G東中野〜上高田コース  

コース 踏破記  

今日は中野区の東中野〜上高田コースを歩きます。東中野駅をスタート地点として、上高田地区のお寺巡りをします。  

東中野〜上高田コース

東中野〜上高田コースの歩行距離は約3.1km(約4,430歩)、歩行時間は47分、消費カロリーは約141kcalです。

スタート地点:東中野駅
↓ (約1.1km:約17.0分)
@上高田台公園【ターザンロープのついた大きな木製遊具のある広場があります】
↓ (約0.5km:約 8.0分)
A「たきび」の歌発祥の地
↓ (約0.6km:約 9.0分)
B桜ケ池不動尊【古くから湧出する清水と不動様で、村人たちに大切に守られてきました】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
C東光寺【上高田の農民の菩提寺として、江戸初期に創建されたと伝えられる寺院です】
↓ (約0.5km:約 8.0分)
ゴール地点:新井薬師前駅


スタート地点の東中野駅西口から歩き始めます。19世紀に使用されたレールをリサイクル利用した東中野駅の駅舎やホームはなんとなく古ぼけていて、田舎の辺境の駅のような侘しさを感じていました。アトレビューの完成や西口広場の整備で西側の西口は外観を一新しましたが、北側にある西口出入口は昔のままです。こちらの外観が昭和チックでいいという人もいるのでしょうけど。



山手通りは道幅が広く、平坦な土地かなと思っていたのですが、東中野駅付近の中央線は半地下になっています。山手通りの下を中央線が走っているのですが、普段歩いていると全く気がつきません。そんな半地下の線路の上に架かっている陸橋が桜川橋です。桜川といいますから、昔は川が流れていたのではないかと思ってネットで調べたのですが、そんな川は見当たりませんでした。桜川橋の名前にはどういう由来があるんでしょうかね?



桜川橋の袂に「かきもち処はやしや」があります。ガイド本にも紹介されている手作りの“かきもち”に拘るお店です。“かきもち”とは、もち米を使ったあられの関西風の呼び名です。「はやしや」はそんなかきもちをこの場所で1940年から販売している老舗で、今は三代目が切り盛りしています。そんな「はやしや」のかきもちの中では「柿の種」が一番の人気商品で、2008年には「中野の逸品グランプリ」で最優秀逸品賞を受賞しています。一般に販売されている柿の種とは違ってとても大粒で、どちらかというと「おかき」といった印象です。でも一口食べてみるとピリッと辛くて、紛れもない柿の種です。辛みや歯応えもほどよく、絶品とのことです。

かきもち処はやしや

柿の種
創業70年の老舗です。人気の「柿の種」は、食感と後味が特徴的。ほどよい辛みとあいまって一度食べたら忘れられない逸品です。

電話 03−3371−8848
中野区東中野3−1−1
営業時間 10時〜20時(土曜・祝日は10時〜19時)
休業日 日曜日




山手通りを渡った先に、ビルとビルに挟まれた東中野ギンザ通り商店街が北西方向に約600mほど延びています。この通りは、江戸時代末期から青梅街道と早稲田通り(旧昭和通り)を結ぶ主要な道といわれていました。商店街の中程には大型スーパーのライフやグルメ雑誌等に紹介されたお店も多数あり、生活関連商品に関する商店も揃っていて、近くにある若貴兄弟も通った明大中野中学校・高等学校や各種専門学校、それに地元の人たちで賑わっています。商店街を抜けた先の早稲田通り沿いに集中するのが上高田一丁目の寺町です。



保善寺は、文禄二年(1593年)に武田信玄の従弟の蟠翁門龍大和尚によって開山されました。元々は牛込通寺町(現在の神楽坂)にありましたが、明治三十九年(1906年)に中野に移転してきました。江戸幕府三代将軍徳川家光が当寺に立ち寄った際、獅子に似た犬を贈ったことから「獅子寺」と呼ばれることになりました。

曹洞宗 保善寺 通称獅子寺

盛高山保善寺といい、御本尊は釋迦牟尼佛をまっる。開山は勅特賜円明宝鑑禅師蟠翁門龍大和尚で、武田信玄の従弟にあたる。文禄二年(西暦1593年)の創建。三代将軍家光公牛込酒井邸にあそびし折り、当山に立寄られ、獅子に似た犬を賜う。以後獅子寺と称す。明治三十九年牛込通寺町より当地に移る。本堂正面に月舟禅師筆「獅子窟」の額をかかぐ。




宋清寺には「白翁大黒天」と呼ばれる大黒天像があります。この像は日蓮の作とされ、鎌倉の建長寺にあったものですが、火事に遭った際に近江国伊香郡に飛び、後に福岡藩の藩主となる黒田氏の手に渡り、黒田長政の代になって宋清寺に奉納されたものです。宋清寺の別名の「なが寺」は「長政(ながまさ)の寺」の意といわれています。宋清寺の墓地には、幕末に外国奉行として欧米との条約締結に尽力した水野忠徳の墓があります。



松源寺門前の寺名を記した石柱の上に猿の石像が鎮座しています。松源寺は別名「さる寺」と呼ばれています。これには言い伝えがあって、松源寺4代目住職の徳門和尚が渡し船に乗ろうとしたときに、猿に邪魔されて乗ることができませんでした。ところが、その船が目の前で沈没したことから、猿のおかげで難を逃れることができたという逸話から「さる寺」と呼ばれるようになったのです。



コ寺は新井白石ゆかりの寺として知られています。新井家の一族が高徳寺の坊守をしていた縁で、白石は久留里藩(現在の千葉県君津市久留里)から奉公構(ほうこうかまい:江戸時代に武士が受けた刑罰の一種で、旧主からの赦しがない限り将来の仕官が禁ぜられること)の処分を受けて浪人生活を送っていた時期と甲府徳川家の徳川綱豊に仕官する直前の時期に高徳寺に寄留していました。かつては「折たく柴の記」の原本をはじめ、白石ゆかりの品々がありましたが、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失してしまいました。平成七年(1995年)、白石に因んだ「新井白石記念ホール」が建てられました。墓地には、美容家の山野愛子さんや俳優の長門裕之・南田洋子夫妻のお墓があります。



境内には新井白石の業績を記した案内板が立っています。

東京都指定旧跡 新井白石墓

江戸中期の朱子学者・政治家。名は君美、通称勘解由、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府のコ川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永六年(1709年)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房とともに家宣を補佐。正コの治を開き、教学と政治の一致につとめた。武家諸法度改訂・貨幣改鋳・海舶互市新令の施行・儀式典礼の整備などはそのおもな事績である。享保元年(1716年)引退。学者として特にすぐれ、合理性と実証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩翰譜」「読史余論」「西洋紀聞」「采覧異言」「折たく柴の記」など。

Historic Places Arai Hakuseki Haka (The grave of Arai Hakuseki)

Arai Hakuseki is a Confucian, a politician and a historian in the middle of the Edo period. He was born in 1657 and became a disciple of Kinoshita Jun-an who was a Neo-Confucian scholar. Hakuseki devoted himself to "Shotoku no chi" (the political reforms in the Shotoku era) under the reign of the sixth Shogun Ienobu, such as the amendment of the "Buke shohatto" (regulations for Warrior Households) and the recoinage. When Yoshimune became the eighth Shogun, Hakuseki lost his position. He passed away in 1725, and buried in Kotokuji Temple. Kotokuji Temple moved to the current place from Asakusa in 1909, so Hakuseki's gravestone was also reconstructed here.




源通寺は、慶長十五年(1610年)に創建され、湯島や浅草付近を転々としていましたが、明治四十一年(1908年)に中野に移転してきました。墓地には、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者である河竹黙阿弥のお墓があります。

河竹黙阿弥の墓所

江戸時代末から明治の中頃に活躍した大劇作家、河竹黙阿弥(本姓吉村、二代河竹新七(1816年〜1893年)の墓所が、当寺の墓地入口にあります。黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品をはじめ、「三人吉三」や「白波五人男」などの盗賊を主人公とした生世話狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道をひらきました。しかし、慕府が写実的傾向を禁じて勧善懲悪を奨励したため、黙阿弥は作風の転換を強いられ、その後、慕末・維新期の激動する社会のなかで、江戸時代後期の歌舞伎の創作法を整理・集大成し、「真に江戸演劇の大問屋」と坪内逍遙に評される仕事をなしとげました。黙阿弥の作品は、四代市川小団次をはじめとする歴代の名優によって演じられました。明治四十一年、当寺が移転したとき黙阿弥の墓も浅草から移されました。




正見寺は、応永年間(1394年〜1428年)に近江国愛知郡栗田(現在の滋賀県愛知郡愛荘町栗田)にあった駒井城城主の駒井高植・駒井宗高によって開基されました。寛永五年(1628年)に江戸に移転し、明治四十二年(1909年)中野に移転しました。墓所には、江戸谷中の笠森稲荷門前にあった「鍵屋」の看板娘で一世を風靡した笠森お仙のお墓があります。笠森お仙は家業の水茶屋の茶汲み女として働きましたが、明和年間(1764年〜1772年)には浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤と人気を二分し、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およしと共に江戸の三美人(明和三美人)のひとりとしてもてはやされました。明和五年(1768年)頃に市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となって、大田南畝の「半日閑話」で「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙美なりとて皆人見に行き」と記され、「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」と手毬唄に歌われ、お仙を題材にした狂言や歌舞伎が作られるほど一世を風靡しました。それにより、お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたといわれています。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった今でいう「お仙グッズ」も販売していました。江戸期のアイドルだったわけですね。



先日(10月5日になりますが)、台東区のCコースを歩いた際に、谷中の功徳林寺の境内にある「笠森稲荷」を訪れました。功徳林寺は、同じく谷中にある天王寺の塔頭で廃寺となった福泉院跡地に建てられたお寺です。功徳林寺の境内には赤い鳥居が緑に映える笠森稲荷があります。



笠森稲荷の門前にあった水茶屋「鍵屋」で働いていたのが笠森お仙でした。功徳林寺の門前に笠森お仙の逸話が記された案内板が立っています。
江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂

笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が境内にあります。御自由に御参拝ください。

Story of Kasamori Inari

"Kasamori Inari" is one of the Inari shrines built in the Edo period. "Inari" is a Japanese god of rice, and usually attended by foxes as his messengers. This shrine is so famous because of a relation with “Kagi-ya" that it was chosen as a theme of "Temari-uta" (i.e. Japanese song sung while playing a traditional Japanese handball game). Kagi-ya was the name of “Cha-ya" (i.e. Japanese cafe in the Edo period). In this cafe, waitress “Osen" was working. Osen was one of the three beauties of Edo and a model in "Bijin-ga" (i.e. beautiful person picture). Hence many men went to Kagiya to see her after making a short visit to Kasamori Inari, which was located near Kagiya. As you can see, Kasamori Inari became famous because of Osen. This shrine is where people visit in order to make their wishes. When you have something to wish, come visit us.




緩い下り坂を下って上高田一丁目交差点先を右折します。この辺りもお寺が集まっています。左手に宝泉寺があります。宝泉寺は、駒込吉祥寺三世興山圭隆大和尚が永禄五年(1562年)に江戸城清水御門近くに創建しました。その後、田安門外と牛込横寺町への移転を経て、明治四十一年(1909年)中野に移転してきました。墓地には板倉内膳正重昌のお墓があります。山門前の植え込みに案内板が立っています。

板倉内膳正重昌の墓所

この宝泉寺には、板倉内膳正重昌の墓所があります。高さ約3メートルの五輪塔の中央には剱峯源光大居士、その右に寛永十五戊寅歳(1638年)、左に正月朔日(ついたち)と刻まれています。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日にあたり、金石(きんせき:金属や石などに記された文字資料のこと)史料としても貴重なものです。明治四十一年、牛込横寺町(新宿区)から移転してきました。重昌は、京都所司代板倉勝重の第三子で、のち三河(愛知県)の深溝城主となりました。若くして徳川家康の近習となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」・「君臣豊楽」の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏の滅亡へと進んでいきました。寛永十四年(1637年)島原の乱が起ると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励し、万徒の鎮定につとめました。しかし、強い抵抗にあって果さず、幕府は再び老中松平信綱を派遣して指揮にあたらせることにしたため、責任を痛感した重昌は、翌年元旦「原城」を総攻撃し、自らも戦死をとげました。




上高田公園は、閑静な住宅街の中にある広い敷地の公園です。本格的なアスレチック遊具にはターザンロープもあり、遊びごたえ充分です。



西武鉄道新宿線新井薬師前駅の南、上高田三丁目にひときわ目立つ竹の垣根が続くお屋敷があります。ここが「たきび」の歌の発祥地で、「かきねの かきねの まがりかど」という歌詞そのままの世界が残っています。作詞した異聖歌がこの付近に住み、近隣を散歩しながら作詞したと考えられています。

「たきび」のうた発祥の地

今も人びとに歌い継がれる「たきび」のうたは、平成十九年(2007年)文化庁の「日本の歌百選」に選出されました。この童謡の作詞家・巽聖歌(本名野村七蔵:1905年〜1973年)は岩手県に生まれ、北原白秋に師事し、多くの優れた児童詩を残しました。聖歌は、この詩が作られた昭和五・六年(1930年・1931年)頃から約十三年の間、萬昌院功運寺のすぐ近く、現在の上高田四丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散歩しながら「たきび」のうたの詩情をわかせていたといわれています。歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていくなかで、けやきの大木がそびえ、垣根の続くこの一角は、今もほのかに当時の面影をしのぶことができる場所といえましょう。




桜ケ池不動尊は、神社仏閣が集まる上高田四丁目にあります。この辺りには昔から豊かに湧出する清水と不動様があり、村人はお不動様の清水・桜ヶ池の不動様と呼んで大切に守ってきました。江戸中期頃から、榛名講や大山講などへの参拝のため、この清水で禊清めを行い、道中の安全の祈願したとの伝承があります。現在も豊かな清水が湧出し、多くの参拝者が訪れています。

桜ケ池不動尊の由来

当地には昔から豊かに清水が湧出し、いつの頃からか大きな椿のもとに小さな祠があり、お不動様が祀られておりました。村人はお不動様の清水、桜ヶ池の不動様と称し、聖地として大事に守って参りました。古老の伝承によれば、江戸時代中期享保のなか頃より上高田には榛名・大山・武州御嶽・三峯の四講があり、講中の代参者は禊清めました。また日照り続きのときは雨乞いを祈願したり、あるいは子どもの遊び場所としてこの辺りは村人から親しまれておりました。一方、妙正寺川の流域に位置する上高田の農地も市街化に向けて耕地整理を必要とする状況に迫られ、昭和七年耕地整理組合が発足致しました。妙正寺川にかかる四村橋の下流には堰場があり、そこからの導水と東光寺の湧水池、柳の井戸、桜ヶ池の湧水を合わせ農業用水として二十数軒が利用しておりましたが、用水用地の諸所は利用者の共有するところでありました。昭和二十九年その事業の完成に伴い、不動尊ならびに桜ヶ池一帯を地域の人々の信仰と憩いの場として保存することを目的に、不動尊・桜ヶ池隣接地とこの共有地とを交換、ここに不動尊用地が拡張されました。以来敷地共有者は不動講員として敷地の確定・堂祠・集会場・池泉等の諸整備を行い、篤信者の便に供するなど今日に至るまで護持に務めて参ったものであります。このたび諸般の情勢の変化に伴い、桜ヶ池不動尊の永代護持を付託して、宗教法人東光寺に一切を寄進することと致しました。




清水が湧き出す清らかな池には鯉が泳ぎ、池垣には大山講の石碑が置かれています。



東光寺は、上高田村に住む農民たちの菩提寺として江戸時代初期に創建されたと伝えられています。先ほど訪れた桜ケ池不動尊は東光寺の別院で。境内には観音様がお祈りを捧げておられます。

滋命観音縁起

この観音さまは「滋命観音」と申し上げ、いのちをいつくしむお心をお持ちの方です。ご利益は息災延命・諸願成就、願いを籠めるどなたにも「寝たきりになることなく、天寿の続く限り頭脳明晰・元気溌剌で最後は一週間ほどの病で家族に看取られながらすっと消えてゆく」といった理想的終焉を守ってくださるよう発願されています。具合の悪い方は合掌してから水を掛けるなり病む個所をたわしで洗いお祈りしてください。真心こめた願う心は、感応道交を生み出しましょう。なお左り手の廻る石には観音さまのご真言(オン・アロリキャ・ソワカ)が刻まれています。一回転させればご真言を一遍唱えたことになります。(注記:ご真言とは、仏・菩薩などの真実の言葉をいいます)




新井薬師駅手前の歩道角に庚申塔があります。庚申塔には屋根もなく野ざらしで一部欠けているところも見られますが、唐破風笠付角柱型の堂々とした外観をしています。青面金剛像・邪鬼・三猿が描かれていて、造立年は享保四年(1719年)9月で、「奉造立庚申供養講中 二世安樂祈所」と書かれています。この庚申塔の庚申講中は昭和後期にはなくなってしまいましたが、今でもしっかりと守られています。昔はこの庚申塔は霊験あらたかで、上高田村で病人が出た時は祈願すると治ると信じられていたとのことです。



新井薬師前駅と沼袋駅を挟んだ中井駅〜野方駅間の連続立体交差事業(約2.4kmにわたって鉄道を地下化し、道路と鉄道を連続的に立体交差化する事業。これにより、7ケ所の踏切をなくすことにより、交通渋滞が解消される見込み。)では西武新宿線の地下化工事が進んでいますが、まだまだ地下筐体の工事が始まったばかりで、シールド工事には至っておらず、工事完了までには相当な年数がかかりそうです。一応、2027年が事業完了の予定にはなっていますが。



新井薬師前駅の南側の道路に面してガイド本お勧めのお店があります。

薬師の大番

ラーメン コテ丸
新井薬師前駅の前に開店して33年。一番人気はラーメン「コテ丸」。背脂は濃厚なのに後味スッキリ!中細麺の美味しい一杯を提供しています。

電話 03−3385−1193
中野区上高田3−41−3
営業時間 11時30分〜21時(曜日により異なる)
休業日 日曜日




ということで、「東中野〜上高田コース」を歩き終えました。短いコースでしたが、中野の寺町散歩が楽しめました。上高田一丁目の早稲田通り沿いと上高田四丁目は通称「寺町」と呼ばれ、たくさんのお寺があります。これらの寺々は東京の都市化にともなって、明治時代の末から大正時代に旧江戸・東京市中から移転してきました。その当時は中野一帯はまだまだ長閑な田園地帯あるいは雑木林だったのでしょう。でも、檀家の人はどうやってお寺との関係を維持したのでしょうかね?




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