- @新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる(1)
- コース 踏破記
- 今日から新宿区の歩きを始めます。といっても、書いているのは2021年の大晦日。歩いてから半年以上経っていますので、大分記憶が薄れてきました。それはそれとして、今回のコースでは、新宿御苑の元となった内藤家屋敷など、新宿にかかわる歴史上のいろんな足跡を辿ります。
「新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる」の歩行距離は約3.2km(約4,600歩)、歩行時間は50分、消費カロリーは約159kcalです。
スタート地点:JR中央線信濃町駅
↓ (約1.4km:約21.0分)
- @新宿御苑
- 【約1万本の木々と四季折々の花や庭園が美しい国民公園。(*有料、酒類は持ち込み禁止、遊具類は使用禁止)】
↓ (約0.1km:約 2.0分)
- A玉川上水・内藤新宿分水散歩道
- 【江戸の飲料水を確保するために造られた玉川上水。かっての流路に沿って、人気の散歩道があります。(*新宿御苑の開園時間のみ利用可)】
↓ (約0.5km:約 8.0分)
- B太宗寺
- 【江戸時代に開創され、信州高遠藩内藤家の菩提寺として栄えました。閻魔像や奪衣婆像など多くの文化財があります。】
↓ (約0.9km:約14.0分)
- C花園神社
- 【徳川家康の江戸開府以前から、この地を見守り続ける総鎮守。酉の市も有名。】
↓ (約0.3km:約 5.0分)
ゴール地点:新宿三丁目駅【出入口B3】
スタート地点のJR中央線信濃町駅から歩き始めます。信濃町駅といっても大して話題性はありませんが、新宿区で最南端となる鉄道駅であること、中央線で東京から数えて初めて他の路線との乗り換えがない駅である、ということがユニークな点です。鉄道マニアならご存じだと思いますが。
信濃町といえば、某宗教団体の本拠地であることと、慶應義塾大学病院があることで知られていますね。普通、大学病院といえば「XX大学医学部附属病院」という名称になりますが、「慶應義塾大学病院」とストレートな名称になっています。一日の外来患者数が3千人といいますから東京でも指折りの大規模病院のひとつといえます。石原裕次郎・夏目雅子・藤子不二雄(藤子・F・不二雄)・岡本太郎・遠藤周作・田中角栄・坂井泉水など、多くの芸能人・著名人・政治家が入院したことでも知られています。ちなみに、信濃町という地名は、江戸時代に幕府の役人だった永井尚政の屋敷があり、その官位名だった「従五位下信濃守」に由来するとされています。長野県にも信濃町という町名がありますが、それとは関係ないそうです。
中央線の線路に沿って、慶應大学病院の脇の道路を進みます。慶應病院の敷地が途切れるところに無名橋交差点があります。無名橋は中央線の上空を跨ぎ、首都高速4号新宿線をくぐる歩行者・自転車専用の陸橋です。橋名からしていわれのある橋のように思えますが、名前が付けられた経緯は不明とのことです。
外苑西通りに出て、右折します。その先に新宿御苑正門があります。新宿御苑には、正門の他に新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門があります。正門は、新宿御苑がかつて皇室苑地だった頃に皇室をはじめ、国内外の賓客の入園門として設けられました。現在の新宿御苑は誰でも入園できる環境省所管の国民公園(他に、皇居外苑と京都御苑があります)になっていますので、利便性の高い場所に新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門の入園門が設置されています。正門は交通の便が悪いことでそれほど入園者数も見込まれないため、国の特別行事を行うときなどを除き閉鎖されています。「開かずの門」ですね。
正門前から少し左にカーブした先に大京町交番があります。この近くに新撰組で活躍した沖田総司が療養中に亡くなった植木屋平五郎の離れがありました。植木屋平五郎の家はかっての渋谷川に面していましたが、現在は渋谷川跡には雑草が生い茂るのみとなっています。
伝 沖田総司逝去の地
この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844年〜1868年)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。
少し先の左手に多武峰内藤神社の入口があります。山門もない小さな神社ですが、内藤新宿を語る上では欠かせない存在です。
多武峰内藤神社由来記
当社は、江戸初期に初代内藤清成氏が屋敷内の地(現在の新宿御苑)に家祖である藤原鎌足公を祀り、(内藤神社)を草創したことに始まり、また藤原氏の氏神である奈良の春日大社より、経津主神・武甕槌神・天兒屋根神・姫神の分霊を勧請合祀してあります。明治十九年に新宿御苑の地より現在地へ移設・遷座され今日に至っています。当初は武州多武峯神社と称していましたが、昭和四十二年五月に多武峯内藤神社に改称されました。
境内の大木に隠されるように石碑が置かれています。駿馬塚と彫り込まれていますが、この馬が命の続く限り駆けたので、現在の新宿御苑の広大な敷地が生まれたのですね。余談ですが、徳川家康が同じように馬で回れた土地を与えた話は他にもあります。青山忠成は幼少の頃に三河国(愛知県)に来て徳川家康の小姓を勤めました。青山忠成は天正十八年(1590年)の小田原役の時に江戸に先発して家康の江戸入府の準備に力を尽くしました。徳川家康は江戸に入府後、直ちに家臣団の知行割(家臣団の配置)を実施しました。そんな折、忠成が家康の鷹狩りに随行していたところ、家康は赤坂の上から西の方を見渡し、忠成に向かって「馬に乗って一回りして参れ。その範囲の土地を屋敷地として与えよう」と言いました。そこで忠成は馬が弊死するまで駆け巡り、木に目印の紙を結んで境界としました。当時、赤坂から渋谷の西川までの地は原宿と呼ばれていましたが、忠成が屋敷地として賜ったために、その後は青山宿と呼ばれるようになりました。それが現在の青山の地名の由来となりました。
駿馬塚
内藤清成の駿馬の伝説にかかわる石碑である。徳川家康は江戸入府後、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語ったという。清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられる。後に内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷が、文化十三年(1816年)八月に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てた。碑はその後、明治五年(1872年)九月に現在地に移されたものである。
境内の小さな神馬殿の中に白馬が鎮座しています。神馬というに相応しい威厳を備えていますね。
内藤新宿とは関係ありませんが、境内には鉛筆の碑が建てられています。鉛筆を作る動力として渋谷川の流水が使われたとのことです。かっての渋谷川は水量が多く、これより下流の現在の表参道と交差した先の渋谷川では、水流を利用した水車があちこちにあり、その光景は葛飾北斎によって富嶽三十六景のひとつである「隠田の水車」として描かれています。「穏田」という地名は、徳川家康が信頼していた伊賀忍者の一族郎党をこの辺りに住まわせ、忍者の隠れ里ということで「隠田」と呼ばれ、いつからか「穏田」という字を使うようになったそうです。なお、渋谷川跡に造成された遊歩道は、キャットストリートと呼ばれるお洒落な商店街になっています。
この地(多武峯内藤神社西方付近)は、明治二十年(1887年)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(1916年)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。
外苑西通りからひとつ入った内藤町けやき公園に欅の大木が聳えています。
内藤町けやき公園のけやき
この公園にあるけやきは、幹の直径が1m以上もある区内でも有数な大木です。この木は、昭和五十一年に新宿区みどりの文化財(保護樹木)に指定され、長い間、この木の所有者が大切に世話をしてきました。また、この付近の自然環境は、新宿御苑のみどりと一体化し、この木も内藤町の住民に長く親しまれてきました。その後、平成十六年、土地所有者が変わりけやきが失われる懸念が生じましたが、この街の良好な住環境を守ろうと活動する内藤町の住民の熱意と努力で、この木は現在の姿を保つこととなりました。そして、新宿区はこの土地を取得し、内藤町の住民の意見を取り入れ、新たにけやきをシンボルとした公園に整備しました。
外苑西通りと国道20号線が交差する四谷四丁目交差点の角に、江戸時代の水利施設について記した案内板が立っています。隣には、玉川上水が引かれた経緯を記した巨大な石碑も建っています。明治二十八年(1895年)に建立されたそうで、石碑の文字は難しい漢文で書かれています。碑文の字が小さい上に石碑が巨大過ぎて双眼鏡でも使わない限り上部の文字は読み取れませんね。全部読んで碑文の内容を理解した人はいるのでしょうか?
史跡 玉川上水水番所跡
玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
定
一、此上水道において魚を取水をあび
ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
並両側三間通に在来候並木下草
其外草刈取申間敷候事
右之通相背輩あらば可為曲事者也
元文四巳未年十二月 奉行
東京都指定有形文化財(古文書) 水道碑記
玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460センチ・幅230センチ。上部の篆字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(1895年)に完成したものである(裏面銘文)。
四谷大木戸跡碑
四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
玉川上水の水番所があった跡地は、現在は新宿区の四谷区民センターになっています。その敷地の隅に小さな立て札が立っています。内藤新宿の元祖である内藤清成は、信濃(長野県)高遠藩内藤家の出身でした。
高遠小彼岸桜
信州高遠城址公園に樹林をなす高遠固有の桜で、小ぶりで赤みを帯びた可憐な花が一斉に咲き誇る姿はまさに「天下第一の桜」と称されています。
(長野県天然記念物)
立て札の隣に石碑が置かれています。内藤新宿は高松喜兵衛らによって開設された宿場ですが、遊女商売取り締まりの対象になって一旦廃止となりました。その後、幾多の紆余曲折を経て50数年後に再開され、明治維新まで繁栄が続きました。挿絵から当時の繁栄ぶりが見て取れます。でも、道の真ん中で馬の後ろ足に蹴り上げられているのはチャブ台みたいですけど?状況がよく掴めませんね。
内藤新宿開設三百年記念碑
元禄十一年(1698年)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。この宿場は、享保三年(1718年)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(1998年)、開設三百年を迎えることとなった。新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩みを記念し、ここに記念碑を建立する。
四谷区民センターに隣接して、大木戸門があります。新宿御苑に入園するには新宿門か大木戸門を使うのが一般的です。大木戸門から入園すると、大温室やフランス式整形庭園(軸線を中心にした左右対称で幾何学的な構成の庭園)、それに中の池・下の池に近くて便利です。初夏の青空と緑の芝生が私を手招きしていますが、今日のところはパスします。
入園料をケチったという訳ではありませんが(実際はそうです)、大木戸門の右横には新宿御苑の外柵に沿って自由通路が設けられています。勿論、誰でも無料で通ることができます。遊歩道の両側には大木が茂り、初夏の陽射しを遮ってくれます。
自由通路の片側には小川が造られ、水面には鴨も浮かんでいます。気持ち良さそうですね。
実は、この小川は単なる飾りではなく、かってここを流れていた玉川上水を再現したものだそうです。規模は比較になりませんが、案内板にはその経緯が記されています。
玉川上水・内藤新宿分水散歩道
玉川上水の新しい分水路の誕生
新宿区では、「まちの記憶」として次世代に受け継ぐべき財産である「玉川上水」の流れを偲ぶため、環境省をはじめとした多くの関係者の協力のもと、新宿御苑内に玉川上水・内藤新宿分水散歩道を整備いたしました。分水散歩道の延長は約540mあり、「旧新宿門」・「大銀杏」・「大木戸」の3区間から成り、水源には、国道20号新宿御苑トンネル内の共同溝に湧出した地下水を利用しています。水路底には、粘土を使用し、自然な流れを再現しました。また、既存の樹木を生かしながら、林床には武蔵野の雑木林で生育する草本類を中心に植栽しています。新宿御苑の雄大な自然と四季折々の変化とあわせて散策をお楽しみください。
小川を含む散策道を造成するに際し、関係省庁や地元民の声を取り入れて計画を作成し、緊密に連携をとりつつ完成に漕ぎ着けたのだそうです。何事もそうですが、一方的に計画を作成し、地元民の声を無視して工事に着手しても、後で反対運動が起きて工事が頓挫する例は幾らでもありますよね。こういった共生型で造った施設は完成後も地元民に大切にされ、結果的に工事の費用も期間も抑えられますね。
玉川上水・内藤新宿分水散歩道の整備にあたって〜基本計画策定の経緯〜
地元参加による整備計画の策定
玉川上水・内藤新宿分水散歩道の整備にあたっては、平成十七年度から検討会を立ち上げ、整備にあたっての分水の大きさの決定や水の確保など技術的な問題をはじめ、維持管理に至るまでの様々な検討課題について議論し、整備計画を策定いたしました。検討会は、地域の方々をはじめ、学識経験者・環境省・国土交通省東京国道事務所・東京都・渋谷区・NPO団体などの関係機関により構成されました。
子供たちの参加
平成十九年には、玉川上水に関心をもち、理解を深めてもらうため、地元の区立花園小学校の児童に新宿御苑の散策路において、木材・ロール紙の芯を使って、せせらぎづくりにチャレンジしてもらいました。水源にみたてたホースから水を流し、水が下流まで流れると、参加した子供たちは、水を触って大喜びし、落葉を水路に入れて流すなど自分たちがつくったせせらぎを楽しみました。
シンポジウムの開催
平成二十年1月17日には、新宿御苑インフォメーションセンターで、シンポジウムが開催されました。シンポジウムでは、検討にかかわったみなさんによるパネルディスカッションが行われ、整備に対する環境改善効果への期待や環境学習での教材としたいなどの思いを話されました。なお、当日は、玉川上水の上流の羽村市副市長も駆けつけられました。
公園コンクールの受賞
玉川上水・内藤新宿分水散歩道は、平成二十二年度の第26回都市公園コンクール(社団法人 日本公園緑地協会主催)において、国土交通大臣賞を受賞しました。講評では、検討会やワークショップを通じて、地元との連携や周囲の景趣を活かした共生型の空間整備が高く評価されました。
玉川上水の歴史を解説した案内板も立っています。新宿地区は地下水に恵まれていたとは驚きです。そんなら、わざわざ羽村から取水せずに新宿の地下水を使えば良かったのにと思いますが、江戸全体の需要を賄うには水量が足りなかったのでしょうか?
玉川上水の生い立ちと新宿
口玉川上水の歴史
玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために、玉川兄弟の手により承応三年(1654年)に開設されました。取水口である多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの約43kmの区間は、土を掘り抜いただけの開渠で造られていました。四谷大木戸から市中へは、石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成した明治三十一年(1898年)頃まで、江戸・東京の人々にとって責重な水資源でした。新宿区には、四谷大木戸に水番屋があり、上水の管理を行っていました。また、四谷見付付近は、江戸城本丸・吹上御殿・市中の武家や町人の屋敷へ供給する分水の分岐点となっていました。これらの地域は上水管理の上で、大変重要な役割を持っていたことがわかります。
口新宿における玉川上水
新宿区内での上水の利用は、四谷などごく一部でした。四谷は下町と違い、水にめぐまれた地域であったことから、掘り抜きの井戸を多く使っていたためと思われます。水の確保のためにつくられた上水ですが、内藤新宿界隈では、桜並木が続く江戸の名所を生み出し、多くの行楽客でにぎわいました。明治になると、通船が行き交っていた時期もありました。
浄水場のなかった昔は水の安全性を保つのは大変だったことでしょう。玉川上水は43kmの長い距離を開渠で流れていたのですから、全域に亘っての安全確保は大前提で、最後の砦であった水蕃屋の役人の責任も大きかったと思われます。水道も井戸もなかった時代には、田舎では川の水を飲み、川の水で食材を洗い、洗濯もしていたんですよね。その下流では更に水を飲み。。。
玉川上水の水番屋
口玉川上水を管理する水番屋
江戸の貴重な水資源を守るため、玉川上水は、厳重に管理されていました。上水で魚を捕ることや、水浴びをすること、洗いものをすることを禁じていました。このため、流域の村々の利用は厳しく制限され、羽村・代田村(現杉並区)・四谷大木戸には水番屋が設置され、水質・水量や異物の監視を行っていました。四谷大木戸の水番屋は、構内の総坪数が630坪(約2082平方メートル)余りあり、流れてきたごみを止める「芥留(あくたどめ)」、満水時に渋谷川へ水を排出する「吐水門」、暗渠へ入る「水門」がありました。「水門」では、水量を測定する「歩板」が設けられ、この板と水面までの間隔から水量の増減を調べました。
口水道碑記
四谷大木戸の水番屋は、現在の四谷地域センター内にあり、これを記念して、明治二十八年(1895年)に石碑が建てられました。石碑は、高さ4.6メートルにおよび、篆額は徳川家達が書き、書は金井之恭が書いています。碑文には、漢文で玉川上水建設の理由や、工事を請け負った玉川兄弟の功績をたたえた内容が書かれています。
<<写真多数のため、@新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる(2)に続きます。>>
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