三重塔の脇に巨石を積み重ねた異様な塚があります。よく見ますと、ただの巨石ではなく、石臼を重ねて塚が造られています。餅つきの臼かと思ったのですが、製粉用の臼だったようです。

石臼塚由来

中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田(コウ)純大僧正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。




境内には、中野町役場跡の石碑も建っています。お寺に寺子屋は分かりますが、明治三十六年(1903年)から昭和初頭まで中野町役場が、その後区役所が宝仙寺境内に置かれていたのです。中野町はかつて東京府豊多摩群に存在し、明治三十年(1897年)に誕生しました。現在の中野区の南部にあたる地域で、現在の地名では、中央・中野・本町・南台・弥生町・上高田の一部に相当します。明治時代中期まで青梅街道沿いを中心として産業が発展し、甲武鉄道の開通で中野駅ができると徐々に住宅化が進み、さらには関東大震災以降は市街化が進みました。その後昭和七年(1932年)には中野町と野方町が合併し、東京市中野区となりました。



宝仙寺の墓地には中野を開拓した堀江家累代の墓所があります。1555年に堀江家のご先祖様が初めてこの地に来たときは、中野は草藪に覆われた荒れ地だったことでしょう。

堀江家の墓所

堀江家は、十二代堀江重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部という人が農民十数名とともにこの地に来て、弘治元年(1555年)、中野の開発に着手したとされています。当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、江戸開幕後、歴代の当主は、中野村の名主として、中野とその近郷の有力な指導者となりました。堀江家によって、中野村は次第に発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として首都大学東京に保管され、研究に供されています。堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以後も中野の町村政のためにはたした業績は大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。




宝仙寺を出て青梅街道から一歩奥に入った路地を進みます。集合住宅が建ち並んだ空き地にレンガ塀が残されています。ドアや窓は付いていますが、壁一枚のモニュメントのようです。



案内板には、かっての醤油の醸造所の壁の跡と解説してあります。これだけの長さのレンガ塀を建てるには、当時高価だったレンガをどのくらい使用したのでしょうか?

【ひとがしらに政】(やままさ)醤油醸造所のレンガ塀

このモニュメントは、明治初期創業の【ひとがしらに政】(やままさ)醤油醸造所のレンガ塀の北側一部を移設したものです。建造は、明治三十二年(1899年)と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物といわれている浅田銀行本店を手掛けた、中野在住の棟梁と弟子達によって、醸造所の蔵とともに築かれました。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みと言われるレンガ積み工法で造られています。当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、ミソ、醤油の醸造は、 蕎麦粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした。




青梅街道に戻りますと、建替え工事中だった中野警察署の建物が完成し、業務を再開したようです。横幅も長いのですが、奥行きが結構ありますね。新庁舎は地上4階・地下2階建てで、延べ床面積は旧庁舎のおよそ3倍の約1万1800平方メートルもあるそうです。正面から建物を見ますと、両脇は庁舎なのですが、真ん中にマンションを挟み込んだ構造になっています。マンション敷地の取得に失敗したのかどうかは分かりませんが、何とも奇妙な構造です。マンションに泥棒が入ることはないでしょうから、住民は安眠できるかも。



中野警察署のすぐ先の左手に、ウォーキングガイドにも載っている「あぶまた味噌」のお店があります。今日は生憎お休みのようですが、伝統的な甘味噌を販売しているようです。私は味噌は塩辛いものだと決めつけているのですが、甘い味噌ならトーストにも合うかも。

株式会社 あぶまた味噌

江戸甘味噌
明治十八年(1885年)創業の味噌の蔵元では、「江戸甘味噌」を作り続けています。とろりとした甘味に仕上げた味噌とバタートーストを楽しむ人も。

電話 03−3372−5211
中野区本町3−32−19
営業時間 9時〜18時
休業日 土・日曜




鍋屋横町交差点の手前に慈眼寺というお寺があります。青梅街道の歩道から見ますと、境内の奥に何やら金ピカに輝く仏塔が見えます。慈眼寺は室町時代の天文十三年(1544年)の創建で、本堂に安置されている御本尊の聖観世音菩薩像も室町時代に造られたものです。創建当時の慈眼寺は、現在の中央二丁目の堀越高等学校の間近にある「慈眼堂橋」の西方にありましたが、江戸時代に青梅街道添いに移転しました。昭和五十四年(1979年)には新たに金色の仏舎利塔が建立されました。仏舎利塔とは、お釈迦様のご遺骨(仏舎利)を安置するための供養塔です。慈眼寺の仏舎利塔の中には、タイ国の王立一級寺院ワットスラケットより請来された仏舎利(1898年に北インドにあるピプラーワーの大塔より出土した壺に納められていたもの)が納められています。慈眼寺先代の修補住職は、タイ国バンコク市にある国王立一級寺院ワットスラケットに法縁を得て修行を続け、やがてワットスラケット寺院より仏舎利を託されて仏舎利塔を建立するにいたりました。



境内には六地蔵が並んでいます。このお地蔵さまは平成十六年(2004年)に建立されました。一般的に六地蔵とは、お地蔵さまの六つの姿を表現した像です。六地蔵は、六道輪廻の考え方である、「全ての生き物は六種類の世界、すなわち六道に生まれ変わりを繰り返す」に基づいています。六道のそれぞれの世界に住む生き物をお地蔵さまがそれぞれの世界に対応して姿を変えて救うと伝えられています。向かって右側から順に名前を挙げますと、地獄道を救う檀陀(だんだ)地蔵・餓鬼道を救う宝珠(ほうしゅ)地蔵・畜生道を救う宝印(ほういん)地蔵・修羅道を救う持地(じじ)地蔵・人道を救う除蓋障(じょがいしょう)地蔵・天道を救う日光地蔵となります。

六地蔵

お地蔵さまは、私たちが六道輪廻の因縁によって地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道のいづれの道にあっても、それぞれに姿を変えて現れ、苦を除き幸福へと導いてくださいます。六地蔵とは、このように本来一体のお地蔵さまが行く先々で私たちを救って下さる六つのお姿をあらわしたものです。亡き人や御自身が、来世においていづれの道にあってもお地蔵さまのご加護を得て幸福に導かれますよう六つのお姿のお地蔵さまを御参拝ください。




境内の一画に石仏がずらりと並んだ囲いがあります。頭上に馬頭をつけた馬頭観音がどれを指すか判然としませんが、左の写真の奥の石仏がそれに当るのではないかと思います。

慈眼寺の石仏群

慈眼寺は、真言宗豊山派の寺院で、福王山弥勒院と号し、天文十三年(1544年)の創建と伝えられています。以前は、現在地から北東の中央三丁目七番付近にありましたが、江戸時代にこの地に移転しました。ここにある石仏は、馬頭観音や庚申塔などで、向かって左側の文化十三年(1816年)の馬頭観音は、頭上に馬頭をつけ、角柱部分は、道しるべになっています。左あふめ道(青梅)、右いくさ道(井草)と記されていて、もとは青梅街道と石神井道とが分岐する追分の三叉路(中央四丁目)にありました。庚申塔は、千支の庚申に由来するもので、日月・青面金剛・邪鬼・三匹の猿・鶏などが彫られています。ここには、元禄三年(1690年)から寛保ニ年(1742年)までのものが六基あります。このうち四基は、上宿(中央ニ丁目付近)、新町(本町六丁目)、西町(中央五丁目)の青梅街道の沿道にありましたが、道路拡幅のため、桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設され、さらに、昭和三十年(1955年)に当寺院の境内に安置されたものです。




境内の隅に小さな祠があり、その前に案内板が立っています。いくら道を究めたお坊さんでも、他人の化膿した腫れ物を舌で舐めるには相当の勇気が要ったことでしょう。

氷川堂の由来と「氷川坊さん」

昔、当山は旧中野村氷川神社の別当職を兼ねておりましたが、明治政府の神仏分離令により神社を政府に返還しました。この江戸幕府から明治政府に移る揺籃の時代に、慈眼寺第十五代住職の覺順和尚は「氷川坊さん」と呼ばれ、皆からの信望も厚く慕われておりました。その御徳のひとつは、自らが皮膚病で困難をした故に、この病に苦しむ人々を救うという願を立て、化膿した腫れ物で苦しむ人があれば舌の先で舐めて治したり数々の不思議な徳行をされたことです。これは凡人にはできないことで、仏に捧げる身、衆生を救済する仏の慈悲を現実にする真の救いの道です。覺順和尚の法衣の袖にすがって救われた人々は数え尽きないほどだったと伝えられています。全快した人は御礼に御堂の中に絵馬を奉納しました。和尚は八四歳で遷化されるまで人々のために精進し、その御心は今も受け継がれています。「氷川坊さん」の尊像は万延元年(1860年)作と伝えられ、坐像から土台まで一つの石で彫ったものです。現在も皮膚病、婦人病などの平癒を祈る人達の参詣を集めております。




鍋屋横町は、横町と呼ぶには広い通りです。道路の両側にはアーケードがあり、路線バスも走っています。今は道路の両側にマンションとかビルが建ち並んでいますので、昔のような参詣道の雰囲気はありませんが、交差点の角に当時の様子を記した案内板が置かれています。

鍋屋横丁の由来

ここは古くから北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へと通じる道が青梅街道から分かれているところである。妙法寺が元禄年間に厄除け祖師として名高くなると、沿道は参詣人で大いに賑わい、商家や料亭が軒を連ね、中でもこの角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁盛したため、この通りを鍋屋横丁と呼ぶようになった。鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに、庭の二百数十株の梅林であり、早春は梅香芳しく、参詣客や文人墨客などの間でつとに知られるようになった。鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして、文久二年奉献された東中野氷川神社の鳥居と、平成十四年に妙法寺に移設した明治十一年建立の道しるべにその銘が刻まれている。




鍋屋横丁の由来の案内板に並んで、昔の道標の跡を記した案内板も置かれています。

鍋横道しるべ

此処に明治十一年建立された「ほりのうちへ十八丁十間」と妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道の入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料にも載る程、貴重なものでした。建立以来百二十五年の永きにわたり、まちの変遷を見つづけてきたこの道標が、平成十四年三月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺に移設されました。かって道標が存在した証を記します。




鍋屋横町にはいろんなお店が建ち並んでいますが、鍋横最中が名物のむさしの玉屋さんはよく知られた和菓子屋さんです。看板のくすんだ色が老舗を表わしています。

むさしの玉屋

鍋横最中
鍋屋横町にちなんだ鍋の形をした最中を考案。粒餡・こし餡・ごま餡と3種類ある餡は熟練の職人技によって作られる上品な味わい。

電話 03−3381−7012
中野区本町4−30−14
営業時間 9時〜19時
休業日 不定休




歩道の脇にお題目石の道標と案内板が建っています。こんな賑やかな通りに300年も前の道標が置かれているとは驚きです。

お題目石

この石碑は、杉並区堀ノ内にある妙法寺への参詣道に道しるべとして享保三年(1718年)に建てられたものです。元の参詣道は、新宿区との境界付近の本町一丁目から青梅街道をはずれて、この四つ角のところへ出る道が利用されていましたが、江戸時代後期に鍋屋横丁からの道が整備されました。




洋菓子店のルージュブランシェのショーウインドウには、ピカチューやキティちゃんなどのキャラクターケーキが並んでいます。くまモンのケーキはないのかな?



鍋横の名物店といえば、パン屋さんのミルクロールですね。日本で一番安いパン屋さんという評判です。パン1個30円からという安さ。それでいて美味しいという評判です。この日もお店の前にはずら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜りと行列ができています。お店はとても狭いので、パンはショーケースに並んでいるものをお客さんが指定して店員さんに取ってもらうという方法をとっています。こちらの方が衛生的でいいですね。



<<写真多数のため、F青梅街道〜中野新橋コース(2)に続きます。>>




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