I妙正寺川コース  

コース 踏破記  

今日は中野区の妙正寺川コースを歩きます。鷺ノ宮駅をスタート地点として、妙正寺川沿いを哲学堂公園まで歩きます。  

妙正寺川コース

妙正寺川コースの歩行距離は約6.2km(約8,860歩)、歩行時間は1時間33分、消費カロリーは約279kcalです。

スタート地点:鷺ノ宮駅
↓ (約0.4km:約 6.0分)
@オリーブ橋
↓ (約0.6km:約  9.0分)
A白鷺せせらぎ公園【多目的運動場のほか、遊具や健康器具など設備が充実している公園です。】
↓ (約1.3km:約20.0分)
B大和公園【児童館に併設しており、遊具のほか、夏季のみ利用できるじゃぶじゃぶ池もあります。】
↓ (約2.1km:約32.0分)
C新道橋
↓ (約1.8km:約27.0分)
ゴール地点:哲学堂公園


スタート地点の鷺ノ宮駅南口から歩き始めます。康平七年(1064年)に源頼義がこの地に八幡神を祀った社殿を建立(現在の鷺宮八幡神社)しましたが、その神社(宮)の境内に鷺が多く棲んでいたことから里人に「鷺宮大明神」と呼ばれるようになり、これが鷺宮(さぎのみや)の地名の由来といわれています。



鷺ノ宮駅南口に接して流れている川が妙正寺川です。妙正寺川は妙正寺池を源流とし、蛇行を繰り返しながら西武新宿線の線路と交差を繰り返して、最終的に高戸橋のところで神田川に合流しています。鷺ノ宮駅は、妙正寺川が西武新宿線の駅に最も近づく地点のひとつです。



妙正寺川の遊歩道を歩いて行きますと、左手奥に小さな公園が見えます。公園の入口には、「双鷺公園」と表示された石板が置かれています。案内板には、双鷺公園の名前の由来が記されています。「双」は、かって地名が上鷺宮と下鷺宮に分かれていたことを表し、「鷺」は鷺宮から採られたとのことです。「鷺」は訓読みでは「さぎ」ですが、音読みだと「ろ」と読むみたいですね。

双鷺(そうろ)公園

この公園を双鷺公園という。双鷺とは、古く江戸時代から昭和七年この地が東京市へ編入されるまで、近くの双鷺橋に沿った道路を境に南側を下鷺宮、北側を上鷺宮と称し、鷺宮を二分する位置にあることに由来する。近くの双鷺橋は、鷺宮音頭の一節に「若い二人の楽しい夢がゆれるこの橋 ゆれるこの橋双鷺橋」と詩われている。その昔、人里離れたこの橋の畔で若者達がロマンの花を咲かせたことから、今なお「恋の双鷺橋」として語りつがれている。昭和二年西武鉄道が開通する前のこの付近は、鷺宮田圃と称し、灌漑用水が清流をたたえ、武蔵野特有の大黷フ陰には萱葺きの農家や白壁の穀倉長屋門などが点在し、素朴な田園風景が見られた。蛙鳴き蛍飛びかう寂寞たる緑田も、文化の流れに淀みなく幾星霜を重ね首都の一角として発展し、鷺宮老人福祉センターと共に双鷺公園が誕生した。




公園の先に「双鷺橋」が架かっています。何ということもない錆付いたコンクリート製の橋ですが、かっては「恋の双鷺橋」と呼ばれていたんですね。鷺宮音頭でなく、歌謡曲になっていたら知名度はもっと上がったことでしょう。



遊歩道脇にもうひとつ児童遊園があります。オリーブ公園という名前は珍しいですね。公園先の橋の名前もオリーブ橋となっています。何故オリーブという名前が付けられたのかといいますと、近くにオリーブで有名な小豆島を舞台にした「二十四の瞳」の作家壺井栄が住んでいたからということだそうです。公園にはオリーブの木が植えられているとのことですが、植物に疎い私にはどの木がそうなのか分かりませんでした。ちなみに、橋の欄干にはオリーブの枝の切り絵が添えられています。



妙正寺川の右手に白鷺せせらぎ公園があります。公園の背後には高層住宅が並んでいます。白鷺せせらぎ公園は鷺宮の調節池上部多目的広場として整備され、平成二十七年に利用が開始された公園です。遊具やベンチを備え、木々も植えられて住民の憩いの場になっています。



調節池というのは、大雨で妙正寺川の水量が増したときに、地下に造られた貯水施設に一時的に川の水を取り込み、増水が収まった後で、貯めた水を川に戻す働きをします。妙正寺川の護岸には増水した水を取り込むための取水口が幾つも並んでいます。



環七の手前に大和公園があります。ウオーキングマップに説明書きがある通り、運動場・鉄棒などの健康器具・変わった形の遊具、それにじゃぶじゃぶ池も備わっています。



野方二丁目で環七を横断します。妙正寺川の上には巨大な工事用の建物が建っています。近年、環七の地下には神田川・石神井川・白子川の地下調節池が造られています。シールド工法を使った地下鉄工事並の大工事です。3つの都市河川のどれかが増水しても、協業して氾濫を防ぐ仕組みです。全部の川が増水したら対処できるのでしょうか?

台風や集中豪雨による水害を防ぐため、
大規模な地下調節池(トンネル)を整備しています

環状七号線地下広域調節池が完成すると、整備済みである、神田川・環状七号線地下調節池と白子川調節池と合わせて、総延長13.1km、総貯留量143万立方メートル(小学校のプールおよそ4,800杯分)の施設となります。複数の地下調節池をトンネルで連結し、流域を超えて相互に活用する広域調節池の整備により、近年増加している局地的かつ短時間の集中豪雨に対し高い効果を発揮します。




ウオーキングコースは環七を迂回して反対側に渡りますが、それは野方町役場跡を訪れることも兼ねています。野方本町通りの賑やかな商店街の入口に「野方WIZ・野方区民活動センター」の建物がありますが、その中庭の隅っこに野方町役場跡の記念碑が建っています。



残念ながら、石碑の裏面に書いてある説明文は読み取れませんでした。もちょっと石碑を建てる位置を前にずらしてもらえたらと思うのですけど。



ウオーキングコースは平和の森公園の中を通ります。平和の森公園は、旧中野刑務所跡地に造成された樹木が生い茂る緑多い広大な公園です。



公園内には区立の総合体育館やジョギングコースに囲まれた芝生広場があります。



また、多様な健康遊具や巨大な滑り台も設置されています。



この他、野球場とかバーベキュー場、それに釣り池まであります。もっとも、釣りを目的とした池ではないようですが。



平和の森公園を出て妙正寺川に戻ります。そこには新道橋が架かっています。橋の欄干には奇妙な透かし絵が飾られています。蛙がモチーフだそうです。

妙正寺川の蛙

中野区史には、江戸時代に「活きた赤蛙」を食材として幕府に上納していたと記されています。また、このあたりの地域では、妙正寺川の「赤蛙」を、漢方薬の材料として上納していたとも言われています。




江古田大橋で妙正寺川に江古田川が合流します。奥に流れるのが妙正寺川、手前の川底の溝をチョロチョロ流れるのが江古田川です。江古田川周辺の地元民以外にははあまり聞き慣れない河川名ですが、練馬区の豊玉地域にある学田公園あたりを源流として、中野区の江古田地域にかけて流れる一級河川です。練馬区では、かつて中新井村を流れていたことから中新井川とも呼ばれています。「東京の河川を歩く」でも取り上げたのですが、江古田の森公園の端っこにある下徳田橋までは暗渠区間で、そこから先は2km弱の開渠区間となって江古田の森公園の北側に沿って流れ、江古田大橋で妙政寺川に合流しています。



妙政寺川と江古田川が合流する地点に江古田公園があります。広場の隅っこに何やら記念碑と案内板が立っています。

江古田古戦場

このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(1477年)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。ここでの合戦は、享徳の乱(1454年〜1482年)という長期にわたる内乱の中の戦でした。享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。この乱により関東は二分され、慕府などの支援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。




橋の袂にふたつの石碑が立っています。小さい方の石碑の文字は判読できませんが、巨大な石碑は東京の郊外で実施された区画整理の重要性を説いているようです。

整地碑

この整地碑は、区画整理組合が河川改修・道路整備・土地・耕地の交換による区画整理などの事業を行った記念に建てたものです。碑文に見られるように、区画整理が行なわれたのは、膨張する東京への対策として、「大東京市」を実現する都市計画のためでした。日本資本主義が確立したといわれる日清・日露両戦争を契機に、東京の人口の密集化と郊外の市街化に拍車をかけ、とくに関東大震災以後は、東京市と隣接する近郊との連携のとれた都市計画が必要となり、その区域が定められました。この整地碑は、こうした東京のひろがりに対して郊外の側から、土地・道路・河川の整備を進めて対応した農村の区画整理事業の実態をよく説明しているといえましょう。この事業によって、それまでの江戸時代からの農村の景観は大きく変化し、街の機能をもった東京市の近郊農村へとうまれ変わっていきました。




ゴール地点の樹木が生い茂る哲学堂公園にやって来ました。妙正寺川は哲学堂公園と妙正寺川公園の間を流れて行きます。



哲学堂公園の由来については、別の場所に設置されている案内板に次のように書かれています。

哲学堂公園の由来

哲学堂は、東洋大学の創立者である故井上圓了先生が国家社会の恩に報いるために、護国愛理の理想に基づき国民道徳の普及を目的として、明治三十九年以来私財を投じ、自ら堂主となって独力経営された精神修養的公園であります。園地は、先生が唱えられた実践哲学の理想を表わす多くの施設と特異な造園手法とを加えて、都下の名所として人々に親しまれてきました。大正八年六月、先生は大陸巡遊の途中大連の宿舎でなくなられましたので、嗣子故井上玄一氏は、その志を継いで本園を経営することニ十余年に及びましたが、昭和十九年三月、公益優先の趣旨に則り、この園地一切を挙げて東京都に寄付されました。東京都では、故人の遺志を尊重し管理することになり、全国にもまれな文化修養公園として公開してきました。昭和五十年四月一日、中野区は東京都から移管を受け、歴史性の深い文化財公園、又区民の緑のオアシスとして公開しております。


哲学堂公園の中には、七十七場と七十七場外4施設があります。それぞれに難しい哲学用語の名称が付けられていて、その意味を知るのは凡人の私の頭では不可能と思えます。哲学の迷宮に閉じ込められないうちに退散するとしましょう。



ということで、短い距離でしたが、妙正寺川コースを歩き終えました。前にも立寄った場所が多かったのでやや新鮮味には欠けましたが、初夏の妙正寺川沿いの新緑を存分に堪能しました。




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