- B粋なまち”神楽坂”を満喫(2)
- コース 踏破記
- <<B粋なまち”神楽坂”を満喫(1)の続きです>>
善国寺は神楽坂の坂上近くにある朱門が特徴的なお寺です。安土桃山時代の文禄四年(1595年)に池上本門寺第十二代貫主だった日惺上人により馬喰町に創建されました。度々火災に見舞われ、麹町を経て寛政五年(1793年)に神楽坂に移転しました。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺と共に、江戸三毘沙門と呼ばれました。現在は新宿山ノ手七福神の一社になっています。善国寺で縁日に露店などが出るようになったのは明治二十年(1887年)頃からのことで、東京における境内露店発祥の地とされています。
新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺の毘沙門天像
「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄四年(1595年)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。
寺社の山門横には金剛力士像(仁王像)が見られますが、善国寺では虎の石像になっています。聖徳太子が朝敵物部守屋を討伐しようと信貴山に来て戦勝の祈願をすると、天空遙かに毘沙門天が出現して必勝の秘法を授けました。その日は奇しくも寅年・寅日・寅の刻でした。聖徳太子は毘沙門天のご加護で敵を滅ぼすことが出来たということで、毘沙門天を祀る善国寺には虎の石象が置かれたとのことのようです。
新宿区指定有形民俗文化財 善國寺の石虎
安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が八十二センチ、吽形(左)は八十五センチで、台石・基壇部も含めた総高は、両像ともに二メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848年)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店(わらだな)」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地域にとっても貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
兵庫横町は善国寺のちょうど真向かいにあり、神楽坂通りに面したビルとビルの切れ間のほんの僅かな空間に人ひとり通るのがやっとの小路ともいえないような狭い通路です。狭い通路の先には石畳と黒塀の路地が続いています。戦国時代に牛込城の武器庫(兵庫)があったことが通りの名称の由来となっています。
横丁内のレトロな雰囲気の旅館では、野坂昭如氏や山田洋次氏などが滞在し、数々の名作を誕生させました。
善国寺の脇から地蔵坂が延びています。坂の上には工事中の塀に囲われ、大きな銀杏の木が聳えています。樹齢250年以上と推定され、戦災の時に焼け野原となった中にこの銀杏の木が残り、それを目印に被災者の人が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の空襲の痕跡(裂け目)が残っています。「日本出版クラブのイチョウ」と呼ばれていましたが、日本出版クラブは2018年に神保町に移転し、現在は跡地にマンションが建設中です(歩いた時は)。
地蔵坂
この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。
光照寺は慶長八年(1603年)に神田元誓願寺町で開かれ、正保二年(1645年)にここ沼袋町に移転しました。この辺り一帯は戦国時代に後北条氏の家臣であった牛込氏の居城(牛込城)がありましたが、天正十八年(1590年)の北条氏滅亡後に取り壊され、今はその面影もありません。
新宿区登録史跡 牛込城跡
光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城跡である。牛込城の城館や築城時期は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。牛込氏は、赤城山の麓上野国勢多郡大胡(現在の群馬県前橋市大胡町周辺)の領主、大胡氏を祖とする。大胡氏は、天文年間(1532年〜1555年)に南関東へ進出し、北条氏の家臣となり、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近を領有した。天正十八年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、江戸時代は旗本としてコ川家に仕えた。なお、光照寺は、正保二年(1645年)に神田から当地へ移転したものである。
境内には立派な鐘撞堂があります。
鐘樓堂
光照寺は、慶長八年(1603年)浄土宗増上寺の末寺として神田元警願寺寺町に起立、正保二年(1645年)ここ牛込城跡に移転しました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開山の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名に由来するものです。鐘樓堂は、明治元年(1868年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏棄釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、六十年の歳月を経て昭和十二年(1937年)に復興を見ましたが、昭和二十年(1945年)第二次大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。梵鐘(宮樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還されて永く境内に保存されていましたが、この度の鐘樓堂の新築により復元しました。
光照寺には多くの文化財があります。光照寺門前の地蔵坂の地名の由来となった地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代製作とされる像高30センチほどの坐像です。十一面観音坐像は、江戸時代後期の造仏僧である木食五行明満の作とされています。
新宿区指定有形文化財 彫刻
木造地蔵菩薩坐像
寄木造り、K漆塗り。像高三十一センチ。十三世紀末(鎌倉時代)の作品で、区内で最も古い仏像彫刻のひとつである。「御府内備考続編」に掲載された縁起によると、この像は安阿弥(快慶)の作と伝えられ、もとは近江国(滋賀県)の三井寺(園城寺)に安置されていた。弘安年間(1278年〜1288年)に、後宇多天皇の皇后が難産で苦しんだ際、本像に祈願して無事に男子を出産した(のちの後二条天皇)ことから、「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺へ移され、正徳年間(1711年〜1716年)に増上寺の末寺である光照寺に安置され、「安産子育地藏」として信仰を集めた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
新宿区登録有形文化財 彫刻
木造十一面観音坐像
一木造り、素木仕上げ。像高七十センチ。十八世紀末(江戸時代後期)の作品で、作者は木食明満である。明満(1718年〜1810年)は、円空とならび称される造仏聖で、全国を旅して鉈彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。
阿弥陀三尊来迎図は、室町時代の製作とされる来迎図です。来迎とは、仏教において念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ることです。その様子を描いた図様が来迎図となります。法然上人画像は、浄土宗の宗祖である法然上人を描いた室町時代製作とされています。
新宿区指定有形文化財 絵画
阿弥陀三尊来迎図
絹本着色、木製の板に張り付けられた状態で、厨子に納められている。縦102.2七ンチ、横39.4七ンチ(画像寸法)。画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極染に迎えるため降りて来る)様子を描いたもので、十四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
新宿区指定有形文化財 絵画
法然上人画像
絹本着色、掛軸装されている。縦89.5センチ、横41.3センチ(画像寸法)。浄土宗の宗祖法然上人の画像で、十五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
涅槃図は、元禄から正徳年間(1688年〜1716年)頃に狩野派の絵師によって描かれたものと推定され、文化の日前後に特別公開されています。
新宿区登録有形文化財 絵画
光照寺の涅槃図
涅槃図とは沙羅双樹の下で入滅する釈迦を描いた仏画で、一般的に釈迦が頭を北に、顔を西に、右脇を下にして臥し、周囲には悲しむ菩薩らや仏弟子などが描かれる。浄土宗増上寺の末寺である光照寺の涅槃図は、総寸法縱317.2センチメートル、横196.4センチメートルを測る大振りな涅槃図である。人物表現などの描写の特徴から、元禄から正徳年間(1688年〜1716年)頃の、画技に習熟した江戸狩野派の画家によって描かれたものと推定される。区内に現存する貴重な江戸時代初中期の涅槃図として、また珍しい狩野派の涅槃図として、重要である。
地蔵坂の先に宮城道雄記念館があります。宮城道雄は生田流免許皆伝の箏曲家であり、「越天楽変奏曲」や「春の海」などの作曲家として世界的に知られています。7歳の頃に失明しましたが、8歳で神戸の中島検校に入門し、11歳で免許皆伝となりました。22歳で大検校の称号を受けています。ちなみに、検校とは室町時代以降に定着した盲官(盲人の役職)の最高位の名称です。宮城道夫の功績は、箏曲の伝統に根ざしつつ洋楽を取り入れ、新しい日本の音楽を創始したことです。1921年に考案した十七絃を用いた大編成の合奏曲から童曲まで、作曲した作品は300曲を超えています。昭和三十一年(1956年)6月25日、関西への演奏旅行の途上で東海道線刈谷駅付近で夜行列車から転落し、亡くなりました。
宮城道雄氏略傳
宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る。生後二百日にして悪質の眼病あり、九歳遂に失明し二代目神戸中嶋検校の門に入る。その藝術的天分は夙に音樂に發現し十六歳にして処女作「水の變態」を成し爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「櫻變奏曲」等幾多の名曲あり、獨自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音樂と稱せらる。昭和五年東京音樂學校に迎へられて講師となり、同十二年には同校教授たり。十九年高等官三等正五位に任せられ、昭和二十四年には東京藝術大學講師たり。三十一年六月正四位勲四等に叙せられ、旭日小綬章の授與を受く。その間藝術院會員の拝命、放送文化賞の受賞、世界民族音樂舞踏祭に日本代表として渡歐などの榮誉ありしを、昭和三十一年六月二十四日關西交響樂団との協演のため大阪市に向ふ途上列車銀河より東海道刈谷驛附近の鐵路に轉落せるを發見、手當中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ。口述及び点字寫字機に依る「雨の念佛」「騒音」「垣隣」等の詩趣多き随筆の類を収めたる全集三巻の遺著あり。亦その詞藻を見るに足る。
右 七周忌に當り屬により
遺友 佐藤春夫撰
新宿区立牛込第三中学校の敷地角に巨木が聳えています。府立四中の跡に建てられたとのことですが、この巨木は空襲の被害は受けなかったのでしょうか?
東京都立(府立)第四中学校の跡
都立四中は明治二十一年九月私立補充中学校として麹町区飯田町に開校した後、共立中学校、東京府城北尋常中学校と改称、同三十四年四月東京府立第四中学校となる。同三十七年一月には牛込区市ヶ谷加賀町の此の地に木造二階建ての校舎が建ち、以来明治・大正・昭和前期にわたる深井鑑一郎校長の薫陶の下で、礼を基底とした人間教育と学問の基礎の確立を通して、世に「天下の四中」の名を得るに至った。時が移り第二次大戦の末期、昭和二十年三月十日および四月十三日の大空襲により明治以来の校舎、講堂その他建物一切は灰爐に帰し、さらには敗戦後、学制改革もあって、昭和二十二年、二十三年における旧制中学五年生の卒業を最後に、都立第四中学校は六十年にわたるその歴史の幕を下した。併し不易流行の校風は、都立戸山高等学校に受け継がれ現在に至っている。最後の卒業生となった昭和十七年入学者一同、四中終焉五十周年を記念して此の碑を建てる。
新宿区立納戸町公園は、西洋の貴族と結婚した初めての日本人女性であるクーデンホーフ光子さんの居住地跡です。
史跡 クーデンホーフ光子 居住の地
この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子(青山みつ)(1874年〜1941年)が、明治二十九年(1896年)に渡欧するまで住んでいた。光子は、明治七年(1874年)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治二十五年(1892年)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト(栄次郎)(1894年〜1972年)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。
牛込三中角交差点から南方向に、大日本印刷市ヶ谷工場の間を通って日本学生支援機構(旧日本育英会)ビルに至るかなり急な坂があります。北から南に向かって下り、途中から上る擂鉢状の坂道です。江戸時代以前は、薬王寺町辺りを源頭とする沢が擂鉢状の低い部分を流れて外濠(江戸以前は紅葉川)に流下していたそうです。周囲には大日本印刷関連の建物がいくつもあって「大日本印刷村」のようになっています。
中根坂
昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。
DNPは「大日本印刷」の頭文字です。DNPは、当時の最先端技術であった活版印刷事業で創業して以来、印刷技術を応用・発展させることでさまざまな分野にビジネス領域を拡げてきました。時計台が印象的な古風な建物の「市谷の杜 本と活字館」は、2020年11月に誕生した本づくりの文化施設です。コンセプトは「リアルファクトリー」で、活版印刷を中心とした印刷所であると同時に、モノづくり工房として印刷の美しさや奥深さや楽しさを体感して頂きたいという願いを込めて開館したとのことです。館内では、文字(秀英体)のデザイン・活字の鋳造から、印刷・製本までのプロセスを展示していて、印刷機が稼働する様子や活版職人が作業する姿も動態展示の形で公開されています。また、参加型ワークショップやイベントなど、来館者が活版印刷を始めとした印刷・製本・紙加工を体験できるようになっています。活版印刷は大日本印刷のすべての事業の原点であり、特に市谷工場では長年にわたり日本の書籍や雑誌を数多く製造してきました。その市谷工場の象徴として「時計台」の愛称で親しまれてきた建物を大正十五年(1926年)竣工当時の姿に復元し、「市谷の杜 本と活字館」として生まれ変わったのです。
右近坂を下って外堀通りに出ます。市谷見附交差点の近くに亀岡八幡宮の参道があります。ちょっと立寄ってみましょう。本宮に続く階段は相当に急ですね。脇には坂道もあるのですが、頑張って階段を上っていきます。
階段の途中で息が切れそうになります。もう少し。。。
亀岡八幡宮の境内には「摂社茶ノ木稲荷神社」が鎮座しています。「摂社」とは 神社の格式のひとつで、本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社のことです。本社と末社との間に位し、本社の境内にあるものを境内摂社、境外にあるものを境外摂社といいます。
弘法大師開山 茶の木稲荷神社
市谷亀岡八幡宮の現在の境内地は、今を去る事千二百年以上前に弘法大師が開山し、稲嶺山(いなりやま)と申しました。市谷亀岡八幡宮は江戸の初期に遷座するまでは、この茶ノ木稲荷神社が約七百年に渡りこの山の本社だったのです。
[眼病平癒伝説】
御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰があります。古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居ましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ケ日は茶を呑まない習俗がありました。特に眼病の人は十七日、或は三七日(?)・二十一日の間茶をたって願えば霊験あらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したということです。
[御神威]
遠く四方に輝き、江戸時代には参詣者は常に絶えることなく、全国の稲荷番付には前頭筆頭に位置し、毎春初牛の祭はもとより、毎月々の御祭日には、神楽の奏奏、演藝の奉納等も行われ、縁日も立ち、賑わいを極めました。今日インターネットの普及により、再び全国からお守りやご祈祷の依頼が増えています。
八幡宮と書かれた神額(扁額)が掲げられた銅製の鳥居が建っています。緑青が浮き出ていて、かなり年季が入っていますね。
新宿区指定有形文化財 建造物
市谷亀岡八幡宮の銅鳥居
文化元年(1804年)十二月建立の銅製明神型鳥居で、高さは四・六メートル、台石五五センチである。市谷亀岡八幡宮の別当寺であった東圓寺の第七世住職智光の発願により建立された。柱には、造立者・鋳物師らの建造銘と、寄進者四四二名の名前や職業が陰刻されている。「八幡宮」の額は、姫路藩主である酒井忠道の筆によるもので、八の字は八幡神の使いとされる一対の鳩が向かい合う姿で描かれている。区内で唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。
新宿区登録有形文化財 工芸品
市谷亀岡八幡宮の軍配団扇
柄は木製で、団扇の部分は和紙を芯に幅一センチ程の短冊状の竹板を並べて、黒漆を塗って仕上げている。「御府内備考」(文政十二年刊・1828年)によれば、この軍配団扇は、太田道灌が所持した品である。制作・奉納年代などは不明であるが、新宿区周辺に多くの伝説を残した道灌をしのぶことができる貴重な文化財である。
神楽坂の善國寺の石虎の台座にもありましたが、ここの水鉢の台座にも「几号水準点」が彫られています。神社の台座は滅多に動かしませんからね。
新宿区登録有形文化財(歴史資料)
市谷亀岡八幡宮の几号水準点(水鉢台座)
明治初期に、イギリスの技術を導入した内務省地理寮は、近代的な測量を開始し、東京を中心に、「不」の字に似た記号を用いた几号水準点を設置した。市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、神社境内の水屋の水鉢台座の側面に刻んだもので、内務省地理寮による関八州大三角測量が開始された明治八年(1875年)頃に、刻印された。現在、台座の上には、昭和二十六年(1951年)に、八幡講により奉納された水鉢が置かれているが、もともとは社務所前に置かれている、宝暦七年(1757年)に、越前屋吉兵衛によって奉納された水鉢とセットであったと推定される。「江戸名所図会」(天保五・七年間刊、1834年・1836年)には、現在と同じ位置に水屋が描かれており、また「東京実測図」(明治二十年、1887年)に記された標高(水準点94.8尺、約28.7メートル)が現在とほぼ変わらないことから、水準点の位置が、設置当初から移動していないことが分かる。市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、設置当初の場所に位置する希少な几号水準点で、保存状態も良好である。近代土木史上、貴重な文化財である。
神社の境内ではお馴染みの力石です。石の形が綺麗な卵形をしていて、刻まれた文字も鮮明です。でも、なんでこんな馬鹿な力比べをしたんですかね?相撲でも取った方が余程力自慢になったでしょうに。
新宿区指定有形民俗文化財 市谷亀岡八幡宮の力石
力石は、祭礼の時などに村人が力くらべをし、その石を奉納したものである。市谷亀岡八幡宮の力石は、合計七個が保存されている。卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者あるいは持ち上げた者の名が刻まれており、うち三個には奉納された年も刻まれている。年代のわかるものでは、寛政六年(1794年)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと考えられる。数量的にもまとまっており、当時の祭や娯楽を知るうえで貴重な民俗資料である。
亀岡八幡宮の脇の坂道を下りて(階段は懲りた。。。)、ゴール地点の市ヶ谷駅に向かいます。市ヶ谷駅と靖国通りを挟んだ反対側の外濠公園に巨石が置かれています。江戸城を築城するのにどれ位多くの巨石が費やされたのでしょうか?
市ヶ谷門跡
市ヶ谷門は、寛永十三年(1636年)に美作津山藩(現在の岡山県)藩主森長継によって築造されました。門に付属する橋は、現在の五番町・九段北四丁目と新宿区の市谷田町・市谷八幡町を結んでいました。明治四年(1871年)に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち枡形石垣も撤去されました。ここにある石は、市ヶ谷門橋台の石垣の一部です。石に刻まれた刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。赤坂見附から牛込橋にいたる掘や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。
Ichigaya-mon Gate Remains
Ichigaya-mon Gate was constructed by Mori Nagatsugu, the feudal lord of the Mimasaka Tsuyama Domain (current-day Okayama Prefecture) in 1636. The bridge leading to the gate connected current-day Gobancho and Kudankita 4-chome with Ichigaya Tamachi and Ichigaya Hachimancho in Shinjuku City. In 1871, Ichigaya-mon Gate was demolished, leaving only its square-stone wall and the bridge. The square-stone wall was also subsequently demolished. The stone blocks here are some of the blocks from the stone walls for the abutment of Ichigaya-mon Gate Bridge. The inscriptions in the stone are thought to be at the hands of the daimyo and masons who built the stone wall in the early Edo Period under an order for "construction assistance" imposed by the shogunate. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.
ということで市ヶ谷駅に辿り着きました。4kmほどの大して長くないコースでしたが、都心だけあって見所が多かったですね。神楽坂の奥深さを堪能しました。願わくば「かくれんぼ横町」の小粋なお店でお寿司でもつまんで一献頂きたいものです。まあ、無理でしょうけど。。。
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