- A見どころ満載の四谷で、歴史探索(2)
- コース 踏破記
- <<A見どころ満載の四谷で、歴史探索(1)の続きです>>
外苑東通りからひとつ入った小路に面して陽運寺があります。四谷怪談お岩さま縁の寺と謳われていますが、実際のところはいろんな話があって本当のところは分かりません。。。
お岩さまと縁結び
「東海道四谷怪談」でおなじみのお岩さん。この怖いお岩さんが出てくる四谷怪談はじつは後世の人が創作した物語なのを知っていますか?舞台であるここ、四谷は東海道ではないことからも後に作られた物語だということがわかります。江戸時代に実在した女性「お岩」は家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられています。このお岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺としても全国に知られています。悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。厄除け、縁結び、芸道上達、また新たに出会いを望まれる方もぜひ、本堂からご参詣ください。
境内にはお岩様縁(とされる)の手水鉢が残されています。本当は違うみたいですが。
龍神様の手水
お岩様も使用したと伝わる御霊水です。御手を清め、本堂よりご参拝下さい。
こちらはお岩さま縁(とされる)の井戸だそうです。本当は違うみたいですが。
お岩さま縁の井戸
現在も御霊水として使われています。
お岩さまは、人々の悪縁を切り、良縁を結ぶ有難い菩薩様です(お岩様と縁切りには関係はないとの話もあります)。古今東西、悪縁を切りたい人は多いようで、板橋宿にも縁切り榎がありますね。お酒と縁を切る、ギャンブルと縁を切る、ゲームと縁を切る、悪友と縁を切るなどなど。悪縁は数多くありますが、良縁は少ないもんですね。
「於岩稲荷 水かけ福寿菩薩」
お題目(南無妙法蓮華経)を唱えながら、お水をおかけ下さい。あなたの厄が除かれ、あなたに福寿(幸福)が訪ずれます。
陽運寺は山門の隣に壁がありません。この境内のオープンスペースにお寺カフェが誕生したのは2020年のことです。表にはメニューを紹介した看板が立てられ、軽食や甘味や飲み物の品々が目を惹きます。「うくらいま食堂」ととはどういう意味なのでしょうか?実は意味のない言葉なんだそうです。「うくらいま」という言葉は、お店のオーナーのお子さんが言葉を覚え始めたころに「うくらいま」と言っては、笑いころげていたそうです。その光景は家族にとって幸せの記憶そのものなんだとか。そんな幸せな気持ちにあふれた食事・空間を提供したいとの想いからこの名前が付けられたとのことです。
陽運寺の少し先に「お岩稲荷田宮神社」という小さな神社があります。こちらが本物のお岩稲荷のようです。
東京都指定旧跡 田宮稲荷神社跡
田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永十三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(1825年)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治十二年(1879年)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(1931年)に(何に?)指定されました。戦後、昭和二十七年(1952年)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。
Historic Places
Tamiya Inari Jinja Ato
(The remains of Tamiya Inari Shrine)
Tamiya Inari Shrine, commonly known as Oiwa Inari, used to be in the premises of Tamiya family, of Osakitegumi doshin (military officer in the Edo period) at Yotsuya Samon-cho. An old story is passed down that Oiwa (died in 1636), a daughter of Tamiya Matazaemon, worshipped at the shrine and restored her family with Iemon, her husband. Therefore, the shrine was gradually worshipped as "Oiwa Inari" by people. There was yet another story to attract further worshippers the ghost story "Tokaido Yotsuya Kaidan" written by Tsuruya Nanboku was staged in 1825 and was very popular. However, it was written after 200 years of time when Oiwa and Iemon actually lived. Unlike the famous ghost story, their marriage in reality was enjoyable. After Inari Shrine was lost by a fire in 1879, it moved to Shinkawa in Chuo Ward. The present shrine was rebuilt here at Yotsuya in 1952.
四谷三丁目交差点角に消防博物館があります。正式には東京消防庁消防防災資料センターといいます。東京の安全と安心を進める消防がまるごとわかる広報・教育施設として1992年12月3日に開館しました。消防博物館には、消防関係の資材や書籍などを含む、約8,000点の資料を所蔵していて、江戸の消防に関する錦絵・瓦版・古文書・消火道具、明治時代から現在に至るまでの消防ポンプ・防火衣・消防活動資器材などの実物を中心に展示しています。
館内には本物の消防ヘリコプターや梯子車などが展示されています。どうやって運び込んだのでしょうかね?
入口から順に、時代毎の消防の歩みを記したパネルが置かれています。展示品も充実しています。ミニチュアですが、いろんなタイプの火の見櫓が再現されていますね。
消防の夜明け 【焼かれては再建をくり返す、江戸の町】
当時の建物は木と紙でできており、一度火がつくと燃え広がりやすく、しかも江戸には冬から春にかけて北寄りの季節風が吹くため、大火が多く起こりました。中でも江戸城の天守閣もろとも町の大半を焼き、10万7000余人の死者をだした明暦三年(1657年)の大火で江戸の町は深いきずをおいました。この様な状況の中で、幕府は消防の組織づくりや防火上の工夫を積極的に行ないました。江戸は火事と再建をくり返し、次第に大きな都市に発展していきました。
消防の夜明け 【大名火消に定火消、新しい組織の誕生】
日本最古の消防組織としては、幕府の命令書で出動した「奉書火消」があります。つぎに登場したのは大名火消であり、きめられた方角だけを担当する「方角火消」、重要場所を担当する「所々火消」などがありました。その後、火消し隊の常設を感じた幕府は、扶持(給料)を与えて火消しにあたらせる、旗本を中心とした1組100人以上の組織をつくります。これがいわゆる「定火消」で、はじめは4組でしたが後に10組になったことから「千人火消」とも呼ばれていました。
Dawn of Fire Service
Edo (the old name of Tokyo) was destroyed many times by large fires. But it was reconstructed again and again, and gradually developed in a large city. In this situation, the Tokugawa Shogunate organized fire brigades and took various fire protection measures.
The Shogunate created various kinds of firefighting units using the samurai warriors. Arming them, the "Dairmyobikeshi" fire briyade and the "Jyoubikeshi" fire brigade were the most famous.
時代は遷って、火消しの役割は大名・武士に代わって町人となりました。
町方の火消 【目の前の火事をみんなで消した、町民の力】
「交代で夜番せよ」・「全員が集まって火を消せ」など、様々な町触れ(法律)が出ていた当時、町の人々は自分たちで火事を消し、また身を守らなければなりませんでした。幕府ができて100年以上が過ぎた享保三年(1718年)、町奉行の大岡越前守忠相は、徳川吉宗の命を受け、いろは48組など、町火消の組織化にのりだします。最終的に江戸の町は1万人以上の火消たちを抱え、消火活動が行なわれました。これらの費用の多くは、町の経費でまかなわれたと言われています。
町方の火消 【火消組が誕生し、火事場での働きを競いあった】
町人の消防組織としては、近所の人々が火消しにあたる「五人組」や家主や商人が、店子や出入りの職人を火消しに従事させた「店火消」がありました。このとき、火事場で実際に役立ったのは、大工やトビ職の人々であったことから、彼らを中心に、約20町を1区域とした「組」による消防組織がつくられます。これが「いろは48組/本所・深川16組」と呼ばれるもので、各組は一番のりをめざして、たがいにその働きを競いあいました。この後、組織は大組という形でいろは48組は8組に、本所・深川は3組にまとめられました。
Firefighting by the People
People in the local communities had always taken measures for their personal protection from fires, but in the beginning of the 18th Century, town fire brigades were organized.
The town fire brigades were formed in each locality, and very often each unit competed with other units in their work at the fire ground.
明治時代が到来し、消防の近代化が進みました。
近代消防のはじまり 【弾む日本 消防も近代化を推進】
200年以上もの長い間、欧米諸国の進歩的な様子を知らなかった日本は、文明開化によって新しい学問・芸術・制度などを積極的に輸入し、近代化をすすめていきます。消防もヨーロッパ各国の制度をお手本とすることで、組織の近代化を行ないました。また、腕用ポンプや蒸気ポンプなどを輸入し、消防力を高めていきました。しかし、これらの機械はとても高価なため、国内での生産を試み、これに成功してから東京の各地域へ普及していきました。
Beginning of Modern Fire Service
Japan began the communication with the various countries in Europe and Americas in order to end its long history of isolation. The fire service, as well, had its organization and equipment modernized by keeping pace with the changes of the times.
明治から大正にかけて機械化が進み、現代の消防体制の基礎を築きました。
消防の躍進 【広がる常設の消防署 広まる消防ポンプ自動車】
明治時代の終りまでに、東京などの主な都市には、常設消防署が設置されていましたが、大正時代になって、地方都市にも消防署の常設が義務づけられました。また、大正時代は消防ポンプ自動車が登場した時代であり、当時としては最新鋭のこの消防機械は全国に普及していきました。火事を知らせる方法も改善され、火事を発見してから消防隊が駆けつけて消火活動にあたるまでの時間が、短かくなっていきました。
Rapid progress of Fire Service
By the end of the Meiji era, proffessional fire departments were organized in Tokyo and other large cities. In the Taisho era, the proffessional fire departments were established in the main cities throughout the country. Moreover, by this time fire trucks equipped with fire pumps had made their entry and these quickly spread across the country.
消防博物館を出て、津の守坂に向かいます。途中、新宿通りから北に向かって小路が延びています。杉大門通りですか。名前からしてその名前の由来が分かりますね。
杉大門通り
江戸時代、この地の北にある全勝寺には大門があり、門に至る横町には杉の並木があった。
次は車力門通りですか。時代は変わっても、名前はそのまんまですね。
車力門通り
江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横町」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。
津の守坂通りは、四谷二丁目付近の新宿通りから、曙橋付近の靖国通りまでを南北に結ぶ道路です。新宿通り四谷方向と靖国通り新宿方向・外苑東通り牛込方向を短絡する道としてよく利用されています。「津の守坂」は三栄町交差点から合羽坂下交差点にかけて緩やかに下る坂ですが、江戸時代に隣地(荒木町周辺)に尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことからこの名前が付けられました。
津の守坂通り
荒木町と三栄町の境を靖国通り手前までくだる坂である。別名を小栗坂ともいう。昔坂上の西脇に松平摂津の守の屋敷があったので、その名を略して津の守坂と称した。
津の守坂通りから新宿通りと平行して東方向に三栄通りが延びています。この一帯は三栄町の町域ですが、「三栄」の地名には、箪笥町・北伊賀町・新堀江町の3町が合併して三栄町が誕生した際に「三つの町が栄えるように」という願いから町名が名付けられたといわれています。
新宿歴史博物館は、昭和六十四年・平成元年(1989年)に開館した新宿区の郷土資料を扱う区立の博物館です。
博物館の入口前には、大正二年(1913年)の開通当時から平成三年(1991年)まで使われていた四谷見附橋の高欄が展示されています。
四谷見附橋 高欄
大正二年(1913年)十月に開通した四谷見附橋の欄干の一部です。四谷見附橋は、現在の国道20号線(甲州街道)にかかる橋で、JR中央線四ッ谷駅を跨ぎ、新宿区と千代田区を結んでいます。この橋がかかるまで四谷見附は、江戸城防備のため甲州街道の要衝として築かれたコの字状の枡形の名残をとどめ、麹町方面には直進することができませんでした。そこで東京市は、甲州街道を直行する橋を計画し、明治四十四年(1911年)三月に着工、大正二年十月に完成しました。橋のデザインは、近くの赤坂離宮(現在の迎賓館)の外観と調和させたネオ・バロック様式(十九世紀、ナポレオンV世の頃パリで流行った荘重・華麗な建築様式)となっています。橋は、平成三年(1991年)に道路拡幅のため架け替え、再使用できない部材の一部が当館に寄贈されました。また、架け替え前の四谷見附橋の姿は、八王子市南大沢の長池公園に復元されており、長池見附橋と名づけられています。
地下1階には常設展示室と企画展示室があり、常設展示室では5つのコーナーに分けて、旧石器時代から昭和時代初期までにおける展示が行われています。内藤新宿の精緻な復元模型がありますね。
江戸時代の商家もそのまま復元されています。
その他、昭和初期の文化住宅の復元家屋もあります。「昭和の都電跡を歩く」でもご紹介した都電11系統(新宿駅前〜月島通八丁目)や都電12系統(新宿駅前〜両国駅)を走っていた5000形のレプリカなども展示されていますね。
合羽橋下交差点を右折して靖国通りに入ります。左手の高台には広大な防衛省本省の敷地が広がっています。25ヘクタールもの広さだそうですが、こんなに広大な敷地をどうやって手に入れたのだろうと思いましたが、ここには明治七年(1874年)12月に陸軍士官学校が設置されたんですね。
四谷駅から市ヶ谷駅を経て飯田橋駅まで、江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して造られた、約2kmに亘る外濠公園が続いています。江戸城総構えの外周をなす外濠の土手は形式的とはいえ軍事施設の扱いであり、明治維新以降も「この土手登るべからず」と記された看板が設置され、立ち入りが禁止されていました。しかし1921年に法政大学が牛込濠端(現在の市ヶ谷キャンパス所在地)に移転して以来、禁を破って土手に入り込む法政大学生が後を絶たず、警察官が出動し学生との小競り合いが生じる例が後を絶たなくなりました。事態を重くみた法政大学は、校友であった東京市会議員の協力を得て東京市(当時)に対して「外濠の土手開放」を強く求め、結果として昭和二年(1927年)8月31日に、大学最寄の牛込駅から新見附の間を外濠公園として開放されました。その後公園の範囲を拡大し、現在の状態に至っています。「外濠を憩いの場として活用できるようにしたのは法大生であった」といわれています。外濠公園でお花見ができるのは法大生のおかげですかね。
四ツ谷駅の手前に何やら石碑が建っています。私には読み取れませんでしたが、ネットには次のように紹介されています。
明治三十年(1897年)に福羽美静らによって建立された。明治二十九年(1896年)に四ッ谷駅から堀端まで桜の植樹を行なったことが印されていて、福羽美静の歌がある。
たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや
いまや福羽が植樹した桜は見当たらないが、その意志は引き継がれて、春には外堀沿いの土手に見事な桜が咲き誇り、多くの人を楽しませている。
ゴールの四ツ谷駅四ツ谷口に着きました。半地下のような坂を下りたところにJRの改札口があります。
ということで、「A見どころ満載の四谷で、歴史探索」の歩きを終えました。なんと言ってもお寺や神社の数が半端なかったですね。歴史探索も楽しめて、見所満載でした。新宿区も奥が深いですね。
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