F青梅街道〜中野新橋コース(2)  

コース 踏破記  

<<F青梅街道〜中野新橋コース(1)の続きです>>  

鍋屋横町を抜けた先が十貫坂上となります。坂上といいますから、十貫坂の上になるのですが、このあたりの中野通りは神田川に向って下り坂になっています。なので、私は今まで十貫坂は中野通りの坂だと思っていました。実は、十貫坂上交差点から西へ入っていく一方通行の坂が本当の十貫坂なのです。ところで十貫とは何か謂れのありそうな名前ですね。言い伝えでは、十貫坂の名前の由来には幾つか説があるようです。
1)中野長者がこの坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったから。
2)中野長者がここに財宝を埋めたから。
3)十貫の重さのものを積んだ荷車が坂を上がれなかったから。

ちなみに、中野長者については次の伝説があります。

今は昔、応永の頃(1394年〜1427年)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。

さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。

金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。

しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。

九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。




中野通りに面して、神田川の手前に本五ふれあい公園があります。NTTの社宅跡地を区が取得し、平成二十八年(2016年)に開園した都市型公園です。神田川に面し、自然の草木が残る園地は、区内では新たに整備される公園としては滅多にない広さです。約1.2ヘクタールの敷地の東半分が人工芝の多目的広場、西半分が芝生と林になっています。隣接する区立二中の敷地と併せて防災公園の役割も担っています。端午の節句も間近いことから、公園の空には鯉のぼりが元気よく泳いでいます。。。風がないのか、鯉の干物状態ですね。



中野通りを寿橋で渡ります。神田川は普段は河底の溝を水がチョロチョロと流れている感じですが、大雨になると川幅一杯に濁流が流れます。神田川も平成五年頃までは大雨のたびに浸水被害が報じられていたのですが、環状7号線の地下50mのところに巨大なトンネル型の調節池を設けることによって、近年の集中豪雨でも洪水が起こることはなくなりました。



神田川に隣接して京王バスの中野車庫があります。中野通りを挟んでA・Bの敷地に分かれているのですが、B敷地の方は半分に分割されてマンションが建設されています。中野の一等地にある車庫ですから仕方ないですけど、駐車するバスも窮屈そうです。



寿橋交差点から中野通りは上り坂になります。その坂を登りきったところに都立冨士高校があります。高校なのに、何故か中学校を併設しています。大正八年(1919年)に創立された東京府立第五高等女学校を前身としていて、都立高校全盛期には第三学区(中野区・杉並区・練馬区)において女子最難関といわれていました。1970年代から1980年代初頭には、東京大学合格者数が30〜40名前後を数え、東大合格者数ランキングでも全国で20位以内に入り、当時都立トップ校であった西と共に「西・富士」と並び称されていました。平成二十二年(2010年)4月に開校した附属中学校を併せ、中高一貫校化がなされました。前身が女子校ということもあって、卒業生には女性の著名人も多く輩出していますが、プロ雀士の井出洋介さんが卒業生だとか。最高裁判所長官とか検事総長の名前も見られます。多彩な人材を輩出したということは、それだけ校風が自由だったのでしょう。



富士高校バス停の手前を右折して住宅街の路地を進んで行きますと、急な下り坂に出会います。急坂の下にはフェンスに囲まれて曰くありげな巨石のモニュメントがあります。。



江戸時代に上水道を造った際に、水流を分配するために設置された溜めマスとのことです。石造りなら耐久性はあるでしょうけど、内部を削るので職人さんも大変な作業だったことでしょう。

江戸初期の上水道用溜めマス

この溜めマスは、昭和三十九年10月17日、地下鉄東西線竹橋駅付近の建設工事現場から発掘されたものである。記録によると、江戸初期に敷設されたものと思われ、当時神田上水だけで64kmに及ぶ木樋と3,600余のマスが敷設されていたが、そのほとんどが木製で石造りのものは少なく「万年マス」と呼ばれ、当時から貴重なものとされていた。




坂下の左手に日本ヴォーグ社の社屋があります。日本ヴォーグ社は昭和二十九年(1954年)に創業し、手芸に関する雑誌や書籍の刊行をはじめとして、学園運営・通信教育・通信販売・イベント・ワークショップなどを展開しています。出版事業では定期雑誌7誌を発行し、書籍は年間100点ほどを刊行しています。社名からして外国の会社に見えますが、生粋の日本企業です。平成二十九年(2017年)に本社を当地に移転しました。新社屋の床面積はワンフロア1,000uもあり、いろいろな部門の人が同じ空間で顔を合わせて話しやすくなったので、部門間の壁がなくなってきたという効果が生まれたそうです。また2階はフリースペースとなっていて、大規模な展示会とかセミナーとかワークショップなども開催することができるようになっています。隣接してギャラリーカフェもあり、来場者が食事をしたりくつろぐこともできるとのことです。まさにオフィス革命ですね。社屋の壁に沿った竹林もよく整備されています。筍が盗まれないか心配ですが。



日本ヴォーグ社と道路を挟んだ反対側には、東京メトロの中野車庫があります。並んでいるのは丸ノ内線の赤帯の電車で、中野富士見町まで地下を潜っていた車輌が地上に出て、この場所で整備と点検が行われます。フェンス越しですが、ずらりと並んだ新旧の車輌は圧巻です。



方南通りを跨ぐ歩道橋の近くで左折し、住宅地の路地を南下します。こんもりと木々が生茂ったところに多田神社が鎮座しています。一の鳥居の手前に「多田神社御由緒」と書かれた石碑が置かれています。神社名が「多田神社」ということもあってか、多田満仲公に対する思い入れが相当に強いようです。書き写すのも大変でした。

多田神社御由緒

満仲公は第五十六代清和天皇の御曽孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を賜り、国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその威力は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽くされた事蹟は尠少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第二子は歴史上著名なョ光公であり、第四子ョ信公は平忠常を討ち、関東を平定した。続いてョ義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴き、その凱旋の帰途。寛治六年(1092年)祈願達成の報賽として、大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には、「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長二年社殿を再建。更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治十四年改築し、また明治四十年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦後氏子の急増により昭和三十五年社殿を改築したのが現在の社である。




階段を上がって本殿の前に進みますと、絵馬板の横に雑色村と多田神社の関わりを記した案内板が立っています。

雑色村と多田神社

現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は、約九百年前、寛治六年(1092年)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(1591年)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。




南台は中野区の最南部の町域です。東部・西部・南部を渋谷区と杉並区に囲まれ、大きなスーパーは見当たりません。そのため、お買い物は区外に出るのが便利そうですが、地元にも南台商店街があります。住民の皆さんはどこでお買い物をなさっているんでしょうか?



中野通りに面して、チューリップ公園があります。都営アパートの敷地内に設けられた小さな公園(というか、ポケットパークのような広場)で、遊具も見当たりませんね。新緑の季節ですが、チューリップの花も咲いていません。名前の由来は、昔はチューリップの滑り台があったからだそうです。タコとか豚とかの滑り台は各地にありますが、チューリップの滑り台ってどんな形をしていたのでしょうかね?



南台商店街の道路に面して猫カフェの窓があります。窓に貼付けられた猫写真は保護猫のようです。定期的に譲渡会が開かれているようですので、一日も早く優しい飼い主に巡り会えたらいいですね。



南台商店街を抜けて方南通りに向います。右手には広大な南台いちょう公園が拡がっています。公園の北半分はサッカー場になっていて、休日にはよく子供達の試合が行われています。公園からは新宿副都心の高層ビルが手に取るように見渡せます。その中でも都庁のツインタワーと東京オペラシティタワーの高さは圧巻です。



方南通りに面して、東京大学教育学部附属中等教育学校の長い塀が続いています。敷地全体は東京大学中野キャンパスとなっていますが、その中に中高一貫校が設置されています。学期は大学と同様の2学期制であり、東京大学教育学部の研究学校として、中高一貫校(6年一貫カリキュラム)の研究、総合学習の実践研究、双生児(三つ子を含む)生徒の研究など、教育学研究も行われています。とくに中等教育機関における双生児研究は世界的にも珍しく、そのため入学検査には双生児枠があり毎年1組〜10組程度の双生児が入学しているとのことです。



弥生町に入ります。地名からして由来がありそうですが、この辺りで、弥生時代の遺跡がいくつか見られることに起因しているとのことです。弥生町の昔の地名は川嶋村だったそうです。道路に面して地蔵尊を祀った小さな祠があります。

川嶋地蔵尊

中央の地蔵尊は享保十年(1725年)に建てられたもので、正面の台石には「川嶋村内の善男善女が一人も欠けず皆でこれを建てた」と刻まれています。両脇の六地蔵は宝暦七年(1757年)田口平四郎の妻が願主となり、川嶋村地蔵講中で建てたものです。地蔵菩薩は、お釈迦様の入滅後、未来仏(弥勒菩薩)が成仏するまでの無仏の時代に出現して、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を済度する菩薩で、三途の川の賽の河原で子ども達を救うやさしいほとけさまです。当時のこの地域の人々はどのような願いをこめてこのお地蔵様を建てたのでしょうか。久しく正蔵院の境内にあった地蔵尊を、此度参道入口にお移ししました。昔も今も変わらない願いをこめて

願以此功徳 普及於一切
我等興衆生 皆倶成仏道




地蔵尊の奥に正蔵院というお寺があります。住宅地の中にある広大な敷地のお寺ですが、道路から奥まったところにあるので、地元の人しか知らないのではないかと思います。初めて名前を知りましたが、墓地には川住行教のお墓があるそうです。

川住行教の墓所

当寺の墓地に川住行教の墓所があります。角柱形の墓石に「真照院良誉行教」とあるのがそれです。行教は文政八年(1825年)三河国西尾藩(現 愛知県西尾市)に生まれ、のち、藩主松平乗全・乗秩の二代に仕えました。江戸時代の末、幕府非常の際、乗全が老中の重職を命ぜられ江戸に下ったおり、行教もこれに随行し万延元年(1860年)三月井伊大老の暗殺事件がおき、乗全がその責を負い老中の職を辞して西尾藩に退いたとき、行教もまた帰藩しました。のち乗秩に仕えて大いに藩の改革につとめました。明治維新、新政府に選ばれて三河国の大参事に抜擢され、その名声は高かったと伝えられています。やがて明治九年、その職を去り、以来中野の雑色村に閑居して悠々自適の生活に入りましたが、明治十七年(1884年)二月、病のため六十歳で死去しました。後世「中野長者の伝説」の調査をした元陸軍中尉川住(金に呈:トウ)三郎は、この行教の子です。




川島商店街は現在ではシャッター通りと化していますが、かって中野区内でも有数の商店街でした。昭和時代にはさぞかし賑わっていただろうとは思うのですが、今でも面白いお店が残っています。



商店街の入口にほど近く、軒先に大書きされた値札が目を引く「肉のジャンボ」は日本一の激安店との触れ込みです。本業は肉屋さんのようですが、加工品や乾物・調味料なんかも売っています。賞味期限切れの食品もありますが、別に食べても何ともありませんので安心してください。特にお正月明けにはハムとか七草粥とか信じられないようなお値段になります。賞味期限切れの飲み物なんかはおまけで持ち帰りできます。「だがしの神米」はお米屋さんがやっている駄菓子屋さんです。お店の左半分が米屋さんで、右半分が駄菓子屋さんになっています。以前、吉田類の酒場放浪記でも紹介されました。駄菓子屋さんは昭和時代から続いているのかと思いきや、意外と歴史は新しく、平成五年(1993年)に始めたお店だそうです。それでも、店内は昔懐かしい昭和の駄菓子屋の雰囲気がたっぷりで、連日多くの子どもたちで賑わっています。この雰囲気を懐かしがる大人も多いようで、子供に混じっていい年をした大人もよく訪れるのだそうです。



鳥ひさは惣菜専門店です。小さなお店ですが、いつも軒先に昔懐かしい惣菜を並べています。雰囲気がレトロっぽいので、時折テレビドラマ(映画?)のロケなんかにも使われています。イタリアン居酒屋Avventura(アベンチュラ)はイタリア語で冒険を意味する単語です。6年前にオープンした割と新しいお店ですが、元々はケータリングのセントラルキッチンとしてスタートしたそうです。内装を綺麗にしたところ、店舗での営業もしようかという流れになり、今年からはランチの営業も始めたそうです。ただ、コロナ禍でお酒の提供もままならず、今は店頭でのお持ち帰り料理の販売も行っています。結構評判は良いようなので、頑張ってもらいたいものです。



川島通り商店街から一歩入りますが、住宅が続く路地に面して「氷舎mamatoko」のお店があります。10人も入れないような小さなお店ですが、東京に数ある行列の出来るお店でもトップクラスと思います。かき氷のお店ですが、凍えるような平日でも行列が絶えないかき氷の超人気店です。お客さんは殆ど若い女性ですが、カンカン照りの日でも日傘を差して辛抱強く順番を待っています。それほどまでして食べたいもんなんですかね?でも、定番のいちごミルクをはじめ、ここでしか味わえないような特別感のあるフレーバーも多数用意されていて、お腹の調子を整えて1回の来店でおかわり2杯は基本と言う常連さんも多いそうですから行列に納得かも。商店街の中程に松島市場があります。空き倉庫みたいなところの奥の方に魚屋さんと野菜屋さんがあるのですが、通りから入り辛いので常連さんでないとなかなか入れません。魚屋さんの店名は魚健で、家族で切り盛りされてるようです。切り身・刺身・惣菜と昔ながらの品揃えです。たまに面白い手作りの惣菜が並びますので、時々立ち寄るといいかも。



商店街を抜けた先の三叉路の角に地蔵尊を祀った小さな祠があります。今も昔も子育ては大変なんですね。

向台の地蔵尊

この地蔵尊は、寛政八年(1796年)八月、旧本郷村の念仏講の仲間が、子供と道ゆく人の安全を願い造立しました。台座には「三界万霊本郷村念仏講中 右ぞうしき道 左はたがや道」とその願いが刻みこまれています。地蔵尊は、安産や子育など、子供の守り本尊として信仰されるほか、いろいろの御利益が信じられ、中世からしだいに民間にひろがり、江戸時代になると多く造立されるようになりました。この地蔵尊もそうした願いをこめて、念仏講で結ばれた仲間が造立し、代だい大切にまもってきたものです。大正のはじめ頃まで大きな数珠をまわし、念仏を唱える念仏講の行事が行われていました。戦後、この地蔵尊の維持保存のため地蔵講ができ、年一回供養の行事が復活され、続けられています。




中野新橋駅に着きました。ついでに、駅名となった神田川に架かる中野新橋を見てみます。橋の名前は元々「新橋」だったそうですが、2011年に橋が架け替えられた際に現在の「中野新橋」に変更されたそうです。港区の新橋と区別するためでしょうか?橋を渡った右手の小さな公園の中に、先代の橋の親柱の上に飾られていた擬宝珠が展示されています。現在と同じ形をしていますね。

この唐金(青銅)の擬宝珠は、昭和三十六年(1961年)2月8日の営団地下鉄丸ノ内線(当時の名称は荻窪線)の開業と同時期に架け替えられた当時の「新橋」の親柱の頂部に、平成二十三年(2011年)8月まで取り付けられていたものです。



ということで、中野新橋駅まで歩き終えました。中野区のウォーキングコースとしては一番長距離のコースでしたが、新旧取り混ぜていろんな見どころがありました。中野の歴史の一端に触れられて楽しいお散歩ができました。中野の南部エリアのお散歩は今回で終わりで、残りは北部エリアとなります。また新たな発見に出会えそうで楽しみです。






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