- J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く(1)
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く」を歩きます。東京メトロ西新宿駅をスタート地点として、神田川の遊歩道をめぐり、最後に早稲田大学のアカデミックな雰囲気に浸ります。
「J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く」の歩行距離は約8.8km(約12,600歩)、歩行時間は133分、消費カロリーは約399kcalです。
スタート地点:東京メトロ丸の内線西新宿駅出入口1
↓ (約2.0km:約30.0分)
- @神田上水公園
- 神田川沿いの遊歩道に沿って整備された延長約600mの公園。健康遊具もあり散歩途中のストレッチに最適。
↓ (約1.2km:約18.0分)
- Aせせらぎの里公苑
- せせらぎの周りにはコナラを主体とした雑木林が。夏は格好の水遊びの場となります。(*閉園時間あり)
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- B瀧澤橋
- かってこの付近で神田川と妙正寺川が落ち合い、「落合」の地名に。落合は江戸時代、ホタルの名所として有名でした。
↓ (約1.1km:約17.0分)
- C神田川ふれあいコーナー(戸塚地域センター内)
- 神田川に生息する魚が泳ぐ大きな水槽や、神田川の歴史や生きものを知ることができる展示コーナーがあります。
↓ (約1.0km:約15.0分)
- D面影橋・山吹の里の石碑
- 春には橋のたもとの桜並木が美しい。付近一帯は山吹の里の伝承地で、豊島区側には山吹の里の石碑が建てられています。
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- E東京染ものがたり博物館
- 老舗の染工房。江戸っ子が好んだ粋を現代に伝えています。工房内は見学や体験ができます。(*要予約)
↓ (約0.7km:約11.0分)
- F肥後細川庭園
- 細川家下屋敷の庭園跡地を公園にした池泉回遊式庭園。目白台台地の自然を活かした変化に富んだ景観が美しい(*閉園時間あり)
↓ (約2.4km:約36.0分)
ゴール地点:東京メトロ東西線早稲田駅出入口3a
スタート地点の東京メトロ西新宿駅から歩き始めます。西新宿駅は新宿副都心の開発に伴い、平成八年(1996年)に新設された比較的新しい駅です。元々、丸ノ内線の建設当時から新宿駅〜中野坂上駅間の距離が2キロメートルとやや長く、途中に駅を設置して欲しいとの要望があったため、将来的にこの場所に新駅を設置できるよう考慮された構造になっていました。西新宿駅は東京医大病院の真下に位置するため、副駅名は「東京医大病院前」となっています。
東京医大病院は、東京医科大学が運営する大学病院で、現在の病院本館は2019年に建替えられました。地上20階・地下2階・塔屋1階・高さ88メートル・延床面積約98,000uの巨大病院で、病床数は904床にも及びます。東京医科大学は大正五年(1916年)に開校し、旧設八医科大学(大学令に基づき、都内に設置されていた8つの私立医科大学の総称)のひとつになっています。旧設八医科大学は、日本国内の私立医科大学の中でも伝統校として知られています。ちなみに、その大学とは、慶應義塾大学医学部・東京慈恵会医科大学・日本大学医学部・順天堂大学・昭和大学・日本医科大学・東邦大学と東京医科大学です。
成子天神社は菅原道真公を祭神とし、延喜三年(903年)に創建されました。当時、菅原道真の死去を嘆き悲しんだ家臣が道真の像を配流先の大宰府から持ち帰って祀ったのが始まりといわれています。その後、鎌倉時代に源頼朝により社殿が造営され、江戸時代に入ると将軍徳川家光から土地を下賜された春日局が勧請しました。寛文年間に起きた火災により、それまでの記録や社宝などが焼失してしまい、現在地に移転しました。第二次大戦中にも空襲により社殿が焼失しましたが、1966年に鉄筋コンクリート製の社殿を建て、再建されました。しかし、老朽化のため2013年、境内に高層の分譲マンション・賃貸マンションと神社施設を新たに建築し、現在に至っています。境内には小山に富士山の溶岩を加えて大正九年(1920年)に築かれた高さ12mの富士塚があり、新宿区内では最大規模となっています。私も別のコースを歩いた時にへっぴり腰で登頂を果たしました。
もうやんカレーのお店は新宿地区に3店あります。青梅街道に面した大忍具(ダイニング)ではランチにカレービュッフェのメニューが提供され、西新宿の若者達が押し寄せます。同じ西新宿にある利瓶具(リビング)では夜もカレービュッフェのメニューが提供されているそうです。ワインを飲みながら、がっつりカレーを食べて至福の時間が過ごせます。と思ったら、急にカレーが食べたくなった。
税務署通りと青梅街道が分岐する成子坂下交差点脇に花屋さんがあります。梅雨入り前のこの季節、店頭の花も生き生きとした新緑に輝いています。お店のドメイン名が「87ya(ハナヤ)」というのも洒落てますね。
つい最近まで淀橋手前の青梅街道沿いには雑居ビルや中古マンションがごっちゃに建ち並んでいました。それが今は広大な更地となり、新しいビルの建設が進んでいます。西新宿五丁目北地区再開発プロジェクトという名称で、防災街区整備事業として、2棟の超高層ビルに建て変わります。A棟(複合棟)は地上33階・高さ151m・床面積9万u、B棟(住宅棟)は地上35階・高さ131m・床面積4万4千uの規模となる予定です。2棟とも2023年3月に竣工するとのことですので、周辺の景色は一変することでしょう。
青梅街道と神田川が交差する地点には淀橋が架かっています。蛇足ですが、家電量販店のヨドバシカメラが創業した地はかっての新宿区淀橋でした。地名の「淀橋」は、現在の新宿駅西口一帯を指す地域の旧称でした。橋の袂に淀橋の由来を記した案内板が立っています。
淀橋の由来
淀橋の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれています。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか、「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎が自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるように」と命じ、これ以降、その名が定まったそうです。
淀橋の手前で右折し、神田川遊歩道に入ります。遊歩道には桜の並木が続いています。お花見シーズンには川面まで垂れ下がる枝に満開の桜の花がこぼれ、神田川の桜のスポットのひとつになっています。
桜の花は新緑の葉に変わりましたが、代わりに紫陽花の花が綺麗です。「生きとし生けるもの」が輝く季節ですね。
「東京の河川を歩く」で桃園川を歩いた際に、神田川との合流点そばに架かる末広橋に開口部がないことに不思議な思いをしました。後で調べてみて、末広橋の下流側に開口部があることが分かりました。確かに、末広橋の下流側に大きな口を開けていますね。今では桃園川暗渠を流れる水は周辺地域の汚水などが集まったもので、通常時は合流地点からは流れ出ず、別の地下管渠で落合水再生センターへ直接送られて下水処理されているそうです。神田川との合流点では、通常流れ出る水はほとんどありません。降雨時などの臨時の出口になっています。とすると、ここに水が流れ出す時は汚水も一緒に?
新宿区では、神田川沿いの遊歩道を「神田川の遊歩道〜水と緑の散歩道」とし、健康作りの一環として推奨しています。案内板には「北新宿公園のイヌザクラ」が「みどりの新宿30選」のひとつに選ばれていて、新緑から花の頃(4月〜五月)が見頃と書いてあります。神田川から少し外れますが、行ってみましょう。
神田川の遊歩道〜水と緑の散歩道
区民のみなさんが、安全で快適に川沿いを歩けるように、河川改修を行った区域では川の管理用の通路にカラー舗装や桜の木を植えるなど、自転車歩行者専用道路として水と緑のネットワーク化を図っています。
北新宿公園まで足を延ばしたのですが、結局どの木がイヌザクラなのか分かりませんでした。家に帰って案内板の写真をよ〜〜〜く見ますと、(下の写真には写っていませんが)滑り台の横の囲いの中に立っている木がそれらしいことが分かりました。
ならばと翌日再び北新宿公園を訪れて確かめました。確かに、囲いの中に巨木が枝を広げています。幹がなく地面から直接枝を広げているような特異な外観をしています。桜の花が満開の頃はさぞや見応えがあることでしょう。
公園の近くに近所の名所を紹介した案内板が立っています。
圓照寺 (Enshoji Temple)
もと鎧神社の別当寺で、藤原秀郷により建てられたといわれる。また一説では、旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館址であったとも伝えられており、その由来にもとづく右衛門桜が境内に植えられている。
神田川 (Kanda River)
三鷹市の井の頭池を水源とし、途中で善福寺川・妙正寺川を合わせ隅田川へ注ぐ、延長約25kmの河川である。古くは江戸の町への給水の役割を果たし、大雨による氾濫も多かったが、落合のホタル、早稲田の桜など四季の風情にあふれていた。
俳句文学館 (Museum of Haiku Literature)
本館は、今日の俳句のあらゆる資料を後世に残す、世界に唯一の俳句専門図書館として、昭和五十一年3月に開設された。蔵書数は雑誌14万冊、句集3万冊に及ぶ。俳句は世界の人々からも愛されており、HAIKUの国際交流の場にもなっている。
成子天神社 (Naruko-tenjin Shrine)
延喜年間(900年頃)の創建といわれ、寛文元年(1661年)現在地へ移り、成子町の鎮守となった。境内には七個の力石(区指定文化財)があり、秋の大祭には村の若者たちが力くらべをした。また、富士塚(成子富士)は区内で最大のものである。
鎧神社 (Yoroi Shrine)
江戸時代までは鎧大明神と称し、柏木村の古社として村人の尊崇をうけてきた。平将門の陣営跡ともいわれ、狛犬型庚申塔は区指定文化財となっている。社内には保育園が建てられ、幼児の明るい声にみちあふれている。
北新宿公園 (Kitashinjuku Park)
東京薬科大学が八王子市に移転した跡地の一部を区立公園とし、昭和五十八年にオープンした。少年野球やサッカー・ゲートボールなどに使用できる多目的広場があり、それを囲むように小高い散策路や子供の遊び場がある。
小滝橋の手前に神田上水公園があります。神田川沿いの細長い敷地ですが、植栽とか健康遊具とかが充実しています。新宿区のHPには、「延長約600mのなかに流れや遊具で遊べる空間があります。園内の桜並木はみどりの新宿30選に選ばれており、四季折々に美しいです。」と紹介されています。今日は流れは干上がっているようです。
最近、多くの公園の中にストレッチ運動の器具が置かれています。公園と言えば子供向けの遊び場というのが通例でしたが、少子高齢化の今は子供と老人の広場に変わってきたようです。神田上水公園には5種類の器具が設置されています。どれも体力のない人でも気軽に利用できそうな工夫がされています。
最初は「ジワジワ前屈」ストレッチです。立った状態で上半身を前に折るのはなかなか辛いものがありますが、座った状態で徐々に手を伸ばしていくのは案外と楽かもしれません。
ジワジワ前屈
座った姿勢で行なう前屈ストレッチ運動です。膝がまっすぐになるように座り、前方に上体をゆっくり伸ばしていきましょう。
次は「ウデタテボード」です。腕立て伏せはストレッチ運動の中でも腕力の要るものですが、少し斜めに立った状態で板に向かって行うとそれほど腕力も必要なく、お年寄りでも気軽に出来ます。私でも100回位は出来そう。
ウデタテボード
立った姿勢で行う腕立て運動です。ボードに手をつき腕が伸びるように斜めの台に立ちます。その姿勢から腕を曲げ、体を前に倒して腕立てを行いましょう。
次は1台で懸垂運動と平行棒運動が出来る器具です。随分と昔、ぶら下がり棒がぎっくり腰に効果的ということで大流行しましたが、わざわざ高価な器具を買わずとも、公園に出掛ければ無料で使えます。お散歩を兼ねて近所の公園に出向かれては?平行棒は慣れないとちょっと難しいかも。
懸垂平行棒
懸垂運動や平行棒運動ができます。無理せず体力に合わせて使いましょう。腕力や腹筋力の向上に役立ちます。
背のばしはストレッチ運動の中でも最も基本的なものです。腰に手を当てて体を後ろに倒すのもいいのですが、椅子の背が湾曲している器具に座ると無理なく出来ますね。前回訪れた時はおばさんが背のばしチェアーで入念にストレッチ運動をしていましたが、あまり人には見られたくない光景ですね。
背のばしチェアー
すわりながら、または反対側に立って、ゆっくりと背のばし運動をしましょう。休息と同時に、腹部や背中のストレッチができます。
最後は「ユッタリステップ」です。階段の上り下りは膝に負担をかけますが、両手を支えた状態でステップを上り下りするのは楽です。日本で石段が一番多い神社は山形県にある「出羽三山神社」の2,446段とのことです(ちなみに、よく知られている香川県にある「金刀比羅宮」の石段は1,368段)。金比羅詣での準備には欠かせませんね。
ユッタリステップ
膝の曲げのばしの運動です。ステップを昇り降りしてみましょう。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激すると、より効果的です。
神田川が早稲田通りと交差する地点に架けられた橋が小滝橋です。昔は小さな堰から流れ落ちる川の水が滝のように見えることから名付けられたのですね。石碑には中野長者の伝説が記されていますが、中野区の長者橋で見た案内板の内容とは少し違っています。小滝橋と話が繋がっているとは思ってもいませんでした。
〜小滝橋の名の由来〜
小滝橋は、落合村と戸塚村との境、神田旧上水渠に架する板橋にして、小滝と戸塚上台との道路を連絡す。此橋の下北方に堰あり。流水小瀑を成し、淙々(そうそう:水が音を立ててよどみなく流れるさま)の声を絶えず。故に小滝の称あり。
小滝橋にまつわる昔話
〜中野長者、鈴木九郎の娘の話〜
昔、紀伊国(和歌山県)から鈴木九郎(九十郎)という浪人が流れ流れて中野のあたりに住みつきました。九郎はふとしたことが縁で金を蓄えることができ、数年のちには金銀が蔵に満ち溢れる程になって、近くの者は彼を「中野長者」と呼ぶようになりました。ところが、財宝はあればある程気になるもので、この宝をどこかに隠して(お)こうということになり、下男に背負わせては森に行き穴を掘って隠していました。しかし、仕事を手伝った下男たちがいつ変心して盗むかも知れないと疑い始め、下男が森から戻るとき、通り路の橋の下まで来ると、切り殺して川の中に突き落としていました。この財宝隠しが一段落したころ、一人娘の縁がまとまり、婚礼の式の夕、犬の遠吠えがつづいたかと思うと突然空に黒雲がわきあがり、雷鳴がとどろきました。見ると長者の娘は一匹の蛇に化け、十二社のかたに飛ぶように走り去り、川におどり込んでしまいました。父の九郎はすぐ後を追っていったところ、今の淀橋の上で姿が見えなくなってしまいました。そこで川を下って探すと、今の小滝橋のあたりで死骸が見つかったということです。それから淀橋のことを「姿見ずの橋」、小滝橋のことを「姿見の橋」というようになったと伝えられています。長者は、罪のない下男たちを、自分の欲望のために切り殺したむくいの恐ろしさを目のあたりに見て、悔い改め、髪を剃り正蓮と名を改めました。土中に埋めた財宝はこれを基にして、自分の邸を寺にし、このお寺が多宝山成願寺だといわれています。
〜油屋の小僧さんの話〜
昔吉祥寺に油屋さんがありました。その油屋さんの小僧さんが或る日のこと、井の頭の池のホトリで草を刈って居りました。すると小さな蛇が出て来て、チョロ、チョロ邪魔をするので小僧さんは鎌でその小さな蛇を斬ってしまったそうです。するとその小さな蛇の血が井の頭の池に流れ込んだそうです。池は見る見るうちに真赤となってしまい、神田川は三日三晩血が流れたそうです。それからしばらくして、小滝橋の関(堰?)に大きなアゴの骨がひっかかったそうです。その骨は大蛇の下アゴであったそうです。井の頭の池に棲んでいた大蛇が、小さな蛇に化けて小僧さんをからかったところ、鎌で斬られてしまったそうです。そのアゴは今でも柏木の或るお寺に大切に保存されていると言われています。
小滝橋を渡った先の神田川の遊歩道にも簡略化されてはいますが石碑と同じような内容の話が記されています。中野長者の娘の死骸といい、大蛇の下顎の骨といい、あまり気持ちの良いものではありませんね。
小滝橋の由来
神田川に架かっているこの橋は、江戸時代には上戸塚村(現新宿区)と中野村(現中野区)の間に架けられていた板橋でした。小滝橋という名は、かつてこの橋の下に小さな堰があり、そこに水が流れて小さな滝となっていたことから名付けられたといわれています。今はもうこの堰は残されていませんが、吉祥寺にあった油屋の小僧が大蛇を切ってしまい、その下アゴの骨がこの堰まで流されてひっかかったという昔話が伝えられています。
小滝橋で早稲田通りを越えた先に落合中央公園があります。東京都下水道局管轄の落合水再生センターの上部に造られた人工地盤の上に建設され、野球場やテニスコートも附属する広大な公園施設です。敷地の一角には、せせらぎの里という施設もあります。ところで、落合中央公園が「公園」で、せせらぎの里公苑が「公苑」になっていますが、どう違うのでしょうか?英語だと、公園は「garden」,公苑は「park」と言います。「園」には、
- 周囲に垣根がある果樹園
- 草花、樹木、野菜などを植えた畑や庭
という意味があり、一方、「苑」には、
- 動物を飼育するところ: 馬事公苑
- 物事が集中するところ: 明治神宮外苑
- 宮中のお庭 : 新宿御苑
という意味があります。ただ、常用漢字に指定されているのは「園」だけなので、現在では原則として「園」を使うのが普通だとされています。
せせらぎの里公苑
当公苑は、下水道局落合水再生センターの北側施設の上部に昭和六十二年(1987年)開苑しました。落合水再生センターは、昭和三十九年(1964年)日本で始めて南側施設の上部を公園化した「落合中央公園」があり、憩いの場として開放しています。また、隣の野球場・テニスコートは、新宿区のスポーツ施設として広く利用されています。北側施設も、このような周辺環境に配慮した地下式とし、「地域に愛され親しまれる水再生センターづくり」の一環から上部を公苑化したものです。この特徴は次のとおりです。
- 下水の浄化水を源泉とした「せせらぎ」を中心に配置されています。
- 日本庭園風の修景緑地とし、併せて蝶・鳥など生物の生息空間を創出したものです。
- また、この周辺、北西側に四季折々の草花、北東側に桜並木、東側に子供広場を配置するなど、明るい雰囲気並びに親しみが出るように造苑したものです。
苑内の植栽は実に見事に手入れされていて、庭園が目玉の高級ホテル並みの美しさです。下水再生センターの施設らしく、苑内には水の流れや子供が遊べる池も設けられています。
公苑内の通路にも拘りがあります。製造コストが安ければ一般の歩道の敷石にも使えて廃棄物の削減にもなるのでしょうけど。
メトロレンガ舗装
このレンガは下水汚泥を焼却した灰100%を原料として、約1t/平方センチメートルの圧力でプレス成型した後、1,050℃前後で焼成したものです。歩道・公園などの舗装材に使用されリサイクル時代にマッチした製品です。
神田川の遊歩道の奥に「伊良(いよし)コーラ」の本社(といっても、ごく普通の工房のような建物ですが)と自動販売機があります。コーラにはコカコーラかペプシコーラしかないと思っていましたが、伊良コーラって初めて見ました。コーラの語源でもある西アフリカ原産の植物コラの木の生の果実やカルダモン・ナツメグといったスパイス12種類以上と柑橘類を混ぜ合わせた世界初の元祖クラフトコーラ(「職人が作るコーラ」とか「手作りのコーラ」の意味)の専門店だそうです。伊良コーラは2018年7月に創業し、移動式販売車「カワセミ号」を使って都内を中心にファーマーズマーケットやマルシェなどに期間限定で出店した後、2020年1月にコーラ小林の祖父で和漢方職人だった伊東良太郎氏が営んでいた下落合の漢方工房を改装し、初の常設店舗をオープンしました。創業からこれまでに累計10万人以上にコーラを販売したということです。2021年には、渋谷表参道のキャットストリートに2号店をオープンしました。自動販売機には、1本450円と表示されています。高いとみるか、安いとみるかは買う人次第ですが。
瀧澤橋の手前で神田川は本流と高田馬場分水路のふたつに分流します。高田馬場分水路は、神田川沿い流域の高度利用が進み、川幅拡幅による河川整備が困難だった神田川の中流部において、早期の治水安全度向上を図ることを目的として整備した4つの分水路のひとつです。神田川には、この他に江戸川橋分水路・水道橋分水路・お茶の水分水路の3つの分水路があります。なお、高田馬場分水路に神田川の水が流れてくるのは雨が降って流量の多いときだけで、普段は落合水再生センターの下水処理水しか合流していません。
瀧澤橋の先で神田川本流は東に大きく方向を変えます。この先、暫くは側道が途切れます。回り道をしようとしたのですが、どう間違えたのか西武新宿線の線路に突き当たってしまいました。仕方がないので、踏切を渡って一旦新目白通りに出ます。妙正寺川に架かる辰巳橋の下に高田馬場分水路の出口があります。この地点で妙正寺川は高田馬場分水路に合流し、終端となります。
辰巳橋の直ぐ下流側では、一旦開渠となった高田馬場分水路が再び地下にもぐり、神田川沿いの新目白通りの地下に敷設されたふたつの暗渠に入っていきます。この後、高戸橋の上流側で再度神田川本川に合流します。高戸橋から見ますと、左側の開渠部分が神田川本流、右側のふたつの暗渠部分の出口から姿を現すのが辰巳橋先で地下に潜った高田馬場分水路です。何故ふたつの暗渠が必要か分かりませんが。
辰巳橋の先の新目白通りに面して氷川神社の大鳥居が聳えています。
新宿下落合 氷川神社 御由緒
当社の御創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古と(も)云われ詳(つまび)らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦(めおと)の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山(みとのやま)」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。
地下の高田馬場分水路の地上部分に造られた新目白通り沿いの美しい遊歩道を進み、山手線・埼京線の高架下を通って右折し、神高橋を渡ります。途切れていた神田川本流の遊歩道が復活します。橋の直ぐ右手に戸塚特別出張所の建物があり、その中に「神田川ふれあいコーナー」が入っています。ここには、神田川に親しみ・ふれあい・学習するための拠点として、1階には大きな水槽、3階には神田川についてのパネル等を展示しています。
明治通りを高戸橋交差点で渡りますと、神田川は新目白通りに沿って江戸川橋まで流れていきます。
高戸橋の次の次の橋が面影橋です。橋の案内板には次のように書いてあります。
面影橋の由来
目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋の名前の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靱負の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤[おもかげ]の橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。
面影橋の近くの工事塀で囲われた窮屈な一画に「山吹の里」の石碑が建っています。
「山吹の里」の碑
新宿区山吹町から西方の甘泉園・面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳二年・1712年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋・横浜市金沢区六浦・埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和六十三年(1988年)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三年(1686年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
三島橋の先に一見民家風の「東京染ものがたり博物館」があります。入口の門柱の前には、「新宿区の地場産業染色。江戸の伝統を今に伝える東京染小紋や、江戸更紗の制作工程や作品をご覧戴けます。」と書いてあります。富田染工芸は、老舗の染工房で、江戸っ子が好んだ粋を現代に伝えています。
神田川を横断するように環状4号線の整備工事が行われています。環状4号線の名前はあまり知られていませんが、その一部は「外苑西通り」や「不忍通り」などの東京都の通称道路名が知られています。東京では大正十二年(1923年)の関東大震災後の復興のために、昭和二年(1927年)に東京駅を中心に半径約10マイル(16キロメートル)の範囲に、1号から8号までの環状道路と放射状の道路を配置する道路整備計画が立てられ、環状第1号線から環状第8号線までの6本の道路は既存の道路を利用して環状につなげるために必要な部分だけ道路を新設する内容とされました。この計画に基づき始められた環状5号線(大部分が明治通り)の整備中に太平洋戦争が始まり、戦時下となると戦争が最優先事項となったため、環状4号線の道路整備計画は棚上げ状態となりました。終戦後は道路整備が区画整備と一体的となって再開されたものの、整備するために必要な予算が不足していたなどが原因で部分的にしか整備が行われなかったため、環状4号線は半円にもならず、道路全体の構成は環状通りとは言い難い状況となっています。現在工事中の部分は高田地域の区間とのことです。
<<写真多数のため、J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く(2)に続きます。>>
戻る