- H平和の森公園〜江古田の森公園コース
- コース 踏破記
- 今日は中野区の平和の森公園〜江古田の森公園コースを歩きます。平和の森公園にある草地広場をスタート地点として、江古田地区を巡ります。
平和の森公園〜江古田の森公園コース
平和の森公園〜江古田の森公園コースの歩行距離は約2.8km(約4,000歩)、歩行時間は42分、消費カロリーは約126kcalです。
スタート地点:平和の森公園
↓ (約0.8km:約12.0分)
@沼袋氷川神社
↓ (約0.9km:約14.0分)
A丸山塚公園【ブランコやすべり台、鉄棒などの遊具があります。樹木が多く、秋には色づきます。】
↓ (約0.5km:約 8.0分)
B武蔵野療園
↓ (約0.6km:約 9.0分)
ゴール地点:江古田の森公園
スタート地点の平和の森公園から歩き始めます。コース図では、草地広場辺りがスタート地点になっています。平和の森公園は中野区新井にあり、旧中野刑務所跡地を再開発してできた区立の公園です。明治四十三年(1910年)、市谷にあった刑務所が豊多摩刑務所(後に中野刑務所)として当地に移転してきました。主に治安維持法に抵触した政治犯や思想犯を収容していました。周辺の宅地化の流れや地域環境の変化などの観点から刑務所は廃所され、昭和五十八年(1983年)に公園として整備されて開園しました。現在、再整備に向けて準備が進んでいます。再整備前の敷地内には、芝生の広場や野球広場などの他、ここで発掘された弥生時代の竪穴式住居が復元されていたり、平和について考える平和資料展示室などがありました。
元刑務所の敷地内には、平和の森公園の他に下水処理施設も造られています。中野水再生センターは、平成七年(1995年)7月に運転が開始され、落合処理区のうち、中野区・杉並区の一部の汚水を処理しています。処理水は妙正寺川に放流され、約3km離れた落合水再生センターの処理能力の補完と位置付けられています。
多目的運動広場には、陸上競技用のトラックや野球場が備えられ、また、それを外周する3つのウォーキングコースが設定されています。令和二年(2020年)10月、敷地の一画に中野区立総合体育館が開所しました。中野区に本社があるキリンビバレッジが命名権を獲得し「キリンレモンスポーツセンター」という名称が付けられました。
公園内のあちこちにトリム遊具と呼ばれる運動器具が設置されています。平行棒・背伸ばしベンチ・前屈・ぶら下がり、垂直跳び・上体ひねり・上体そらし・腹筋台などです。全部やったら筋肉痛間違いなしです。
広場の盛り上がったところには、コンクリート製のすべり台が造られています。幅が広いので、雪が積もった日などはソリ遊びが楽しめますね。
公園の中には、バーベキューサイトも設けられています。5区画しかありませんが、水道完備で楽しめそうです。釣り堀(というか、池)で魚を釣っている人がいます。蛙くらいは釣れるかも。
平和の森公園を出て、妙正寺川方向に進みます。妙正寺川には新道橋が架かっています。橋の欄干には奇妙な透かし絵が飾られています。蛙がモチーフだそうです。
妙正寺川の蛙
中野区史には、江戸時代に「活きた赤蛙」を食材として幕府に上納していたと記されています。また、このあたりの地域では、妙正寺川の「赤蛙」を、漢方薬の材料として上納していたとも言われています。
西武新宿線の踏切を渡って右折します。すぐ先には銭湯の煙突が聳えています。一の湯というスーパー銭湯です。一の湯は軟水を使用しています。男湯には岩風呂タイプの露天風呂があります。ほかに、岩盤泉・ミクロバイブラ・ハイパワージェット・座風呂ジェット等が楽しめます。軟水の銭湯は泡立ちよく肌ツルツル・髪サラサラになるそうです。一の湯の歴史は古く、昭和二十五年(1950年)に創業し、平成二十二年(2010年)3月に全面的にリフォームしています。一部であつ湯の浴槽があり、お年寄りの我慢比べにはもってこいです。
「@中野駅〜哲学堂公園周遊コース(薬師あいロード経由)」でもご紹介したアビニヨンはシャッターが閉まっています。連休でお休みなのでしょうか?
手作り菓子アビニヨン
沼チョコ/王様ポテト
各国から取り寄せたこだわりのチョコレートを使い、アーモンドクリームが層になった「沼チョコ」やサツマイモの香り豊かな「王様ポテト」を味わってみては。
電話 03−3385−4336
中野区沼袋1−37−11
営業時間 9時〜19時30分
休業日 水曜日
沼袋の鎮守である氷川神社に立寄ります。初詣以来ですかね。
由緒
一 神社名 氷川神社
一 御祭神 須佐之男命
一 鎮座地 東京都中野区沼袋一丁目三十一番地
当社は今より凡そ六百余年前人皇九十七代後村上天皇の正平年間、後光厳院の貞治元年武蔵國一の宮なる大宮鎮座氷川神社のご分霊を戴きて沼袋・野方一円の鎮守として奉祀せるに始まる。文明九年四月太田道灌、豊島一族と江古田原沼袋の地で合戦の際、当社一帯の高丘は、太田道灌の本陣にして戦勝を祈願し社頭に杉一株を献植す。後年道灌杉と稱せられ老杉天を圧してありしも、昭和十七年惜しくも枯損せり。正保年間代官野村彦太夫社殿を修築す。文久四年石鳥居を建て、明治十三年社殿を改築し、大正十一年拝殿を改修す。大正十五年社務所を新築。昭和十五年皇紀二千六百年、記念として表参道に石大鳥居を建立。昭和三十年神楽殿を改築。昭和三十七年手水舎を新築。昭和四十二年建國記念日制定記念として、裏参道に石大鳥居を建立。昭和四十三年、明治百年記念として玉垣・社号標奉納せられ、神域漸く整いたり。
石段を上がったところに高い杉の木が聳えています。太田道灌が植えたという道灌杉の二代目だそうです。
道灌杉
当神社には、太田道灌が植えたといわれる道灌杉がありました。惜しくも昭和十九年(1944年)頃枯れてしまいましたが、当時の写真からは、高さが三十メートルに達し、樹齢数百年にもなると思われるご神木の姿がしのばれます。文明九年(1477年)四月、対立関係にあった関東管領方の武将太田道灌と関東公方方の豊嶋泰経は、江古田と沼袋の地で戦闘を交えました(江古田原沼袋合戦)。その際、道灌によって戦勝を祈願して植えられたのが、この道灌杉であると伝えられています。道灌はこの合戦に勝利し、豊嶋氏にかわって武蔵野の支配を確立しました。
二代目道灌杉の全景と初代道灌杉の遺骨です。
次いで、禅定院(ぜんじょういん)に立寄ります。禅定院は沼袋二〜四丁目周辺に寺院等が集積している一画にあります。南北朝時代の中期、貞治元年(1362年)に開かれたと伝えられる真言宗豊山派の寺院です。山門をくぐると、区内では一番大きく樹齢600年といわれるイチョウの大木が聳えています。また、春には色とりどりの見事な牡丹の花が見られます。御府内八十八ケ所霊場第48番札所であり、豊島八十八ケ所霊場第48番札所にもなっています。
沼袋駅西側の踏切から北上する道路は、両側に商店が建ち並び、歩行者も多い通りです。車一台がやっと通れるような狭い道路ですが、ここにはバスも走っています。運転手さんはさぞ気を遣うことでしょう。
沼袋商店街の入口付近に、今日もお休みのようですが、スジャータという名前のスリランカカレーのお店があります。ウォーキングガイドには店名しか載っていませんが、カレー通にはかなり名の知れたお店のようです。中野の逸品・グランプリ2009ではスジャータのポーク・カレーがグランプリを受賞したといいますから、相当な実力なのでしょう。30数年前にスリランカから来日し、東大で学んだ経済学の専門家のジョセフ氏は、実は伝統的なスリランカ・カレーの伝承者でもありました。英語教育者として多くの弟子を育てるかたわら、中野区にスリランカ・カレー店「スジャータ」をオープンしました。知る人ぞ知る本格的なスリランカ・カレーを食べさせる店として、多くの雑誌やマスコミにも登場しました。その味は深遠で哲学的でさえあり、ジョセフ氏のお母さんが調達するスパイスが決め手でした。そのスパイスを駆使して、一口食べると「幸福」になる味を作り上げたのです。猛烈に辛いにもかかわらず、なんとも幸せになる不思議なカレーで、ある食通が「麻薬が入っているのでは?」と評論したほどです。しかし、このスジャータ店はビルのオーナーの都合で2007年暮れに閉店し、多くのカレーファンを悲しめました。ところが、一人の若者がこの味に惚れ込んで復活を決意し、ジョセフ氏とともに沼袋でカウンターだけの小さなお店ですが、本格的なスリランカ・カレー店をオープンさせました。カレーのメニューは黒板に書いてる4種類のみです。
・スジャータカレー: 100%牛挽肉を使用
・ポークカレー: 煮込んだ豚バラ肉を使用
・チキンカレー: ピリリと旨辛い味
・ダルカレー: レンズ豆のカレー
どれもジョセフ氏のカレーの味を引き継いでいます。余談ですが、店名の「スジャータ」はジョセフ氏のお子様の名前らしいです。そういえば、ウイッキーさんもスリランカ出身でしたね。英語をネイティブの外国人から教わったのはウイッキーさんが最初でした。デキの悪い生徒に見えたことでしょう。
沼袋交差点の手前に丸山塚公園があります。公園の名前からしていわれがありそうです。公園の片隅には、扇谷上杉家の家宰・太田道灌と石神井城主・豊島泰経が戦った江古田ヶ原・沼袋の戦の犠牲者を祀る豊島二百柱社があります。長尾景春の乱に味方した豊島氏が道灌の拠点である川越城と江戸城の行き来を遮断したため、両者が激突することとなりました。この戦いはかなりの激戦となり、寡兵で臨んだ道灌勢が豊島氏の主力を打ち破り、豊島勢は泰経の弟・泰明をはじめ有力な武将が討死します。さらに敗走して石神井城に籠城した泰経は最終的に城を捨てて逃亡し、有力豪族であった豊島氏は完全に没落しました。以前はこの土地周辺に戦死者を弔う多数の「塚」が存在していたといわれています。豊島二百柱社はこれらの「塚」をまとめて供養するために建立されたものです。社の正面隣にはこのことについて書かれた石碑が建てられています。
文明九年四月十三日、江戸城主太田道灌は平塚城の豊島泰明を攻めたが頑強な抵抗にあい帰城した処、石神井・練馬両城より兄泰経が江戸城を目指し進発したことを知り急遽出撃した。両軍は江古田が原・沼袋で遭遇し激烈な戦闘を展開した。興亡をかけて戦った豊島氏は敗れて泰明以下百五十余名がこの地で戦死し、在地の領主として栄えた豊島氏は致命的打撃を受けた。江戸道沿いに点在の古墳は豊島塚といわれた。このたび地元有志の者が供養のため古来の祠を再建して戦没者の霊を祀る。
新青梅街道を越え、Y字路で右側の路地を進みます。
下徳田橋交差点を右折した右手に武蔵野療園病院があります。昭和十一年(1936年)に結核病院として発足し、当初から福祉医療を目指して無料・低額の診療事業を継続してきました。現在は高齢者医療に焦点を当てた診療及び療養介護・リハビリを目的とした内科単科の高齢者専門病院となっています。また近隣の病院や診療所と「地域連携室」で連携し、高齢者医療の役割を担っています。コースのスポット地点になっているということは、老後のことを思ってよ〜〜〜く見ておいてくださいという中野区からのメッセージなのでしょうか?
江古田の森公園は、中野区江古田にある区立の防災公園です。国立病院跡地の豊富な既存樹林を活かし、隣接する保健福祉施設と調和する公園と謳われています。約6万uの敷地があり、ハナミズキがシンボルになっています。四季折々の自然が楽しめる公園で、地域住民の憩いの場になっています。公園の敷地を含む江古田三丁目14番地は、三方を江古田川に囲まれた標高30m前後の舌状台地で、寺山台地と通称されます。古くから縄文土器が大量に採取されることで知られており、東京都遺跡地図では江古田遺跡として指定されています。江古田遺跡からは縄文時代中期の集落跡が発掘されたほか、中世の寺院や居館の遺構などが検出されています。寺山台地は近世には将軍の鷹狩り場に指定され、明治には茶や桑が生産されていました。大正八年(1919年)に東京市療養所が開設され、のちに国立療養所中野病院に改称されました。主に結核患者の養生施設でしたが、平成五年(1993年)に統合・廃止され、その跡地の一部が公園として整備されました。またそれ以前に江古田川沿いの一部は北江古田公園として先行して開園していました。平成十九年(2007年)に残りの病院跡地の部分も追加で開園し、全体で江古田の森公園という名称になりました。
園内は樹木で覆われ、まるで森の中に足を踏み入れるような感覚です。入口に公園の歴史を記した案内板が立っています。
江古田の森公園の歴史
この場所は、江戸時代には将軍のタカ狩り場に使われ、明治には茶や桑の生産地になり、みどり豊かで日光のあたる明るい場所でした。このような自然環境の優れたところでしたので、大正時代に結核療養所に選ばれました。東京市は療養所を建てると同時に、その建物のまわりに、空気をもっときれいにしてくれる植物の苗を植えて育てました。「野方苗圃」といわれる木の保育園のように使われていたこの場所から、ハナミズキをはじめとする多くの植物が、各地へと旅立っていきました。
公園の西端にあるハナミズキの丘には、その名のとおりハナミズキ(アメリカヤマボウシ)が植えられています。ハナミズキは江古田の森公園のシンボルとなっています。ハナミズキの丘には次のような由来があります。明治四十五年(1912年)、桜に魅せられた米国大統領夫人たちの要望に応えて、東京市長の尾崎行雄は米国に3千本の桜の苗木を贈りました。その桜は首都ワシントンのポトマック河畔に植えられ、後に世界有数の桜の名所になりました。大正四年(1915年)、米国は返礼として40本のハナミズキの苗木を日本に贈りました。その苗木は日比谷公園や野方苗圃で育てられ、街路樹として各地に植栽されました。ハナミズキを育てた野方苗圃は昭和四十六年(1971年)に廃止されて北江古田公園になりました。これを拡張してできたのが今の江古田の森公園です。中野区はこうした経緯にちなんで、江古田の森公園を開園するにあたり、ハナミズキの原木の子孫を都立園芸高校から譲り受け、公園内のハナミズキの丘に植えました。ハナミズキの丘のあたりは台地の端がせり出した形状になっています。これは、ここにあった国立中野療養所が昭和四十年代に新病棟を建設する際に排出した土を廃棄して積み上げた跡です。
ハナミズキの丘
ここには、東京市から送った「ワシントンの桜」の返礼に、大正四年(1915年)にアメリカ合衆国から贈られたアメリカハナミズキを育てた野方苗圃がありました。ここから、街路樹としてなど全国に植えられるようになっていきました。ここには、東京都立園芸高等学校より開園記念として譲り受けた当時の原木の子孫の苗木も植えられています。
公園の中央部には池があり、その下流の小川とともにビオトープを構成しています。ビオトープとは、生物群集の生息空間を示す言葉で、生物が住みやすいように環境を改変する意味もあります。2008年から3年間、ビオトープの小川でホタルの自然繁殖と定着が試まれましたが、結果として繁殖は確認できませんでした。ビオトープは水が時々涸れることがあり、2020年5月も涸れています。
江古田の森公園の東側の沼袋丘陵の東端一帯には、妙正寺川に沿って広がる低湿地遺跡の北江古田遺跡があり、縄文時代のほぼ全期の遺物が発掘されました。塀の内側の植栽の中に案内板が埋もれるように立っています。
北江古田遺跡
ここは、沼袋丘陵の東端、妙正寺川に沿ってひろがる、縄文時代早期・前期・中期・後期にわたる低湿地遺跡です。特に中期(約4500年前)に属する、貯蔵穴などに使われた土坑から、カゴやクルミなど貴重な遺物が出土しました。また、祭祀に使われたと思われる一群の土器も注目され、その中には、植物の繊維を撚ってタガをかけた、赤塗りの珍しい浅鉢があります。この他に、投網の先につける、土器の破片でつくったオモリ(土錘)が多量に発見されました。この時代の人々が植物や動物のほかに妙正寺川あたりの魚をとって暮らしていたことがうかがわれます。
ということで、平和の森公園〜江古田の森公園コースを歩き終えました。短いコースでしたが、中野区が誇るふたつの巨大公園と古の合戦の跡を巡れて面白かったです。他のコースと被る区間もありましたが、日が変われば印象も変わるということで、それもまたよしとしましょう。
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