- H伝説の地から大都会のオアシスへ
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「H伝説の地から大都会のオアシスへ」を歩きます。JR大久保駅をスタート地点として、鎧神社・成子天神・十二社(そう)熊野神社を参拝し、最後に新宿中央公園で新宿ナイアガラの滝・新宿白糸の滝の水しぶきを浴びながら新緑を満喫します。
「H伝説の地から大都会のオアシスへ」の歩行距離は約3.6km(約5,100歩)、歩行時間は55分、消費カロリーは約165kcalです。
スタート地点:JR中央本線・総武線大久保駅北口
↓ (約0.8km:約12.0分)
- @鎧神社
- 伝説では、埋められた鎧の持ち主は日本武尊命とも平将門とも。境内の狛犬型庚申塔は大変珍しいものです。
↓ (約1.4km:約21.0分)
- A鳴子天神社
- 祭~は菅原道真。村の若者たちが力比べをした「力石」や、区内最大規模の「富士塚」、七体揃っての「七福神」があります。
↓ (約0.8km:約12.0分)
- B新宿中央公園
- 約8万uの緑豊かな公園。園内の「エコギャラリー新宿」は、”快適環境のまちづくり”をめざして、区民・企業・行政が連携しながら運営する活動拠点です。
↓ (約0.3km:約 5.0分)
- C十二社熊野神社
- 室町時代創建と伝えられる。江戸時代には「十二社の池」・「熊野の瀧」とともに景勝地として知られ、にぎわいました。
↓ (約0.3km:約 5.0分)
ゴール地点:都営大江戸線都庁前駅出入口A5
スタート地点のJR大久保駅北口から歩き始めます。大久保という地名は、かって大きな窪地があり、それが【大窪→大久保】という地名になって大久保駅の駅名の由来になったという説があります。
大久保駅北口の向かいのガード下の壁に、大久保駅が立地する百人町の由来を記した長大な案内板が掲げられています。百人町の町名は、かつて徳川家康を警護した鉄砲隊・百人組が駐屯していたことに由来します。
江戸幕府鉄砲組百人隊と大久保つつじ
天正十八年(1590年)徳川家康が江戸入府の際、内藤氏らに率いられた伊賀組などの鉄砲同心は、江戸の西の警備にあたるために駐屯しました。関が原の戦いの後、幕府は鉄砲組に組屋敷を与え、現在の百人町に定住しました。鉄砲組は、同心百人を配属されたので百人組と呼ばれ、百人町の地名の由来になりました。平時は、江戸城の警備にあたり、将軍が寛永寺、日光東照宮などに参詣する際には警護にあたりました。大久保村付近は、つつじの自生地であったとされますが、鉄砲組は定住後、屋敷内で余暇を利用して、つつじの栽培を行いました。やがて名所として江戸で評判となり、「江戸名所図会」「江戸名所花暦」などに紹介されています。つつじ栽培は、明治維新以後、一時衰退しましたが、明治十六年に大久保躑躅園が開園し、一万株ものつつじが栽培され明治時代には花見客で賑わいました。明治天皇が、大久保つつじの短歌を詠まれ、それを記念した歌碑が皆中稲荷神社に建立されています。その後、日比谷公園ができると大部分のつつじが移され、町の発展の歴史と共に姿を消していきました。しかし、「大久保つつじ」への愛着は強く戦後になって毎年四月、ゆかりの深い皆中稲荷神社において、地元商店街の二世会の若者たちによって「大久保つつじ祭り」が行われるようになり、昭和四十七年には新宿区の花に指定されました。また昭和三十六年からは、「江戸幕府鉄砲組百人隊出陣行列の儀」が地元有志の尽力により行われるようになり、平成十四年に新宿区無形民俗文化財として登録されました。
ガード下の壁には巨大な壁画も描かれています。駅近くにある日本電子専門学校の有志一同により、数年ごとに描かれているそうです。この壁画の製作には、日本電子専門学校CG科を卒業し、ゲームクリエイターを経て漫画家になった井上淳哉氏も参加していましたが、その時に描いた壁画は1998年頃に今の壁画が描かれた際に塗り潰されてしまったとのことです。
大久保駅から山手線の新大久保駅へ向かう300m程の大久保通り一帯は、通称コリアンタウンと呼ばれています。韓国・朝鮮料理やタイ料理などのアジア料理店・定食店などの他、周辺には専門学校も多く立地しています。ちなみに、山手線の新大久保駅に「新」が付けられているのは、大久保駅が明治二十八年(1895年)に開業し、新大久保駅はそれより後の大正三年(1914年)に開業したからです。
新大久保駅の手前に皆中稲荷神社があります。鉄砲組と縁のある神社ということで、神社名の「皆中」は、「皆中(みなあたる)」に由来しているとのことです。境内には、鉄砲組が奉納した鳥居や燈籠などが残されています。
本殿の脇に、鉄砲組百人隊が奉納したと伝えられる出陣式の案内板が立っています。案内板には、出陣式の様子を写した写真が添えられています。随分と身軽な装備ですね。
新宿区登録無形民俗文化財 江戸幕府鉄砲組百人隊行列(出陣の儀)
皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を携えた鉄砲隊が、数ケ所で古式にのっとり試射を行う。鉄砲組は四組あり(百人町に住んだのは二十五騎組、別称大久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺・増上寺・日光東照宮参詣には護衛をした。皆中稲荷神社は、鉄砲組から信仰された。ある隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源という。皆中は「みなあたる」の意味がある。
Registered Intangible Folk Cultural Property of Shinjuku City
Edo Shogunate Hundred-Member Gun Squad Ceremony (Departure Ritual)
During the 17th century, the Edo Shogunate housed a squad of 100 riflemen in this neighborhood now called Hyakunincho (Hundred Person Town). A reenactment of their pre-departure ritual is held on alternate years as part of the annual festival of the Kaichu Inari Jinja Shrine. A commander in armor leads an armed and costumed squad in procession around the neighborhood, during which they ceremonially fire their matchlock guns at several locations. There were four gun squads who normally guarded the Ote-sannomon Gate of the Edo Castle. They also protected the shogun during visits to the Kaneiji Temple, Zojoji Temple, and the Nikko Toshogu Shrine. The Kaichu Inari Jinja Shrine was established after a gun squad member had a dream of the deity Inari and never missed a shot afterwards. The name "Kaichu" means "certain bull's-eye."
皆中稲荷神社の社務所には、「大久保つつじ保存会」の事務所も置かれています。境内には当時のつつじの子孫でしょうか、何本かのつつじの木が小さな社の横に植えられています。
淀橋市場は11ある東京都の中央卸売市場のひとつで、青果市場としての規模は大田市場・豊洲市場に次ぐ規模となっています。関東大震災後に東京の人口が急増し、民営食品市場である築地本場・神田分場・江東分場だけでは収容できなかったため、4つ目の分場として淀橋市場が計画され、昭和十四年(1939年)に開場しました。「淀橋」の名の由来は、「川の流れが緩やかでよどんで見えたから」という説など幾つかがあります。
淀橋市場から中央線のガードを抜けた先の住宅地の中に鎧神社が鎮座しています。日本武命が東征した折り、この地に甲冑六具の内を蔵めたことが神社名の由来とされています。「蔵める」とは、「おさめる、しまっておく、隠ししまいこむ」といった意味があります。土の中に埋めたという説もありますが、戦勝を祈願して鎧一式を奉納したとする方がよさそうに思います。
鎧神社縁起
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し比の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲胃六具の内を比の地に蔵めた事より社名起こると伝えている。天慶三年(940年)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947年)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば、将門軍残党を追って比地に来た藤原秀卿、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如未を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の千渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部。
鎧神社の表参道左脇に鎮座するのが境内社・天神社(成子天神社の元の社であることから元天神とも称されます)です。天神社社殿の両脇には、享保六年(1721年)に建立された狛犬型の庚申塔が脇を固めています。全国的にも珍しく、民俗学的にも貴重な資料として新宿区の有形民俗文化財に指定されています。デフォルメ(対象を変形させて表現するという意味のフランス語)されたユーモラスな表情で、身体の描写も独特なフォームをしています。
新宿区指定有形民俗交化財 狛犬型庚申塔
素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天十一月(1721年)の紀年銘が記されている。向って右側が阿形像 (雄)、左側が叫形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
鎧神社のすぐ近くに圓照寺があります。圓照寺は元、鎧神社の別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当と呼んだことから、別当のいる寺を別当寺と称しました)だったといわれています。醍醐天皇の平安時代に、現在の圓照寺の辺りに薬師如来像が安置されました。承平五年(939年)にかけて平将門が関東に勢力をもつようになり、天慶三年(940年)に藤原秀郷が将門を討伐するため軍勢を率いて出陣しました。しかし、中野の辺りで病に伏してしまいました。その夜の霊示に従って祈ったところ、苦痛はたちまちなくなり、将門討伐の祈願も達成されました。喜んだ秀郷は、凱旋の後に堂塔を建立し、圓照寺としました。
圓照寺家内
- 開宗
- 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって、中国からもたらされ、わが国で開宗されました。
- 教え
- 教えの中心はマンダラ思想です。世の中にはいろいろな宗教や思想がありますが、よく観察してみると一番底に共通の原点があります。この原点が大日如来という仏さまです。一切の諸尊はそれがお薬師さま、観音さま、お地蔵さま、お不動さまであれ、すべて大日如来の身を変えたお姿(応化身)なのです。したがって、もとめるところは広い視野で物を見ながら深く考えて、敬虔に力強く、人生を生き切り、平和な社会を作ることです。
また、圓照寺一帯の土地はこのあたりを支配していた柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとされており、円照寺の境内にはその由来にもとづく右衛門桜が植えられ、江戸三名桜として有名でした。現在の右衛門桜は元の名木が枯れ朽ち、その根茎より若木が成長しましたが、戦争中の米軍の空爆に遭って焼けてしまい、現在の木は戦後に三代目として植樹されたのだそうです。ちなみに、「圓照寺のシダレザクラ」として有名な桜の木は右衛門桜とは別物です。残念ながら、右衛門桜の方は見落としてしまいました。
境内の一角に立派な梵鐘があります。この辺りは、昔は豊多摩郡柏木村と呼ばれていて、「柏木」という地名は平安時代から存在した由緒ある地名でした。それが昭和四十六年の住居表示により新宿の北に位置するからとの理由で「北新宿」という地名に変更されたのです。なんとも安直な。。。
新宿区登録有形文化財 工芸品
圓照寺の梵鐘
圓照寺の中興開山琳伝和尚の発願、柏木村名主川本又四郎を施主として、寛政二年(1790年)に鋳造された銅造の梵鐘です。総高124センチ、口径68センチで、江戸鋳物師西村和泉守藤原政時が製作しました。全体に精巧に仕上げられた梵鐘で、江戸鋳物師の技術的特徴が良く表わされています。また銘文からは、圓照寺の歴史や梵鐘鋳造の由来などを知ることができ、地域史料としての価値も高いといえます。区内の江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく、大変貴重です。
大久保通りから税務署通りに下りる蜀江坂があります。長〜〜〜く続く下り坂で、坂の途中からは新宿の高層ビルが眺められます。案内柱の解説によれば、かってこの辺りは山と称されるほど起伏に富んでいたそうです。地図で見ると高低差は分かりませんが、実際に歩いてみるとナルホドと感じます。蜀江錦(しょっこうきん)とは、中国の蜀の国(現在の四川省)で製作された錦(にしき)のことです。蜀の成都の東南角は古代から錦の産地として名高く、その地方を流れる川の水が染色に適し、鮮明な色彩を染め出したことから、川の名を錦江と称し、蜀江錦の名が出たといわれています。
蜀江坂
かってこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したからだという。
西新宿の六丁目〜八丁目を氏子地域とする成子天神社の創建は延喜三年(903年)です。菅原道真の死去を嘆き悲しんだ家臣が道真の像を大宰府から持ち帰り、祀ったのが始まりとされています。鎌倉時代には源頼朝により社殿が造営され、江戸時代に入ると将軍徳川家光から土地を下賜された春日局が勧請しました。寛文年間に起きた火災により現在の場所に移転しましたが、第二次世界大戦中の空襲により再び社殿が焼失しました。平成二十六年(2014年)、境内に高層のマンションと神社施設を新たに建築して現在に至っています。
由籍 祭神 菅原道真公
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。平安時代の延喜三年(903年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。その後、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め、昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。
本殿の前には菅原道真公縁の牛さんが鎮座しています。ちょっとハンサム感に欠けますが。天満宮に牛さんが置かれているのは、牛さんが「神様の使者」、つまり「ご祭神菅原道真公のお使い」という意味です。牛さんにお願いすることによって、その願いが菅原道真公に届けられるという訳です。
境内には立派な神輿庫があり、ガラス窓越しにその偉容を見ることができます。さすがに本社神輿は圧巻の大きさですね。
神社に力石は付きものですね。これは、娯楽の少なかった時代に村の若者が神社のお祭りで力自慢を競った名残りです。首尾良く持ち上げられた巨石には名前や重量が刻まれ、後々まで名誉が与えられました。
新宿区指定有形民俗文化財 成子天神社の力石
力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約150キログラム) から58貫余(約218キログラム)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。
Designated Follk Cultural Property of Shinjuku City
Lifting Stones at Narukotenjinsha Shrine
Lifting stones are large, oval stones used in strength competitions traditionally held during local festivals for entertainment. There are seven lifting stones arrayed in front of the main building of the Narukotenjinsha Shrine. All seven stones have inscriptions, though two have become illegible. The other five stones range in weight from 40-58 kan (approx. 150-218 kg). They are inscribed with the male names "Toramatsu", "Kitaro", "Kamejiro" and "Ichizo", which are thought to represent either the stones' donors or the individuals who succeeded in lifting them. The dates when the stones were created are not recorded, though they are likely from the end of the Edo period to the Meiji period. A few of the same names are inscribed on several stones, hence why they are assumed to be from the same time period.
これも神社でよく見かけますが、ご当地野菜の案内板が立っています。
江戸・東京の農業 鳴子ウリ
成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615年〜1624年)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。元禄十一年(1698年)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。鳴子ウリは長さ四寸(12cm)で、太さは元で1.8寸(約5.4cm)。末で二寸(6cm)余りの小型のウリで、外観は緑色で表面に細い緑のすじがあり、熱すと甘い香りと共に黄色く色付く。果肉は緑色で甘味に富んで、当時は甘い物が少なかったので水菓子として貴重な野菜でした。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO Naruko-Uri (Makuwa melon)
The area around this shrine was a production center of Makuwa melon during the years 1615-1624. According to the record, the Tokugawa Shogunate, who established its government in Edo, called upon farmers from Makuwa of Mino Province and had them grow the melon at two government-patronized farms, one here at Naruko and the
other at Koremasa (the present Fuchu city). Establishment of the post town in Shinjuku in 1698 gave a great incentive to the growing of Makuwa melon and Naruko had prospered as the specialty production area up to 1870s. This melon was a precious vegetable as fruit in those days when there were few sweet things to eat.
富士塚は富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚です。富士塚は、安永九年(1780年)に高田籐四郎が江戸の高田水稲荷の境内に建てたものが最古であるとされています。この富士塚は文化財になっていますが、昭和三十九年(1964年)頃に早稲田大学のキャンパスを拡張する際に取り壊され、近くの水稲荷神社に移築されました。元々の場所に現存する富士塚としては、渋谷区千駄ヶ谷の鳩森八幡神社境内にある千駄ヶ谷富士が都内最古のものとなっています。成子神社の境内にも富士塚があります。元々あった小山に富士山の溶岩を加えて築き、高さは約12メートルで、大正九年(1920年)に造られました。新宿区内では最大規模ですが、大正十二年(1923年)の関東大震災で崩落し、その後再建されました。
新宿区登録文化財 史跡 成子天神社の富士塚
大正九年(1920年)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約200名の講員がいましたが、現在は活動していません。
Registered Historical Site of Shinjuku City
Fujizuka at Narukotenjinsha Shrine
In August 1920, this hill, known as "Tenjin-yama," was covered with lava rocks brought from Mt.Fuji and consecrated as a Fujizuka, or a miniature replica of Mt.Fuji. It is the last such mound to be created in Shinjuku and, standing at about 12 meters high, it is also the tallest. To its north is a miniature Sengen Jinja shrine, a type of Shinto shrine which honors Mt. Fuji. Fujizuka are remnants of a religious association called Fujiko, which worshipped Mt. Fuji. It flourished in the Edo region during the Edo period. Fujiko associations, which were organized by
individuals of the same trade, led to the creation of such sacred mounds on the grounds of Shinto shrines. This Fujizuka was revered by members of the Maruto Naruko Association which, at its height, had about 200 members who were mainly residents of the Kashiwagi and Tsunohazu neighborhoods (present-day Kitashinjuku and Nishishinjuku). This association is no longer active.
山頂には木花咲耶姫命の像がありましたが、平成二十三年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により北側斜面に落下し、現在は浅間社前に立て直されています。
ということで、目の前に山があれば登らざるを得ません。結構急な岩段が頂上に向かって続いています。鎖を頼りに慎重に登ります。
登頂成功です!さすがに富士山頂だけのことはあります。新宿副都心の超高層ビルが眼下に見えます。。。の筈ですが、山頂からでも見上げてしまいます。
成子天神社の境内には七福神の像が置かれています。1ケ所に集まっているのではなく、あちこちにさりげなく置かれているのです。お正月に初詣のついでに七福神巡りができますね。
左から、布袋和尚・寿老人・福禄寿・辨財天・毘沙門天・大黒天・恵比寿の神々です。
成子天神社を出て新宿中央公園にやってきました。新宿中央公園の面積は8.8ヘクタールで、新宿区内の緑地のうち新宿御苑・明治神宮外苑・戸山公園に次ぐ面積です。ここは元々隣接する熊野神社の敷地の一部で、戦前には小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)の工場敷地などとなっていました。戦後、新宿副都心計画の一環として、淀橋浄水場の跡地と合わせて公園として整備されました。公園の北端には新宿区立環境学習情報センターと新宿区立区民ギャラリーの複合施設「エコギャラリー新宿」が設けられています。公園に隣接して新宿副都心の超高層ビルが建ち並んでいます。中でも都庁のツインタワーは圧巻の高さです。
公園内の植え込みの中に、「写真工業発祥の地」という案内柱が立っています。
写真工業発祥の地
この地は、明治三十五年五月、小西本店(現・コニカミノルタ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和三十八年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。
地域文化財 第3号 六桜社跡
明治三十五年〜昭和三十八年の間操業していた、六桜社(現コニカミノルタ)の写真感光材製造工場の跡である。
新宿中央公園が淀橋浄水場跡に造られたということを示す赤い煉瓦塀の一部がモニュメントとして置かれています。その後ろに案内板が立っていますが、何故か英文のみで日本語の説明はありませんね。ちなみに「SHUKNOVA」とは、「宿」と「新」を掛け合わせた造語です。「宿」は異なる文化が集まり、人々が留まる場所。「新」はラテン語で「NOVA」、つまり新しいという意味です。江戸時代、内藤新宿として栄えてきた宿場町「新宿」で多くの人々が憩い、賑わいのある交流が生まれる「宿場町の縁側空間」を新宿中央公園で再生したいという想いで命名されました。ロゴマークは、外側が輪で囲われており、様々な異なる文化の輪、人々の交流の輪を育む場にしたいという思いが込められています。また、ロゴマークの中には「SHUKNOVA」と「新宿」という文字が隠れています
。さあ、探してみましょう!
Yodobashi Water Purification Plant, the birthplace of modern water supply systems in Japan, stood here from 1898 to 1965. The site has been redeveloped into one of the leading business districts in Japan, with skyscrapers and a beautiful park. This monument commemorates the history of the site, with bricks representing its historical heritage and the glass object representing memory of the water purified here. And at this very site, SHUKNOVA was built with the surrounding nature in mind, connecting the past heritage with a bright future.
緑に覆われた公園の端っこに「エコギャラリー新宿」の施設があります。エコギャラリー新宿は、新宿区立環境学習情報センターと新宿区立区民ギャラリーの複合施設の名称です。1階に文化活動の発表の場「区民ギャラリー」、2階に環境情報・活動の拠点「環境学習情報センター」を設置し、気候変動対策・資源の効率的な活用・自然共生などの環境課題に加え、環境・経済・社会・文化を統合した「文化の香り高い持続可能な都市新宿」の実現に向け、「区民・NPO・事業者・行政・教育機関」を繋ぐ交流拠点として、企画・運営の段階からマルチセクターの参画を得ながら運営されています。
公園の歩道脇に、武士に向かって若い女性が何かを差し出している情景を再現した銅像が建っています。案内プレートを見ますと、どうやら「山吹の里」の逸話を表しているようです。若き日の太田道灌が鷹狩りの際に急な雨に遭い、蓑を借りようとある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので道灌は怒って帰りました。後に山吹には「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられて己の無学を恥じ、その後和歌の勉学に励んだということです。ちなみに、和歌の意味は、「山吹の花は、七重八重に艶やかに咲くけれども、実のひとつさえもないのが不思議なことです。わが家には、お貸しできる蓑(実に掛けている)ひとつさえないのです。」ということだそうです。
久遠の像
この像は江戸城を築いた太田道灌が武蔵野の原で狩をした時の伝説の一情景であります。
熊野神社前交差点から新宿駅西口に向かう路線バス(逆もそうですが)の車内で、「次は[十二ソウ池の下]で〜〜〜す!」というアナウンスが聞こえてきます。最初に聞いたときは、「ソウ」って何だと思ったのですが、後になって「ソウ」は「社」の読み方だということが分かりました。新宿総鎮守として知られている「十二社熊野神社」は、中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年〜1428年)に創建されたものと伝えられています。鈴木九郎は代々紀州熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていました。鈴木九郎は当初自身の故郷である熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされています。かつて存在した付近の地名「十二社(じゅうにそう)」はこれに因んでいます。この地名は現在でも「十二社通り」という通り名とか「十二社池の下」のバス停の名前に残っています。紀州熊野神社の「十二社」とは、三所権現・五所王子・四所明神をいいます。
熊野神社には多くの文化財があります。境内に石碑と案内板が立っています。熊野神社の境内には大きな滝があり、隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池もありました。江戸時代には景勝地として知られ、最盛期には茶屋や料亭が約100軒も建ち並んでいたといいます。
熊野神社の文化財@
新宿区指定史跡 十二社の碑
ここ十ニ社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(1851年)三月に建てられました。高さ210cm、幅119cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した「江戸繁盛記」の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十ニ社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は286字に及びます。なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。
私は見ませんでしたが、拝殿には絵馬と額が掲げられているとのことです。
熊野神社の文化財B
新宿区指定有形文化財 絵画 七人役者図絵馬
安永二年(1773年)四月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、拝殿内に掲げられています。板地着色で、縦136cm、横180cm、図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役者の扮装姿と十二支の動物が描かれています。図中の役者は、当時の名優三世大谷広次や後に十二代目羽左衛門を襲名する市村亀蔵らを中心とした市村座の役者たちです。この絵馬の作者一筆齊文調は、江戸時代中期、明和から寛政にかけて、優れた役者絵を描いて活躍した浮世絵師です。
新宿区指定有形文化財 歴史資料 式三番奉納額
上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内に二枚が掲げられています。向かって右側は宝暦十四年(1764年)に九代目市村羽左衛門が、左側は弘化四年(1847年)に十二代目市村羽左衛門がそれぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦90.7cm、横31.4cmあります。図柄は、江戸三座のひとつ市村座で、十一月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から三日間演じられた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門自身が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。
柵で囲われた一角に石で造られた桶のようなものが置いてあります。
熊野神社の文化財C
新宿区指定有形文化財 工芸品 大田南畝の水鉢
文政三年(1820年)に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)(1749年〜1823年)の書による銘文が刻まれています。外部は幅150cm、高さ60cm、奥行64cm。内部の鉢の部分は幅126cm、深さ23cm、奥行40cmあります。
十二社熊野神社の文化財についてまとめた「新宿ミニ博物館」の巨大な案内板が立っています。
@十二社と熊野神社の歴史
十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394年〜1428年)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十ニ所権現をうつし祀ったものと伝えられます[一説に、この地域の開拓にあった渡辺興兵衛が、天文・永禄(1532年〜1569年)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祀ったともいいます]。鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永十年(1403年)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったといいます。この十二所が、昭和四十五年(1970年)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つに祀る相(双)殿形式で十二の社を祀った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處・十二荘・十二叢・十二層などの記述が見られます。神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。また、享保年間(1716年〜1735年)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐之男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。
十二社の池と滝
江戸時代以来、西郊の景勝地として賑わった十二社には、かつては大小2つの池と、いくつかの滝がありました。
十二社の池
十二社の池は、慶長十一年(1606年)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。大池は、南北126間・東西8〜26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。池の周囲には享保年間(1716年〜1735年)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政三年(1820年)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるょうになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和四十三年(1968年)7月に埋立てられました。小池は、大池の北側に隣接し、下池・下の溜井と呼ばれました。大池を分水したもので、南北50間、東西7〜16間ありました。昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和十六年(1941年)7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のために埋立てられました。
十二社の滝
熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、あたりの風致に彩りをそえていました。記録や古老の話から、つぎのような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。
@大滝
「江戸名所図会」「江戸砂子」などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文七年(1667年)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀(現在の新宿区立区民キャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の「怪談乳房榎」の中で、この滝を登場させています。しがし明治二十五年(1892年)頃、淀橋浄水場の工事に伴い埋立てられました。
A小滝
「江戸土産」に記載があり、大滝に付設していた小規模な滝とされます。
B熊野神社神楽殿裏より小池(下池)にそそぐ滝
「角筈村熊野神社絵図面」に記されている滝です。熊野神社西側の斜面にあったものと思われます。
C大池のイチョウ脇にあったニつの滝
古老の話によるもので、大池の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2本あったとされます。明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。
D十二社にちなんだ十二の滝
古老の話で、かつては十二の滝が存在したというものです。そのうちの3つが、熊野神社の甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の滝として残っていたとされます。
E熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
熊野神社の南東側には、明治三十五年から昭和三十八年(1902年〜1963年)まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。
案内板には、熊野神社の文化財として、新宿区指定文化財の他にも次のような文化財があると記載されています。この狛犬は拝殿前に鎮座しているもので、大鳥三社の狛犬ではありません。
@狛犬
本殿裏の末社大鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保十二年(1727年)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。
A島川玄丈人壽兆碑
紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化四年(1807年)に造られたものです。
B能勢嘉門賛碑
「滝津冷々ー千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門」
「蝉の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の俤 山陽堂竹友」
十二社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑です。
C延命陀羅尼ニ千ー百万遍読誦碑
元治元年(1864年)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合の時代を物語(る)資料です。
新宿中央公園には、新宿ナイアガラの滝と新宿白糸の滝という人工の滝があります。カナダのオンタリオ州とアメリカのニューヨーク州の国境沿いに位置し、北アメリカ大陸の中で最も規模の大きいナイアガラの滝と、流下する水の様子が白糸や絹糸を垂らしたようであることから名付けられた白糸の滝をイメージしたもので、昭和五十七年に完成しました。夏には涼を呼ぶスポットになっています。写真は新宿ナイアガラの滝で、新宿白糸の滝は裏側にあります。
新宿中央公園を出てゴール地点の都営地下鉄大江戸線都庁前駅に向かいます。周囲に林立する超高層ビルを見ますと、新宿中央公園がビルの谷間のオアシスに思えます。
ということで、「H伝説の地から大都会のオアシスへ」を歩き終えました。他のコースにも増して見所が沢山ありました。成子天神社と新宿中央公園で大分時間を費やしましたが、その価値は十分にあったと思います。
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