- @新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる(2)
- コース 踏破記
- <<@新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる(1)の続きです>>
新宿御苑を離れ、すぐ近くの大宗寺に向かいます。大宗寺は内藤家の菩提寺であっただけでなく、江戸六地蔵のひとつである銅造地蔵菩薩が鎮座し、その他にも史跡満載のお寺です。ちなみに、新宿ミニ博物館には「内藤新宿太宗寺の文化財」の他に、「十二社熊野神社の文化財」・「須賀神社三十六歌仙絵」・「東京染ものがたり博物館」・「木組み博物館」・「つまみかんざし博物館」・「染の里二葉苑」・「目白学園遺跡」・「新宿区立新宿歴史博物館」・「新宿区立林芙美子記念館」・「新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館」・「新宿区立中村彝アトリエ記念館」があります。この中の7ケ所にはこの後の新宿区ウォーキングコースで訪れることになります。
新宿ミニ博物館 内藤新宿太宗寺の文化財
太宗寺は、慶長年間初頭(1596年頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。かつての内藤新宿の仲町に位置し、「内藤新宿の閣魔」・「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閣魔像・奪衣婆像や、江戸の出入ロに安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。ミニ博物館「内藤新宿太宗寺の文化財」では、太宗寺に伝えられる文化財や、内藤新宿の歴史などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。
境内には「新宿ミニ博物館 内藤新宿太宗寺の文化財」と題した詳細な案内板が立っています。
@甲州道中と内藤新宿
内藤新宿の開設
コ川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の整備を行いました。甲州道中(甲州街道)は、慶長九年(1604年)頃に整備が行われたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄十年(1696年)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。このあたりには、文禄三年(1595年)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596年)頃に太宗寺が創建され、元和二年(1615年)頃には四谷大木戸(現四谷四丁目交差点)も開設されました。またェ永二年(1625年)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661年〜1672年)には「内藤宿」と呼ばれ、かなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。さて、この願いは翌元禄十一年(1698年)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本朝倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。こうして「内藤新宿」は、元禄十二年(1699年)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました(高松家の墓は愛染院[新宿区若葉2−8]にあり、区指定史跡に指定されている)。
宿場の様子
「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷四丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。宿場は大きく三つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄十五年(1702年)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地「子供合埋碑」が、成覚寺[新宿2−15−18]にあり、区指定有形文化財に指定されている)。
宿場の廃止と明和の立返り
このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保三年(1718年)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。その後、度重なる再興の願いにより、明和九年(1772年)に宿場は再興されました。
A太宗寺の創建と内藤家
太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵[太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられています。太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永六年(1628年)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。これが縁で、寛文八年(1668年)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。太宗寺は、元禄十五年(1702年)文化二年(1805年)の火災や、関東大震災・第二次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。また「内藤新宿のお閻魔さん」・「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、藪入りには縁日が出て賑わいました。現在も、毎年お盆の7月15日・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼茶羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。
B太宗寺の文化財
太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像・奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)・切支丹灯籠(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますが、このほかにもつぎのような文化財があります。
太宗寺の曼荼羅
曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた図像をいいます。太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15日・16日に本堂で公開されています。
観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅)
通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。紙に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(描表装)です。製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。
無量寿経曼荼羅・阿弥陀経曼荼羅
紙に描かれており、ともに総高203cm・全幅195cmの掛軸となっています。製作年代・作者についてはわかりませんが、「大曼荼羅」よりやや新しいものと推定されます。なお、両作品とも図幅周囲に白色の帯が設けられ、図像の説明が記されています。
涅槃図
釈迦の入滅(死)を描いた図像で、娑羅双樹の下、中央に北枕で横たわる釈迦を、周囲には嘆き悲しむ弟子や鳥獣などを描いています。総高185cm・全幅175cmの掛軸で、明治三十一年(1898年)4月に奉納されたものです。
十王図
地獄思想に基づき、冥土に君臨し死者の罪状を審判する10人の王を描いたもので、1人を1幅に描き、合計10幅の掛軸となっています。紙に描かれ、寸法は10幅とも総高116cm前後、全幅58cm前後です。製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代末頃のものと推定されます。
内藤家墓地出土品
昭和二十七年(1952年)に東京都の区画整理事業に伴い、内藤家墓所が改葬された際に出土した副葬品約400点です。内容は鏡・煙管・かんざし・小刀・懐中時計などの金属製品72点、硯などの石製品4点、漆器・仏像・筆などの木製品6点、眼鏡などのガラス製品3点、陶器・ミニチュアなどの陶磁製品33点、布製品1点、土製品12点、古貨幣約200点です(非公開)。
塩かけ地蔵
願かけの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊です。造立年代や由来については、はっきりしません。
太宗寺文化財の一番目の銅造地蔵菩薩坐像は大宗寺で最も目立つお寺のシンボルです。私は、江戸六地藏は現存しない永代寺の地蔵像を除いて五地蔵を巡りましたが、大宗寺の銅像は一番サイズが小さいものの、インパクトがありますね。
太宗寺の文化財@ 東京都指定有形文化財 彫刻
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地藏のひとつ)
江戸時代の前期に、江戸に出入口六ヶ所に造立された「江戸六地藏」のひとつです。銅造で、像高は267センチメートル、正徳二年(1712年)九月に「江戸六地藏」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。「江戸六地蔵」は、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は七万二千名以上におよんでいました。この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。
品川寺 品川区南品川3−5−17 宝永五年(1708年)造立
東禅寺 台東区東浅草2−12−13 宝永七年(1710年)造立
真性寺 豊島区巣鴨3−21−21 正コ四年(1714年)造立
霊巌寺 江東区白河1−3−32 享保二年(1717年)造立
永代寺 江東区富岡1−15−1 享保五年(1720年)造立
東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
江戸六地蔵の由来は、本像の内部に奉納されていた刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って宝永三年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一駆(く)ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、五躯が残っています。六地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、三番目として正コ二年(1712年)に造立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで267cmです。本体には、かって鍍金が施されていました。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
Tangible Cultural Properties (Sculpture)
Dozo Jizo Bosatsu Zazo (Edo Roku Jizo no Hitotsu)
Designated in 1921
According to a copy of the "printed book of the brief history of the erection of the statues of Edo Six Jizoson," which was dedicated inside the statue, the origin of the Edo Six Jizoson is as follows. Jizo Monk Shogen who resided in Fukagawa, Edo, had been struck by incurable disease. After praying with his parents for cure of the disease to Jizo Bosatsu, Shogen was healed. After the fashion of six Jizo in Kyoto, a petition for the construction of statues of six Jizo was commenced in 1706 to collect public donations. Then a statue of Jizo Bosatsu was erected at each of six locations in Edo. The body and the lotus-shaped pedestal of each statue were incised with the names of solicitors and the year of construction. The statues were cast by Caster Ota Suruganokami Fujiwara Shogi in Kandanabe town. Anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji period destroyed the sixth Jizo Bosatsu at Eidaiji Temple in Fukagawa. Currently there are 5 remaining statues. The jizo at Kasumigasekizan Honkakuin Taisoji Temple was erected as the third jizo in 1712. The height of the statue is 267cm, the shortest among the 6 statues of jizo. The main body used to be gold-plated. The statue was designated as cultural properties because the statue was rather elaborate for copper statues in the mid-Edo period and there are only a few previous cases as such.
案内板にあった太宗寺文化財の二番目の閻魔像はこの赤い閻魔堂に鎮座されておわすようです。
案内板には恐ろしい閻魔像の写真が添えられています。この目で睨まれたら身が竦みますね。
太宗寺の文化財A 新宿区指定有形民俗文化財 閻魔像
木造彩色、総高550cmにもおよぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子供のしつけのため参拝されたりしました。文化十一年(1814年)に安置されたとされ、製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては藪入り(一月と七月の十六日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。また、弘化四年(1847年)三月五日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(1850年)に奉納したものです。現在は、お盆の七月十五日・十六日に御開扉されています。
案内板にも記されていた太宗寺文化財の三番目の奪衣婆像は閻魔像と一緒に閻魔堂におわします。奪衣婆は閻魔大王に仕えていますからね。でも、「衣をはぐ」のと「妓楼の商売神」がどう関係しているのでしょうか?
新宿区指定有形民俗文化財 奪衣婆像
閻魔堂内左手に安置されている座像です。木造彩色で総高は240cm、明治三年(1870年)の製作と伝えられます。奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。
案内板にも記されていた太宗寺文化財の四番目の内藤家墓所に向かいます。
太宗寺の墓地の一画に、譜代大名信州高遠藩内藤家の墓所があります。江戸時代、内藤家は太宗寺から甲州道中を挟んで南側の現在の新宿御苑一帯に広大な四谷屋敷を拝領していました。太宗寺は、寛永六年(1629年)内藤正勝の葬儀を行って以来、同家と縁を結び、江戸の菩提寺として歴代藩主や一族の墓地が置かれました。しかし、昭和二十七年〜二十八年(1952年〜1953年)にかけて行われた区画整理事業のため、内藤家墓所は改葬整理され、現在は三基の宝篋印塔と墓地整理記念碑を残すのみとなっています。墓地にある三基の宝篋印塔のうち、中央が第五代当主正勝の墓です。
太宗寺の文化財C 新宿区指定史跡 内藤正勝の墓(内藤家墓所)
江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄四年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。現在の墓所は、昭和二十七年(1952年)東京都の区画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約300坪・57基の墓塔を現存の3基に改葬し、改装記念碑を建立しました。墓塔は3基とも宝篋印塔で、中央が五代内藤正勝(寛永六年造立)、右側が十三代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっており、このうち内藤正勝の墓は区指定史跡に指定されています。太宗寺は、寛永六年(1628年)にこの正勝が葬られ、六代重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳四年(1714年)七代清枚が葬られて以後ここを歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬られました。
案内板にも記されていた太宗寺文化財の五番目の三日月不動像と新宿山の手七福神の布袋尊像が鎮座するお堂があります。お堂の中は拝謁できませんが、入口の柱にご尊名が表示されています。新宿山の手七福神を詣でたときに開帳されてご尊顔を拝めたかどうか覚えていません。
太宗寺の文化財D 新宿区指定有形文化財 彫刻 三日月不動像
額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。なお、額上の三日月は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取付けられ、空を望むことができます。
太宗寺の文化財D 新宿区指定有形文化財 彫刻 新宿山の手七福神 布袋尊像
新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺(布袋尊)・鬼王神社(恵比須神)・永福寺(福禄寿)・厳島神社(弁財天)・法善寺(寿老人)・経王寺(大黒天)・善国寺(毘沙門天)の七ヶ所となっています。布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。
野良猫がこっちを睨んでいます。
境内の奥に、案内板にも記されていた太宗寺文化財の六番目の切支丹灯篭があります。
太宗寺の文化財B 新宿区登録有形文化財 歴史資料 切支丹灯篭
昭和二十七年(1952年)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈され、マリア観音とも呼ばれています。
個別の案内板はありませんが、塩かけ地蔵です。まだまだ塩が足りませんね。
大宗寺のすぐ先にある正受院にも奪衣婆像がおわすそうです。
奪衣婆となっていますが、両脇の提灯には「子育老婆尊」と書かれています。大宗寺の奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされていますが、正受院の奪衣婆様は子育て専門のようです。
新宿区指定有形民俗文化財 正受院の奪衣婆像
木造で像高70センチ。頭から肩にかけて頭巾状の綿を被っているため、「綿のおばば」とも呼ばれる。咳止めや子どもの虫封じに霊験があるといわれ、綿は咳止めの御礼参りに奉納したと伝えられる。同時代の事件や、巷の噂話を記した「藤岡屋日記」によれば、正受院へ押し入った泥棒が、奪衣婆の霊力により捕えられた話や、綿に引火した灯明の火を、奪衣婆自らもみ消したなどの逸話が評判を呼び、嘉永二年(1849年)春にかけて江戸中から参詣人が集まったという。本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。構造や作風から江戸時代初期の作と考えられ、像底のはめ込み板から、元禄年間(1688年〜1704年)には正受院に安置されていたことが分かる。
Designated Folk Cultural Property of Shinjuku City
Datsueba Statue at Shojuin Temple
In Japanese Buddhist folklore, Datsueba is an old woman of the underworld who confronts recently deceased souls and strips their clothing off. This 70 cm tall wooden statue portrays her sitting with one knee raised and holding a cloth in her right hand. A sheet of raw cotton is draped over her head and shoulders. Due to this, she is nicknamed "Cotton Grandma." During the Edo period, it was believed that throat ailments could be cured by praying to this statue, This belief attracted many worshippers and reached a peak in popularity in 1849. It is also portrayed in woodblock prints. Those seeking cures typically brought offerings of raw cotton to the statue. Legend has it that this statue was carved by the ninth-century scholar, Ono no Takamura. It is also believed to have been donated to the Shojuin Temple by the Tayasu family, who had ties with the temple. A board inlaid beneath the statue bears a handwritten date from July 10, 1701. The statue was likely installed at the temple around that time.
正受院と隣り合わせに成覚寺があります。入口を入った左手に石地蔵と恋川春町について記された案内板があります。黄表紙は草双紙と呼ばれた江戸時代の小説のジャンルのひとつです。幼童向けの絵本である赤本から始まり、その後演劇の演目に取材した史伝・伝説・神仏の霊験譚などを内容とした黒本・青本と進化し、恋川春町によって精緻な現実描写と知的で滑稽洒脱な視点の文学に高められました。
新宿区指定史跡 恋川春町の墓
恋川春町(1744年〜1789年)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。多くの書に挿絵などを描いていたが、安永四年(1775年)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名・俗名・没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が
生涯苦楽四十六年
即今脱却浩然帰天
我も万た身はなきものとおもひしが
今ハのきハ、さ比しかり鳧(けり)
と記されている。
新宿区指定有形交化財歴史資料 旭地蔵
三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(1800年)から文化十年(1814年)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。明治十二年(1879年)七月道路拡張に伴いここに移設された。宿場町新宿が生みだした悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。
花園神社には3つの門があります。明治通りに面している門には新宿区で最大級の紅い大鳥居が建っていて、その奥には昭和四十年6月に建て替えられた鉄筋コンクリート造りの拝殿があります。朱色の美しい拝殿は、安永九年(1780年)と文化八年(1811年)の2度の大火で焼失してしまいます。再建のため境内に劇場を設けて見世物・演劇・踊りを興行したことで、後に花園神社は芸能に御利益のある神社として知られるようになりました。
花園神社由緒記
花園神社は古来新宿の総鎮守として内藤新宿に於ける最も重要な位置を占め来たった神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にして、大和国吉野山より御勧請せられたと伝えられる。寛永年中以前の社地は現在の株式会社伊勢丹地域にあり、東西六十五間・南北七十五間に亘った神域であった。朝倉筑後守此の地に下屋敷を拝領されるに及ひ、神社をも下屋敷の内に囲い込まれたので、その由を御訴えに及び、現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。
Hanazono Shrine History
Hanazono Shrine is the most important Shinto shrine in Naito Shinjuku and has functioned as the general protector of the Shinjuku area for many centuries. It is said to have been moved from Mt. Yoshino in the province of Yamato in west-central Japan prior to the Tokugawa clan's entry into the province of Musashino in the area of contemporary Tokyo. Until the Kan' ei era in the early to mid-seventeenth century, the shrine was located on what is now the site of Isetan Department Store. The site was approximately 120 meters east to west by 136 meters north to south. In the Tokugawa period, Lord Asakura, Chikugo-no-Kami, received this land from the shogunate for one of his residences in Edo (present-day Tokyo). Since the site of the shrine was included in the grant of land to Lord Asakura, an appeal was made to the shogunate, and the present site was granted to Hanazono Shrine in compensation in 1648.
境内の右手奥にある境内社の芸能浅間神社は、江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで有名です。宇多田ヒカルの母親として知られる藤圭子の歌碑もこのお社の隣に建っています。
圭子の夢は夜ひらく
赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく
十五 十六 十七と
私の人生 暗かった
過去はどんなに 暗くとも
夢は夜ひらく
芸能浅間神社を取り巻く柵には沢山の有名無名の芸能人の名前を記したプレートが掛けられています。馴染みのある名前が多いですね。
芸能浅間神社の横に二宮金次郎像が建っています。四谷第五小学校が建設中の昭和八年(1933年)に長崎佐次郎氏が千葉から荷車で運んできたものといわれています。四谷第五小学校が廃校になるに伴い、花園神社の境内に移設されました。かつては多くの小学校に設置されていましたが、戦後になって軍国主義を助長するとのことで撤去が相次ぎ、今では新宿区内で数少ない戦前の修身教育の名残りをとどめる文化資源となっています。
威徳稲荷神社も境内社ですが、その由来は戦災で資料が焼失したため詳細は不明です。昭和三年4月頃に建てられたと伝えられ、女性の参拝者に人気の高い神社です。奉納された赤い鳥居が並び、異界へのトンネルに足を踏み入れたような不思議な感覚にとらわれます。女性に人気が高いのは、夫婦円満・子授け・縁結びなどのご利益が高いからとのことです。
境内には、内藤トウガラシと内藤カボチャの案内板が立っています。神社の境内にはよく江戸野菜の案内板が立っていますね。
江戸・東京の農業 内藤トウガラシとカボチャ
新宿御苑は、江戸時代高遠藩主内藤家の下屋敷でした。当時、武家では屋敷内の畑で、野菜などを栽培し自給する習わしが一般的で、内藤家でも野菜を栽培していましたが、中でも軽くて肥沃な土に適したトウガラシがよくでき、内藤トウガラシと呼ばれて評判となり、新宿付近で盛んに作られるようになりました。「新編武蔵風土記稿」(1828年)には、「四ツ谷内藤宿及び其辺の村々にて作る、世に内藤蕃椒と呼べり」とあり、当時は新宿周辺から大久保にかけての畑は、トウガラシで真っ赤になるほどであったと言われています。このトウガラシは八房といって、実が房のように集まって付き、しかも上を向いて葉の上に出るような形になるため、熟すと畑一面が真っ赤に見えたのです。保存のできる調味食品として、庶民に喜ばれましたが、明治に入ると都市化により栽培も激減し、産地も西の方に移っていきました。この地域ではカボチャの栽培も盛んで、「内藤カボチャ」とか「淀橋カボチャ」ともいわれていました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Naito Bell Pepper and Squash
The Shinjuku Imperial Gardens were the suburban residences of the feudal lord of Takatoh clan, Naito Families. The land was light and fertile and suitable for the production of bell pepper. Famed as Naito bell pepper, it was popularly grown in Shinjuku areas. Historical record tells that the fields around this shrine toward Okubo were full of matured reddish peppers in the high season during the years 1830-1844. Squash was also grown abundantly here and renowned as Naito Squash or Yodobashi Squash.
靖国通りに面したもうひとつの鳥居の内側に一対の唐獅子像が置かれています。普通、神社には狛犬が置かれていますね。狛犬の起源は古く、元々は獅子で、インドの仏教寺院にその像を2個設置したことに始まっています。それが中国に伝わって唐獅子となり、朝鮮半島を経由して飛鳥時代に仏教とともに日本に伝来しました。当初は木造や金属製で、お寺の本殿や仏殿内部に設置されたようですが、神社では境内の入り口に置くようになり、雨風に耐えるために石造りとなりました。当初、中国と同様の一対の唐獅子が置かれましたが、平安時代になって、右に口を開けた阿形(あぎょう)像、左に口を閉じた吽形(うんぎょう)像に変わり、これを置くようになりました。しかし時代の経過と共に、現在では阿吽形式の基本は持続されているものの、左右の像は差異を持たせなくなっています。呼び方は獅子像であっても一般的には狛犬と呼ばれています。花園神社の唐獅子像は、その点文化財としても価値があるようです。
新宿区指定有形文化財 彫刻
花園神社の唐獅子像
文政四年(1821年)に造立された雌雄一対の銅造の唐獅子像である。内藤新宿の氏子たちにより奉納されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻まれている。像高75センチ・台座高137センチ。彫工佐脇主馬の製作した原型により、鋳工村田整a(初代)が鋳造したもので、注連縄が浮彫された台座は石工本橋吉平衛の手になるものである。頭部は四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分けて鋳造し、身体も胴から後足・前足・尾の三つの部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合して製作されている。
Designated as "material cultural properties - sculptures" by Shinjuku City
Hanazono Shrine's Karajishi ("Chinese lion") Images
This is a pair of male-female bronze "Chinese lions" cast in Bunsei 4 (1821). They were donated to the shrine by Naito Shinjuku parishioners, and the names of those who dedicated them or aided in their placement here are carved on the bases of the statues. The statues themselves are 75 centimeters tall, and the bases are 137 centimeters. Following a model made by the sculptor Sawaki Kazuma, Murata Seimin I, a specialist in casting in metal, created this pair of bronze images. The bases, with large and elaborate sacred straw festoons carved in relief, were the work of the stonemason Motohashi Kichibe. The heads of the images were cast in four separate sections: the upper head, face, back of the head, and mane. The bodies were divided into three sections: from the torso to the rear legs, the front legs, and the tail. The left and right sides of each of these three sections were cast separately and then joined together to make the complete image.
ゴール地点の新宿三丁目駅にやってきました。新宿三丁目駅には沢山の出入口がありますが、伊勢丹デパートの地下に続くB3出入口で今日の歩きを終えます。
ということで、新宿区の最初のコースを歩き終えました。大宗寺と花園神社に見所が多かったですね。今まで知らなかった新宿の隠れた史跡を発見できて面白かったです。新宿は歌舞伎町だけではないんですね。
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