B粋なまち”神楽坂”を満喫(1)  

コース 踏破記  

今日は新宿区の「粋なまち”神楽坂”を満喫」を歩きます。東京メトロ東西線の神楽坂駅をスタート地点として、大人の隠れた街裏の神楽坂を巡ります。  

「粋なまち”神楽坂”を満喫」の歩行距離は約4.0km(約5,700歩)、歩行時間は62分、消費カロリーは約186kcalです。

スタート地点:東京メトロ東西線神楽坂駅【出入口1a】
↓ (約1.4km:約21.0分)
@牛込見附跡
徳川家光の命で造られた江戸城外掘跡(国指定遺跡)の城門のひとつ。千代田区側に石垣が残っています。
↓ (約0.1km:約  2.0分)
A神楽坂通り
ケヤキ並木の坂道は、個性的な老舗やモダンな飲食店、和雑貨の店など魅力がたっぷり。
↓ (約0.5km:約 8.0分)
B毘沙門天善国寺
桃山時代後期の創建。山の手銀座とも呼ばれた神楽坂は、善国寺の門前町として発展してきました。
↓ (約0.1km:約 2.0分)
C兵庫横町
石畳の路地に老舗の料亭。日本を代表する映画監督・作家・脚本家たちが滞在し、数々の名作を誕生させた老舗旅館もあります。(*途中階段あり)
↓ (約1.9km:約29.0分)
ゴール地点:JR中央線・総武線市ヶ谷駅


スタート地点の東京メトロ東西線神楽坂駅出入口1a(1aでも1bでも良さそう)から歩き始めます。



神楽坂駅のすぐ近くに、牛込町域の総鎮守である赤城神社があります。本殿も境内社も真新しい建物です。これには経緯があります。平成二十一年(2009年)から平成二十二年にかけて「赤城神社 再生プロジェクト」なる工事が行われました。老朽化した社殿全体を建て替え、赤城神社境内に隣接していた幼稚園は少子化などの理由により閉園し、その跡地を再開発するにあたり、建築費を神社側で全て賄うのは難しい状況にありました。そこで三井不動産レジデンシャルが約70年の定期借地権を設定して神社から土地を借り、神社の建て替えとともに敷地内に分譲マンションを建設しました。そして地代や賃貸による収入を神社の運営に充てるとともに、借地権の期限が来たらマンションを解体し神社の杜に戻すことにしたのです。デザインの監修は、地元神楽坂に在住し同神社の氏子でもある、建築家の隈研吾氏が担当しました。マンションの内外にも神社と調和する意匠が施され、境内の既存樹木についても一部は保存・活用が図られました。これについては、隈氏本人から自ら協力したいという申し出があったそうです。

赤城神社 お祀りしている神様

「磐筒雄命」(いわつつおのみこと)

合殿
「赤城姫命」(あかぎひめのみこと)

後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十餘年を経て寛正元年太田道灌持資が牛込毫室へ遷座。其後大胡宮内小輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。


境内社(神社の境内に本社とは別に祀られている社)として、次の4社があるみたいです。「螢雪」って、懐かしい言葉ですね。旺文社の大学受験雑誌「蛍雪時代」は今でも発行されているんですね。昭和七年(1932年)創刊だそうですから、もうすぐ百周年になりますか。幾多の受験生がお世話になったことでしょう。ちなみに、「蛍雪」という言葉は、晉の車胤は貧しくて灯火用の油が買えなかったので蛍を集めてその光で書を読み、孫康は雪の明りで書を読んだという故事に由来します。

螢雪天神 本宮
ご祭神 菅原道真公

かつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称され、江戸二十五社の一つに列しておりました。その後信徒なき為、明治九年三月當境内にご遷座。先の戦災により焼失したものを、平成十七年十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により[螢雪天神]として復興した。「螢雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。「学問の神様」として全国の受験生の皆さんを応援しています。

赤城出世稲荷神社
ご祭神 宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)/保食命(うけもちのみこと)

赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年(1555年))から牛込の鎮守とされ、奉祀してきた産土神(神道において、その者が生まれた土地の守護神を指します。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられています)です。出世開運、五穀豊穣、商工業繁栄のご神徳があり、サラリーマンの出世祈願、神楽坂商店街の商売繁盛で人気があります。

八耳神社
ご祭神 上宮之厩戸豊聡八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと)(別称・・聖徳太子)

一般に八耳大神として親しまれている。聡明な知恵を授かるご利益があり、なにか悩み事がある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。

葵神社
ご祭神 徳川初代将軍徳川家康公

牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していましたが、明治元年神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。かつての祠は明治十八年に御造営したが戦火にて焼失。平成二十二年秋に再建された。




境内社の蛍雪天神本宮は簡素ながらも趣があります。同じような内容ですが、案内板が立っています。

螢雪天神 本宮
ご祭神 菅原道真公

古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。ご祭神は「学問の神様」菅原道真公を祀ります。この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治九年三月當境内にご遷座。その後、戦災により焼失したものを、平成十七年十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により「蛍雪天神」として復興しました。社名額には社長赤尾文夫奉納の銘がある。「蛍雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。全国の受験生の皆さん、蛍雪天神はそんな皆さんを応援しています。




赤城神社の狛犬は漫画チックな表情をしていますね。

赤城神社の狛犬

江戸時代、加賀白山犬とよばれて流行りましたが残っている物はわずかです。型や表情はシンプルでスフィンクスに似ていますが胸を張り力がみなぎっています。高天原からかみさまのお供をして来たような表情で澄まして座っていますが前肢は力強く全体に緊張感がみなぎっています。




早稲田通りに下る御殿坂が築土八幡町にあります。坂上に案内柱が立っています。

御殿坂

江戸時代、築土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、(「御府内備考」)、寛永の頃(1624年〜1644年)、三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという(「江戸名所図会」)。坂名は御殿山にちなむ(「新撰東京名所図会」)。




ついでに、築土八幡神社に立寄ってみます。築土八幡神社は、嵯峨天皇の時代(809年〜823年)に付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれています。その後、円仁(慈覚大師)が東国へ来た際に祠を立て、伝教大師(最澄)の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したとされています。その後、文明年間(1469年〜1487年)にこの地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守としました。



築土八幡神社には、新宿区の指定有形民俗文化財になっている庚申塔があります。寛文四年(1664年)の造立で、太陽と月・桃の木・二匹の猿をあしらった舟型の石造庚申塔となっています。三猿でなく二猿であり、牡猿・牝猿がどちらも桃の枝を持った姿で表現されている点が極めて珍しいということです。



境内の隅に、1965年に建立された顕彰碑が建っています。田村虎蔵は、唱歌「金太郎」や「浦島太郎」などを手がけた作曲家です。神社の裏手に住んでいたそうです。顕彰碑には、金太郎の楽譜と歌詞の一部が書かれています。

田村虎蔵先生をたたえる碑

田村先生(1873年〜1943年)は鳥取県に生まれ、東京音楽学校卒業後高師附属に奉職。言文一致の唱歌を創始し、多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました。




境内の神輿庫には、新旧2基の神輿が鎮座しています。ガラス戸越してよく見えませんが。

神輿について

右側の黒い漆塗りの神輿は、延宝六年(1678年)に、当時の氏子崇敬者が御神徳に報謝して製作したもので、戦前から昭和四十八年までの渡御に用いられました。

左側の白木の神輿は、鉄製の飾り網、支え棒のついた重厚で堅牢な造りで、慶應二年(1866年)に製作されたものです。昭和五十二年に修理されて、その後の渡御に用いられています。




築土八幡町交差点の先に「独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO)東京新宿メディカルセンター」の巨大な建物があります。私がお散歩に持参している2010年版の地図(早く買い換えろ!)には「厚生年金病院」と記載されています。JCHOは、厚生労働省所管の独立行政法人で、かって存在した社会保険庁所管の団体が所有していた57の病院を含む100以上の施設を継承するために設立された独立行政法人です。新型コロナウイルス感染症対策分科会長の尾身茂氏が理事長を務めています。



飯田橋交差点から新装なったJR飯田橋駅西口に向かう外堀通りの内側に飯田濠跡に造られた公園があります。牛込橋から飯田橋までは、かって水を湛えた濠になっていました。現在は埋め立てられてRAMLAというショッピングモールと植栽を施した親水公園になっています。



暗渠となった飯田濠には五つの橋が架けられています。ひとつは「みやこ橋」で、RAMLAの2階相当にあり、フリーマーケットや神楽坂のイベントの催場となっています。残りの四つの橋は外堀通りに面した親水公園にあり、「さくらばし」・「けやきばし」・「かえでばし」・「ひいらぎばし」という四季折々を代表する樹木の名前が付けられています。



植え込みの中には、牛込揚場の石碑も置かれています。江戸市中に張り巡らされた掘を通って、海からここまで大量の荷物が運び込まれていたとは驚きです。

牛込揚場

江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米・味噌・醤油・酒・材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。昭和四十七年(1972年)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。外濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。

絵に添えられた説明書き

牛込御門外北のかた船河原橋より、南のかた町武の第宅軒を並べ、東南のかたは御堀にて材木および米噌はさら也。酒醤油始め諸色を載てここに集へる。船丘をなせり。故に揚場の名は負けらし。これより四谷赤坂辺まで運送す。因てこの所の繁華山の手第一とせり。




JR飯田橋駅西口の前に、ミニチュアっぽい牛込橋の親柱があります。牛込橋は江戸城防御のための外濠を跨いで架かっています。

牛込橋

この橋は、「牛込橋」といいます。「御府内備考」によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は、「番長方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。最初の橋は、寛永十三年(1636年)に外堀が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。現在の橋は、平成八年三月に完成したもので、長さ46メートル、幅15メートルの鋼橋です。




石垣の前に千代田区の町名由来板が立っています。

千代田区町名由来板 富士見二丁目

江戸城の名残である外堀(外濠)に面したこの界隈は、武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時、武家地には正式な町名がなく、道筋に土手四番町・裏四番町通などと呼称が付いていただけでした。「富士見」という町名が生まれたのは明治五年(1872年)のことで、九段坂を上ったあたりから眺める富士山の姿がじつに素晴らしいことから付けられた名前です。九段坂を上りきった台地(現在の靖国神社周辺)に富士見町一丁目〜六丁目が誕生しました。昭和八年(1933年)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。同じ年、富士見町五丁目と飯田町六丁目の一部が合併し、富士見町二丁目となりました。そして昭和四十一年(1966年)、住居表示の実施にともない富士見町二丁目と富士見町三丁目目、飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生したのです。現在、当町会は東西に約八百メートルの長さがあり、東京のお伊勢さまといわれる東京大神宮をはじめ、衆議院議員宿舎など、名のある建物が多数存在しています。また、大学や病院など教育・医療機関も充実しています。JRと四本の地下鉄が走るきわめて交通の便がよい立地で、緑が多く、住むにも働くにもよい町です。

Fujimi 2-chome

This area, which once lay along the outer moat of Edo Castle, was the site of many samurai residences. The name originates from the fact that, from the top of Kudanzaka hilI, it was possible to get a magnificent view of Mt. Fuji.




同じく、石垣の前に巨石が置かれています。牛込門の基礎にした石だそうです。こんな巨石の上に建物を建てたら、大地震にも耐えられるでしょう。

牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石
Ushigome-mon Gate Remains - Stone Wall Block with "Awa-no-Kamiuchi" Inscription
千代田区指定文化財(「阿波守内」銘の石垣石のみ)

牛込門は寛永十三年(1636年)に、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主蜂須賀忠英により築造されました。門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。なお牛込の名称自体は、新宿区側の台地上に拠点をおいていた牛込氏・牛込城にちなむと思われます。この辺りは、牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は明治四年(1871年)に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる掘や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。ここにある直方体の石は、牛込門の基礎として地中に設置された石垣石です。はす向かいの富士見教会の建て替えがあった際に敷地内から発見され、ここに移設しました。石の側面には「□阿波守内」という銘文があり、蜂須賀家(阿波守)が牛込門の石垣工事を担当したことを裏付けています。

Chiyoda City Cultural Property (Stone Wall Block with "Awa-no-Kamiuchi" Inscription only)

Ushigome-mon Gate was constructed in 1636 by Hachisuka Tadateru, the feudal lord of the Awa Tokushima Domain(current-day Tokushima Prefecture). The gate was so named as it was the exit for the Ushigome area. The name "Ushigome" is thought to come from the Ushigome family and Ushigome Castle, which were located on an elevated location on the Shinjuku City side. An outer moat was dug in this area, taking advantage of a wider part of the valley stretching from Ushigome (lidabashi) to Yotsuya, broadening the moat for defense. The gate was demolished in 1871. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956. The rectangular stone blocks here were set into the ground as footings for Ushigome-mon Gate. They were moved here after being unearthed when the diagonally opposite Fujimi Church was rebuilt. The side of the stone bears the inscription "Awa-no-Kamiuchi," which establishes that the Hachisuka clan, Governors of Awa Province (Awa-no-Kami) were in charge of stone works for Ushigome-mon Gate.




JR飯田橋駅西口から外堀通りを渡った先に神楽坂があります。新宿という大都会にありながら、ひとつ細い路地に入ると、江戸時代の面影を今に残しています。奥まった裏通りには粋な名店が並び、通好みの隠れ家になっています。

神楽坂

坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽に因んだ諸説がある。




神楽坂は、神社やカフェ・雑貨店におしゃれな商業施設など、歩いていて飽きることのない通りです。



いよいよ神楽坂の懐深い小路に入っていきます。神楽小路は神楽坂下から神楽坂上方面に上って最初の路地で、神楽坂と軽子坂を結ぶ小路です。神楽小路には、洋食屋・ラーメン屋・蕎麦屋・飲み屋・スナックなど飲食店が所狭しと密集しています。この神楽小路は昔は紀ノ善横丁と呼ばれていたそうですが、通り名が変更になった際に神楽坂を最初に入った横丁なのでこの名称になったと言われています。



神楽小路を抜けますと、軽子坂という急坂に出ます。

軽子坂

この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかって船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ、江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。




神楽小路から隣の神楽坂中通りを歩きます。神楽坂中通りは神楽坂通りから分岐する道路ですが、小路というには道路も歩道も建物もスッキリしています。通りの雰囲気もちょっとお洒落な感じです。



神楽坂中通りからふたつの路地が分かれます。そのひとつが「芸者新道」です。料理屋・待合・芸者置屋が揃う三業地と呼ばれていた頃のかっての神楽坂を想像させます。もうひとつが「かくれんぼ横丁」です。入口に「寿し屋の勘せい」のお店があります。通の方にはお勧めです。



かくれんぼ横丁は、名前が表す様に迷路のように入り組んだ路地と黒塀に囲まれた料理屋さんが並ぶ落ち着いた佇まいの小路です。



かくれんぼ横丁の角地に向かい合って天麩羅のお店と焼き肉のお店があります。「天孝」は、神田の猿楽町にあった昭和の名店で御座敷天婦羅の「天政」の初代橋井政二の一番弟子といわれた初代の新井孝一氏が1977年に創業し、現在は二代目の新井均氏と共に伝統の味を守っています。衣のサクっとした食感を出すために揚げ油の配合に拘り、素材の旨味を活かした軽やかな味わいに仕上げています。職人技を目の前で眺められるカウンター席は海外からの訪問客にも好評です。翔山亭は黒毛和牛を一頭買いしているので、希少な部位も食べることができます。お店の門構えにも雰囲気があり、個室でゆったり焼肉を味わうことができます。



かくれんぼ横丁を抜けたところが本多横丁です。江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であったことに因んで名付けられました。

本多横丁

その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地であったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し、関東大震災後より昭和初期には連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も多くの人々に親しまれるところとなった。後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。




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