- C山手線内最高峰と漱石山房記念館をめぐる
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「山手線内最高峰と漱石山房記念館をめぐる」を歩きます。都営地下鉄大江戸線の若松河田駅をスタート地点として、山手線内最高峰の箱根山に登り、その後で夏目漱石の足跡を辿ります。
「山手線内最高峰と漱石山房記念館をめぐる」の歩行距離は約4.4km(約6,300歩)、歩行時間は67分、消費カロリーは約201kcalです。
スタート地点:都営地下鉄大江戸線若松河田駅【河田口】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
- @抜弁天(厳島神社)
- 苦難を切り抜けられる弁天様として信仰されました。江戸時代、「生類憐れみの令」により神社の東一帯に犬御用屋敷が作られました
↓ (約1.5km:約23.0分)
- A箱根山
- 江戸時代の大名庭園戸山山荘にあった築山の箱根山は、標高44.6m。戸山公園サービスセンターで登頂証明書がもらえます。
↓ (約1.6km:約24.0分)
- B漱石山房記念館
- 新宿区は、夏目漱石が生まれ育ち、その生涯を閉じたまち。晩年の9年間を過ごし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」跡地にできた、漱石にとって初の本格的な記念館。(*有料)
↓ (約0.8km:約12.0分)
- C夏目漱石誕生の地
- 生誕100年を記念して建てられた記念碑が建っています。喜久井町という町名は、漱石の父・直克が夏目家の家紋「井桁に菊」にちなんで名付けたものです。
↓ (約0.1km:約 2.0分)
ゴール地点:東京メトロ東西線・早稲田駅【出入口2】
スタート地点の都営地下鉄大江戸線若松河田駅河田口から歩き始めます。若松河田駅は、平成十二年(2000年)12月12日に開業しました。西暦2000年といえば、「Y2K問題」としてI/T業界で話題になった年です。12月12日というのもゴロがいいですね。駅名の「若松河田」は、抜弁天通りを挟んで駅に接するふたつの町名である「若松町」と「河田町」から命名されました。「若松町」の「若松」は、江戸時代にこの地から将軍家へ正月用の若松を献上していたことに因んでいます。「河田町」の「河」は湿地帯を指し、「田」は田園を意味します。古来、この辺りは「川田窪」とも呼ばれていました。駅から続く「団子坂」の名は、湿地帯を通った人馬が「泥団子」になったことに由来しています。かつて河田町は市谷河田町という町名でした。江戸時代には、若松町と河田町は共に牛込村域でしたが、河田町は市谷村にまで町域が続いていたことから市谷河田町と呼ばれ、その名称が明治時代になって正式な町名となりました。しかし、昭和六十一年(1986年)2月に新宿区が住居表示を施行した際に町名が河田町に変更され、現在に至っています。かって、この地には都電13系統(新宿駅前〜水天宮前)が走っていましたが、昭和45年(1970年)に廃止となりました。その後、代わりの鉄道の建設はなく、都営バスで代替されていましたが、都庁の西新宿移転に伴う新しい地下鉄建設の経路決定にあたり、牛込地区ではこの都電13系統の経路を踏襲することになりました。そして、都電の若松町電停と河田町電停のちょうど中間に地下鉄の新駅を建設することになったのです。ふたつの町名を合わせて新しい駅名になったのは、若松町と河田町に対する配慮もあったのでしょうけど、フジテレビが河田町からお台場に移転したことも影響しています。河田町は長年に亘ってフジテレビの本社所在地として全国的な知名度を誇ってきました。平成九年(1997年)3月にフジテレビはお台場に移転し、跡地にはUR(都市再生機構)の超高層タワーマンション「河田町コンフォガーデン」が建てられました。都は地下鉄建設の早い段階からこの駅を「(仮称)若松町駅」としていましたが、フジテレビの移転による河田町の衰退を懸念した地元商店街「フジテレビ下通り」の声に配慮し、「河田」の名前を駅名に取り入れることになりました。そのために新駅は「若松河田駅」という名称になったのです。
若松河田駅に隣接して、旧小笠原伯爵邸があります。江戸時代、ここには小倉藩の下屋敷がありました。昭和二年(1927年)になって、この地に旧小倉藩藩主の小笠原長幹伯爵の邸宅が建てられました。建物は当時流行のスパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建てでした。昭和二十三年(1948年)に米軍に接収され、4年後に東京都に返還されて昭和五十年(1975年)まで東京都福祉局の中央児童相談所として使用されましたがその後は用途を失って放置され、一時は取り壊しも検討されました。 平成十二年(2000年)になって管理していた都生活文化局から民間貸出の方針が示され、同年12月には箱根等でレストランを経営するインターナショナル青和が借り手に決定され、修復工事を経て平成十四年(2002年)6月にレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンしました。スペイン人料理長のゴンサロ・アルバレス氏による確かな技術と感性が生み出す最先端の「ヌエバ・コシーナ(新しいスペイン料理)」を堪能することができます。結婚式場としても人気があります。
邸内には緑が多く、今や貴重な果実となった枇杷の木も植えられています。今はちょうど食べ頃の6月梅雨時ですが、誰も採ろうとしないのか、鈴なりの枇杷の果実は鳥の訪問を待っているようです。ま、経験者なら分かるのですが、枇杷の木は人がよじ登れるほど枝が太くはなく、高いところの果実を採るのは結構やっかいなのです。脚立を使えば下の方の果実は採れるのでしょうけど、高いところは鳥さんに食してもらうしかありませんね。スペイン料理に枇杷の果実を添えたら、瑞々しくて映えると思うのですが。
若松河田駅のはす向かいにある余丁町小学校の角に犬屋敷跡の案内板が立っています。中野の犬屋敷はよく知られていますが、大久保にもあったんですね。でも、たった2年で閉鎖されたのだとか。犬は多産な動物なので、ねずみ(戌)算式に増えて収拾がつかなくなったのでしょう。それにしても10万匹とは!餌は何を与えていたのかな?鼠かも。。。
大久保の犬御用屋敷跡
厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約一万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約一万三千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後世嗣にめぐまれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞享四年(1687年)生類憐みの令を発し、生物の殺生をかたく禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため犬を重視したという。これに伴い元禄八年(1695年)飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯、旧囲町)の三ヶ所に犬御用屋敷を設置した。大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役制を移し、元禄十年(1697年)十一月に閉鎖され、跡地は武家屋敷となった。
Site of the Okubo Kennels
Designated Historical Site of Shinjuku City
Location: 12 and 13 Wakamatsucho
Designation Date: June 6, 1986
For a time during the Edo period, dog kennels occupied a piot of land that now comprises of about 33,000mxm on the eastern grounds of the Itsukushima Jinja Shrine (also known as Nukebenten), about 43,000mxm of land used by the Yochomachi Elementary School, and the headquarters of the Eighth Riot Police Unit of the Metropolitan Police. The fifth Tokugawa shogun, Tsunayoshi, was without an heir. He believed this was because of the killings he committed in previous lives. for which he felt deep remorse. In 1687, he began issuing a series of edicts called the Order of Compassion for Living Things, which strictly forbado the killings of animals. Having been born in the year of the dog Tsunayoshi gave particular emphasis on the protection of dogs. This led to the establishment of three large kennel areas in Yotsuya, Okubo, and Nakano in 1695 to house the numerous stray dogs in Edo. The kennels in Okubo, which opened at the same time as the ones in Yotsuya, are said to have held some 100,000 dogs. As they became overcrowded, they were moved to the kennels in Nakano. The kennels in Okubo were closed in November 1697, and the land was converted into samural residences.
余丁町小学校に隣接する警視庁第八機動隊の建物の入口に、付近の名所を紹介した案内板が立っています。
住居表示街区案内(AREA GUIDE)
専福寺 Senpukuji Temple
この寺には、幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年の墓(区指定文化財)がある。また、浄土真宗中興の祖と仰がれる、東本願寺第八世蓮如上人直系の高僧たちの遺品を蔵している。
法善寺 Hozenji Temple
山の手七福神の一つ寿老神を祭る。法善寺の本堂には、極彩色の七面明神像(区指定文化財)が安置されている。この神像を前にしての読経供養が、毎年9月13日〜19日までの一週間営まれる。
抜弁天(厳嶋神社) Nukebenten (Itsukushima Shrine)
源義家が後三年の役のとき祈願して建てたと伝えられ、江戸六弁天・山の手七福神の一つ弁財天がある。また生類憐みの令により、元禄八年(1695年)この付近に犬御用屋敷を設け野犬を収容した。その跡は、区指定文化財となっている。
戸山公園(箱根山地区) Toyama Park (MT. Hakone Area)
現在の戸山ハイツー帯には、江戸時代尾張徳川家の下家敷があり、戸山山荘といった。その一画に高さ44.6mの築山があり、それが現在の箱根山である。この箱根山を中心として公園が整備され、団地の中の貴重な緑となっている。
月桂寺 Gekkeiji Temple
臨済宗。豊臣秀吉・徳川家康に仕えた、月桂院殿が奉納した「厄除御安産諸願成就の至玉(安産宝珠)」や、隠れキリシタンの礼拝物であった「切支丹燈籠」がある。
西向天神社 Nishimuki−tenjin Shrine
本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。境内には山吹の里伝説で知られる紅皿碑や富士塚(東大久保富士)がある。
抜弁天交差点の角地に抜弁天嚴嶋神社が鎮座しています。抜弁天は今はもう地名のようになっていますが、その昔、源義家が戦勝祈願した嚴嶋神社のことです。この近くを旧鎌倉街道が通っていたために源義家の伝説があるのだといわれています。境内が南北に通り抜けできることから、苦難を切り抜けられる弁天社、いわゆる抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天として、また新宿山ノ手七福神のひとつになっています。
写真左側が北からの入口、写真右側が南からの入口になります。
嚴嶋神社は七福神唯一の女神で、金運・縁結び・芸事上達の神である弁財天を祀っています。案内板に神社の由来が記されています。
厳嶋神社・抜弁天
一、由来
白河天皇の御代、応徳三年(1086年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳嶋神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)
二、江戸時代
参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。江戸幕府の地誌、大久保絵図(安政四年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に二万五千坪の犬小屋が設けられていた。
総務省統計局角交差点を左折し、大久保通りを進みます。ここは坂道になっていて、椎木坂という名前が付いています。明治通りの少し手前から広大な都立戸山公園に入ります。周囲には大規模な都営戸山ハイツの建物が並んでいます。江戸時代、ここには尾張徳川家の下屋敷があり、戸山山荘と呼ばれた庭園もありました。明治時代に入り、陸軍の各種学校が置かれ、第二次世界大戦中には都市公園とする計画が決まっていました。戦後の住宅難の問題を解消すべく、GHQの提唱により敷地の4割にあたる10万平方メートル余に住宅が建設されることになりました。戸山公園(箱根山地区)に囲まれるように木造平屋建て住宅一千戸余りが建設され、道路・店舗・公共施設などが整備されました。入居の申し込みが開始されると、その倍率は約35倍にも達しました。都内における集合住宅の先駆け的な存在でした。1960年代の高度成長期になると、防災・耐火性の観点から中高層住宅への建て替えの必要性が認識されるようになり、当初は1800戸の中層住宅にする案が出されましたが、居住者との意見の相違や住宅需要の増加により、1970年には33棟3354戸の大規模な高層マンション群にする計画に変更されました。1968年から1976年にかけて順次高層マンション化され、周辺の公共施設やスーパーマーケットなども拡充されていきました。それから50年が経過し、居住者の高齢化・単身世帯の増加・建物の老朽化が進み、これらへの対応が課題となっています。
公園内には巨木が枝を広げ、初夏の陽射しを遮っています。箱根山登山口の標識が立っていますので、山手線内最高峰の”山”への登山を開始します。
公園内には様々な案内板が立っています。この案内板には箱根山の由来が記されていますね。
箱根山地区の歴史
この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。寛文八年(1668年)に至り、尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余u)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。この「戸山荘」は、寛文九年(1669年)に工事を始め、天和(1681年〜1693年)・貞享(1684年〜1687年)の時代を経て元禄年間(1688年〜1703年)に完成した廻遊式築山泉水庭である。庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り、琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が造られていた。なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789年〜1800年)の初め、第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園地は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。安政年間(1854年〜1859年)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868年)を迎えた。明治七年(1874年)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となり、その一部が昭和二十九年から今日の公園となった。陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
もうひとつ、「尾張戸山荘」と題した詳細な案内板が立っています。
尾張戸山荘
戸山荘の成り立ちとその後
戸山荘は、尾張徳川家(尾張藩)の下屋敷で、二代藩主の徳川光友の正室である千代姫(三代将軍家光の娘)の會祖母祖心尼の寺(牛込済松寺)から4万6千坪を譲り受け、寛文九年(1669年)頃に造営が始まったとされる。その後、寛文十一年(1671年)には幕府から8万5千坪を拝領し、さらに周辺の土地の取得により、下屋敷は東京ドーム10個分に近い約13万6千坪(44.9ヘクタール)に及び、広大なものとなった。当時、この地の鎮守であった和田戸明神があり、さらに和田と戸山の両村に属していたことから「和田戸山屋敷」、一般には「戸山荘」と呼ばれていた。下屋敷は上屋敷(現在の防衛省付近)の焼失時、千代姫への気遣いで避難所として造成したとされているが、光友は藩主在任中も頻繁に戸山荘へ訪れ、隠居後は通常中屋敷に往むところを戸山荘に移住していたことから、実際は光友の趣味によるところが大きかったともいわれている。光友が逝去した後は修復されず、荒廃したが、九代藩主の宗睦の時代に、十一代将軍の家斉を戸山莊に迎えるため再興し、家斉やその他御三家の諸大名なども訪れ、「すべて天下の園地は、まさにこの荘をもって第一とすべし」と家斉に言わしめた。その後戸山荘は、相次ぐ火災と風水害を受け、安政六年(1859年)に青山の大火で建物の多くを焼失した。明治七年(1874年)からは陸軍用地として戸山学校等が置かれ、第二次大戦後は国有地となり、その一部が昭和二十九年(1954年)に都立戸山公園・箱根山地区として開園した。
戸山荘庭園の特色
戸山荘の庭園は、広大な下屋敷の敷地(約13万6千坪)の8割以上を占めていた。庭園内には、主に池泉・枯山水・築山・田畑・渓谷・滝・茶屋・社寺などのあらゆる要素が配され、数多くの見どころが存在した。中でも小田原宿を原寸大で再現した「御町屋」は特に名高かった。しかし、池泉回遊式の大名庭園でありながら、他の庭園とは異なる点があった。それは広大な池泉を持ちながら、主となる中島が存在していないことである。広大な池泉であれば舟遊びが行われていてもおかしくないが、その記録はなく、中島としての主島がないことからも舟遊びが行われていた要素は少ない。そのことから本庭園は回遊式が本質であり、築山も多かったため見晴らし園的な位置づけだったことが考えられる。今でいうテーマパークといっても過言ではない。また、戸山荘の庭園ほど築山の多い大名庭園は珍しく、主要なものを挙げると、玉円峰・乾山・拾翠台・大石山・錦明山などがあり、中でも玉円峰は庭園内で一番高い築山で、現在も箱根山としてその形を留めている。このように起伏が多かったことについても本庭園の特色のひとつといえる。
Birth and history of Toyamaso
Toyamaso was the shimoyashiki (suburban residence) of the Owari Tokugawa clan, ruler of Owari domain. Its construction began around 1669, on 151,800 square meters of land given by Saishoji Temple in Ushigome. This was the temple of a Buddhist nun named Soshin, who was the great-grandmother of Chiyo-hime (Princess Chiyo), daughter of the third Shogun Tokugawa Iemitsu, and wife of Tokugawa Mitsutomo, the second lord of Owari. The mansion was expanded after a further 280,500 square meters of land was awarded by the shogunate in 1671. With additional acquisitions of surrounding land, the grounds of the mansion ultimately grew to 44.9 hectares, nearly ten times the size of the Tokyo Dome stadium. Because the land included the local Shinto shrine Wada-toyama-myojin, and straddled the two hamlets of Wada and Toyama, the mansion became known as Wada-toyama-yashiki, or more commonly, Toyamaso. This shimoyashiki is traditionally believed to have been constructed to ensure comfort and convenience of Princess Chiyo when
the Owari Tokugawas were forced, due to a fire, to evacuate their kamiyashiki (city-center residence; it was located close to today's Ministry of Defense). An alternative, somewhat more plausible explanation is that it was built for the personal indulgence of Tokugawa Mitsutomo. He was recorded to have frequently spent time at Toyamaso during his reign as ruler of Owari domain. After retirement, he permanently moved to this shimoyashiki, even though at that time retired domain lords usually took up residence at their nakayashiki (a secondary often smaller, city-center residence). After the death of Mitsutomo, Toyamaso fell into disrepair. It was brought back to its former glory when it was refurbished during the time of ninth lord Munechika (1733-1806) to entertain the eleventh Shogun Tokugawa Ienari (1773-1841). The revived Toyamaso hosted visits by the so-called Gosanke and other important daimyo in addition to the Shogun. Ienari reputedly praised the garden as being the best in the country. In subsequent years Toyamaso suffered the ravages of multiple fires and storms. Many of its buildings were lost to the great fire of Aoyama in 1859. The property was administered by the military after 1874, and hosted Toyama Gakko, a military school. After the end of the Second World War, Toyamaso became a national property, and was partly opened to the public in 1954 as a park named Tokyo Metropolitan Toyama Koen Hakoneyama Chiku.
Toyamaso Garden
The garden of Toyamaso occupied more than 80% of the large grounds (about 448,800 square meters) of this shimoyashiki, the suburban residence of a daimyo (feudal lord). The garden originally had many eye-catching features built into it, such as a pond, rock gardens, hills, crop fields, gorges, waterfalls, tea shops, shrines and temples. Particularly famous was Omachiya, which was a life-size replica of a block of houses in the post-station town of Odawarajuku. Stylistically, the garden is classified as a daimyo garden in the chisen kaiyu (pond stroll) style. It is atypical, however, in that its large pond does not have a prominent central island. which was normally the focal point of such a pond. A grand pond as seen in this garden usually catered to boating, but there are no known records of boating ever taking place at Toyamaso, and the lack of a central island also suggests that boating was not among the pursuits here. It is reasonable to think of this garden as essentially a kaiyu (stroll) garden designed to offer beautiful vistas, as suggested by its many tsukiyama (artificial hills). In fact, with its man-made attractions, the garden might possibly suggest an equivalent to the theme parks of the modern day. This unusually large number of tsukiyama for a daimyo garden represents a notable feature of Toyamaso Garden. Each of these "hills" had a name, such as Gyokuenpo, Inuiyama, Shusuidai, Oishiyama, and Kinmeizan, to name just the major ones. Gyokuenpo was the highest tsukiyama in the garden, and survives to this day as Hakoneyama, or Mount Hakone.
箱根山を登っていきますと、中腹に石碑が置いてあります。陸軍の戸山学校跡の記念碑のようです。その横に学校の縁故者が寄贈した石碑が置かれ、プレートに戸山学校の歴史が記されています。
この地は和田戸(山)という武士の館の跡で、源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ、後代和田戸山と呼ばれた寛文年間、尾張徳川候の下屋敷となり、殿堂宮(祠)等かずかずの建物と、箱根山を中心とし、東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された。明治六年、その地に兵学寮戸山出張所が設けられ、翌七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行われ、国軍精強の基を培ったばかりでなく、国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である。この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたって、この記念碑を建てて東京都に贈る。
箱根山は登山道が整備され、階段には手すりまで設けられています。あと少しで山手線内最高峰の箱根山に登頂できそうです!
登頂成功です。頂上はちょっとした広場になっていて、樹木の間から四方八方が眺められます。小さい女の子がいますね。よくぞこの急峻な峰に登ってこれたものです。
戸山公園を出て諏訪通りを馬場下町交差点の方に進みます。「馬場下」の地名の由来は、町の位置が「高田の馬場」から下る八幡坂の下にあったことに因ります。交差点の手前に穴八幡宮と放生寺(ほうしょうじ)が隣り合っています。放生寺は寛永十八年(1641年)に穴八幡宮(高田八幡)の別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだ ことから、別当のいる寺を別当寺と称しました)として穴八幡宮の隣に創建されました。寺名の「放生」とは、「捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める」という意味です。門前に掲げられている「一陽来福」という言葉は、冬至を表す「一陽来復」に沢山の「福」が来るようにという願いを込めています。
放生寺の隣の穴八幡宮(旧称は高田八幡宮)にも立寄ってみます。穴八幡宮は「蟲封じ」に御利益があるとされています。「蟲封じ」とは、疳の虫(乳児の夜泣き・癇癪・ひきつけなどの異常行動)を治すことです。「穴八幡宮」の名前は、宮守の庵を造るために社僧良晶が南側の山裾を切り開いていたところ横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れたことに由来します。三代将軍徳川家光はこの話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としました。その後、歴代将軍がたびたび参拝し、八代将軍徳川吉宗は、享保十三年(1728年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納しました。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には元文三年(1738年)に奉納された竹千代(後の十代将軍徳川家治)の誕生祝の流鏑馬が描かれています。流鏑馬は明治維新後は長く中断されていましたが、昭和九年(1934年)に皇太子(現在の明仁上皇)が誕生した際に再興し、戦後は昭和五十四年(1979年)から毎年体育の日に都立戸山公園を会場として行われています。穴八幡宮御由緒には、創建時から現在までの経緯が記されています。
穴八旛宮御由緒
康平五年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。寛永十八年(1641年)、宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八旛宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃、神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。慶安元年(1648年)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安二年(1649年)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄十六年(1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。安政元年(1854年)青山火事のため類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に旧時の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく羅災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年(1989年)から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成十年(1998年)の随神門竣工をもって往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内地の整備に着手し今日に至っています。
穴八幡宮の入口の階段を登ってすぐのところに、朱色が美しい光寮門(随神門)が聳えています。御由緒書きにもありましたが、現在の門は平成十年(1998年)に再建され、未だ二十数年しか経っていないので朱色が美しいのは当然ですね。
境内の一画に立派な屋根を頂いた手水舎の中に布袋像の水鉢が置かれています。水鉢といっても、水は布袋尊像の袋から出る仕組みになっています。慶安二年(1649年)造立で、新宿区内でも最古の水鉢だそうです。徳川家光により、江戸城吹上御苑に置かれていたものを奉納したものといわれています。ただし、ここに置いてある布袋尊と水鉢はレプリカとのことです。建物の入口にその経緯を記した石碑が置かれています。
布袋尊記
穴八幡宮は、康平年間八幡太郎義家が奥州の乱を夷(たいら)げ、凱陣の途に創祀す。慶安元年、三代将軍徳川家光江(戸)城鎮護の為、宏壮なる社殿を再興。幕府の祈願所として重んぜらる。明治維新の後は皇室歴代の御蟲封(虫封じ)を謹修し奉る。神徳彌光を増し、崇敬年々数を加う。手水舎は昭和二十年の戦災にて本社諸殿宇と同時に類焼し、延實再建の時大森信濃守の奉納せる巨水盤亦破碎し了(おわん)ぬ。今茲、氏子崇敬者の篤志に依て手水舎の新築成就す。内に境内南麓霊窟の傍に磐座せし布袋の尊像を移して安置せり。この像は始め江戸城吹上の御庭にありしを、慶安二年社殿竣工の節家光将軍奉納に係る東都随一の霊像にして古来信仰者最も多し。もと手水鉢たりし由縁を以て此所に移すに當り、縁起を畧述して碑に刻す。
入った時とは別の鳥居から穴八旛宮を退出します。鳥居の脇に流鏑馬のいわれを記した案内板が立っています。
高田馬場の流鏑馬
享保十三年(1728年)コ川八代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡宮へ奉納した流鏑馬を起源とし、以降将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場(現在の西早稲田三丁目付近)で流鏑馬が奉納された。明治維新以降中絶し、高田馬場も廃されたが、昭和九年に皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興された。戦前、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和三十九年、古式流鏑馬を保存するため、現在地に移転した水稲荷神社境内にて復活。昭和五十四年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年体育の日に行われている。古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は穴八幡宮の神事として現代に伝えられる貴重な伝統行事である。
最後に、夏目漱石の足跡を辿って縁(ゆかり)の喜久井町を巡ります。地下鉄早稲田駅前の交差点から漱石山房通りを進みます。
漱石山房通り
明治の文豪、夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあった。
漱石山房の跡地に開館した「漱石山房記念館」に立寄ります。
入口の横に案内板が立っています。
新宿区指定史跡 夏目漱石終焉の地
この地は、作家・夏目漱石が明治四十年(1907年)九月二十九日から亡くなる大正五年(1916年)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は「坑夫」を皮切りに、「三四郎」・「それから」・「門」・「こころ」・「道草」などの代表作をこの地で発表し、「明暗」の連載半ばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。漱石没後の大正七年(1918年)には、漱石の夫人鏡子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。その後、漱石山房は昭和二十年(1945年)五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(1950年)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和五十二年に区へ讓渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(1976年)にはその一部に漱石公園が、平成二十九年(2017年)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
This site is designated by Shinjuku City
The site of Natsume Soseki's death
This is the site where author Natsume Soseki lived from Sept. 29, 1907 to Dec. 9, 1916, when he met his death, He named his house "Soseki-sanbo". Soseki-sanbo was a wooden, single-story building that blended elements of Japanese and Western architecture. Soseki used the western part of it as his study and parlor. He wrote many famous works, such like The Miner, Sanshiro, And Then, The Gate, Kokoro, and Grass on the Wayside in this study. He met his death at the age of 49, while he was publishing Light and Darkness serially. Two years after his death in 1918, Soseki's widow, Kyoko, bought the land and Soseki-sanbo. She renovated the main building and relocated Soseki's study and parlor, although she kept the structure and interior as is. In May 25, 1945, Soseki-sanbo was burnt down due to bombing by the League of Nations. The land was owned by the Tokyo metropolitan government from 1950 and was used for public apartments. In 1976, Soseki Park was opened by the apartments. In 2017, due to the relocation of the apartments, Soseki's first professional museum, "Natsume Soseki Memorial Museum," was opened.
案内板には、執筆中の漱石と漱石山房の写真が添えられています。
漱石山房記念館の隣は新宿区立の漱石公園になっています。漱石はなかなかの美男子だったようです。
漱石山房の間取りや、そこでの暮らしぶりを記した案内板が立っています。
漱石山房の記憶
夏目漱石は、明治四十年9月、この地に引っ越してきました。そして大正五年12月9日、「明暗」執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。
「漱石の散歩道」と題して、夏目漱石縁の場所が紹介されています。
漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?
@誕生の地(新宿区指定史跡)
新宿区喜久井町1(当時:牛込馬場下模町)
漱石は慶応三年(1867年)、当時の牛込馬場下横町で生まれました。現在その地には、生誕100年を記念した石碑が建てられています。石碑の題字は弟子の安倍能成の筆によるものです。
A夏目坂
夏目家は、江戸時代には町方名主を務める名家でした。夏目坂は、馬場下から南東ヘ上る坂で、漱石の父・直克が命名したといいます。
B小倉屋
新宿区馬場下町3
延宝六年(1678年)に創業したと伝えられる酒屋で、漱石の生家はこの裏手にありました。漱石自身が幼少期について書いた随筆「硝子戸の中」では、「間口の広い小倉屋という酒屋もあった」と登場します。
C誓閑寺
新宿区喜久井町61
「硝子戸の中」で「西閑寺」として出てくるお寺。この寺の「梵鐘」は天和二年(1682年)に作られた区内最古のもので、区指定有形文化財となっています。
D終焉の地(漱石公園)(新宿区指定史跡)
新宿区早稲田南町7
漱石が、明治四十年(1907年)9月から大正五年(1916年)に亡くなるまで過ごした場所です。ここは「漱石山房」と呼ばれ、毎週木曜日の「木曜会」には多くの弟子たちが集まりました。
E漱石旧居跡(※現在はありません)
漱石が、英国からの帰国直後、明治三十六年(1903年)1月から翌年3月まで住んだ場所です。留守宅の困窮ぶりはひどく、漱石を驚かせたといいます。
F神楽坂
新宿区神楽坂1〜6丁目
江戸時代より、「神楽坂の昆沙門天」と呼ばれ信仰されていた「善国寺」の門前町として栄えました。明治二十年(1887年)頃から緑日に夜店がたちはじめ、山の手随一の繁華街となりました。漱石もよく神楽坂の寄席や文房具屋を訪れていました。
G和良店亭(※現在はありません)
藁店(わらだな)と呼ばれた通り(地蔵坂の別名)にあったことからその名のついた寄席で、漱石が足繋く通っていました。神楽坂は当時5つの寄席が並び、浅草などと並び東京の演芸の中心でした。
H田原屋(※現在はありません)
漱石が通っていた牛鍋屋。日露戦争のときに果物屋となり、大正時代初めには洋食屋となりましたが、平成十四年(2002年)に惜しまれながら閉店しました。
I善国寺(毘沙門天)
新宿区神楽坂5−36
「毘沙門天像」(区指定有形文化財)が有名です。文政四年(1595年)に創建され、ェ政五年(1793年)に神楽坂に移されました。門前町は繁華街として発展し、寅の日に開かれた縁日は 「坊っちゃん」の中にも書かれています。
J相馬屋
新宿区神楽坂5−5
万治二年(1659年)に創業したという文房具店。創業当時は和紙をすいて江戸城に納めていました。明治中期から和半紙だった原稿用紙を洋紙に印刷して売り出しました。漱石はここの原稿用紙を愛用していました。
K東京理科大学(旧・東京物理学校)
新宿区神楽坂1−3
明治十四年(1881年)、東京物理学講習所が創設され、2年後には東京物理学校と改称。三代目校長中村恭平は漱石と懇意で「我輩は猫である」のモデルとも言われています。「坊っちゃん」は、東京物理学校の出身という設定です。
記念館の裏庭に奇妙な石積みの塔が建っています。お寺などで見かける石塔のようにも見えます。「我が輩は猫である」のモデルとなった猫のお墓なんだそうです。人間のお墓より立派かも。
旧夏目邸建物基礎
平成二十七年(2015年)四月、漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石(凝灰岩)の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。漱石山房は、漱石没後の大正九年(1920年)に鏡子夫人により建て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と回廊は敷地の南東隅に曳家し、母屋とは渡り廊下でつながれた。確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸の母屋の遺構であると考えられる。
猫の墓
夏目家で飼った動物のうち、「吾輩は猫である」のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(1908年)九月十三日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌にあたる大正九年(1920年)夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせた九重塔で、台石には津田青楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(1945年)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和二十八年(1953年)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。
漱石記念館を出て夏目坂を下り、ゴール地点の地下鉄早稲田駅に向かいます。
夏目坂
夏目漱石の随筆「硝子戸の中」(大正四年)によると、漱石の父でこのあたりの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになったという。
夏目坂の途中に来迎寺があります。境内に江戸時代に造立された庚申塔が残されています。
新宿区指定有形民俗文化財 来迎寺の庚申塔
延宝四年(1676年)に造立された板碑型の庚申塔である。石質は極めて固い玄武岩で、高さは120センチ、上部左右に日月を配し、中央岩座に三猿、下部に対面した雌雄の鶏が浮彫りされ、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。向かって左には、「延宝四年丙辰九月十六日川田久保」と、右には「武州湯原郡牛込馬場下町」の文字が彫り込まれており、川田久保(現在の市谷柳町)と馬場下町(現在の喜久井町)の庚申講によって奉納されたことがわかる。中世には荏原郡に属していた馬場下町は、江戸時代には豊島郡に属した。湯原郡とは荏原郡を指すと思われるが、江戸時代の製作である庚申塔に、馬場下町が荏原郡とされた理由は不明である。
夏目坂が早稲田通りに突き当たる手前の「ごはん処 やよい軒」の店先に、「夏目漱石誕生之地」の石碑が建っています。石碑には、この場所が夏目漱石生誕の地であることが記されています。
夏目漱石誕生之地
夏目漱石は、慶応三年(1867年)一月五日(陽暦二月九日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ、明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し、大正五年(1916年)十二月九日、新宿区早稲田南町七において没す。生誕百年にあたり、漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ。
石碑の横には、「硝子戸の中」で詠われた俳句が彫られた石碑が置かれています。「参差」とは、高さや長さが不揃いで色々なものが混ざっているという意味です。月の光が照らす中、三本の松の木の影が字面に写っていて、その影の長さが不揃いであるものの、その不揃いさが逆に味わいになっているという意味らしいです。
影参差 松三本の 月夜かな 漱石
私の家は綺麗に取り壊されて、其あとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。・・中略・・三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児の様になってゐたが、何処か見覚へのあるやうな心を私に起させた。昔し「影参差 松三本の 月夜かな」と詠ったのは、或いは此松の事ではなかつたらうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
「硝子戸の中」より抜粋
石碑の後には案内板も立っています。
新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地
夏目漱石(本名金之助)は、慶応三年(1867年)一月五日に、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末っ子としてこの地に生れた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋「細井筒に菊」に因んで名づけられ、夏目坂も夏目家に因んで命名されたという。漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家にもどり、再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原姓のまま実家に戻り、二十一歳のとき夏目家に復籍している。この地での幼少期のことは、大正四年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳しく記されている。この記念碑は昭和四十一年(1966年)に漱石生誕百年を記念して新宿区が建立したもので、題字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
Birthplace of Natsume Soseki
Designated Historical Site of Shinjuku City
The novelist Natsume Soseki was born Natsume Kinnosuke at this location on January 5, 1867. He was the youngest child of five sons and three daughters. Shortly after his birth, Soseki was placed in the foster care of the owner of a secondhand shop in Yotsuya. However, he was brought back to his natal home soon after and was later adopted by Shiobara Masanosuke, the village head of the Naito-Shinjuku District. At the age of nine, he was returned to his biological parents. Soseki used the Shiobara family name until the age of 21, when he returned to his biological family register. He describes his childhood with his biological family in his essay collection, Garasu Do no Uchi (Inside My Glass Doors), which was published in 1915. The Natsume family held the hereditary position as village head for the eleven neighborhoods of the Ushigome-Babashita-Yokomachi District in Edo. The name of the town Kikuicho (Chrysanthemum Well) comes from the Natsume family crest, which depicts a chrysanthemum enclosed within a square well design. The nearby street Natsumezaka (Natsume Slope) is another legacy of the family. This memorial was erected by Shinjuku City in 1966 for the 100th anniversary of Soseki's birth. The lettering is in the hand of his pupil, the educator and statesman, Abe Yoshishige.
ゴール地点の東京メトロ東西線早稲田駅に着きました。短い距離でしたが、山手線内最高峰の箱根山に登頂出来たし(しかも証明書付!)、今まであまり知らなかった夏目漱石の生涯についても学べたし、収穫のあったお散歩でした。そういえば、昔お友達と夏目漱石の話をしていた時に、友達が「・・・それから・・・」と言ったので、てっきり接続詞の「それから」だと思って「で?」と聞き返したら、漱石の本のタイトルの話をしていたことを教えてもらって大恥をかきました。文学には全く無知だったことを思い知らされました。今でも無知ですけど。。。
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