- D鉄砲組百人隊ゆかりの地から新たな歌舞伎町へ
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「鉄砲組百人隊ゆかりの地から新たな歌舞伎町へ」を歩きます。JR大久保駅をスタート地点として、戸山公園の山手線内最高峰の箱根山に登山し、小泉八雲終焉の地を訪れ、最後に昼間ですが東洋一の歓楽街と謳われた歌舞伎町を徘徊します。
「鉄砲組百人隊ゆかりの地から新たな歌舞伎町へ」の歩行距離は約4.2km(約6,000歩)、歩行時間は64分、消費カロリーは約192kcalです。
スタート地点:JR中央本線・総武線大久保駅【北口】
↓ (約0.3km:約 5.0分)
- @皆中稲荷神社
- 皆中稲荷神社の名称は、皆中(みなあたる)に由来。鉄砲組が奉納した鳥居・燈籠などが残されています。
↓ (約1.2km:約18.0分)
- A戸山公園(大久保地区)
- 緑豊かな公園。新宿区立スポーツセンターや、一周1223mのジョギングコースがあります。
↓ (約1.8km:約27.0分)
- B稲荷鬼王神社
- 節分には「福は内、鬼は内」と唱えます。邪鬼の頭上に手水鉢をのせた珍しい水鉢があります。
↓ (約0.7km:約11.0分)
- C歌舞伎町
- 戦災復興事業として歌舞伎座の誘致をめざしていたことが名前の由来。ゴジラが目印の新宿東宝ビルができるなど新たな魅力を発信中!
↓ (約0.2km:約 3.0分)
ゴール地点:西武新宿駅【正面口】
スタート地点のJR大久保駅北口から歩き始めます。大久保という地名は、かって大きな窪地があり、それが【大窪→大久保】という地名になって大久保駅の駅名の由来になったという説があります。
大久保駅北口の向かいのガード下の壁に、大久保駅が立地する百人町の由来を記した長大な案内板が掲げられています。百人町の町名は、かつて徳川家康を警護した鉄砲隊・百人組が駐屯していたことに由来します。
江戸幕府鉄砲組百人隊と大久保つつじ
天正十八年(1590年)徳川家康が江戸入府の際、内藤氏らに率いられた伊賀組などの鉄砲同心は、江戸の西の警備にあたるために駐屯しました。関が原の戦いの後、幕府は鉄砲組に組屋敷を与え、現在の百人町に定住しました。鉄砲組は、同心百人を配属されたので百人組と呼ばれ、百人町の地名の由来になりました。平時は、江戸城の警備にあたり、将軍が寛永寺、日光東照宮などに参詣する際には警護にあたりました。大久保村付近は、つつじの自生地であったとされますが、鉄砲組は定住後、屋敷内で余暇を利用して、つつじの栽培を行いました。やがて名所として江戸で評判となり、「江戸名所図会」「江戸名所花暦」などに紹介されています。つつじ栽培は、明治維新以後、一時衰退しましたが、明治十六年に大久保躑躅園が開園し、一万株ものつつじが栽培され明治時代には花見客で賑わいました。明治天皇が、大久保つつじの短歌を詠まれ、それを記念した歌碑が皆中稲荷神社に建立されています。その後、日比谷公園ができると大部分のつつじが移され、町の発展の歴史と共に姿を消していきました。しかし、「大久保つつじ」への愛着は強く戦後になって毎年四月、ゆかりの深い皆中稲荷神社において、地元商店街の二世会の若者たちによって「大久保つつじ祭り」が行われるようになり、昭和四十七年には新宿区の花に指定されました。また昭和三十六年からは、「江戸幕府鉄砲組百人隊出陣行列の儀」が地元有志の尽力により行われるようになり、平成十四年に新宿区無形民俗文化財として登録されました。
ガード下の壁には巨大な壁画も描かれています。駅近くにある日本電子専門学校の有志一同により、数年ごとに描かれているそうです。この壁画の製作には、日本電子専門学校CG科を卒業し、ゲームクリエイターを経て漫画家になった井上淳哉氏も参加していましたが、その時に描いた壁画は1998年頃に今の壁画が描かれた際に塗り潰されてしまったとのことです。
大久保駅から山手線の新大久保駅へ向かう300m程の大久保通り一帯は、通称コリアンタウンと呼ばれています。韓国・朝鮮料理やタイ料理などのアジア料理店・定食店などの他、周辺には専門学校も多く立地しています。ちなみに、山手線の新大久保駅に「新」が付けられているのは、大久保駅が明治二十八年(1895年)に開業し、新大久保駅はそれより後の大正三年(1914年)に開業したからです。
新大久保駅の手前に皆中稲荷神社があります。鉄砲組と縁のある神社ということで、神社名の「皆中」は、「皆中(みなあたる)」に由来しているとのことです。境内には、鉄砲組が奉納した鳥居や燈籠などが残されています。
境内には、明治天皇が大久保のつつじ園を訪れた際に詠まれた歌が歌碑に残されています。
大久保つつじの再興
明治維新後、大久保つつじ園は土地の払い下げにより、一時期荒廃したといわれています。明治六年(1873年)、東京府知事はつつじ園を元の姿に戻すように提案し、中島(姓)・須藤直久・大竹国太郎・中村忠義の4名が発起人となり、共同経営でつつじの名所を再興することになりました。そして、約7,000坪の土地を10余名が共同で借り受けて、近在の家々から数百株の花樹を出させ、明治十六年(1883年)につつじ園を開設しました。このつつじ園は元つつじ園とも呼ばれました。また、明治二十年(1887年)には南町に共同のつつじ園が開設され、これを南町つつじ園(南つつじ園)と呼び、共同のつつじ園が2園開設されました。こうして、つつじが復活してくると共同のつつじ園以外に、日の出霧島を作り出した日の出園、八重霧島の巨木を有していた萬華園、そのほか筑紫園、中村園、吉野園などが次々に開園し、全部で7園、株数1万といわれ、この時期が再興を果たした大久保つつじの最盛期でした。特に、日の出、金蕊、手牡丹、紅黄蓮華、黒船、八重霧島、吾妻絞りなど奇種や珍種の品種はこのころ栽培されたといわれています。明治三十二年(1899年)には、明治天皇がつつじの鑑賞に訪れ、
まがねしく 道のひらけて つつじ見に 行く人おほし 大久保の里
という歌を詠まれました。
本殿の脇に、鉄砲組百人隊が奉納したと伝えられる出陣式の案内板が立っています。
新宿区登録無形民俗文化財 江戸幕府鉄砲組百人隊行列(出陣の儀)
皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を携えた鉄砲隊が、数ケ所で古式にのっとり試射を行う。鉄砲組は四組あり(百人町に住んだのは二十五騎組、別称大久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺・増上寺・日光東照宮参詣には護衛をした。皆中稲荷神社は、鉄砲組から信仰された。ある隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源という。皆中は「みなあたる」の意味がある。
Registered Intangible Folk Cultural Property of Shinjuku City
Edo Shogunate Hundred-Member Gun Squad Ceremony (Departure Ritual)
During the 17th century, the Edo Shogunate housed a squad of 100 riflemen in this neighborhood now called Hyakunincho (Hundred Person Town). A reenactment of their pre-departure ritual is held on alternate years as part of the annual festival of the Kaichu Inari Jinja Shrine. A commander in armor leads an armed and costumed squad in procession around the neighborhood, during which they ceremonially fire their matchlock guns at several locations. There were four gun squads who normally guarded the Ote-sannomon Gate of the Edo Castle. They also protected the shogun during visits to the Kaneiji Temple, Zojoji Temple, and the Nikko Toshogu Shrine. The Kaichu Inari Jinja Shrine was established after a gun squad member had a dream of the deity Inari and never missed a shot afterwards. The name "Kaichu" means "certain bull's-eye."
案内板には、出陣式の様子を写した写真が添えられています。随分と身軽な装備ですね。
江戸幕府 鉄砲組百人隊行列
皆中稲荷神社の社務所には、「大久保つつじ保存会」の事務所も置かれています。境内には当時のつつじの子孫でしょうか、何本かのつつじの木が小さな社の横に植えられています。
皆中稲荷神社を出て、西武新宿線の線路沿いに北上します。道路からひとつ奥まったところに海城学園があります。海城学園は、明治二十四年(1891年)に海軍兵学校入学を目指す生徒の予備校として創立されました。海軍兵学校は、かって「一に海兵、二に陸士、三、四が無くて五に東大」と言われたほどの難関でした。海城学園の設立当初の校名は「海軍予備校」でしたが、海軍省の要請によって「海城学校」と改称しました。ちなみに、「海城」は戦艦を意味する古語が由来となっているそうです。現在では、中高一貫教育を行う都内有数の進学校として知られています。
校門の脇に楠の巨木が聳えています。案内板にはお守りが添えられていますね。
海城のクスノキ
海城は、昭和二年(1927年)に霞ヶ関からこの地に移転してきました。その後、クスノキはこの場所に植えられました。以来、学校の移り変わりや多くの生徒たちの成長を優しく見守ってきた「海城のシンボル」ともいえる大切な樹木です。「新宿区みどりの文化財(保護樹林)」にも指定されており、近隣の方々にとっても大切な樹木となっています。
■クスノキ(Cinnamomum camphora)
古くから神社などに植えられ、時には高さ50mを越える巨木になり、天然記念物に指定されるものも多い。5〜6月に黄白色の花を多数つける。枝や葉から樟脳がつくられる。
大久保スポーツプラザ交差点を右折し、保善高校入口交差点から戸山公園に入ります。戸山公園は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に分かれています。箱根山地区は「C山手線内最高峰と漱石山房記念館をめぐる」で訪れましたので、今日は大久保地区を巡ります。というとC→Dの順に歩いたようになりますが、実際は今日(5月31日
)Dを歩き、Cは後日(6月13日)歩きました。そういう訳で多少不自然な文章になります。
今回のコースには入っていないのですが、(突然大久保地区からワープして)箱根山地区を訪れます。10年位前に箱根山に登ったことはあるのですが、園内に入ると何処に箱根山があるのか分かりません。園内を迷いに迷ってようやく箱根山登山口の標識を見つけました。歩道(登山道)を進んでいきますと、目の前に手すり付の階段が現れます。やけに親切な登山道ですね。
あっさりと山頂に着きました。山頂はちょっとした広場になっていて、真ん中に方位を示したプレートを貼り付けた台が置かれています。その手前には44.6mという標高を記したプレートも置かれています。四角い石が基準点になるようです。
山頂からの眺めは芳しくありません。山頂ではあるのですが、何せ44.6mの標高では藤井聡太先生がおっしゃるように「森林限界の手前あたり」で、周囲が樹木に遮られて殆ど見えないのです。新宿の高層ビルが見えたら絶景でしょうけど。
山頂の広場の一角に案内板が立っていて、登頂すると公園内のサービスセンターで登頂証明書がもらえると書いてあります。一生の記念になりますので、下山後に証明書をもらいに行きましょう。
頂上から階段(下山道)を下りたところに箱根山地区の歴史を記した案内板が立っています。隣には、瓢箪の形をした池を中心とした戸山荘の全景を描いた図板が立っています。小さな文字で読みとりづらいのですが、橋の名前や建物の名前が書き込まれています。中央右側に「御殿」があり、中央下側には「御町屋」とあります。これが小田原宿を模した町並みなのでしょう。この図からも、戸山荘が如何に広大な敷地を占めていたのかが実感できます。
箱根山地区の歴史
この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。寛文八年(1668年)に至り、尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余u)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。この「戸山荘」は、寛文九年(1669年)に工事を始め、天和(1681年〜1693年)・貞享(1684年〜1687年)の時代を経て元禄年間(1688年〜1703年)に完成した廻遊式築山泉水庭である。庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り、琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が造られていた。なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789年〜1800年)の初め、第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園地は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。安政年間(1854年〜1859年)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868年)を迎えた。明治七年(1874年)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となり、その一部が昭和二十九年から今日の公園となった。陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
もうひとつ、「尾張戸山荘」と題した詳細な案内板が立っています。
尾張戸山荘
戸山荘の成り立ちとその後
戸山荘は、尾張徳川家(尾張藩)の下屋敷で、二代藩主の徳川光友の正室である千代姫(三代将軍家光の娘)の會祖母祖心尼の寺(牛込済松寺)から4万6千坪を譲り受け、寛文九年(1669年)頃に造営が始まったとされる。その後、寛文十一年(1671年)には幕府から8万5千坪を拝領し、さらに周辺の土地の取得により、下屋敷は東京ドーム10個分に近い約13万6千坪(44.9ヘクタール)に及び、広大なものとなった。当時、この地の鎮守であった和田戸明神があり、さらに和田と戸山の両村に属していたことから「和田戸山屋敷」、一般には「戸山荘」と呼ばれていた。下屋敷は上屋敷(現在の防衛省付近)の焼失時、千代姫への気遣いで避難所として造成したとされているが、光友は藩主在任中も頻繁に戸山荘へ訪れ、隠居後は通常中屋敷に往むところを戸山荘に移住していたことから、実際は光友の趣味によるところが大きかったともいわれている。光友が逝去した後は修復されず、荒廃したが、九代藩主の宗睦の時代に、十一代将軍の家斉を戸山莊に迎えるため再興し、家斉やその他御三家の諸大名なども訪れ、「すべて天下の園地は、まさにこの荘をもって第一とすべし」と家斉に言わしめた。その後戸山荘は、相次ぐ火災と風水害を受け、安政六年(1859年)に青山の大火で建物の多くを焼失した。明治七年(1874年)からは陸軍用地として戸山学校等が置かれ、第二次大戦後は国有地となり、その一部が昭和二十九年(1954年)に都立戸山公園・箱根山地区として開園した。
戸山荘庭園の特色
戸山荘の庭園は、広大な下屋敷の敷地(約13万6千坪)の8割以上を占めていた。庭園内には、主に池泉・枯山水・築山・田畑・渓谷・滝・茶屋・社寺などのあらゆる要素が配され、数多くの見どころが存在した。中でも小田原宿を原寸大で再現した「御町屋」は特に名高かった。しかし、池泉回遊式の大名庭園でありながら、他の庭園とは異なる点があった。それは広大な池泉を持ちながら、主となる中島が存在していないことである。広大な池泉であれば舟遊びが行われていてもおかしくないが、その記録はなく、中島としての主島がないことからも舟遊びが行われていた要素は少ない。そのことから本庭園は回遊式が本質であり、築山も多かったため見晴らし園的な位置づけだったことが考えられる。今でいうテーマパークといっても過言ではない。また、戸山荘の庭園ほど築山の多い大名庭園は珍しく、主要なものを挙げると、玉円峰・乾山・拾翠台・大石山・錦明山などがあり、中でも玉円峰は庭園内で一番高い築山で、現在も箱根山としてその形を留めている。このように起伏が多かったことについても本庭園の特色のひとつといえる。
Birth and history of Toyamaso
Toyamaso was the shimoyashiki (suburban residence) of the Owari Tokugawa clan, ruler of Owari domain. Its construction began around 1669, on 151,800 square meters of land given by Saishoji Temple in Ushigome. This was the temple of a Buddhist nun named Soshin, who was the great-grandmother of Chiyo-hime (Princess Chiyo), daughter of the third Shogun Tokugawa Iemitsu, and wife of Tokugawa Mitsutomo, the second lord of Owari. The mansion was expanded after a further 280,500 square meters of land was awarded by the shogunate in 1671. With additional acquisitions of surrounding land, the grounds of the mansion ultimately grew to 44.9 hectares, nearly ten times the size of the Tokyo Dome stadium. Because the land included the local Shinto shrine Wada-toyama-myojin, and straddled the two hamlets of Wada and Toyama, the mansion became known as Wada-toyama-yashiki, or more commonly, Toyamaso. This shimoyashiki is traditionally believed to have been constructed to ensure comfort and convenience of Princess Chiyo when
the Owari Tokugawas were forced, due to a fire, to evacuate their kamiyashiki (city-center residence; it was located close to today's Ministry of Defense). An alternative, somewhat more plausible explanation is that it was built for the personal indulgence of Tokugawa Mitsutomo. He was recorded to have frequently spent time at Toyamaso during his reign as ruler of Owari domain. After retirement, he permanently moved to this shimoyashiki, even though at that time retired domain lords usually took up residence at their nakayashiki (a secondary often smaller, city-center residence). After the death of Mitsutomo, Toyamaso fell into disrepair. It was brought back to its former glory when it was refurbished during the time of ninth lord Munechika (1733-1806) to entertain the eleventh Shogun Tokugawa Ienari (1773-1841). The revived Toyamaso hosted visits by the so-called Gosanke and other important daimyo in addition to the Shogun. Ienari reputedly praised the garden as being the best in the country. In subsequent years Toyamaso suffered the ravages of multiple fires and storms. Many of its buildings were lost to the great fire of Aoyama in 1859. The property was administered by the military after 1874, and hosted Toyama Gakko, a military school. After the end of the Second World War, Toyamaso became a national property, and was partly opened to the public in 1954 as a park named Tokyo Metropolitan Toyama Koen Hakoneyama Chiku.
Toyamaso Garden
The garden of Toyamaso occupied more than 80% of the large grounds (about 448,800 square meters) of this shimoyashiki, the suburban residence of a daimyo (feudal lord). The garden originally had many eye-catching features built into it, such as a pond, rock gardens, hills, crop fields, gorges, waterfalls, tea shops, shrines and temples. Particularly famous was Omachiya, which was a life-size replica of a block of houses in the post-station town of Odawarajuku. Stylistically, the garden is classified as a daimyo garden in the chisen kaiyu (pond stroll) style. It is atypical, however, in that its large pond does not have a prominent central island. which was normally the focal point of such a pond. A grand pond as seen in this garden usually catered to boating, but there are no known records of boating ever taking place at Toyamaso, and the lack of a central island also suggests that boating was not among the pursuits here. It is reasonable to think of this garden as essentially a kaiyu (stroll) garden designed to offer beautiful vistas, as suggested by its many tsukiyama (artificial hills). In fact, with its man-made attractions, the garden might possibly suggest an equivalent to the theme parks of the modern day. This unusually large number of tsukiyama for a daimyo garden represents a notable feature of Toyamaso Garden. Each of these "hills" had a name, such as Gyokuenpo, Inuiyama, Shusuidai, Oishiyama, and Kinmeizan, to name just the major ones. Gyokuenpo was the highest tsukiyama in the garden, and survives to this day as Hakoneyama, or Mount Hakone.
その隣には、戸山荘の主要な施設を解説した案内板も立っています。
@茯苓坂(ぶくりょうざか)
御殿方向へ続く坂道で、左右に町屋風の茶屋等が並び、そばには古くからこの地の鎮守である和田戸明神があった。また「茯苓」とは松の根に寄生する薬用のキノコを指しており、このキノコが採れたことからこの名が付いたとされている。
A余慶堂/釣鐘
戸山荘の中で第一といえる立派な建物で表御殿から廊下でつながっており、多くの書画などの名品が飾られていた。庭には、海から揚がったという釣鐘があり、枝間からは富士山が眺められ、別名「富士見御殿」とも呼ばれていた。
B称徳場
余慶堂の庭先にあった馬場に名付けられたもので、長さは73間(約132m)あり、中央に土手をつくり、馬を追い回すようにできていた。馬見所や馬の足を冷やす堀もあり、この西には清らかな濯纓川が流れ、蛙やホタルが放たれており、周囲には田園が広がっていた。(濯纓川は歌舞伎町一丁目付近を水源とする金川(カ二川)を戸山荘内に引き込み、その当時は大井川と称されていた。「纓」は冠の紐のことで紙を濯ぐ、つまり俗世間から離れ超越するという意味)
C古駅楼
古駅楼は寛文十二年(1672年)に完成し、本陣とも呼ばれていた。小田原名物の外郎屋(虎屋)を模した2棟の建物があり、1棟は売薬の店、もう1棟は園池が見渡せる高欄がめぐらされた楼となっていた。
D御町屋
御町屋は古駅楼と同じ年(寛文十二年(1672年))に小田原宿を模して原寸大でつくられ、長さが113間半(約206m)あり、鍛治屋や米屋など37軒の町屋を建てた場所だった。将軍御成りの際は家臣が売り子となり、庶民生活を面白く体験させて接待していた。
E彩雲塘
御町屋の北東に位置する土手で、当初は中堤と呼ばれていたが、百日紅(さるすべり)の花が多く植えられ、開花時には紅の雲をかけたような景観があったことから彩雲塘という名が付けられた。
F養老泉
貞享四年(1687年)に完成した園内名物の井戸であり、井筒は大きな紫色の石を掘りぬいたもので、そこから常に清らかな水が湧き出ていたと伝えられている。養老泉という名称は「老いを養う薬井の水」というところから名付けられたとされている。
G小廬山
中国の廬山に見立てた場所で「廬山寺」という額のある庵が建ち、熊笹が生い茂っていた。この西側には王子権現が祀られ、前方の池中に鳥居があった。
H随柳亭
庭を一望できる場所にあった数寄屋風の建物で、絵や調度品で飾られていた。池畔には2本の柳の老木があり、両横の人江にはそれぞれ橋が架かっていた。
I琥珀橋
池の中央に長く架け渡された板橋で、絵巻によると15・6間(約30m)あった。北岸には四つ堂という四阿(あずまや)が建ち、その先に鶴島・亀島という小島があった。
J玉円峰(現在の箱根山)
池を掘った土で築いた人工の山で、丸い椀を伏せたような形から正円峰と称された。明治以降に箱根山と呼ばれるようになり、現在もその姿は残っている。
さて、(箱根山地区から再びワープして)今日のコースの大久保地区を訪れます。改めて戸山公園の概要を記します。戸山公園が位置する敷地一帯には、江戸時代に尾張藩徳川家の下屋敷がありました。尾張藩二代藩主の徳川光友により、回遊式庭園「戸山荘」(または「戸山山荘」)として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)や東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられました。寛政年間には十一代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園でした。戸山山荘を描いた谷文晁による絵巻「紙本淡彩戸山山荘図」が現存し、重要文化財に指定されています。その後は数度の火災や水害により荒廃しましたが、尾張藩の財政難などもあり復興はされませんでした。明治維新後、戸山荘は明治政府に明け渡され、跡地には明治六年(1873年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで陸軍軍医学校・陸軍の練兵場などに利用されました。戦後、軍事施設はすべて廃止され、昭和二十四年(1949年)から跡地に戸山ハイツの建設が開始されました。昭和二十九年(1954年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園しました。箱根山地区には、標高44.6mで山手線内で一番高い箱根山があります。毎年10月の体育の日には、穴八幡宮の伝統行事であり、新宿区指定無形民俗文化財に指定されている流鏑馬が開催されています。当日は穴八幡宮から戸山公園まで行列が練り歩き、大勢の観客で賑わいます。また、箱根山付近は桜が多く植えられ、花見の名所となっています。
公園内には沢山の樹木が植えられていて(元々植わっていた?)、自然な緑の広場が広がっています。初夏の陽射しを遮り、幼稚園児の恰好の野外お遊びの場所になっています。園内には新宿スポーツセンターもあり、大人も運動が楽しめます。
戸山公園の敷地の隅に公園のサービスセンターがあり、箱根山の登山証明書をもらうことができます。
ミーハーなもんで、もらっちゃいました。
早稲田大学西早稲田キャンパスと新宿コズミックセンターの敷地に挟まれて、明治通りまでイチョウとケヤキの並木道が続いています。明治神宮外苑の銀杏並木みたいに形が整って美しいですね。
並木道の歩道の端に銅製の置物がさりげなく置かれています。蝸牛の置物は飾りのように見えなくもないですけど、脱ぎ捨てられた靴はちょっと不気味な感じがします。殺人事件の現場かっ!
明治通りに出ますと、戸山公園に隣接して新宿コズミックセンターの建物があります。新宿コズミックセンターは、新宿区立の新宿コズミックスポーツセンターと新宿区立教育センターとの複合施設になっています。戸山公園の中にあった新宿スポーツセンターはすぐそばですが、新宿スポーツセンターが個人利用に重きを置いているのに対して、新宿コズミックセンターは団体利用を中心にした運営になっているとのことです。ちなみに、「コズミック」とは、「宇宙の」といった意味です。建物の8階に設置してあるドーム径14mのプラネタリウムが名前の由来とのことです。ちっとも「名」が「体」を表していませんね。
大久保二丁目交差点で明治通りを離れ、裏道の区役所通りを進みます。住宅地の一角に「新宿区立 小泉八雲記念公園」があります。小泉八雲はギリシャ生まれの新聞記者で、紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家・日本民俗学者でもありました。明治二十三年(1890年)にアメリカ合衆国の出版社の通信員として来日しましたが、来日後は日本で英語教師として教鞭を執るようになりました。翌年松江(島根県)の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚し、明治二十九年(1896年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗りました。よく知られている「耳なし芳一」の話は、小泉八雲の著作である「怪談」の中に収められています。
小泉八雲記念公園
明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシャ・レフカダ町に生まれ、現在の新宿区大久保1−1でこの世を去りました。新宿区とレフカダ町は、この縁をもとに指互に交流を重ね、理解と友情を深めるため、平成元年10月友好都市となりました。新宿区は、この度、小泉八雲が没したこの地に小泉八雲記念公園をつくりました。この公園の設計に当たっては、コンスタンティノス・ヴァシス駐日ギリシャ大使並びにスピロス・マルゲリス・レフカダ町長から詳細な助言をいただき、ギリシャ風の公園として整備しました。ギリシャの雰囲気を出すため、古代の柱や集会場(アゴラ)をイメージした広場、中世風の建物、近代のイメージとしての白い壁などを設けました。この公園が、日本を世界に紹介した小泉八雲を偲ぶ場所となり今後、新宿区とレフカダ町の友好がより一層深まることを願います。
LAFCADIO HEARN MEMORIAL PARKΚ
Lafcadio Hearn (in Japanese Yakumo Koizumi), a literary figure of the Meiji Era, was born on the Greek island of Lefkas, and died in Shinjuku. Owing to this relationship, bonds of friendship were established between the municipalities of Shinjuku and Lefkas in October 1989. The Lafcadio Hearn Memorial Park features characteristic elements of Greece, Yakumo's country of birth. I hope that this park will remind visitors of Lafcadio Hearn, who through his literary works greatly contributed in introducing Japan to the world, and that the friendship between Shinjuku
and Lefkas will further deepen in the future.
公園の中には小泉八雲の胸像と、当時のコンスタンティノス・ヴァシス駐日ギリシャ大使の寄稿文が書かれたプレートが貼ってあります。読み取りが難しかったので内容は省略します。
公園内には、駐日ギリシャ大使から寄贈されたモニュメントがあり、こちらにも胸像のプレートと同じような内容の寄稿文が書いてあります。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)生誕の地、レフカダと、終焉の地、新宿は、1989年10月の友好都市提携より相互に交流を重ね、理解と友情を深めてきました。このたび、友好都市提携から30年を迎えるに当たり、今後ますます両市・両国の友好関係が深まることを願い、このモニュメントを新宿区へ捧げます。
2019年9月
駐日ギリシャ大使
コンスタンティン・カキュシス
The birthplace of Lafcadio Hearn (Koizumi Yakumo) - the Greek city of Lefkada - and
the place of his passing, Shinjuku City, have held exchanges with each other and deepened their mutual understanding and cordial relations ever since they signed a sister city agreement in October 1989. As we celebrate the thirtieth anniversary of friendship between us, we consecrate this monument to Shinjuku City in the hope that cordial relations between our two cities and two nations will flourish far into the future.
September 2019
Constantin Cakioussis
Ambassador of Greece to Japan
公園内の花壇には、元祖大久保つつじ由来の木が植栽されています。
「大久保のつつじ園」由来のキリシマツツジ
品種・「本霧島」「八重霧島」
現在の大久保から百人町の辺りは、かつてツツジの名所でした。これは、江戸時代に鉄砲百人組の与力・同心が屋敷の庭で育てていたツツジが評判となり、見物客で賑わうようになったのが始まりだと言われています。明治二十年代の最盛期には、花が70種類、数は1万株を超え、ツツジの見頃に臨時列車が運転されるほどでした。明治三十六年には、ツツジの多くが日比谷公園に移され、周辺の開発も進み、次第にツツジは見られなくなりました。大正時代に残っ
たツツジの一部は、館林市の茂林寺や箱根の小涌園等に移されました。ここに植栽しているのは、群馬県立つつじが岡公園において、保護育成されている「大久保のつつじ園」由来の原木から挿し木によって育てられた「大久保つつじ」です。
小泉八雲記念公園の隣にある新宿区立大久保小学校の正門横に「小泉八雲舊居(きゅうきょ:旧居)跡」の碑が建っています。
The Place Where Yakumo Koizumi Died
Yakumo Koizumi (Lafcadio Hearn) was born in 1850 in Lefkad Isle, Greece. He came to Japan in 1890 as a correspondent for the American Press. He later resigned from his job and married Setsu Koizumi, and taught in Matsue and Kumamoto. In 1896, he was naturalized as a Japanese citizen. He wrote several masterpieces in English, for example, "Kwaidan". During this time he taught English literature in Tokyo Imperial University (the University of Tokyo) and Waseda University. He moved from Ichigaya Tomihisa-cho to Okubo in 1902. He left this world on September 26 1904 at the age of 54 amidst worries about his wife, children and work, with the touching words "Ah, the sickness......". For his efforts in introducing traditional Japanese culture, the Japanese Government admitted him posthumously to the rank of "Jushii (Fourth Grade, Junior of the Court rank)" in 1915. His great love for the nature and culture of our country and his efforts in introducing their true aspect is valued highly.
もうひとつ「小泉八雲終焉の地」の石碑が置かれています。石碑には、小泉八雲が住んでいた旧居の写真が添えられています。
小泉八雲終焉の地
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は嘉永三年(1850年)ギリシアのレフカダ島に生れた。明治二十三年アメリカの新聞記者として来日、その後記者をやめ、小泉セツと結婚。松江・熊本で教鞭をとった。明治二十九年日本に帰化し、以来東京帝国大学、早稲田大学で英文学を講じながら「怪談」等幾多の英文による名作を執筆した。明治三十五年市谷冨久町からこの地大久保に居を移した。明治三十七年(1904年)9月26日妻子の身を案じ、自分の仕事を気にしながら「ああ 病気のため・・・」の悲愴な一語を残し、帰らぬ人となった。時に五十四歳であった。伝統的な日本文化を広く欧米に紹介した彼の功労に対し、大正四年、日本政府は従四位を追贈した。我が国の自然と文化をこよなく愛し、その真の姿を伝えた功績は偉大であり、高く評価されている。
職安通りと交差する角に稲荷鬼王神社があります。普通、神社の由緒文は堅苦しい言葉で書かれていますが、鬼王神社は分かりやすい口語体で書かれています。印刷した紙をボードに貼り付けてあるのはちょっと重みに欠けますが。
稲荷鬼王神社由緒
「鬼」というと私達はとかく悪いイメージをもちがちですが、古来、「鬼」は神であり「力」の象徴でもありました。又、「鬼は悪慮を祓う」といわれ、すべての災禍を祓う力があります。その為、鬼を祀ったり、鬼の名のつく社寺は全国に幾つもあります。しかし、その「鬼」の王様という意になる「鬼王」という名のある社寺は全国で当社のみです。この為、江戸時代は近在の農家の人達だけでなく、江戸から武士や商人、職人と多くの人が参拝にまいりました。現在では地図でみる新宿の中央にある唯一の神社としても注目を集め、全国から当社の御神徳を得ようとする方々が詣られております。扠(さて)この全国一社福授けの稲荷鬼王神社の由緒は左記の通りです。
古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応二年(1653年)、当所の氏神として稲荷神社が建てられました。宝歴二年(1752年)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)を当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から勧請し、天保二年(1831年)稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。それ故、当社の社紋は稲荷紋と巴紋の二つがあるのです。紀州熊野に於いて鬼王権現は現存せず、当社はそれ故、全国一社福授けの御名があります。この鬼王権現は、湿疹・腫物を初め諸病一切に豆腐を献納し、治るまで本人或いは代理の者が豆腐を断ち、当社で授与される「撫で守り」で患部を祈りつつ撫でれば必ず平癒するといわれ、明治十五年頃まで社前の豆腐商数件がこの豆腐のみにて日々の家計を営んでいたといわれたほどでした。今日でも広く信仰されています。この信仰について江戸時代の「新編武蔵風土記」だけでなく、時代は下って文豪、永井荷風も書き記しております。尚、当社では「鬼王様」の御名に因み、節分時鬼を春の神として「福は内、鬼は内」を唱えます。
追記 明治時代に旧大久保村に散在していた、火の神である火産霊神の祠や、盗難除けの神などの大久保村の土俗の神々が合祀されました。大祭は九月十八日で、御輿はその前後の日曜・祝日に出御します。この宮御輿は鬼面の彫られた珍しいお御輿です。
追記 江戸時代に既に特異な「鬼王」という名の神社を勧請するのに地元に抵抗感が無かったのは、この土地が −文書では残っていませんが− 平将門公(幼名・鬼王丸)に所縁があったのではないかとも言われています。
鬼王神社は、新宿山之手七福神の一社で、境内の三島神社には恵比寿神が祀られています。毎年10月19日・20日の大祭「恵比寿祭」では、境内にべったら漬を売る露天などが並び賑わいます。この祭りでべったら漬を買うと金運が付くといわれていて、「べったら祭」とも呼ばれています。
境内社 三島神社
御祭神名 事代主命・別名開運恵比寿とも称え、文化年間に松平出雲守邸内より出現した神像で御後室の居間に安置してあったものを、松平氏より松平家の祈願所である二尊院(東大久保)に奉納されました。当時、大久保村の社寺の多くを、代々稲荷鬼王神社社家大久保家が神職或いは別当職として守ってきましたが、この二尊院も大久保家が代々別当職を兼ねており嘉永六年十月に同院が火災にあい、当時の別当大久保家十二世政光がその恵比寿神を大久保家に遷し、大久保家十四世義道が稲荷鬼王神社境内に奉斎し、今日にいたっています。この恵比寿神は新宿山之手七福神の一つに数えられ、今日、正月七日間は七福神巡りで賑わっております。十月十九日(宵宮)、十月二十日(大祭)は新宿ゑびす祭として境内で「ベったら店」が出店されます。
神社には手水鉢がありますが、鬼王神社の水鉢はかなり珍しい様式です。
新宿区指定有形交化財 彫刻 鬼王神社の水鉢
文政年間(1818年〜1829年)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保四年(1833年)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている・・・」とある。この水鉢は、高さ一メートル余、安山岩でできている。
Hand-Washing Basin at Inari Kio Jinja Shrine
Designated Tangible Cultural Property (Sculpture) of Shinjuku City
This hand-washing basin, which dates back to the Bunsei era (1818-1830), is set upon the head of a crouching demon statue and is one of the most unusual shrine furnishings in Shinjuku. The stone plaque to the left of the basin records a story about the residence of a shogun's retainer who lived in the district. It is as follows,
During the Bunsei era, when this basin was on the grounds of a certain Kagami residence, the sounds of bathing could be heard from it each evening. Because of this, one night, the head of the household struck the basin with a sword. Thereafter, members of the family frequently fell ill and, in 1833, the family donated the basin to this shrine. The mark left by the sword is still visible on the shoulder of the carved demon...."
The basin stands about 1 meter tall and is carved from andesite stone.
狛犬の奥に大きな瓶が置かれています。底には竹の筒が差し込まれています。天水(雨水)琴というのだそうです。雨水が溜まると竹筒に水が流れ、さしずめ琴のように音色を奏でるというのだそうです。風流な置物ですね。
稲荷鬼王神社の天水琴
水琴窟の由来は小堀遠州の考えた、つくばいの排水装置、洞水門と言われています。後に江戸期の庭師が水琴窟の名で音を楽しむ事を兼ねた装置として各地に作りましたが、残念な事に時代と共に忘れられた存在となりました。当社では往時の雅をしのび、平成十六年十一月三日に水琴窟師田村光氏により雨水を利用した水琴窟、天水琴を建設致しました。大神様のおわします社殿の屋根からの雨水を大きな甕に溜め、少しずつ水琴窟に注いで、音を奏でる仕掛けになっています。耳を澄ますと、地中から弦を弾く様な、かすかな響きが聴こえてきます。滴が作りだす、可憐で、聴くたびに不規則に変化する余韻が耳の奥にしみこみ、人の心をつつみこみます。竹筒に耳を近づけて聴いてみて下さい。尚、つくばいの水は雨水ですので飲めません。
区役所通り交差点の近くから遊歩道が延びています。昭和四十五年に新宿始発の路面電車が廃止になり、昭和四十九年に都電の引込み線専用軌道敷跡に、「新宿遊歩道公園 ”四季の路”」が完成しました。「みどりの新宿30選」にも選ばれた遊歩道です。平成六年1月に新宿区が発表した「みどりの新宿30選」は、区内の緑による景観、あるいは緑のある施設などの中から「多くの区民の愛着・共感を集めていること、新宿らしさを表現していること」などをもとに選定されたものです。区役所前の通りの1本先にある”四季の路”には、かつて都電の引き込み線のあった場所がモザイク状石畳の遊歩道に整備され、樹木や四季折々の草花が繁る憩いのプロムナードになって道行く人々の心を和ませています。
歌舞伎町にやって来ました。青空の下でちょっと迫力がありませんが、夜ともなればネオンが煌々と輝き、東洋一(今は関東一?)の歓楽街と化します。
靖国通りから新宿東宝ビルにかけて南北に伸びる「セントラルロード」の一部は「ゴジラロード」とも呼ばれています。ゴジラシリーズの映画「シン・ゴジラ」の公開をきっかけにして命名されたものです。ゴジラの体長と同じ118・5メートルで登録されましたが、地名や通りにゴジラの名前が入るのは史上初めてだそうです。新宿東宝ビルの8階部分には頭部の巨大オブジェ「ゴジラヘッド」もあります。歌舞伎町のイメージを変えることになるかもしれませんね。
「歌舞伎町一番街アーチ」は、靖国通り沿いに面した歌舞伎町の入口とも言える場所に架けられ、ネオン街の中でもひときわ華やいだ光で人々を迎え入れています(今は真昼ですが)。ガイドブックをはじめ、ニュース映像や映画やアニメーション作品などにも繰り返し登場し、国内だけでなく海外でも知られた存在になっています。アーチが現在のようなデザインのものとして設置されたのは昭和四十四年(1969年)のことです。現在のアーチは、平成二十五年(2013年)に設置され、それまでのデザインを踏襲しつつ、老朽化に伴う改修工事も行われました。埋め込まれていた電球は環境を配慮したLED電球600個に変わり、上部に取り付けたソーラーシステムは停電時などに活用されます。
ゴール地点の西武新宿駅正面口にやって来ました。JR新宿駅とは少し離れていますが、東京の西部方面に住む人達には重要な鉄道駅です。駅ビルの「PePe」は、西武鉄道沿線にある駅ビルやショッピングセンターの名称で,「Prince Promenade」の略です。
ということで、短いですけど新宿の町の多様な姿を見てきました。神社・公園・史跡そして歓楽街と、新宿には魅力いっぱいの名所が詰まっています。交通の便も良いし、マップ片手に歩くのも楽しいですよ。
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