G哲学堂公園から落合文士村をめぐる(2)  

コース 踏破記  

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哲学堂公園を後にして、妙正寺川沿いの遊歩道を進みます。この遊歩道は「水とみどりの散歩道」となっているそうです。遊歩道の脇に案内板が立っています。

妙正寺川公園

調節池としての機能を兼ね備えた公園。大雨時は、河川の水を園内に貯留し、妙正寺川下流の安全性を高めています。

西落合公園

公園内に野球場・庭球場が整備されています。そのほかにも、ブランコやジャングルジムなどの遊具も充実しています。




今日は6月3日です。秋の味覚の代表格である柿の実はようやっと青い塊を見せるだけです。この柿の実は誰の口に入るのでしょうか?

禅寺丸柿

落合地域には古くから柿の木が多く、禅寺丸柿は落合のふるさとの柿の木です。この柿の木は、柿生禅寺丸柿保存会・麻生禅寺丸柿愛好者の会のご厚意により寄贈されたものです。原木は、神奈川県川崎市麻生区星宿山王禅寺山中で鎌倉時代に発見され、現在王禅寺境内にあります。植樹については、落合第二地区協議会が「みどりの保全事業」として、コミュニティおちあいあれこれの協力をいただいて行ったものです。




妙正寺川上高田調節池は、妙正寺川第二調節池と同じく妙正寺川の治水の一環として整備された妙正寺川調節池群のひとつです。上高田調節池は地下箱式の調節池で、貯留部は上部と下部の2段階の構造になっています。調節池に流れ込んだ水は、まず上部貯留部(貯留量:8、000立方メートル)に流入し、それを超えた場合は下部貯留部に流入する仕組みとなっており、洪水の状況に応じて清掃の負担を軽減させるなど、維持管理にも配慮された構造になっています。調節池の上部は、上高田公園および上高田運動施設として活用されています。



目白学園に向かいますが、この辺りは妙正寺川から多くの坂道が高台(落合台地)に向かっています。地図で確認したところ、「一の坂」・「二の坂」・「三の坂」・・・「八の坂」まであります。その他にも独自の名前をもった坂があります。「バッケの坂」ってどういう意味なんでしょうか?「バッケ」というのは崖のことで、武蔵野崖線を「ハケ」と呼ぶのと同じです。 坂下にある川沿いの運動公園が昔はバッケが原という野原だったころから、バッケが原への近道という意味でついた名前とのことです。

坂上通り(バッケの坂) Sakaue-dori

この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のバッケが原への近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。




「ごりょう坂」というのもありますね。「ごりょう」ってどんな意味なんでしょうか?実は、坂の上に中井御霊(ごりょう)神社が鎮座しており、神社の西側を上る坂なので「ごりょう坂」という名前が付いたそうです。ちなみに、神社の正面に向かうのは「八の坂」です。



目白学園に行く前に御霊神社に立寄ります。御霊神社は落合村中井の鎮守であり、安産守護子育ての神様とされています。豊作と安産を祈った備射(流鏑馬のような神事)で使われた弓弦の麻を小さく切ったものを安産のお守りとして希望者に貸授しており、現在も遠くから妊婦の参詣が多いということです。本殿の前に何枚かの案内板が立っています。

新宿区指定有形文化財(建造物)
中井御霊神社の本殿・幣殿・拝殿

中井御霊神社の社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる複合社殿で、形式は権現造りである。本殿は、棟札の記録により享保三年(1718年)から文化七年(1810年)の建造と考えられる。形式は、三間社流造り、銅板葺きである。拝殿は、古文書の記録より明治二十九年(1896年)以前の建造であることがわかる。形式は、正面三間、側面三間の入母屋造り、銅板葺きである。幣殿は記録が残っていないが、大正時代の建造と伝えられる。拝殿の屋根を茅葺きから銅板葺きに葺き替えるなど、多くの改修・改変が重ねられたが、区内では希少な江戸から明治時代の神社建築として重要である。

新宿区指定有形民俗文化財
中井御霊神社の狛犬

正徳五年(1715年)に下落合村の氏子等により奉納された一対の狛犬で、社殿向かって左側が阿形、向かって右側が吽形である。いずれも毛の描写など、比較的丁寧な装飾が施されている。台座には銘文があり、村名の一部が剥落により判読できないものの、施主の名や奉納年月が確認できる。総高は阿形161.5センチ、吽形162.5センチで、二段ある台座のうち下段は後に補われたものである。現存する区内最古の狛犬であり、都内でも比較的古い時期の狛犬である。近世から近代における中井地域の信仰や鎮守社と地域との結びつきを示す石造品として重要である。

新宿区指定無形民俗文化財
中井御霊神社の備射祭

備射祭は、正月の弓神事(歩射)で、的に向かって矢を射て、その年の豊凶を占い、魔を払って豊作を祈る行事である。中井御霊神社では毎年一月十三日の午後に行われており、拝殿で祝詞奏上に続き、盃ごと、弓射の式、祝宴の順で進行する。備射祭で使った弓の弦は安産のお守りとして授けられる。

新宿区指定有形民俗文化財
中井御霊神社の分本

分木は、備射祭で使う的に丸い円を描くためのコンパスである。長さ70センチあまりの竹を二つに割って作ったもので、一端を的の中心に固定し、円を描く目安として刻まれた切り込みに筆などを添えて一周させる。一本は永禄六年(1563年)、もう一本は元和六年(1620年)の年紀がある。

新宿区指定有形民俗文化財
中井御霊神社の備射祭絵馬

江戸時代の備射祭を描いた絵馬で拝殿内に掲げられている。額装・彩色、縦92センチ、横120センチ。社頭に座る僧侶や村人たちの姿が描かれ、現在とは異なる備射祭の様子がうかがえる。絵馬は、享保年間より三回にわたり奉納されたが、現在の絵馬は文政十三年(1830年)に修復して奉納された。

新宿区指定有形民俗文化財
雨乞のむしろ旗

中井御霊神社の雨乞行事に用いられたむしろ旗で、八枚あったうち一枚だけ残ったものである。文化・文政年間(1804年〜1830年)頃のものと推定され、縦182センチ、横91センチ、表面には「龍王神」の墨書が、裏面には龍の図が描かれている。雨乞の行事は関東大震災頃まで行われていたという。

新宿区指定有形民俗文化財 古文書
中井御霊神社文書

中井御霊神社に伝えられる古文書で197件ある。その構成は、寛延二年(1749年)の「正一位稲荷大明神安鎮之事」を最古とし、昭和十八年(1943年)の「安産御守授与氏名控」まで、江戸時代のもの8件、明治時代以降のもの189件からなる。内容は、中井御霊神社と境内の稲荷神社の祭礼や寄進、社殿の普請、境内地の変遷などに関するものが大部分である。新宿区内に残る数少ない神社文書として貴重である。




中井御霊神社のシンボルは境内に空高く聳えるクロマツです。枝打ちしてあるのでしょうか、なんとなく松葉が寂しい感じです。

新宿区指定景観重要樹木 クロマツ

古くから落合村中井の鎮守として祀られている中井御霊神社の境内にあり、樹齢は百年以上と推定される。第4号の幹の周囲はおよそ2.6メートル、高さはおよそ20メートルで、第5号の幹の周囲はおよそ1.6メートル、高さはおよそ17メートルである。江戸時代に中井御霊神社に奉納された備射祭絵馬にもマツが描かれているなど、古くからの備射祭の様子を現代に継承する、歴史的文化的価値の高い樹木である。また、八の坂通りの坂下から見上げた際のアイストップとなっており、落合地域の坂道景観を特徴づける、地域のシンボルとなっている。

Designated Shinjuku City Trees of Landscape Importance
Japanese Black Pine
Trees of Landscape Importance Designation: No.4 (tree in front), No.5 (tree behind)

These pine trees have been on the premises of Nakai Goryo-jinja Shrine, which has housed the local deity of the Nakai, Ochiai-mura region and they are estimated to be over 100 years old. The No.4 tree measures approximately 2.6 meters around the trunk and stands about 20 meters tall. The No.5 tree measures approximately 1.6 meters around the trunk and stands about 17 meters tall. The bisha matsuri festival ema tablet was dedicated to the shrine in the Edo period (1603 - 1868), on which pine trees are depicted. They have watched the festival since the Edo era and are highly appraised both historically and culturally. Looked up from the bottom of Hachi-no-saka hill, these pine trees serve as eye-stops. They are symbols of Ochiai, a town of hills.




七の坂通りと六の坂通りを通って高台のてっぺんに位置する目白学園に向かいます。煉瓦色の立派な校舎が緑の木々に映えます。



残念ながら、コロナ渦により落合遺跡の展示は見学中止になっています。残念ですけど、今日のところは諦めましょう。



四の坂通りの先には急な階段があり、その階段下に林芙美子の旧居があります。



林芙美子の旧居は、崖線の地形をうまく活用して建てられています。崖を削って平らにし、そこに宅地を造成したような感じです。といっても、林芙美子が崖を削った訳ではなく、既に宅地化された土地を購入したようですが。現在は新宿区立の記念館になっています。



入口の門をくぐった先に、記念館の概要と新居建設に際しての林芙美子の思いを綴った案内板が掲げられています。

林芙美子記念館の概要

この建物は「放浪記」・「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子が昭和十六年(1941年)8月から昭和二十六年(1951年)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。大正十一年(1922年)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和五年(1930年)に落合の地に移り住み、昭和十四年(1939年)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫、緑敏名義の仕事場の棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせました。美美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、その思い入れは格別でした。このため、山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっ ています。芙美子は客間よりも茶の間や風呂や厠や台所に十二分に金をかけるように考え、そのこだわりはこの家のあちこちに見ることができます。

家をつくるにあたって

私は十年前に現在の場所に家を建てた。私の生涯で家を建てるなぞとは考えもみなかったのだけれども、八年程住み慣れていた借家を、どうしても引っ越さなければならなくなり、私はひまにまかせて、借家をみつけて歩いた。まづ、下町の谷中あたりに住みたいと思ひ、このあたりを物色してまはったが、思はしい、家もなく、考へてみると住みなれた、現在の下落合は去りがたい気がして、このあたりに敷地でもあれば小さな家を建てるのもいゝなと考へ始めた。幸ひ、現在の場所を、古屋芳雄さんのおばあさまの紹介で三百坪の地所を求める事ができたが、家を建てる金をつくる事がむづかしく、家を追いたてられていながら、ぐづぐづに一年は過ぎてしまったが、その間に、私は、まづ、家を建てるについての参考書を二百冊近く求めて、およその見当をつけるやうになり、材木や瓦や、大工に就いての知識を得た。大工は一等のひとを選びたいと思った。まづ、私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレヴエションを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねって貰った。東西南北風の吹き抜ける家と云ふのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけない事と、茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける事と云ふのが、私の考へであった。それにしても、家を建てる金が始めから用意されていたのではないので、かなり、あぶない橋を渡るやうなものだったが、生涯を住む家となれば、何よりも、愛らしい美しい家を造りたいと思った。まづ、参考書によって得た智識で、私はいゝ大工を探しあてたいと思ひ、紹介される大工の作品を何ヶ月か私は見てまはった。

林 美美子





母屋の隣に受付があり、その前で林芙美子のボードが出迎えてくれます。随分と洋風な服装ですね。



林芙美子が拘ったという茶の間です。

茶の間

掘りこたつ、釣り戸棚、二段押し入れ、収納式神棚、多くの小引き出しなどを備えたこの部屋は、暮らしやすさを考えた一家団らんの場でした。ちゃぶ台を囲んで一家が集まる時、美美子の母キクは、常に右手床の間の柱前に、大きな座布団を敷いて座ったそうです。




お風呂の浴槽は総檜造りだったそうです。

中庭と風呂場

この中庭は二つの棟を分けながらもつなげる役割を果たしています。中庭に面した風呂場は、入りやすい落としこみ式、総檜の浴槽で作られていました。台所の床や流し、便所や洗面所の床の造りと共に、芙美子の家作りの考え方が反映されています。




台所には当時としては珍しかった家庭用電気冷蔵庫も備え付けられていたとのことです。流し台は人造石を研ぎだして造られたのですか。。。冷蔵庫とカラーテレビはどこに置かれていたのかな?それに、カラーテレビの本放送が開始されたのは林芙美子が亡くなった後の昭和三十五年(1960年)のことでしたが。

台所

芙美子は家事が好きで、仕事の暇をみて家族の食事を作ったり、漬物を潰けたりしました。親しい客が訪れた時、手早く酒の肴を作るのが得意だったと言われています。人造石研ぎだしで造られた台所の流しと床は芙美子の自慢の一つだったそうです。

家庭用電気冷蔵庫(SS−1900型)
  製作:芝浦製作所(現 株式会社東芝)
  製作年:昭和十三年(1938年)

芝浦電機製作所は、昭和五年(1930年)米国GE社製をモデルに開発した日本初の家庭用冷蔵庫(SS−1200型)を製造しました。SS−1200型はホテルなどに向けた受注生産でした。昭和十三年(SS−1900型)を製造し、一般に向け販売を始めました。容量195リットル、重量232kgで。シリンダー圧縮機と凝縮器及び制御装置などがキャビネット上に露出したモニタートップ型です。当時の価格は720円、大学卒の会社員の初任給が70円の時代でしたから、一年間働いても買うことができない高価な品でした。 作家林芙美子は、この冷蔵庫を購入し家族や来客のため自慢の料理を振舞まっていました。
このたび、東芝未来科学館様のご好意により、市販用国産第1号冷蔵庫とカラーテレビをご贈いただきました。貴重な品をご寄贈いただいた東芝科学未来館様に感謝を申し上げるとともに、皆様にご覧いただければ幸いです。




離れの建物は画家だった夫のアトリエとして使われていましたが、現在では林芙美子の展示場になっています。

アトリエ

現在展示室として使われているこの部屋は、画家であった芙美子の夫緑敏のために作られました。芙美子自身も長い間絵描きになりたいと考えていたほど絵に関心を持っていましたが、流行作家となったためこのアトリエで絵を描くことはありませんでした。




展示室には、林芙美子の生涯を記した年表が貼られています。その脇に亡くなる数日前に録音されたインタビューについての解説があります。林芙美子は作家盛りの47歳という若さで亡くなりました。「主婦の友」の連載記事のために料亭を2軒回った帰宅後の昭和二十六年(1951年)6月27日の夜分に苦しみ出し、翌28日早朝心臓麻痺で急逝したのです。急逝の直前、6月24日にNHKラジオの生放送「若い女性−会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答を行いました。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていました。この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK放送史−若い女性」で動画が公開されています。放送音声は録音保存され、2016年1月26日にNHK第1ラジオで放送されました。瀬戸内寂聴みたいな存在だったのでしょう。生前、色紙などに好んで、「花の命は短くて 苦しきことのみ 多かりき」と書きましたが、これは「女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かったみずからの半生をうたったもの」といわれています。

− 芙美子からのメッセージ −

林芙美子が亡くなってから今年で70年がたちます。時に人と衝突することも、失うものも多くありましたが、自分の力を信じ、道を切り開いてきた芙美子。昭和二十六年6月28日、47歳で人生の幕を閉じましたが、後悔よりも充実感が勝った最後だったことでしょう。残された作品は、色あせることなく読み継がれています。度重なる災害、コロナ禍の状況にある現代において、苦難に挑み続けた芙美子が紡いだ作品には、いかに生きるべきかの示唆に富んでいます。残された原稿や芙美子が亡くなる4日前「NHKラジオウィークリー」に出演した際の言葉から、私たちの心に響くメッセージを紹介します。

メッセージは備え付けのテレビで視聴できます。放送はラジオでしたが、番組広報用として映像保存されたものです。




展示室には林芙美子、夫の手塚緑敏、それに母キクが談笑している写真も飾られています。一家団欒のようですが、子供が見当たりません。手塚緑敏と芙美子の間には子供がなく、後に養子を迎えたのです。この他、自筆の原稿や衣装なども展示されています。女性としては珍しかったと思いますが、デスマスクもあります。



林芙美子記念館を出て、西武新宿線の中井駅に向かいます。記念館近くの道路の脇に、落合に住んだ文化人を紹介した案内板が立っています。落合には多くの文化人が過密化が進む都心を離れ、静かな創作環境や魅力ある風景を求めて移り住みました。木版画家の平塚運一、評論家・哲学者の阿倍能成、小説家の壺井栄や林芙美子、洋画家の安井曾太郎や松本竣介、書家の金子(鴎)亭、劇作家の船橋聖一、歌人・美術史家の會津八一などなど、馬込や田端と同様に、落合も文士村だったんですね。



ゴール地点の西武新宿線中井駅北口にやってきました。駅の横には妙正寺川が流れ、駅舎の上には山手通りが高架で通っています。



ということで「G哲学堂公園から落合文士村をめぐる」の歩きを終えました。哲学堂公園は何度も訪れましたが、今回も哲学の悟りには至りませんでした。「考える足」は「考える葦」には及ばなかったんですかね?




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