Eアカデミックなまちで昭和レトロと自然を堪能  

コース 踏破記  

今日は新宿区の「アカデミックなまちで昭和レトロと自然を堪能」を歩きます。東京メトロ東西線の早稲田駅をスタート地点として、早稲田大学のキャンパスを巡り、学生の街高田馬場を徘徊します。  

「アカデミックなまちで昭和レトロと自然を堪能」の歩行距離は約3.4km(約4,900歩)、歩行時間は53分、消費カロリーは約159kcalです。

スタート地点:東京メトロ東西線早稲田駅【出入口3b】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
@早稲田大学大隈記念講堂
昭和二年に建設。外観が印象的な時計塔は大隅重信の「人生125歳説」に因み125尺(約37.8m)の高さ。学舎が建ち並ぶ構内には博物館などもあり、一般公開されています。
↓ (約0.5km:約 8.0分)
A都電荒川線
明治四十四年に開通し、現在、東京でも数少ない路面電車です。区内の停留場は、早稲田と面影橋の2つです。
↓ (約0.3km:約 5.0分)
B甘泉園公園
元は徳川御三卿の清水家の屋敷であった回遊式庭園。池の周りの木々や季節の花が美しい。(*閉園時間あり)
↓ (約1.3km:約20.0分)
C諏訪神社
旧戸塚村・旧大久保村の総鎮守。平安初期の創建。村境を守る神「寒神三柱」をまつる石塔は区内で唯一のもの。明治天皇の行幸があり、聖跡に指定されている。
↓ (約0.9km:約14.0分)
ゴール地点:東京メトロ東西線高田馬場駅【出入口3】


スタート地点の東京メトロ東西線早稲田駅出入口3bから歩き始めます。



地下鉄の出口を出た直ぐ先に早稲田中学校・高等学校の校舎があります。名前の通り、中高一貫教育の男子校です。中高一貫校では、中学と高校でそれぞれ生徒を募集するところもありますが、早稲田校は中学校のみ生徒を募集する完全中高一貫校となっています。早稲田中学校・高等学校は、坪内逍遥・市島謙吉・金子筑水らが大隈重信の教育理念に基づき、東京専門学校(現在の早稲田大学)関係者と大隈重信の尽力により、明治二十八年(1895年)に創立されました。古くから「東洋のイートン校」を標榜し、「人格の独立」を謳い、リベラルを旨とする創立120年を超える伝統校です。尚、制服は男子校の伝統でもある金ボタン5個の黒学ランとなっています。ちょっと令和の時代にはそぐわなくなっていますね。



早稲田大学の正門にやってきました。普通、大学の正門には守衛所が設けられ、一般人は簡単には入れません。早稲田大学の正門は開放的で、ゲートもなければ監視の人もいません。極めて開放的な敷地になっています。正門の脇の壁に早稲田大学の教旨(大学に於ける教育の趣旨)が掲げられています。教旨には二種類があって、一方は戦前に制定されたもの、もう一方は戦後に改訂されたものです。漢字は新旧で一部異なりますが、内容は「帝国の臣民」を削除した以外はほぼ同じになっています。

教旨

早稲田大学は学問の獨立を全うし、学問の活用を鼓し、模範国民を造就するを以て建學の本旨と為す。早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由研究を主とし、常に獨創の研鑽に力め以て世界の学問に裨補せん事を期す。早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を實際に応用するの道を講し、以て時世の進運に資せん事を朞す。早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、立憲帝國の忠良なる臣民として個性を尊重し身家を發達し、國家社會を利済し、併せて廣く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。




もうひとつの教旨は、戦前の教旨が書かれたプレートの下方に、改訂の趣旨と共に掲示されています。

建学の碑

「建学之碑」は、1937年11月に、本学の創立者大隈重信の生誕百年の記念事業として建立されたものである。この碑には1913年10月の創立30周年記念の際に制定された教旨が、当時の総長田中穂積の揮毫により刻されている。そこには、創立以来の理念が、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」の三大教旨として凝縮され、早稲田大学の建学の理想として高らかに唱いあげられている。しかし、第二次世界大戦の終結にともない、新しい理念による国の建設と、教育のあり方の一新により、大学は、教旨改訂委員会を設け検討した結果、第匹節の「立憲帝国の忠良なる臣民として」の字句を削除したものを新教旨としたが、この碑自体は「歴史的文書」として建立当初のままの形で保存することに決定した。この「建学之碑」を現在の場所に移すにあたり、以上の経緯を明らかにするものである。

早稲田大学教旨

早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す。早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由研究を主とし、常に独創の研鑽に力め必て世界の学問に裨補せん事を期す。早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講し、以て時世の進運に資せん事を期す。早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、
【削除:立憲帝国の忠良なる臣民として】 個性を尊重し身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。

THE MISSION OF WASEDA UNIVERSITY

WASEDA UNIVERSITY HOLDS AS ITS FOUNDING PRINCIPLES. THE PRESERVATION OF THE INDEPENDENCE OF SCHOLARSHIP, THE PROMOTION OF THE PRACTICAL APPLICATION OF SCHOLARSHIP, AND THE FOSTERING OF GOOD CITIZENS. HOLDING THE INDEPENDENCE OF SCHOLARSHIP AS A CENTRAL PRINCIPLE, WASEDA UNIVERSITY PLEDGES TO CONTRIBUTE TO THE SCHOLARSHIP OF THE WORLD BY REGARDING FREEDOM OF RESEARCH AS ESSENTIAL AND DEVOTING ITSELF CONSTANTLY TO ORIGINAL RESEARCH. HOLDING THE PRACTICAL APPLICATION OF SCHOLARSHIP AS A CENTRAL PRINCIPLE, WASEDA UNIVERSITY PLEDGES TO CONTRIBUTE TO THE PROGRESS OF THE TIMES BY ESTABLISHING A PATH FOR THE PRACTICAL USE OF SCHOLARSHIP AS WELL AS PURSUING THEORETICAL RESEARCH FOR ITS OWN SAKE. HOLDING THE FOSTERING OF GOOD,CITIZENS AS A CENTRAL PRINCIPLE, WASEDA UNIVERSITY PLEDGES TO CULTIVATE PEOPLE OF CHARACTER WHO CAN RESPECT INDIVIDUALITY, DEVELOP THEMSELVES AND THEIR FAMILIES, BENEFIT THE NATION AND SOCIETY AND BE ACTIVE IN THE WORLD AT LARGE.




正門の前方には、早稲田大学のシンボルであるチューダー・ゴシック様式の大隈講堂が聳えています。受験雑誌でよく見る特徴的な外観をした建物です。昭和二年(1927年)に建てられたのですか?そんな年季を感じさせないですね。実は、大学の創立125周年(2007年)記念事業に向け、2006年から2007年にかけて再生工事が行われたのです。外観と大講堂の歴史的な意匠を保存しつつ、耐震補強や文化ホールとして多機能化を行われたそうですので、外観が新しく見えたのも再生工事の結果かもしれません。ちなみに、創立125周年は、大隈重信が唱えた人生125歳説を基にしたもので、早稲田大学の第二世紀の幕開けを記念したものだそうです。

重要文化財 早稲田大学大隅記念講堂
Waseda University Okuma Auditorium

早稲田大学大隈記念講堂は、創立者である大隅重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和二年10月15日に竣工した。 早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として、高い評価がある。また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。




大隅講堂に入る石段は学生達の恰好の憩いの場になっています。こういう風景にも自由な校風が感じられます。講堂脇の植え込みの中に「早稲田の栄光」と題した学生歌の歌詞を刻んだ石碑が置かれています。ネットで聴いてみたのですが、全く知らないメロディーでした。早稲田大学の校歌は馴染みがありますけどね。ちなみに、「早稲田の栄光」は、昭和二十七年(1952年)の早稲田大学創立70周年記念事業の一環として、校歌以外に学生が歌えるカレッジソングをとして歌詞を公募し、当選した岩崎巌氏の詩に、西条八十氏による補助作詞と芥川也寸志氏による作曲が行われて完成したものです。それ以降、早慶戦に勝利した際や、卒業式の最後に歌う曲として歌い続けられています。

早稲田の栄光

作曲・芥川也寸志 作詞・岩崎 巌

栄光はみどりの風に
花ひらく若き日の歌
重ね来し 歴史尊く
承け継ぎて輝く早稲田
早稲田 早稲田 我らの早稲田

ふり仰ぐ時計の塔に
青春の眸は澄みて
雲と湧く 文化の理想
担い立つ 我等たくまし
早稲田 早稲田 我らの早稲田

昂然と高張る胸に
伝統の息吹通いて
翻えす 校旗の紅に
感激の血潮は沸る
早稲田 早稲田 我らの早稲田

先哲の面影偲ぶ
なつかしき真理の杜を
彩るは 七色の虹
とこしえに輝く 早稲田
早稲田 早稲田 我らの早稲田




大隈講堂前の広場の奥に、こじゃれた雰囲気のカフェを備えた大学のグッズ売り場の建物があります。その前に、年代物の小屋が建っています。現在は大学の総合案内所として使われていますが、元はこの一帯にあった大隈重信邸の守衛詰め所だった建物です。明治時代の面影を残す木造平屋建ての建物で、急勾配の屋根にハーフティバーの瀟洒なデザインが目を惹きます。

早稲田大学総合案内

この建物は、戦争によって全焼した旧大隈重信邸(明治三十五年竣工)の唯一の現存遺構であり、当時は守衛詰所として用いられていたものである。建物は木造一階建ての簡素な造りであるが、ハーフ・ティンバーの外観、妻飾りのハンマー・ビームやがらり窓等が印象的である。小規模ながら、旧東京専門学校校舎(グリーンハウス・現在は追分セミナーハウスに移築)と並んで、木造校舎時代の雰囲気を伝える貴重な建築物である。




講堂の近くには、早稲田大学の校歌の歌詞を記したプレートが貼り付けられた巨石が置いてあります。なんか、私の中では早稲田の校歌と慶応の応援歌がごっちゃになっていますが、作詞したのは相馬御風で、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本の文学者です。「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られています。作曲したのは東儀鉄笛で、イェール大学の学生歌である「オールドイェール」の旋律を下敷きにしたといわれています。ネットで聴いてみたのですが、ほぼ丸写しといわれても納得できる旋律のように感じます。

早稲田大学校歌

作曲・東儀鉄笛 作詞・相馬御風

都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

東西古今の 文化のうしほ
一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる
われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は
あまねく天下に 輝き布かん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ




正門から入った奥の中庭に大隈重信の銅像が建っています。銅像に鳥の落とし物はよく見かけますが、さすがに早稲田大学の象徴、実に綺麗に保たれています。

新宿区指定有形文化財 大隈重信銅像

早稲田大学の前身東京専門学校の創立者で、早稲田大学の初代総長をつとめた大隈重信(1838年〜1922年)の銅像である。早稲田大学創立五十周年を記念して、昭和七年 (1932年)十月に完成したもので、鋳造・彫塑は朝倉文夫(1883年〜1964年)の作、桜花崗岩製の台石は桐山均一の手になるものである。像高は2.89メートル、台石の高さは2.12メートルで、角帽にガウンを着た早稲田大学総長の姿をした、晩年の大隈重信を見事に表現している。なお、朝倉は都合三回(芝公園・大正五年、国会議事堂内中央広場・昭和十三年)大隈重信像を製作しており、この早稲田大学の像は、二回目にあたるものである。




どういう経緯で大学の構内に置かれているのかは知りませんが、国内産の天然ガスで札幌市の需要を賄っているとは思いもよりませんでした。

勇払油ガス田(北海道)の沼ノ端SK−6D号井の掘削に使用した
石油・天然ガス井(せい)掘削用ビット

ビットとは、坑井(こうせい)を掘削する際に掘管(ほりかん)の先端に取り付けて坑底の地層を削りとる鑿(のみ)のような働きをする道具です。ここに展示されているものは、北海道の勇払油ガス田において、2005年に掘削された沼ノ端SK−6D号井で実際に使用された約40個のビットのうちの3つです。深い坑井を掘削する場合には、地表から目的とする層まで同じ直径のビットで掘り進むことはできません。同じ径のビットで地層を掘り続けると坑壁が崩れて掘進できなくなります。また、地層圧力が異なる地層に掘り込む時には、それまでに掘った地層をケーシングと呼ばれる鉄管で遮蔽して、新しく掘進する地層と隔絶しなければなりません。ケーシングをセットした後は、その内径よりも一回り小さい径のビットを使用してその先を掘り進みます。そのために1本の坑井を掘削するためにはいくつかのサイズのビットが必要になります。沼ノ端SK−6D号井では、36インチ(約91cm)ビットによる最表層の地層の掘削から始まり、ケーシングセットと掘削を交互に繰り返しながら順次坑径を小さくして、最深部の石油・ガス貯留層では8.5インチ(約22cm)ビットを用いて、4,500mを超える目的深度まで到達しました。勇払油ガス田では貯留層の深度が4,000〜5,000mもあるために、1本の坑井を掘削し終えるのに半年程度かかります。

展示されているビットは、円錐形をした3個のカッター(コーン)を持つことから、トリコーンビットと呼ばれるものです。掘管を回転させながらビットを地層に押し付けると、ビットが回転し、それに伴ってそれぞれのコーン自体も回転して地層を削り取っていきます。ビットのボディ部に3個の孔(ノズル)がありますが、掘管を通して地上からポンプによって送り込まれる泥水がここから噴流となって出てきます。勢いよく出てくる泥水が掘り屑を吹き飛ばして、効率的な掘進ができるようになっています。

勇払油ガス田は、古第三系石狩層群礫岩層と白亜紀花崗岩類が貯留層となっており、1989年に発見されました。花崗岩が貯留層となっている例は世界的にみても僅かしかなく、勇払は極めて特異な油ガス田といえます。勇払油ガス田から生産される炭化水素は天然ガスとコンデンセートです。コンデンセートとは、貯留層の温度圧力のもとではガスとして存在していたものが、それより温度圧力とも低い地上では液相(油)に変わるものをいいます。勇払油ガス田の生産操業は発見から7年後の1996年に始まり、天然ガスはパイプラインで札幌市や近隣の企業に供給されているほか、天然ガスから作られたLNGはタンクローリーと鉄道による輸送で旭川市などにも供給されています。また、原油はタンクローリーやタンカーによって出荷されています。札幌市では1996年以降天然ガスへの転換作業が進められ、今では札幌市の都市ガスはすべて勇払産の天然ガスとなっております。




大学の構内には、幾つかの記念館が残されています。演劇博物館は、近代日本文学や演劇運動に大きな影響を与えた坪内逍遥を記念して建設されました。

新宿区指定有形文化財 建造物
演劇博物館

正式には早稲田大学坪内博士記念演劇博物館という。昭和三年(1928年)十月に呼内逍遙の古稀と「シェークスピヤ全集」の完訳を祝って学界・演劇界の有志千五百名余の協賛により建設された。建築の意匠は逍遙の発案によりイギリスのエリザベス朝(十六世紀後半)の様式で、シェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模して設計されている。鉄筋コンクリート造、地上三階、地下一階、建坪は約400平方メートで、内部は逍遙記念室をはじめ八つの展示室、図書閲覧室がある。また、外部は実際にシェイクスピア劇が上演できるよ うになっており、館の正面は舞台、二階の廊下は上舞台、建物の両翼は桟敷、前庭は一般席となる。なお、正面舞台上に掲げてあるラテン語は「全世界は劇場なり」という意味で、シェイクスピア時代の劇場グローブ座に掲げてあった看板の句である。

Tsubouchi Theatre Museum
Designated Tangible Cultural Property (Structure) of Shinjuku City

Official name: Tsubouchi Memorial Theatre Museum of Waseda University
This museum was built in October 1928 through the support of over 1,500 people. It was made to celebrate the 70th birthday of Professor Tsubouchi Shoyo and the completion of his translation of The Complete Works of William Shakespeare. At the suggestion of Professor Tsubouchi, the museum was modeled after the Fortune Playhouse, an Elizabethan-style building constructed in 1600 in London. The reinforced concrete structure has three stories and a basement. It has approximately 400 square meter of floorspace and eight display rooms, including the Shoyo Memorial Room and a reading room. The outside area of the museum was designed for the performance of Shakespeare's plays. The covered area of the entrance acts as a main stage, and the balcony functions as an upper stage. The wings and the main open area are used for box and regular seating, respectively. Inscribed above the stage is the phrase, "Totus Mundus Agit Histrionem," Latin for "All the world's a stage." It is the same phrase that was on the Globe Theatre in London.




坪内逍遙は明治〜昭和初期に活躍した小説家・劇作家・評論家で、早稲田大学で教鞭をとりました。明治十八年(1885年)に文学論「小説神髄」・小説「当世書生気質」を発表、明治二十四年(1891年)に「早稲田文学」創刊し、日本における文学改良運動の中心となりました。その後、演劇界および演劇文学改良に傾注し、シェークスピア全集の研究・翻訳を行い、「新曲浦島」などの新舞踊劇や戯曲「桐一葉」などを創作しました。会津八一は歌人・書家・美術史家であり、秋艸(しゅうそう)道人と号しました。万葉風を近代化した独自の歌風を確立し、歌集「鹿鳴集」や書跡集「遊神帖」などの作品があります。明治三十二年(1899年)の夏、坪内逍遥が新潟に来て港座で文学講演をしましたが、数え年19歳だった会津八一はそれを聴講して逍遙の態度と雄弁さに感動し、生涯坪内逍遥を敬慕したそうです。

坪内逍遙胸像と台座歌碑

台座上の坪内逍遙胸像は、彫刻家・長谷川榮作氏の原型により昭和三十七年に鋳造されたもので、逍遙の「シェイクスピア」講義の姿である。また、台座は、早稲田大学後援会事業資金、池田恒雄氏、近桂一郎氏の協力により演劇博物館創立七十周年記念に建立され、歌碑の内容は逍遙を偲んだ會津八一の自筆の和歌である。

むかしひと
こゑも
ほからに
たくうちて
とかしし
於もわ
みえ
きたる
かも

秋艸道人




早稲田大学の構内を後にして、グランド坂を下って新目白通り上にある都電荒川線の早稲田電停に出ます。グランド坂という名前の由来は、昔このあたりに早稲田大学が設置した「戸塚球場」という球場があり、日本野球の草創期に学生野球を中心として使用されました。日本で初めて照明が設けられ、ナイターが行われた球場としても知られています。六大学野球でも使われ、海外からの交流試合もこの球場が使われていました。現在、その跡地は早大総合学術センターになっています。グランド坂という名前は、球場の名残りを残そうということで命名されたそうです。早稲田電停は、現在の新目白通りが拡幅されるまでは家並みに囲まれた専用軌道上にありました。新目白通りの道路拡幅時に沿線の家屋が移転し、都電の線路も線路が道路中央に位置するように移設され、現在のような位置になりました。新目白通りの高戸橋方面に向かう車道がかつての線路跡です。



都電荒川線は東急世田谷線と共に、都内に残された最後の路面電車です。明治通り上の王子駅前〜飛鳥山間は併用軌道となっていますが、それ以外の区間は専用軌道、もしくは道路中央の区分された空間に軌道を敷設するセンターリザベーション方式が採用されているため、戦後の高度成長期に交通渋滞の原因として廃止された他の都電と異なり、現在でも唯一存続しています。車両は新旧様々な型式が使われていますが、最近は現代風のカラフルな外観の車体が目立ちます。



都電の面影橋電停の手前に都心のオアシス的存在の甘泉園公園があります。元々は徳川御三卿のひとつであった清水家の下屋敷があったところですが、屋敷に回遊式の大名庭園があり、そこから湧き出ていた湧水がお茶に適して評判になったことから「甘泉園」と呼ばれるようになりました。明治時代には相馬子爵家の邸宅になりましたが、昭和十三年に早稲田大学の施設となり、戦後は東京都に売却されて都立公園となりましたが、昭和四十四年(1969年)に新宿区の管轄となりました。甘泉園の名前の由来となった湧き水は既に枯れていますが、現在は大名屋敷の回遊式庭園の面影を残した日本庭園を主体とした公園になっています。冬になると雪吊した樹木が風情を添えます。甘泉園の由緒を記した石碑が水稲荷神社の社務所の脇にあったんですか?よく案内板を読んでおけば見落とさなかったのですが。

甘泉園案内

甘泉園という名は、園内に湧き水があり、清川で常時涸れず、また、茶に適したところから起ったものであり、その由来を書きしるした石碑が、園の南東に当たる水稲荷神社の社務所脇に現存している。この地は、江戸中期の安永三年(1774年)徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷がおかれたところである。明治三十年ごろ、相馬家の所有となったが、昭和十三年早稲田大学に移譲された。戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えて、昭和四十四年、区へ移管した。庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツジ・秋の紅葉が水面に写り、美事な景観を創りだしている。「日本の歴史公園100選」にも選定された。




園内案内図を見ますと、公園の中央に「山吹の井」という瓢箪型の池があり、その池の南は急峻な崖に多くの樹木が樹生しています。



瓢箪池は、上池と下池に分かれています。上池には中之島があり、両岸と通路で繋がっています。こういった形式の池泉回遊式日本庭園は各地で見られます。6月ということもあるのですが、池の周囲の樹木は緑一色です。秋の紅葉も見事でしょうね。



高田富士を見ようと、甘泉園公園に隣接している水稲荷神社に向かいます。神社の参道脇の門柱につながれたヤギさんがいます。食べ物を探しているのでしょうか?おやぁ、自慢の角に何かが刺さっています。よく見ますと、テニスのボールのようです。角で突かれて怪我をさせないためでしょうか?いいアイデアといえば、それはそうなのですけど。



水稲荷神社は、平将門を討ったことでも知られる鎮守府将軍俵藤太秀郷(藤原秀郷)が「富塚」の古墳の上に倉稲魂大神(稲荷大神)を勧請し、天慶四年(941年)に創建されました。「富塚稲荷」とか「将軍稲荷」と呼ばれ、信仰を集めました。元禄十五年(1702年)、神木の椋(むく)の木の根元から霊水が湧き出し、眼病に利くとして評判になりました。また、火難退散の神託が下ったことで、「水稲荷神社」と称するようになりました。霊水が湧き出した大椋は昭和二十年(1945年)に戦災によって焼失しましたが、根元は残存して現在も大切に保存されています。消防や水商売など”水”に関わる仕事関係者から篤い崇敬を集めています。また、境内社の高木神社と北野神社は学業に御利益があるとされ、早稲田大学受験生の人気が高いそうです。石造りの鳥居を抜けて境内に進みます。



鳥居の先に大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀った小さな祠があります。大国主命は産業の神様ですが、転じて身体健全や金銀融通の神様としても知られています。また、大国主命は「因幡の白兎」の寓話でも知られています。

いなばのしろうさぎ

出雲の国に大黒さまという神様がいらっしゃいました。その神様には大勢の兄弟がいて、その中でも一番心の優しい神様でした。兄弟の神様たちは因幡の国に八上比売(やかみひめ)という美しい姫がいるという噂を聞き、みんなで会いに行こうと決めました。大黒さまは兄弟達の家来のように大きな袋を背負わされ、一番後からついていくことになりました。兄弟たちが因幡の国の気多の岬を通りかかった時、体の皮を剥かれて泣いている一匹の兎を見つけました。兄弟たちはその兎に意地悪をして、「海水を浴びて風に当たりなさい」と嘘をつきました。そのうさぎは騙されていることも知らず、言われるがまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。そうしていると海水が乾いて傷がもっと酷くヒリヒリと痛み出しました。前よりも苦しくなって泣いている兎のところに後からついてきた大黒さまが通りかかりました。大黒さまはその兎を見て、どうして泣いているのか訳を訊きました。そのうさぎは言いました。「私は隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと思って、泳がないで渡る方法を考えていました。するとそこに鮫が来たので、私は彼らを利用しようと考えました。わたしは鮫に自分の仲間とどちらが多いか比べっこしようと話を持ちかけました。鮫たちは私の言う通りに背中を並べ始めました。私は数を数えるふりをしながら、向こうの岸まで渡って行きました。しかし、もう少しというところで私はうまく騙せたことが嬉しくなり、つい騙したことを言ってしまい鮫を怒らせてしまいました。その仕返しに私は鮫に皮を剥かれてしまったのです。それから、私が痛くて泣いていると、先ほどここを通られた神様たちが私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よりもっと痛くなったのです。」。大黒さまはそれを聞いてそのうさぎに「可哀想に、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(がま)の花を摘んできてその上に寝転びなさい」と言いました。そう言われた兎は、今度は川に浸かり、集めた蒲の花の上に静かに寝転びました。すると兎の体から毛が生えはじめ、すっかり元の白兎に戻りました。そのあと、随分遅れて大黒さまは因幡の国に着かれましたが、八上比売が求められたのは、大黒さまでした。




境内の奥に小ぶりな松の木が植わっています。その前に、太田道灌が馬を繋いだ松の木という案内板が立っています。「山吹の里」の伝説で、農家で簔を借りる際に太田道灌が馬を繋いだという松の木です。ただし、当時の松の木が500年の樹齢を経て残っている訳ではなく、現在の木は三代目とのことです。「山吹の里」には次のような伝説が伝わっています。

太田道灌と山吹の里

あるとき、鷹狩に出た太田道灌がにわか雨に遭いました。立ち寄った農家の娘に蓑を貸してくれるよう乞うたところ、娘は「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)ひとつだに なきぞ悲しき」という和歌と共に、山吹の一枝を渡したのみで蓑を貸しませんでした。道灌はその意図が分からず怒ったのですが、後に娘が古歌に自分の想いを託したと知り、己の無知を恥じ、その後和歌を学び大成したということです。


なお、「山吹の里」の伝説に関する史跡は、都内各地に複数存在しています。

太田道灌 駒繁松

山吹の里は此辺一帯を云う名です。




駒繁松の近くに、「聴松亭」という茶室跡があります。聴松亭は清水徳川家の遺構で、遷座の際に甘泉園より移築されました。鬱蒼とした木立に中に建っていますので、夏の季節、お茶を頂く時に蚊が現れなければいいのですが。



お目当ての高田富士を探します。高田富士は、安永九年(1780年)、富士講先達の日行青山(高田藤四郎:富士山に34回も登ったといわれています)が築いた塚で、高田富士は江戸最古の富士塚とのことです。元々は、現在の早稲田大学の構内にありましたが、昭和三十八年に早稲田大学の拡張に伴って水稲荷神社とともに甘泉園公園横に移設されました。江戸八富士(品川神社の品川富士【品川区】・鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士【渋谷区】・小野照崎神社の下谷坂本富士【台東区】・茅原浅間神社の江古田富士【練馬区】・富士神社の十条冨士【北区】・富士浅間神社の高松富士【豊島区】・護国寺の音羽富士【豊島区】、それに水稲荷神社の高田富士【新宿区】)のひとつに数えられています。高田富士は、海の日(7月第三月曜日)とその前日の日曜日の2日間だけ開山され、一般の登拝が許されています。とのことで、今日は6月の13日、登拝はおろか、どこに高田富士があるのかも分からず、徘徊の末に探すのを諦めました。水稲荷神社の本殿は立派な造りになっていますね。由緒書きには次のように書かれています。

水稲荷神社の御由緒

水稲荷神社は、天慶四年(941年)現在の早稲田大学の構内に建立されました。元禄十五年(1702年)「大椋」の下に霊水が湧きだし、眼病に効能があると江戸市中で大評判となりました。また、「我を信仰するものには火難を免れしむべし」とのご信託により、消防関係者・水商売の参詣が多くありました。昭和三十八年(1963年)、早稲田大学との土地交換により、当時の大学構内より現在地に御遷座されました。神社には七つの御末社がございます。これらの御末社にも大隈重信侯の御信奉は大変厚く、日々礼拝しておられたそうてす。その御縁があってか、早稲田大学のみならず、入学御祈願の霊験が顕著と評判です。




境内の神輿庫には立派な宮神輿が鎮座しています。随分と大きな神輿ですね。

水稲荷神社の宮神輿

現存の宮神輿は大正十一年(1922年)の例大祭で初めて氏子中と巡幸しました。以降、現在に至るまで三年ごとの大祭には、町中を神輿が練り歩きます。建立当時の氏子中に早稲田大学創立者大隈重信侯がおられました。重信侯は本神社に日々礼拝されるなど信仰が厚く、神社の社務所を建てる為に多大な寄付をされました。このご寄付により、社務所のみならず、大正の神輿工芸の粹を極めたとても美しい宮神輿の建立が叶いました。




後で知ったのですが、水稲荷神社には堀部安兵衛之碑と堀部武庸加功之遺跡碑があるそうです。どこにあったのでしょうか?堀部安兵衛は、元禄七年(1694年)2月11日、市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で桝酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒しました。この果し合いの場所は現在の西北診療所の辺りと云われています。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材ともなりました。安兵衛は浅野内匠頭の切腹後、終始仇討ち推進派として活躍します。元禄十五年に吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、明治四十三年(1910年)に安兵衛の石碑が旧高田馬場・現在の茶屋町通りの一隅に建立されました。その後、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の敷地内に移設されました。

水稲荷神社を出て路地を進みますと、角地に「地蔵横町」という標識が立っています。マップには記載されていたのですが、「源兵衛子育地蔵尊」が早稲田通り沿いにあるのを見落としてしまいました。小泉源兵衛は豊臣家代々の家臣で、大坂夏の陣の後の元和元年(1615年)に鈴木喜右衛門・関口新・醍醐兵左衛門と共に江戸に逃れ、当時荒地だったこの地を開墾して隠れ住み、源兵衛村を作りました。その後、源兵衛ら4名は力を合わせて鉄砲玉を作り、火薬の番をしながら荒地を開拓していきました。享保十一年(1726年)に小泉源兵衛が亡くなると、その功績を記念するために地元の人々が子育地蔵を安置しました。この地蔵が「源兵衛子育地蔵尊」として残っているのです。今でも西早稲田商店会が法要を行っているそうです。子育地蔵尊には、子宝・安産・病気治癒・商売繁盛・交通安全などたくさんのご利益があるとされています。

地蔵横町(Jizo-yokocho)

この地に住んだ小泉源兵衛の功績を記念し、亨保の時代に源兵衛地蔵が安置された。




地下鉄副都心線の西早稲田駅の西側に諏訪神社が鎮座しています。諏訪神社は、弘仁年間(810年〜824年)の創建と伝えられ、当初は松原神社と命名されましたが、徳川義直により諏訪神社と改名されました。かっては付近一帯が諏訪神社に因んで諏訪町と呼ばれていましたが、住居表示によって町名が変更になり、現在では地名としては消滅しました。しかし、諏訪通りや諏訪町交差点などにその名を残しています。

東京市淀橋區諏訪町鎮座 諏訪神社 由緒

鎮座ノ儀ハ、弘仁年中、従三位左大弁小野篁(たかむら)朝臣、祭祀ト言。承和年中、眞雅僧正再営ト言。永承年中、源頼義父子奥羽征伐ノ時、祈願有テ凱陣ノ節、武器ヲ収ム。人皇八十二代後鳥羽院御(佇)。文治五年春、源二位頼朝郷奥州発向ノ時、祈願有テ凱陣ノ後、社殿造営ス。應仁三年春、太田持資再営ト言。寛永年中、将軍家光公再営ス。明和年中、将軍家治公鷹狩ノ節御成有。之當社ノ神ヲ御城庭ニ遷座ノ上意ニ付紅葉山吹上?御庭遷祭ス。天保十二年、松平出羽守ノ依頼ニ因テ赤坂邸内ニ遷祭ス。明治十五年、諏訪森近衛射的場出来、同年十一月、射的砲術天覧トシテ、明治天皇御幸ノ節、當社ヘ神酒鴨ヲ被献。明治四十年、當社修繕ノ際、近衛各聯隊ヨリ金品ヲ寄附セラル。同年五月??供?神社ニ列セラル。




今日は6月13日ですが、境内には茅の輪が置かれています。「祓(はらえ・はらい)」は日本の神道儀式のひとつで、特に6月と12月の晦日、つまり新暦6月30日と12月31日に行われ、天下万民の罪穢を祓う儀式を大祓といいます。「夏越の祓(なごしのはらえ)」では多くの神社で「茅の輪潜り」が行われます。参道の鳥居などの結界内に注連縄を張り、茅(ちがや)で編んだ直径数mほどの輪を建て、ここを正面から最初に左回り、次に右回りと8の字を描いて計3回潜ることで半年間に溜まった病と穢れを落とし、残りの半年を無事に過ごせることを願うという儀式です。



境内の隅に明治天皇が大砲の射撃演習を視察された際に使われた建物の跡が残っています。その入口手前には案内板が立っています。

明治天皇射的砲術天覧所阯

明治十五年、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来ました時、明治天皇の行幸があり、当社境内よりその射撃演習を御覧になられました。その折、畏くも天皇より神酒・鴨を賜り、氏子の歓喜・感激は大変なものでした。その後、御社殿の屋根には菊の御紋を付ける様になり、又射的場にみえられる各宮殿下には、皆当社の社務所に御休息遊ばされました。只今拝殿に掲げてある神号額も小松宮彰仁親王殿下の御真筆であります。昭和十八年には当天覧所阯は東京都より行幸史跡に指定されました。




案内板に添えられた写真にある告知板は石碑の横に立っていて、同様の経緯が記されています。射的場の開場式と砲術演習の2回、諏訪神社に来訪されたみたいですね。

聖蹟 明治天皇射的砲術天覧所趾

明治十五年十一月九日、近衛射的場開場式ニ臨御。同十五年十一月二十九日射的砲術ヲ天覧アラセラレタ所ナリ。




境内には、大きな石碑も建っています。「塞の神(さえのかみ)」とは、村や部落の境にあって,外から侵入する邪悪なものを防ぐ砦の役割を果す神のことです。「塞」には、「ふさぐ」とか「さえぎる」とかの意味があります。

新宿区登録有形民俗文化財
塞神三柱の塔

天和二年(1682年)に造立された舟形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側には「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれている。また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立された。諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、大変貴重である。




境内には立派な神輿庫が建っています。校倉造(あぜくらづくり)は、古代から近世にかけての日本で建てられた、伝統的な倉庫の建築様式です。主に寺院や神社において、宝物や経典などを納める倉庫に用いられてきました。高床式で、校木(あぜぎ)と呼ばれる木材を井桁に組んで積み上げた外壁が特徴です。この様式をコンクリートで実現するのは極めて珍しいとのことです。

校倉造り 神輿庫

校倉とは、奈良時代に神社佛閣が宝蔵として盛んに作った純日本的高床式の倉庫です。現存する有名なものに正倉院があり、二月堂・手向山八幡・唐招提寺などの校倉も現存しています。然し、これらの校倉はすべて木造で、これをコンクリートで作ることは技術的にも様式的にもむずかしく、知る限りではまだ一棟も完全なものがありません。当社では今回数少ない専門的技術人を得て、ここにコンクリートによる完全な校倉造りの大神輿の倉庫を建造しました。大変珍しく、貴重な建物ですから大切に保存して下さい。




神社には夫婦銀杏の木がありますが、諏訪神社には夫婦楠(相生楠)というご神木があります。ちなみに、諏訪神社のあるこのあたりの諏訪の森は「恋の森」と呼ばれていたみたいです。歌人の在原業平夫婦がお互いに道に迷い、このあたりで寝て、夜明けを迎えるとお互いが近くにおり再会したのがこの諏訪神社だったとの伝承があるそうです。そのいわれにより夫婦楠と名付けられたのかもしれませんね。



諏訪神社の隣に玄國寺があります。境内にはシダレザクラの巨木が天を突いています。今は6月ということもあって完全な葉桜になっていますが、桜が満開の頃にまた訪れたいものです。



民家の横に派手なガチャが置いてあります。普通のガチャは百円玉で遊べますが、このガチャは千円札専用だそうです。そのためか、箱の中身は高級雑貨やブランド品、家電・ゲーム機などの高額商品が入っているとのことです。千円で高額な品物が出てくればいいのですけど、幼児向けの玩具が出てきたら困っちゃいますよね。ちなみに、高額商品が当たる確率は1/300なんだとか。



歩道脇に付近の名所案内板が立っています。

住居表示街区案内(AREA GUIDE)

諏訪神社(Suwa Shrine)

信州の諏訪の神を勧請した神社で、もと戸塚村・大久保村・百人町の鎮守であった。数多くの絵馬が奉納されており、往年の諏訪神社の光景を描いたものや、奉納された時代や土地の特色をよく示したものもあり、貴重な史料となっている。

学習院旧正門(Old Gate of Gakushuin)

この門は明治十年神田錦町の学習院正門として建てられた鋳鉄製のもので、昭和二十四年現在地に移された。埼玉県川口市で製作されたと伝えられ、意匠は和洋折衷で堂々とした風格をもっており、国の重要文化財となっている。

玄國寺(Genkokuji Temple)

この寺の庫裡は、皇居馬場先門外にあった岩倉具視邸の一部を移築したもので、同家の紋章が多く配されている。また、唐破風付きの笠をともなった庚申塔があり、三猿が表現されている。




諏訪通りを進み、大久保スポーツプラザ入口交差点で右折して高田馬場駅に向かいます。日本児童教育専門学校の壁に、志賀直哉旧居跡の案内板が掲げられています。

志賀直哉旧居跡

文豪志賀直哉(明治十六年二月二十日〜昭和四十六年十月二十一日【1883年〜1971年】)は、その生涯において転居二十数回に及んだが、その居住した場所場所に材をとった名作を発表している。氏は、昭和十三年(1938年)四月より昭和十五年(1940年)五月までの二年余、この地(当時、淀橋区諏訪町)に夫人並びに六人の子女と共に居住した。氏はこの地において大作「志賀直哉全集」(全九巻)を完結発表した他、「病中夢」「泉鏡花の憶ひ出」等の名作を次々と発表した。なお五月、当地より世田谷区新町に転居し創作活動を続けた。




高田馬場駅に着きました。高田馬場駅はJR山手線と西武新宿線、それに東京メトロ東西線が乗り入れています。



ということで、新宿区の「Eアカデミックなまちで昭和レトロと自然を堪能」を歩き終えました。距離は大したことはなかったのですが、早稲田大学を始め見所が多々ありました。見落としたところもありますが、またの機会に再訪したいと思います。




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