F自然豊かで芸術の香りが漂う落合を訪ねる  

コース 踏破記  

今日は新宿区の「F自然豊かで芸術の香りが漂う落合を訪ねる」を歩きます。西武新宿線下落合駅をスタート・ゴール地点として、東長谷寺の牡丹(花の時期は過ぎていましたが)を愛で、秘境と呼ばれるおとめ山公園を散策し、中村彝と佐伯祐三のアトリエに立ち寄って近代絵画を鑑賞します。  

「F自然豊かで芸術の香りが漂う落合を訪ねる」の歩行距離は約4.0km(約5,700歩)、歩行時間は61分、消費カロリーは約183kcalです。

スタート地点:西武新宿線下落合駅【北口】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
@薬王院(東長谷寺)
鎌倉時代に開山された寺院です。牡丹の名所として知られ、見頃には美しく雅やかな光景を見せてくれます。
↓ (約0.5km:約 8.0分)
Aおとめ山公園
秘境と呼ばれるほど自然林が残り、野鳥や昆虫が観察できます。夏にはホタル鑑賞の夕べが開かれます。(*閉園時間あり)
↓ (約1.0km:約15.0分)
B中村彝アトリエ記念館
重要文化財「エロシェンコ氏の像」など数々の名画を残した中村彝の記念館。館内も外の景色もアートな雰囲気です。
↓ (約1.1km:約17.0分)
C佐伯祐三アトリエ記念館
パリの風景を独特の画風で描き、日本でも指折りの人気がある佐伯祐三。彼のアトリエを整備・公開している記念館です。
↓ (約1.0km:約15.0分)
ゴール地点:西武新宿線下落合駅【南口】


スタート地点の西武新宿線下落合駅北口から歩き始めます。



妙正寺川に架かる落合橋を渡ります。護岸はコンクリートで固められ、両側には住宅やビルが迫っています。この辺りの地名は上落合・中落合・下落合で、「落合斎場」とか「落合駅」などに落合の名前が残っています。妙正寺川は、かって下落合駅の東側で流路を南に変え、神田川と合流していました。しかし、大雨の度にこの合流地点で川の水が氾濫したため、高田馬場分水路の建設に合わせて流路を変更し、辰巳橋の下で神田川高田馬場分水路に合流するよう流路改築が行われました。「落合」の地名は、妙正寺川と神田川のふたつの川が、かつて合流していた地点ということに由来します。



新目白通り沿いに進み、辰巳橋の付近で左折して路地に入ります。直ぐ先の突き当たりに、新緑に包まれた山寺のような薬王院があります。牡丹の名所として知られる薬王院は鎌倉時代に開山され、別称は東長谷寺です。



昭和四十一年(1966年)に本山の奈良・長谷寺から牡丹の株を100株ほど譲り受けて境内に植えたことで、牡丹寺とも呼ばれるようになりました。その後、牡丹は40種・千株にまで増え、見頃を迎える4月中旬から下旬にかけては、都心とは思えない美しく雅やかな光景を見せてくれます。残念ながら牡丹の花期は既に終わっていて、植物オンチの私にはどれが牡丹の葉なのか区別がつきません。ネットの写真によると、本堂脇の石段に沿って牡丹が植えられているみたいなんですが。



薬王院には、この他にしだれ桜やツバキの木も植えられており、季節を問わず花を楽しめる寺院となっています。



薬王院に隣接して下落合野鳥の森公園があります。下落合野鳥の森公園には、高く生い茂った樹木の森に水流や池があり、昔ながらの豊かな自然を保っています。四季折々に表情を変える沢山の木々は「みどりの新宿30選」にも指定され、春には新緑に溢れ、晩秋にはモミジやケヤキやコナラなどの色づいた葉が池に舞い落ち、紅葉が楽しめます。野鳥も集いますので、新宿の街中の喧噪から離れて自然の移ろいを感じられます。



野鳥の森公園の先で左に折れますと、長くうねった坂があります。大して角度はないのですが、確かに道筋が曲がっています。いくら戦の最中でも、「敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせた」って、そんなに簡単に道が造れるものですかね?

七曲坂

折れ曲がった坂であることからこの名がついた(「江戸名所図会」)。古くは源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(「遊歴雑記」)。




民家の角地に古びた庚申塔が置かれています。年号らしき文字も見えますが、どうにも判別できません。恐らく江戸時代のものと思われますが、置かれた場所から推察して、どこか別のところから移されてきたようです。毎日お水を取り替えているのでしょうか、お掃除が行き届いていますね。



おとめ山公園にやって来ました。私は初めて訪れたのですが、野鳥の森公園と負けず劣らず緑溢れる公園です。でも、「閉鎖中」との張り紙が見えます。おとめ山公園は今日のコースのハイライトのひとつですから、ここを外してはコースが成り立ちません。困ったな。。。と思いながら横のプレートを見ますと、「入口30m先」と書いてあります。「閉鎖中」とあるのは、この鉄柵の門扉のことを言っているみたいです。案内の通りに左側に行ってみますと、開けた入口があります。ヤレヤレ、人騒がせな。ちなみに、「おとめ山」は、「乙女山」の意味ではなく、将軍家の狩猟場であった「御留山(立ち入り禁止の場所)」に由来しています。



入口を入った先は普通の公園っぽい感じですが、右手の方を見ますと自然の森そのものです。平地ではなく、谷もありますね。



おとめ山公園は落合崖線に残された斜面を活かして造成されています。昔は斜面一面に芝が張られていたそうです。

芝斜面

この写真は、大正初期から昭和初期にかけてこの辺りを所有していた相馬家(かつての相馬中村藩主)の庭園の様子です。邸宅前の南向き斜面には一面に芝を張り、点々と松を植栽しています。おとめ山公園の整備に際して、落合の歴史的景観の再生を図るため、相馬邸時代の面影が感じられる芝斜面の姿を再現しています。




谷底には池もあります。雨上がりの水たまりのようにも見えますが。



池だけではなく、小川も流れています。小川の流れや園路の位置は現在もそれほど変わっていないとのことです。

相馬邸だった頃のおとめ山公園

おとめ山公園を含む一帯は、大正初期から昭和初期にかけて相馬中村藩主だった相馬家が所有し、邸宅や庭園を構えていました。この写真はその当時の庭園の様子です。現在の風景と比べると、流れや園路の位置は当時とそれほど変わっていないことがわかります。




公園の管理事務所の向かいにホタル舍があります。昼間なので蛍は見えませんが、案内板には蛍の特性について解説してあります。ここで飼育されているのはヘイケボタルですが、一般的にはゲンジボタルの方が知られていますよね。ヘイケボタルはゲンジボタルよりも体が小さくて光も弱いことから、源平合戦で源氏に負けた平家の名がつけられたという説があります。また、ゲンジボタルは日本固有種ですが、ヘイケボタルは朝鮮半島や中国北部にも生息しています。ゲンジボタルは5月から7月頃に見られるのに対し、ヘイケボタルはそれよりも遅い7月から8月にかけて見られます。ちなみに、ゲンジボタルの名前の由来については諸説ありますが、「蛍が光る」と「源氏物語の光源氏」を掛けたとする説が面白いです。

ヘイケボタルについて

ヘイケボタルは日本のほか、千島・朝鮮・中国地方・東シベリヤ地方に住み、成虫は7〜11ミリメートルで、オス・メス共に光を発します。水辺の苔や、くさむらに卵を生み20日〜25日位でふ化し、幼虫は水深15cm〜20cmの清流にほとんど1年中住み巻貝のカワニナやモノアラガイを食べ成虫になる。成虫になる15日〜25日前から水中から周辺の土にもぐって蛹となり、20日〜25日後にカラを破つて空中に舞います。成虫は口はあっても物を食べず、水だけで約2週間生きています。ヘイケボタル発生時期は6月〜9月で、場所・水温などにより異ります。このおとめ山公園のヘイケボタルは7月下旬から9月上旬まで発生いたします。発光器についてはオスは第5節全部と第6節上部で、メスは第5節全部で光り、1分間に70〜80回位明るくなったり、暗くなったりします。ヘイケボタルはゲンジボタルと比較して体は小さく、光も弱く、飛びかうのはほとんどオスで、メスは水辺の草地にいます。ヘイケボタルの飼育はゲンジボタルに比べて容易です。




ホタル舍の近くに、江戸時代の蛍狩りを描いた浮世絵が添えられた案内板が立っています。蛍狩りは今の若い人には経験はないと思いますが、団扇や手で追うものではなく、手の平を差し出していると自然に蛍が寄ってくるのです。家に持ち帰っても明かりの下では蛍の光はかき消されるので、夜の闇の中で手の平の蛍の光を眺めるのが一番です。勿論、眺めた後は蛍を開放しないといけません。

おとめ山公園とホタル

おとめ山公園周辺は、かつてはホタル狩りの名所として知られていました。江戸名所図会の「落合蛍」には江戸時代のホタル狩りの様子が描かれています。うちわを使う者、長い竹竿を振り廻す子、手のひらで追う者が見えます。この図会は、東山藤稲荷か、おとめ山付近を描いたものと思われます。また、江戸自慢三十六興の「落合ほたる」からもホタルを楽しんでいた当時の様子がうかがい知れます。このように、かつて、この地がホタルの名所であったことから、新宿区では、昭和四十八年からこの公園でホタルの飼育を始め、昭和五十三年からは毎年ホタル観賞会を開きました。その後、平成十三年に地元の「落合蛍を育てる会」の方々に引継ぎ、現在は地域の方々の手によって活動が続けられています。




おとめ山通りに面した出口に、おとめ山公園の沿革を記した案内板が立っています。

新宿区立おとめ山公園の沿革

江戸時代には、このあたり一帯をおとめ山と呼んでいました。この名は、将軍家の狩猟地で、立ち入り禁止の意味の御留山から起こったものと言われています。明治に入り、御留山の周辺は近衛家の所有になりましたが、大正初期に現在のおとめ山公園を含む西側半分を相馬家が取得し住まいとしました。相馬家は敷地内に長岡安平の手による池泉を中心とした回遊式庭園を築造し、現在その一部が公園に残っています。その後、敷地は分譲され、戦後は大蔵省が所有していましたが、荒れ果てていたものを、地元の人々が大蔵省に陳情して、公園として整備されることになり、昭和四十四年に新宿区立おとめ山公園(面積約1.5ha)として開園しました。その後、区は公園のみどりや湧水の保全拡充を図るとともに、あわせて、地域のレクリエーションの場や防災拠点を創出するため、隣接地を取得して公園を拡張することとしました。そして、平成二十六年10月、拡張整備が完了し、面積約2.7haの現在の公園になりました。




出口といっても、おとめ山公園はおとめ山通りで東西に分断されていますので、通りの反対側にも公園の入口があります。



東側の公園の北側には「谷戸のもり」が広がっています。「谷戸のもり」は、かつてこの地にあった谷戸地形と雑木林の再生を目指したという意図で名付けられました。東側の公園の中央には、「下の池(弁天池)」があります。西側の公園部分に「上の池」と「中の池」がありますので、「下の池」という名前になったのです。「弁天池」と別称されていますが、日本各地に存在する弁天池には、通常弁才天が祀られています。岸辺に四阿(東屋:あずまや【眺望や休憩などの目的で庭園などに設置される簡素な建屋。「四阿」の「阿」は棟の意味で、四方に軒を下ろした寄棟・宝形造などの屋根を持つ建造物を意味します】)はありますが、弁天様はどこにもおわしません。何かいわれがあるのでしょうか?



おとめ山公園を出て住宅地の中を進みます。南欧に迷い込んだかのように、突出した感じでスパニッシュスタイルの建物が建っています。この建物は、元々は昭和三年(1928年)に開設された学習院旧制高等科の男子生徒用に建てられた寄宿舎の「旧学習院昭和寮」です。英国の名門「イートン校」の寄宿舎を模範にしたとされています。現在は「日立目白クラブ」という名称で、日立グループの社員と家族向けの福利厚生施設・クラブハウスとして、懇親会や結婚式の披露宴などに利用されています。ちなみに、本館および別館は東京都選定歴史的建造物や東京都の歴史的重要建築物「未来に残したい100の建物」に選定されています。



とあるマンションの前の道路の真ん中に欅の大木が聳えています。欅の周辺の道路はロータリー状に大きく広がり、何が何でも欅を保存するのだという心意気が伝わってきます。おとめ山公園の案内板にも書いてありましたが、この辺り一帯はかって近衛家の敷地だったんですね。先ほど見た日立目白クラブの敷地も、元々は近衛家が学習院に譲渡したのです。

地域文化財 旧近衛邸のケヤキ

樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。




このコースの見所にもなっている「芸術の香りが漂う落合」のひとつは、中村彝(つね)アトリエ記念館です。中村彝は大正時代に活躍した洋画家で、大正五年(1916年)、現在の新宿区下落合にアトリエを新築しました。中村彝の没後、このアトリエは彼の元に集まった画友らを中心とした中村彝画室保存会により保全され、やがて洋画家の鈴木誠(1897年〜1969年)の所有になり、今日まで保存されてきました。この記念館は、後年増改築された建物を建築当初の姿に復元したものです。当時の部材も数多く活かして復元されたアトリエはこの記念館の最大の財産となっています。関連展示と共に、中村彝が病魔と闘いながら制作を行ったアトリエで芸術の香りに触れることができます。



記念館は二棟から成り、復元されたアトリエには中村彝の作品が並べられています。中村彝(1887年〜1924年)は現在の茨城県水戸市金町に、旧水戸藩士の三男として生まれました。まもなく父を亡くし、11歳のとき母を亡くすと、陸軍軍人の長兄を頼って上京します。牛込や大久保に住み、早稲田中学校に入学しますが、長兄・次兄と同じく陸軍軍人を目指し、名古屋陸軍地方幼年学校に進みます。しかし、17歳のときに肺結核となり、軍人の道を断念します。療養のため訪れた北条湊(千葉県館山市)で風景を写生し、この頃から洋画家を志すようになります。白馬会や太平洋画会の研究所で学び、明治四十二年(1909年)に文展に初入選し、翌年には「海辺の村(白壁の家)」で三等賞を受賞します。明治四十四年(1911年)新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で中村屋裏のアトリエに転居しますが、絵のモデルとなった相馬家の長女俊子との恋愛を反対されて相馬家との確執が深まり、大正五年(1916年)8月に下落合にアトリエを新築します。このアトリエでは、画友鶴田吾郎と競作した「エロシヱンコ氏の像」を始め、悪化する肺結核と闘いながら制作を続けました。大正十三年(1924年)12月24日、肺結核による喀血のため37歳の若さで亡くなりました。



中村彝アトリエ記念館を出て、次の「佐伯祐三アトリエ記念館」に向かいます。道路の脇に周辺の名所を記した案内板が立っています。佐伯祐三の項に出てくる「ヴラマンク」は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末〜20世紀のフランスの画家・文筆家です。何故か、中村彝アトリエ記念館は掲載されていませんね。

せせらぎの里(Seseragi-no-sato Park)

東京都下水道局落合処理場の北側施設部分は、周辺環境を考慮し、処理施設の大部分が半地下方式となっでいる。その上部は、処理場のイメージを一新する日本庭園風の修景緑地せせらぎの里」として一般開放されている。

区立中央図書館(Chuo Library)

区立図書館の中核として昭和四十七年に開設され、蔵書数は20万冊を超える。レコード・CD・ビデオも貸出しており、名画鑑賞会やレコードコンサート・児童室での絵本・紙芝居の読み聞かせ会なども定期的に行っている。

佐伯公園(佐伯祐三アトリエ記念館)(Saeki Park)

日本のヴラマンクと呼ばれた洋画家の佐伯祐三の旧宅を区が購入し、昭和五十年に「佐伯公園」として公開した。彼は昭和二年に渡仏するまでの数年間、ここに住み、当時まだ農村だった落合の風景を何枚もかいている。

氷川神社(Hikawa Shrine)

孝昭天皇のころの創建と伝えられ、江戸時代には下落合村の鎮守であった。当時は女体の宮とも呼ばれ、豊島区高田三丁目にある氷川神社の男体の宮と合わせて、夫婦の宮といった。神社裏には青面金剛像の下に三猿を配した庚申塔(1816年造立)がある。

おとめ山公園(Otomeyama Park)

江戸時代は将軍家の狩猟地で、一般人の立ち入り禁止の山であったため、御留山と呼ばれていた。池泉を中心として自然林が繁茂し、都内では珍しいほど武蔵野の面影が残っている。園内では蛍の人工培養も行われている。

薬王院(Yakuoin Temple)

真言宗豊山派。本尊は薬師如来。境内には石造品が多く、特に中世の板碑が8点残されている。境内で各種のぼたんを栽培しているので、「ぼたん寺」とも呼ばれている。




佐伯祐三アトリエ記念館に向かおうとしますが、入り組んだ路地が多く、なかなか辿り着けません。そんな時に目印になるのが聖母病院です。中世ヨーロッパの宮殿を思わせるようなツインタワーがどこから眺めても目に入ります。



行きつ戻りつを繰り返して、ようやっと佐伯公園の奥に佇む佐伯祐三アトリエ記念館に辿り着きました。植栽に覆われた、如何にも芸術家のアトリエといった感じの洋風の建物です。建物の入口に案内板が立っています。

新宿区指定史跡 佐伯祐三アトリエの地

近代日本を代表する洋画家の一人佐伯祐三(1898年〜1928年)は、大正十年(1921年)にこの地にアトリエ付住宅を構えた。当時の下落合は、武蔵野の面影が残り、静かな創作環境や魅力ある風景を求めて、多くの画家・文化人の活動拠点となっていた。大正十二年(1923年)、家族とともにフランスに渡り、パリの街並みを数多く描いた佐伯であるが、大正十五年に健康上の理由等で帰国した。再びフランスに渡る昭和二年(1927年)までの約二年間は、パリで得た描写法を日本の風景に当てはめ、自己の画風を醸成させることに努めた。特に、三十点余りあるとされる、下落合周辺に画題を求めた連作「下落合風景」は、このアトリエで制作されたものである。この地は、佐伯が日本でアトリエを構え創作活動の拠点とした唯一の場所であり、北側の大きな採光窓等、当時の典型的なアトリエ建築を今に伝える建物が現存することから、日本近代洋画史の上でも、新宿の歴史や風土を理解する上でも重要な場所である。

Site of Saeki Yuzo's Studio
Designated Historical Site of Shinjuku City

This building was constructed in 1921 as the studio and home of Saeki Yuzo (1898-1928), one of the leading Western-style painters of Japan. At the time, this neighborhood, then called Shimoochiai, looked out upon the natural scenery of Musashino. It became the home of many artists and other creatives who sought the peace and inspiration of an attractive environment. In November 1923, Yuzo went to France with his family, where he painted many Parisian street scenes. He returned to Japan for health reasons in March 1926 and, until he left again for France in July 1927, he worked to improve the techniques he had acquired in Paris to Japanese scenery and develop his own style. A series of more than 30 paintings made in this studio, known as the Ochiai Scenes, depict the surrounding areas. This is the only place in Japan where Yuzo set up a studio and worked. With its large, north-facing window and other features, this building preserves a typical Taisho period art studio design and is thus an important piece of the history of Western-style painting in Japan. It also acts as a window to the history and former culture of Shinjuku.




簡素なドアを開けた入口横には、佐伯祐三が出迎えています。明治期の人とは思えないほどハイカラな風貌をしていますね。フランス滞在でファッションも洗練されたのでしょうか?



中村彝や佐伯祐三以外にも多くの文化人が過密化が進む都心を離れ、静かな創作環境や魅力ある風景を求めて移り住みました。木版画家の平塚運一、評論家・哲学者の阿倍能成、小説家の壺井栄や林芙美子、洋画家の安井曾太郎や松本竣介、書家の金子(鴎)亭、劇作家の船橋聖一、歌人・美術史家の會津八一などなど、馬込や田端と同様に、落合も文士村だったんですね。



落合には面白い公園があります。イカ公園とかタコ公園は見かけますが、カバ公園っていうのもあるんですね。



西坂公園の滑り台はジャングルジムのようです。



西坂公園の先に長〜〜〜い下り坂があります。西坂というのだそうです。

西坂

西坂の名は、江戸時代後期の絵図に認められる(堀江家文書「下落合村絵図」)。「豊多摩郡誌」には、「西坂、新宿道、宇本村と宇不動谷との間にあり」とある。かって坂上にあった徳川男爵邸の牡丹園は、盛時に一般公開され、落合の名所の一つになっていた。




下落合駅前交差点から再び落合橋を渡って下落合駅に戻ってきました。ゴール地点は何故か踏切を渡った南口になっています。



ということで、新宿区の七番目のコース「自然豊かで芸術の香りが漂う落合を訪ねる」を歩き終えました。前半の都心に残る武蔵野の雑木林、後半のアトリエ巡りが面白かったです。




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