- A見どころ満載の四谷で、歴史探索(1)
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「A見どころ満載の四谷で、歴史探索」を歩きます。JR中央線・東京メトロ丸の内線・東京メトロ南北線の四ツ谷駅をスタート地点として、アニメ「君の名は」のロケ地となった四谷の数々の坂道を巡ります。ちなみに、「四谷」は町名・小学校名・警察署名などに用いられ、「四ツ谷」は駅名などに用いられるそうです。ただ、地下鉄丸の内線の「四谷三丁目駅」などの例外ケースもありますが。
「A見どころ満載の四谷で、歴史探索」の歩行距離は約5.1km(約7,300歩)、歩行時間は78分、消費カロリーは約234kcalです。
スタート地点:JR中央線・東京メトロ丸の内線・東京メトロ南北線の四ツ谷駅【赤坂口】
↓ (約0.3km:約 5.0分)
- @若葉東公園
- 【TVや雑誌の撮影にもよく使われ、白亜の列柱や噴水があります。並木道を進むと壮大な景観が広がっています。】
↓ (約1.5km:約23.0分)
- A須賀神社
- 【四谷の総鎮守として崇敬されています。江戸時代の三十六歌仙絵(区指定文化財)が奉納されています。】
↓ (約0.8km:約12.0分)
- B消防博物館
- 【消防の歴史や消防クラシックカーなどを集めた博物館。消防ヘリの操縦席に座る体験もできます。】
↓ (約0.7km:約11.0分)
- C新宿歴史博物館
- 【旧石器時代からの新宿の歴史や文化が大集合。江戸時代のジオラマや懐かしい市電車両の模型にわくわく。(*有料)】
↓ (約1.8km:約27.0分)
ゴール地点:JR中央線の四ツ谷駅【四ツ谷口】
スタート地点の四ツ谷駅赤坂口から歩き始めます。四ツ谷駅はJRと東京メトロが同居していますので、同じ赤坂口でも改札口が2ケ所あります。入口直ぐが東京メトロの丸の内線と南北線の改札口で、その脇を抜けた先がJRの改札口になっています。「四ツ谷駅の赤坂口で待ち合せしましょう」といっても、すれ違いになることがあり得るわけです。デートの時だったら破局につながるかも。。。
四ツ谷駅赤坂口から外堀通りに出て、迎賓館の方向に向かいます。歩道には一定の間隔をとって背の高い街路樹が植えられています。幹には、「モクレン科ユリノキ」というラベルが括り付けてあります。モクレンの木は背丈の低い灌木の類で、細い枝に可憐な紫色の花を付けるという風に思っていたのですが、同じモクレン科でもこんなに大きな樹があるんですね。
科 名 : モクレン科
原 産 地 : 北アメリカ
新芽の時期 : 4月
花の咲く時期: 5〜6月
実のなる時期: 10〜11月
黄葉の時期 : 11月
特 徴
明治初年に初めて日本に渡って来ました。この木はチューリップに似た花が咲くのでチューリップの木、また葉の形が印半纏のような格好をしているのでハンテンボクとも呼ばれ、多くの別名を持っています。樹形の上品さと優美さが迎賓館(旧赤坂離宮)の洋風建築によく調和しています。
迎賓館の前のトライアングル状の広場は新宿区立の若葉東公園です。若葉東公園は、迎賓館と調和のとれるように設計された公園です。中央を通るユリノキの並木道を挟んで左右に広がっていて、周囲三方を道に囲まれているために正三角形をしているのが特徴です。幾何学的に並んだユリノキの並木道が荘厳で静粛な情景を作り出し、訪れた人々の心を癒します。ウオーキングマップには、「白亜宮殿の列柱と噴水があり、ドラマなどのロケ撮影地としても有名です」と紹介されていますが、どこにも列柱とか噴水は見当たりません。見落としたのかな?
若葉東公園の目の前に白亜の迎賓館があります。徳仁天皇が即位された際に見物、イヤ見学に行きました。フェンス越しですが、いつ見ても美しいフォルムをしています。迎賓館は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れた時に、会食や宿泊等の接遇を行うための施設です。日本では皇居宮殿での歓迎晩餐会の答礼などの外交儀礼のための接宴として、天皇など皇室関係者が臨席し、晩餐会が行なわれることもあります。迎賓館の元となった赤坂離宮は、明治四十二年に東宮御所として建設され、日本では唯一のネオ・バロック様式による宮殿建築物です。当時の日本の建築・美術・工芸界の総力を結集した建築物であり、明治期の本格的な近代洋風建築の最終形となっています。第二次世界大戦の後、十数年を経て日本が国際社会へ復帰し、外国からの賓客を迎えることが多くなったため、国の迎賓施設へと大規模な改修を施し、和風別館の新設と合わせて昭和四十九年に現在の迎賓館として新たな歩みを始め、現在に至っています。平成二十一年に大規模改修工事が行われた後、日本の建築を代表するもののひとつとして国宝に指定されました。
四谷中学校の敷地の南側に沿って四谷見附公園があります。大正十年(1921年)に「赤坂離宮前記念公園」として当時の東京市に委託管理・開園されましたが、後に新宿区の公園として「四谷見附公園」と改称されました。公園の中央と北側には2本のプラタナスの樹が空高く枝を広げています。中央の樹は、幹周り4.8m・高さは32mあり、巨木の多い新宿の公園の中でも最大のものです。
左の写真が公園中央に聳え立つプラタナスの巨樹で、右側の写真が公園の北側のプラタナスの樹です。
中央のプラタナスの巨樹の足下に、説明書きのプレートが置かれています。
プラタナス 新宿区立四谷見附公園
公園の中央部に植わるこの木は、新宿区立公園で最も大きい木です。この公園が大正時代に赤坂離宮前記念公園として開園したころからあった木だと言われています。新宿区は平成六年に区民の誰もが親しみをもてる木として「みどりの新宿30選」に選定しました。和名の「スズカケノキ」は、実の形が山伏(山に籠って修行する人)の着る鈴懸にある房と似ていることや、実の様子がまるで鈴がぶら下がっているように見えることに由来するとされています。
プラタナスの樹は今でも樹勢は衰えていません。日本樹木医会の「健康優良樹」のお墨付きを得ていて、認定されている樹は全国的にとても少なく、都内ではこの樹だけとのことです。北側のプラタナスの樹の近くの植え込みの中に、誰が書いたのか分かりませんが、小さなプレートに文章が刻まれています。
人生は舞台である。主役は、この木のように上手から登場し、下手へと消える。舞台には、ただ、喝采が残る。
人の活動は、文化である。そして、その軌跡は、歴史となる。
四谷といえば、学習院初等科ですね。校舎のデザインも公立学校の実用一辺倒の建物と違って垢抜けています。現在の本館は上皇明仁親王が入学する際に建設されました。太平洋戦争の直前だったために身を守るための地下室も設置され、その頃では珍しいコンクリート製の建物になっていました。ランドセルを初めて導入したことでも知られ、卒業生には皇族・元皇族・政治家・学者・実業家など多様な人材を輩出しています。オノ・ヨーコさんも中退ですが、学習院に通っていたそうです。名家の出身ですからね。
学習院初等科の裏の小路に面して、樹木に覆われた「オテル・ドゥ・ミクニ」の瀟洒な建物があります。三國清三シェフが腕をふるうフレンチレストランです。オテル・ドゥ・ミクニは、厳格な審査と高い価値を共有できる個性あるホテルやレストランのみが加盟を認められるルレ・エ・シャトーのメンバーになっています。メニュー表にお値段が書いてないところが一流の証ですかね。
オテル・ドゥ・ミクニから長〜〜〜い下り坂(反対側からすれば上り坂ですが)が続いています。
鉄砲坂
江戸時代、このあたりに御持筒組屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったためこう呼ばれるようになった。また、それ以前は、この地に鈴振稲荷(現在は港区赤坂五の一)という稲荷社があったことから、稲荷坂と呼ばれていたという。
路地の突き当りに西念寺があります。伊賀忍者の頭領として徳川家康に仕えた服部半蔵のお墓があるそうです。
服部半蔵の槍
「鬼の半蔵」の異名を持つ服部半蔵(1542年〜1596年)が、元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦の戦功により、徳川家康より拝領したと伝えられる槍で、半蔵が開基となったこの西念寺本堂に現在も保存されている。第二次世界大戦の空襲により焼損するなど槍先と柄の一部が欠けているため、現状では全長258センチメートルである。戦国時代の槍が、半蔵が創建した西念寺に伝存している点で貴重な歴史資料である。
服部半蔵と西念寺
服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また、伊賀者の頭領として知られている。家康の長男、信康の切腹に際し、介錯を命ぜられた半蔵は、任を果たすことができず、以後信康の冥福を祈るため仏門に入った。その後、寺院を建立し、山号・寺号は半蔵の法名から取り「専称山安養院西念寺」とした。寛永十一年(1634年)江戸城外堀の開削に伴い、西念寺は現在地に移転した。境内には、服部半蔵の墓と信康の供養塔がある。(共に区指定史跡)
西念寺の角を曲がったところに観音坂という急な下り坂(反対側からすれば上り坂ですが)があります。アニメ「君の名は」では四谷にある坂が幾つかの場面で出てきます(私は映画を観ていませんが)。観音坂もそのひとつです。
観音坂
西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた。
東福院坂(天王坂)も「君の名は」に出てくる坂です。東福院坂が登場するのは映画のラストシーンで、三葉(東京に暮らす少年瀧と入れ替わりとなる飛騨の山奥で暮らす少女)が東福院坂を走って上っていく様子が描かれています。山奥育ちなので駆け上がれたのでしょうけど、都会の人間には無理な急勾配の坂です。それにしても、東福院は民家と見間違えそうな小さなお寺ですね。
東福院坂(天王坂)
坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。
東福院坂の中程には愛染院というお寺もあります。墓地には、新宿区の「@新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる」でも登場した、浅草阿部川町の名主喜兵衛(のちの高松喜六)のお墓があるそうです。世の中狭いものですねぇ。
新宿区指定史跡 高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄十年(1697年)に同志四人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。喜六は正徳三年(1713年)八月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。
新宿区指定史跡 塙保己一の墓
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享三年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。姓は荻野、幼名は辰之助といった。五歳で病にかかり、七歳で失明したが、十三歳のとき江戸に出て雨富(検校:平安時代・鎌倉時代に置かれた荘官で、社寺や荘園の監督役職名です。室町時代以降、盲官(盲人の役職)の最高位の名称と定着しました。)須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。優れた記憶力を認められて学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。天明三年(1783年)に検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけたが、寛政五年(1793年)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。文政二年(1819年)に「群書類従」を完成させ、同四年には惣検校となったが、同年九月に「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年七十六歳であった。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが、明治三十一年(1898年)に廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。
戒行寺坂も「君の名は」に出てきます。
戒行寺坂
戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(「御府内備考」)。別名「油揚坂」ともいわれる。これは昔、坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚げをつくっていたから、こう呼ばれたという(「新撰東京名所図会」)。
須賀町や若葉町には多くのお寺が集まっています。南端に位置する宗福寺もそのひとつです。
新宿区指定史跡 源清麿の墓
江戸時代後期の刀工の名匠・源清麿は、本名を山浦環といい、文化十年(1813年)信濃国小諸の赤岩村(現在の長野県東御市)に生まれた。はじめは、上田の刀工・河村寿隆について鍛冶を学び、天保六年(1835年)江戸に出て、幕臣・窪田清音のもとで兵学を学ぶが、刀工として評価した清音の好意でその屋敷内に鍛冶場を設け、刀工として活動した。その後、四谷北伊賀町(現在の四谷三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、清音から一字をもらい源清麿と称した。新々刀(江戸後時代期の刀)の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(1830年〜1848年)に活躍し、水心子正秀・大慶直胤とともに江戸三作と称された。また、四谷に住んだことから「四谷正宗」の異名をとった。嘉永七年(1854年)十一月十四日、四十二歳で自害した。源清麿の墓と並んで、水心子正秀らの墓碑も建っている。本所の西光寺に営まれたこの墓は、火災や関東大震災で焼損したものを昭和四十年(1965年)宗福寺境内で再興したものである。
松雪山西應寺は、周桂和尚が麹町貝塚夫婦坂に慶長十二年(1607年)に創建し、江戸城外堀建造に伴い寛永十二年(1635年)に四谷須賀町に移転しました。山号は、徳川家康が西應寺に来た際、庭前の松に暮雲がたなびいているさまを見て松雪山とするよう命名したとされています。
西應寺には幕末の剣客であった榊原健吉のお墓があります。添えられている写真を見ますと、断髪したようにも見えますが。。。また、梵鐘は太平洋戦争中の金属供出を逃れ、江戸時代の姿を残しているとのことです。残念ながら見落しました。
新宿区指定文化財・史跡 榊原健吉の墓
幕末から明治にかけて活躍した剣客榊原健吉は、天保元年(1830年)江戸の麻布広尾に生まれた。十二歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷信友に入門し、嘉永二年(1849年)に免許をうける。安政三年(1856年)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久二年(1862年)には師範に昇進、元治元年(1864年)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。慶応二年(1866年)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868年)八月徳川家達に従って静岡に移住した。その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治六年(1873年)撃剣会を発足させ、明治維新後に衰退した剣術の再興と普及に努めた。明治二十七年(1894年)九月十一日死去したが、亡くなるまで髷を切らず、最後の剣客と称された。
新宿区登録有形文化財・工芸品 西應寺の梵鐘
西應寺の第四世住職恵白の発願により、正徳二年(1712年)に鋳造された銅造の梵鐘である。高さ130.5センチ・口径70.3センチで、江戸鋳物師小沼播磨守藤原長政が製作した。全体に精巧に仕上げられた梵鐘で、江戸鋳物師の技術的特徴が良く表わされている。また銘文からは、梵鐘鋳造の由来や670名に及ぶ寄進者の名を知ることができ、地域史料としての価値も高いといえる。区内の江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく、大変貴重である。
須賀神社には、他の神社と同じように男坂と女坂があります。男坂といっても平らな坂でなく、階段になっています。「君の名は」では、映画のラストシーンで主人公の宮水三葉と立花瀧が再会する重要なシーンの舞台として描かれています(いるそうです)。また、映画のポスターには男坂の上から見渡した風景が使われているとか。確かに、谷底を眺めるようで絵になる街並みです。
須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する四谷十八カ町の鎮守様です。毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、江戸の五大祭りのひとつとして有名でした。社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に八俣の大蛇を討ち平らげ、「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り、宮居を占めた故事に基づき名付けられた名称です。
須賀神社 由緒
須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永十一年に江戸城外堀普請のため当地に移されたものである。須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した(のを)機に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永二十一年六月十八日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。戦災前の御社殿は文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をかけ、文政十一年十二月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが昭和二十年五月二十四日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と(”木”ヘンに耳が3つ【音読み:ショウ、訓読み:このはがうらがえる】)社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した、然し戦後氏子崇敬者の赤誠によリ、今日の複興を見るに至った。
天白稲荷社は本殿横の奥に鎮座しています。天白稲荷社には多くの御祭神が相殿神として祀られていて、「江戸名所図会」に数多く描かれていた境内社の多くが天白稲荷社に合祀されたとのことです。
須賀神社といえば「三十六歌仙絵」ですね。天保七年に画かれた三十六歌仙は、戦時中に御内陣金庫の中に納められていたために災火を免がれ、現在須賀神社の社宝として残っています。三十六歌仙絵は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、この方式は鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を見ました。境内の奥まったところに大きな展示板があり、原画のコピーが貼られています。一枚一枚に歌人の名前と和歌の印字体が添えられていて、万葉仮名が読めなくても和歌の内容が分かるようになっています。
新宿区指定有形文化財・絵画 須賀神社の三十六歌仙絵
三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966年〜1041年)が、過去及び同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の三名が、平安時代前期の「古今和歌集」・「後撰和歌集」頃から紀貫之・在原業平・小野小町ら三十三名が選ばれている。須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55センチメートル、横37センチメートルの絹地に彩色したものを、額装して拝殿内に掲げている。天保七年(1836年)に奉納されたもので、当時、文人画家として高名だっ四谷大番町(現在の大京町)の旗本大岡雲峰(1764年〜1854年)が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797年〜1854年)が書を担当した。四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。なお、三十六枚の作品の詳細については、新宿ミニ博物館「須賀神社三十六歌仙絵」の掲示板とパンフレットに解説を掲載している。
※三十六歌仙絵は、拝殿で儀式を行っている時は拝観できません。また、神社の許可なく昇殿することはできません。
Portraits of the Thirty-Six Immortals of Poetry at Suga Jinja Shrine
Designated Tangible Cultural Property (Paintings) of Shinjuku City
The Thirty-Six Immortals of Poetry were selected as exemplars of Japanese poetic ability by the court noble, Fujiwara no Kinto (966-1041) during the mid-Heian period. They include Kakinomoto no Hitomaro, Yamabe no Akahito, Otomo no Yakamochi, three poets represented in the Manyoshu collection, and 33 poets represented in the early-Heian period Kokinshu and Gosenshu collections. Among the latter group were Ki no Tsurayuki, Ariwara no Narihira, and Ono no Komachi. These poets are displayed in 36 individually framed silk paintings in the Suga Jinja Shrine. Each of the paintings mounted around the walls of the main building measure 55 by 37cm. Oka Umpo (1764-1848), a shogun's retainer from Obancho (now Daikyocho) in Yotsuya and well-known artist of the time, painted these portraits. Lettering by the court noble Chigusa Arikoto (1797-1854) accompany them. They were completed in 1836 and donated to the shrine. This set of cultural treasures is a sign of the prosperity of the community whose faith supported this tutelary shrine.
須賀神社を出て寺町の西側に進みます。曲がり角に本性寺があります。小さなお寺ですが、江戸時代の国学者である萩原宗固のお墓があるようです。200mほど離れた愛染院には門人の塙保己一のお墓がありました。でも、愛染院の門前にあった案内板には萩原宗固のことについて何も触れられていませんでした。実は、塙保己一が雨富須賀一の門人になったのは宝暦十年(1760年)で、その翌年に萩原宗固の門人になっています。萩原宗固の勧めで賀茂真淵の門人になったのは明和六年(1769年)のことです。塙保己一の案内板で萩原宗固について触れていないのはちょっと片手落ちと思いますが。
新宿区登録史跡 萩原宗固の墓
江戸時代中期の国学者・歌人萩原宗固(1703年〜1784年)の墓地。平成六年に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられている。宗固は市谷本村町の生まれ。享保から天明(1716年〜1780年代)に国学者・歌人として活躍し、門人として国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。特に塙保己一(1746年〜1821年)は、「群書類従」の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど大きな影響を受けたという。宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど、新宿とのつながりの深い学者である。
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