- G哲学堂公園から落合文士村をめぐる(1)
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「G哲学堂公園から落合文士村をめぐる」を歩きます。都営大江戸線落合南長崎駅をスタート地点として、哲学堂公園で「お散歩とは考える足である!」と着想を得、林芙美子記念館で放浪のコースを締め括ります。
「G哲学堂公園から落合文士村をめぐる」の歩行距離は約3.7km(約5,300歩)、歩行時間は57分、消費カロリーは約171kcalです。
スタート地点:都営大江戸線落合南長崎駅出入口A1
↓ (約0.3km:約 5.0分)
- @自性院
- 太田道灌が、黒猫に招き入れられ命びろいしたという伝承から、招き猫の発祥地とも言われています。
↓ (約0.8km:約12.0分)
- A哲学堂公園
- 哲学者・井上円了が明治三十七年に開設。77場の哲学に由来するユニークな名前の建物や石造物などが点在。(*閉園時間あり)
↓ (約1.8km:約27.0分)
- B目白学園遺跡
- 学園構内の佐藤重遠記念館内に、付近で発掘調査が行われた落合遺跡の出土品を展示。
↓ (約0.5km:約 8.0分)
- C林芙美子記念館
- 「放浪記」で知られる林芙美子が晩年を過ごした、飾らない佇まいの家。四季折々に美しい庭も必見。(*有料)
↓ (約0.3km:約 5.0分)
ゴール地点:西武新宿線中井駅北口
スタート地点の都営大江戸線落合南長崎駅出入口A1から歩き始めます。落合南長崎駅は新宿区最西端かつ最北端の駅で、新宿区と豊島区の境界線付近に位置しており、新宿区側の地名が「西落合」、豊島区側の地名が「南長崎」であることから、「落合南長崎駅」と命名されました。同じく都営大江戸線の「若松河田駅」と駅名の付け方が似てますね。
落合南長崎駅は西落合一丁目交差点の地下に位置していますが、この交差点は道路行政上なかなかに重要です。文京区の江戸川橋交差点が起点となっている新目白通りは、西落合一丁目交差点が終点となっています。また、新青梅街道は西落合一丁目交差点が起点となり、西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎の瑞穂松原交差点まで延びています。更に、東方向から入ってきた目白通りは西落合一丁目交差点で北方向に向きを変えています。つまり、交差点を中心にして東西南北に幹線道路が繋がっているのです。交差点の脇に近在の名所を紹介した新宿区の住居表示案内板が立っています。今日のコースのハイライトである林芙美子記念館もありますね。
林芙美子記念館
The memorial Museum of Fumiko Hayashi
「放浪記」の代表作で知られる林芙美子が、自ら京都や深川へ足を運ぶほど情熱を傾け、昭和十六年に建築した上方風平屋造りの家である。芙美子は昭和二十六年に亡くなるまでここで執筆活動を続け、「うず潮」・「浮雲」などの作品を残した。
中井出世不動尊
Statue of Nakai-shusse-fudoson
円空の作である本尊の不動明王像と、こんから・せいたかの二童子の三体(いずれも区指定文化財)があり、毎月二十八日の縁日に公開される。もとは中井御霊神社にあったが、明治の神仏分離により、現在地に移ったもの。
自性院
Jisyoin Temple
二体の猫面地蔵があることから、通称「猫地蔵」として親しまれている。参道入口には、福徳という私年号を用いた珍しい板碑(区指定文化財)がある。節分のまめまきでは、七福神の行列が街を練り歩くので有名。
落合遺跡(目白学園遺跡)
The Relics of Ochiai
昭和二十五年に目白学園の校庭から、弥生時代の住居跡が発見され、その後の調査で付近一帯から、縄文・弥生・奈良時代の住居や土器などが見つかり、「落合遺跡」と名づけられた。目白学園では、縄文時代の堅穴式住居を復元し、遺跡資料室とともに、一般開放している。
葛ヶ谷御霊神社
Kuzugaya-goryo Shrine
旧葛ヶ谷村(現在の西落合地区)の鎮守社で、毎年1月13日に行われる備射祭は、区指定文化財である。明治の頃の祭りでは、村の若者が力石を持ち上げ、体力を競い合った。当時の力石(区指定文化財)が今も境内の奥にある。
区立あゆみの家
"Ayumi-no-ie" Training Institution for the Handicapped
区内に住む障害者やその家族の福祉を目的とした施設。障害者が通所し、日常生活の充実を図る生活介護事業、障害者を一定期間介護する短期入所などの事業を行っている。近隣住民などが利用できる会議室の貸出やあゆみ祭などの地域福祉活動を行っている。
西落合一丁目交差点から新青梅街道を少し進んだところに、案内板にもあった自性院があります。真新しい深紅の山門が印象的です。寺伝によりますと、弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といわれています。
自性院は、秘仏「猫地蔵」を安置し、ねこ寺として有名です。猫地蔵の縁起は、文明九年(1477年)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を作り奉納したのが起こりという話が伝えられています。また、江戸時代の明和四年(1767年)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻のために、牛込神楽坂のD屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納し、猫面地蔵と呼ばれています。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されています。節分の日の午後に行われる節分会は、七福神の扮装姿の信徒らの長い行列が町内を練り歩き、秘仏開帳と併せて参詣客で賑わいます。この猫地藏堂は平成十三年に建立されたもので、二体の猫地蔵がこの御堂に鎮座しているかどうかは確認できませんでした。
住居表示案内板には、参道の入口に「福徳」という私年号を用いた板碑が建っていると記されていましたが、見つけられませんでした。石柱の上に、猫が小判を抱えた石像が置かれています。自性院が招き猫発祥の地のひとつとも言われているからでしょうか?どうでもいいのですが、「猫に小判」という諺は、「(猫に小判を与えても、その価値を知らない猫にとっては何の意味もないことから)どんな立派なものでも、価値がわからない者にとっては、何の値打ちもないものである」という例えからきていますよね。小判の意味は、恐らく招き猫が商売繁盛や千客万来を招き、結果としてお金が貯まるということではないでしょうか?
新宿区指定有形民俗文化財 自性院の私年号板碑
「福徳元年十一月□日」の紀年銘のある阿弥陀一尊種子板碑で、ほぼ完全な形を保っている。高さは四十一センチである。「福コ」は日本の正史にはない私年号であり、室町時代の延徳二年(1490年)にあたると推定されている。室町時代後期、幕府の衰退と世相の混乱、民衆の現世利益の追及などにより、公年号と並び、私年号の使用が流行した。「福徳」の私年号を記した板碑は南関東を中心に分布しているが、区内では唯一のものである。当時の社会的風潮を表わす遺物として貴重である。
哲学堂公園は中野区と新宿区の境界に位置しています。というか、公園の東南の隅っこが新宿区に属し、残りの大半は中野区に属しています。哲学堂公園については中野区のウォーキングコースで詳しくご紹介しましたが、今日は正面口から入るコース設定です。哲学堂通りに面した入口脇に哲学堂公園の由来を記した案内板が立っています。
哲学堂公園の由来
哲学堂は、東洋大学の創立者である故井上圓了先生が国家社会の恩に報いるために、護国愛理の理想に基づき国民道徳の普及を目的として、明治三十九年以来私財を投じ、自ら堂主となって独力経営された精神修養的公園であります。園地は、先生が唱えられた実践哲学の理想を表わす多くの施設と特異な造園手法とを加えて、都下の名所として人々に親しまれてきました。大正八年六月、先生は大陸巡遊の途中大連の宿舎でなくなられましたので、嗣子故井上玄一氏は、その志を継いで本園を経営することニ十余年に及びましたが、昭和十九年三月、公益優先の趣旨に則り、この園地一切を挙げて東京都に寄付されました。東京都では、故人の遺志を尊重し管理することになり、全国にもまれな文化修養公園として公開してきました。昭和五十年四月一日、中野区は東京都から移管を受け、歴史性の深い文化財公園、又区民の緑のオアシスとして公開しております。
正面門の脇に哲学堂公園の由来を記した案内板が立っています。この門が哲学堂公園巡りのスタート地点となりますので、哲学門を通って真理界に足を踏み入れます。
哲学堂公園
哲学堂公園は、哲学館大学(現東洋大学)創始者である井上円了が、文部省より大学公称の許可を得たのを記念し四聖堂を建立(明治三十七年)したことに始まります。その後、自らの退隱所及び一般人に対する「精神修養的公園」として私費を投じて整備しました。台地部分の広い範囲は「時空岡」と称する中心広場とし、四聖堂などの主要施設を設けています。南側低地部に「唯物園」と「唯心庭」を配し、道筋には「経験坂」や「二元衢」などの思考状況を示す場所を設定しています。舌状台地先端の立地と崖、川や泉の自然地形を利用し、哲学的空間・概念を巧に配した特異な公園です。四聖堂や六賢台、宇宙館などの建物は、并上円了の哲学的思想と奇抜な意匠により、哲学堂公園の代表的な建造物となっています。井上円了の死後は財団による管理を経て、昭和十九年(1944年)に東京都へ寄付されました。昭和二十一年(1946年)に「哲学堂公園」として開園、その後中野区へ移管され、現在の「中野区立哲学堂公園」になりました。
Tetsugakudo Koen (Philosophy Hall Park)
The history of Philosophy Hall Park (Tetsugakudo Koen) started with the construction of a sanctuary called Shiseido (Philosophy Hall of Four Sages) in 1904 by a philosopher Inoue Enryo, who was the founder of Tetsugakukan University (the predecessor of Toyo University). He constructed the hall to commemorate obtaining a license for establishment of his university from the Ministry of Education. Later he created the park with his own expense to provide for public as a place for "Mental Training based on Philosophy". The most part on the terrace in this park is the main space called "Jikuko", which expresses philosophical time and space. Main facilities such as "Shiseido" are built there. In the southern lower land, philosophical spaces called "Yuibutsu-en" and "Yuishin-tei" are arranged. Along the trail, it is arranged the "Keiken-zaka" slope and "Nigenku" space that indicate philosophical thought. This is a specific park that is located at the edge of a tongue-shaped plateau, and used the natural geographical features such as cliff, river and spring with philosophical concept. "Shiseido", "Rokukemdai" and "Uchu-kan" are representative buildings in this park that Inoue's philosophical thought and original idea are well reflected on them. After his death, the park has been managed by the foundation and in 1944 it was donated to Tokyo Metropolitan Government. It opened as Philosophy Hall Park in 1946. After the jurisdiction was moved to Nakano Ward, the park was called Nakano Ward Philosophy Hall Park.
「哲学堂公園」の案内板は何カ所かに立てられていますが、この説明文は井上円了の考えをまとめたものとして分りやすいです。数学が科学を学ぶ上での基礎になるのと同じように、哲学は世の中を生きていくのに欠かせない論理的な思考を育成するのに役立つのでしょう。
哲学堂公園(国名勝)
哲学堂公園は井上円了(1858年〜1919年)が、その独特な哲学思想をもとに、全財産を投じてつくった社会教育のための公園です。円了は「諸学の基礎は哲学にあり」とし哲学堂公園を開きました。それは、様々な理由で教育を受けられない「余資なく、優暇なき者」老若男女誰でもが学べる場、すなわち「精神修養的公園」と考えました。ここで目指したのは、多様な価値観を理解し、先入観・偏見にとらわれない、論理的・体系的に深く考える人間の育成でした。その方法とは「問う」ことであり「真理の追求」だったのです。そして、このような素養に満ちた人々による、社会の実現が円了の願いでした。哲学堂公園は、現代にも通じる円了の思想を物語る歴史的遺産です。
公園内には幾つかの門がありますが、この門は妖怪門と呼ばれているのだそうです。哲学の世界もいよいよ妖怪の域に達したということなのでしょうか?
哲理門 明治四十二年(1909年)11月築
哲学堂の本堂である「四聖堂」の正面にあたる門で、「妖怪門」とも呼ばれている。門の両側には、仁王尊の代わりに左右それぞれ「幽霊」と「天狗」の木彫を納めている。木彫の写真は無尽蔵2階に展示している。また、軒瓦に使用されている(◯で囲んだ)”哲”瓦は絶対城1階に展示している。
もうひとつ、哲理門の案内板が立っています。「哲学堂七十七場4」というのは、哲学堂公園内に設けられた77場の哲学に由来するユニークな名前の建物や石造物・通路などの中の4番目の場という意味です。尚、77場名称案内板には76番と77番が見当たりませんが、無番号の「哲史塀」と「哲史蹊」が該当するみたいです。「哲史塀」は東西の哲学者を合わせた年表だったそうで、三祖苑の近くにあったのがいつの間にかなくなってしまい、資料が何も残っていないそうです。
哲学堂七十七場4 哲理門(妖怪門)
本堂の正門に当り左右の天狗と幽霊は、もと、この地に天狗松と幽霊梅があったことにちなむとともに、前者を物質界、後者を精神界に存する不可解の象徴とみなしたものである。
通常であれば門の左右には、阿形と吽形が対になった金剛力士像が置かれるのですが、哲学の世界では天狗像と幽霊像でも問題ないようです。
天狗像と幽霊像はレプリカとのことです。幽霊像はお化け屋敷に置いてもいいくらいの迫力です。
哲理門の天狗像・幽霊像について
哲理門の中に存置されていた天狗像・幽霊像は経年による破損・劣化が著しいため、平成三十年度の哲理門の修復に併せて修復及びレプリカの製作を行いました。
- オリジナルの像は修復後、劣化防止の為、歴史民俗資料館で保管しています。
- 現在存置されているものはレプリカになります。レプリカは、当時の古写真、およびオリジナルの像に残っていた塗料の分析結果を元に、創設当初の色を再現しています。
次は常識門に向います。折角真理界に入ったのに、常識を取り戻しそうです。
哲学堂七十七場6 常識門
正門の哲理門に対して普通の出入口の意味で与えられた名称である。
朱塗り・三層六角形のこの建物は、哲学堂公園のシンボル的な建物です。東洋の六賢人として、中国から道教の代表者として荘子、朱子学の創始者である朱子、印度から仏教を体系化した龍樹、バラモン教の数論哲学の開祖である迦比羅仙、日本から仏教の普及に寄与した聖徳太子、中世の学識者として菅原道真が祀られています。かつては最上階の天井の六面に六賢の肖像を描いた扇額が掛けられ、その中心の各面に六賢の名前が刻まれた小鐘が吊るされていましたが、扇額はいま無尽蔵で展示されています。その他、井上円了が全国や海外で蒐集した品物(石器・陶器)や数百種にのぼる寺社仏閣の守り札などが飾られていました(現在は、写真が展示されています)。また、屋根の中央には相輪と九つの法輪があり、最上部に宝珠を付け、屋根の棟瓦の一端には近接してあった天狗松に因んで、火伏せのための「天狗」の瓦がついています。
哲学堂七十七場17 六賢臺
ここに東洋的六賢人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っている。
哲学堂公園の中心になっている広場(時空岡)には四聖堂が建っています。
哲学堂七十七場14 四聖堂
本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの世界的四哲人を奉祀している。
四聖堂の前、広場の中心に銅のプレートを貼った井上円了の案内板が置かれています。お寺に生れたということが井上円了の哲学思想に宗教的な影響を与えたのではないかと思います。
心を養う公園
日本が世界へと開けゆく幕末に 井上円了先生は新潟県下の寺院に生れました やがて明治となり 東京大学文学部哲学科に学び 変わりゆく時代のなかで 世界・宇宙・人間を見つめる新しい心の必要を感じました その思いから明治二十年に東洋大学の起源である「哲学館」を設立して 教育によって新しい考えを創り出す人を育てようとしました さらに 全国の半数以上に及ぶそれぞれの市町村にまで身を運び 世界と心のあり方を説き続けました 全国巡回講演というこの壮大な事業における謝礼と人々の寄付のすべてを注いでこの公園を建設しました 先生は公共の利用を志し 人々の心を養う場として ここを「哲学堂」と名づけました 先生の没後八十年を記念して ここにその願いを記します
哲学が宇宙の真理を研究する学問とはまたスケールが大きいですね。どうせならロケットの形をした建物にすればよかったのに。よくよく見ると宇宙館の扉は平面でなく、尖っていますね。ふたつの「聯」それぞれに対応した扉ということでしょうか?
哲学堂七十七場71 宇宙館
哲学とは宇宙の真理を研究する学問であって、その講話または講習を開かんがために設けられた講義室である。
宇宙館入口に掲げられている聯(れん)
宇宙館は哲学上の講話や講習会を開催するための講義室です。宇宙館内の四角の室の中には横斜する一室「皇国殿」があり、世界万国の中の最も美なる日本を表現しています。
(原文)
宇宙万類中人類為最尊
世界万国内皇国為最美
(訳文)
宇宙万類の中、人類をもっとも尊しとなす
世界万国の内、皇国をもっとも美しとなす
宇宙館の脇に梅の木が植えられています。現在の木は植え替えられたもののようですが、先ほどの哲理門(妖怪門)の案内板にあった幽霊梅の跡のようです。
哲学堂七十七場70 幽靈梅(跡)
もと、井上博士が駒込に住んだ頃、庭の梅の下に幽霊が出ると騒がれたことがあり、それをここに移してあった。
万巻の書を哲学界の万象とみたて、それを読み尽くせば「絶対の妙境」に到達できるという道理を示して、図書館機能を有する建物を絶対城と名づけました。当初より円了の蔵書を中心とした書籍を公開する図書館として設置され、1階右側の書棚に国書・漢書を、左側に仏書を収蔵していましたが、現在では蔵書が他所で保管されているために図書館本来の目的は果たしていません。2階には観念脚と呼ばれる閲覧室があり、天窓からの光を受ける位置に畳が敷かれ、落ち着いた雰囲気を持つ空間となっています。また、婦人専用の閲覧室も設けられています。屋上には、読書後の休憩場所として観察境(観望台)が置かれ、かつては富士山を望遠することができたようですが、現在は一般公開されていません。
哲学堂七十七場62 絶對城(図書館)
万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する道程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。
絶対城の入口脇に、ふたりの唐子(中国風の髪形や服装をした子供)が石碑を抱えています。
哲学堂七十七場66 記念碑(きねんひ)
「絶対城」の入口脇にある記念碑は、二人の唐子が、「哲学堂図書館記」と刻まれた石板を、両側から支えている姿が愛らしい碑です。「絶対城は大正四年11月、御大典記念(大正天皇の即位礼記念)として開設したため、これを永く忘れないようにするため」に建てた、としています。
石碑には、図書館を建てた経緯について記されています。原文は難しくて、とても読み取れません。
哲学堂図書館記
大正四年十一月の国家を挙げての大典の余波が各地に広がって、その喜びに沸き立っている。哲学堂図書館もまた姿を現した。ここに初めて甫水(井上円了の雅号)井上博士が遊息の園を設けんと欲して他の場所と引き比べながら和田山を見て、その景勝を嘆じて言うには、「今、足りないものは心身を養うことであろうか。」と。そのために、築堂した。中央に、孔子・釈迦・瑣克刺底・韓図を祀る四聖堂、聖徳太子・菅公・荘子・朱子・龍樹大士・迦比羅仙を祀る六賢台、平田篤胤・林羅山・釈凝然を祀る三学亭を。篤胤は神道から選び、羅山は儒道から選び、凝然は仏道から選んだものである。その庭を唯心庭、其の園を唯物園と命名した。すべてのところに名をつけた。他人が言うところによると、哲学堂はここに至って、和漢の旧籍およそ六千七百九十二種四万一千五百八十五巻二万一千百九十三冊を所蔵する高くそびえる図書館を完成させたそうだ。降盛であると言うべきである。その道には古今の教えに変わりなく、東西の違いだけがある。博士の志は、東西の文明を合体させて拡充することにある。この道於世界のさまざまなところを見て回り既に東西の両洋に足跡を極めていて、世界のほとんどにあまねく訪れている。今なお国内を歩き回り、風を食べ屋外で寝て、このように民を導いて、まったく休息することはない。そして、標そのすばらしい活動を示すものが、哲学堂である。よって、予め併記して書き入れた。この図書館にはそんな感動が呼び起こされるれるところなのである。
広場から急な階段を下りたところに筆塚が立っています。日本橋川に架かる俎橋の先に寿人遊星という寿老人みたいな像がありましたが、筆の穂先の形が寿老人の頭の形に似てますね。
哲学堂七十七場18 筆塚
字をかきて 恥をかくのも今暫し
哲学堂の出来上るまで
哲学堂は井上圓了博士が全国巡遊中求められて各所で揮毫した際の謝礼を基金として開設されたのであるが、その謝意を含め、かつ、その筆供養のための記念碑として造られたのがこの筆塚である。
妙正寺川方向に下りる斜面の途中に階段状の小さなスペースがあり、三賢人の石碑が建っています。
哲学堂七十七場23 三祖(原文では、示部に且の漢字を使用)苑
三祖碑には、中国の黄帝、印度の足目、ギリシャのターレスの三人が刻まれている。
三祖苑のレリーフが彫られた石像には漢文で説明が記してありますが、とても読み取れません。石像の前には案内板が立っていて、三祖苑について詳しく解説されています。
多礼須(タレス)
むかし、ギリシアに七賢人があり、多礼須がその一番最初の位に居て、西暦紀元前七世紀の人である。早くから数学を究め並行して星学(天文学)を修めた。当時の神話を破り物理原則に依ることを進めて、天地の太初にさかのぼって、最終的には原初存在を水とした。世界の真、森羅万象の元、皆水より生ずと言った。これより後、諸家が輩出して甲論乙駁して遂に西洋哲学の大観(大きな学問)を成した。よって始めて開く、その取っ掛かりが、即ちタレスその人である。
足目仙人(アクシャ・パーダ)
足目はインドの昔の仙人である。その年代は不詳。或いはいう、今の宇宙の始まりに大梵天主がこの仙人を作り上げたと、或いはいう、その人とは即ち帝釈天であると、両説とも荒唐無稽で、信じることはできない。まさにこの仙人は遠く釈迦以前にあって、始めて因明(物事の正邪を見極める論理)の法を説き、九句(正邪の判断基準9種類)のおおもとを立て、十四過(論理立ての過ち14種類)の類に及ぶ。これらを論理の物差しとする。それ以来、諸学派は皆、これに従って論争の邪正の是非を判断するそうである。故に今、アクシャ・パーダを印度哲学の鼻祖にすることを推すのである。
黄帝
伝えられて言うところには、黄帝は有熊氏で名は軒轅である。霊長の神であって、聡明で、五気を察し、五運を立てる。天地の決まりごとに従順で、幽明の占めるところを決定する。又、言うところには、黄帝が岐伯に与えたものは、上には天の規則を究めて、下には地の道理を極め、遠くは諸物を取得し、近くは諸身を取得する。さらに互いに問うことが難しいことには、大経を作った。よって、中国哲学が発する源となり、これよりその後、歴史は千年以上百家が競って立ち上がり、あるものは栄え、あるものは衰えて、今日に至るので、黄帝は、実にその先祖で始まりとなったのである。
坂を下りると、妙正寺川に沿って小路が続いています。その脇に狸の置物があります。哲学という学問は、「哲学とは何ぞや?」を追求するらしく、凡人にはなかなか理解しがたいものです。「光輝ある霊性」は極めて抽象的な概念ですが、「腹中に燈籠」となると急に現実界に戻されます。それにしても、人間の心情が狸と同じとは。。。確かにナントカのタヌキと言われる人はいますけどね。
哲学堂七十七場34 狸燈(りとう)
人間の心情には狸に類するものがあり、しかも、時には光輝ある霊性を発することもあるとして腹中に燈籠を仕込んである。
哲学堂の中は自然の山を思いおこさせます。起伏のある地形に池や階段が配置され、緑が豊かなので昼なお薄暗いというところもあります。小さな池(心字池と言うらしい)の岸辺に奇妙な石像が立っています。人の心中に宿る鬼を具現化したものだそうです。狸は腹の中に燈籠が入っていましたが、この鬼像は頭に燈籠を載せていたのだそうです。「。。。いた」というのは造られた当時のことで、今は頭の上にあった燈籠は欠けています。なんか窮屈な格好をしているなと思ったら、そういう事情があったんですね。
哲学堂七十七場47 鬼燈
唯物園の狸燈に対した燈籠で、人の心中に宿る鬼にも良心の光明は存することを示(?)している。
右の写真は灯篭をのせていた頃の鬼燈です。
哲学堂公園は妙正寺川によって南北に分断されています。妙正寺川越しに妙正寺川第二調節池の取水口が見えます。都市を洪水から守る妙正寺川調節池群の一翼を担う施設です。妙正寺川が増水した際に、流入口となる越流堤から一旦中間調節池に導水され、ここが満水になって初めて第一調節池と第二調節池に流入するようになっています。これは第一調節池が平時は妙正寺川公園として開放されていることから、滞在者を避難させてから公園を閉鎖するまでの時間を稼ぐためと思われます。第二調節池は地下の調節池ですので直接中を見ることはできません。
調節池の上に哲学堂公園の南側の敷地が広がっています。ここは井上円了が造った哲学堂とは別の施設です。調節池の建設に合わせて造成されたものと思います。
「哲学の庭」について
群像彫刻「哲学の庭」は、ハンガリー出身で晩年日本に帰化され、栃木県益子町で創作活動された彫刻家故ワグナー・ナンドール氏の作品です。平成二十一年(2009年)が日本とハンガリー外交関係開設140周年・国交回復50周年にあたり、この記念事業の一環として中野区に寄贈されたものです。なお、群像彫刻「哲学の庭」は、同様のものがハンガリー
の首都ブダペストにも建立されています。
作品のメッセージ
私は長年研究していた分析的美術史の研究から幸せへの道を見出しました。その理論を彫刻の形で表現したのがこの「哲学の庭」です。この道は人類共通の進歩を示し、考える道を開いています。問題がたやすく解決されるとは思いません。しかし私はこの方向に向かって進むべきだと確信するのです。
ワグナー・ナンドール
<<写真多数のため、G哲学堂公園から落合文士村をめぐる(2)に続きます。>>
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